芙蓉総合リース丸紅飯田と富士銀行を軸とする芙蓉グループ6社の共同出資による総合リース会社の設立

銀行系か商社系か——参入が相次いだリース業黎明期に、芙蓉グループはなぜ二頭を母体に置いたか

時期 1969年5月
意思決定者(推定) 丸紅飯田・富士銀行を中心とする芙蓉グループ6社
論点 企業集団の機能会社としての出発と出資構造
概要
1969年5月、丸紅飯田(現・丸紅)を中心に、富士銀行(現・みずほ銀行)・安田信託銀行・安田火災・安田生命の金融機関4社と芙蓉開発を加えた芙蓉グループ6社が、資本金1億円で芙蓉総合リースを設立した。本社は東京都千代田区大手町二丁目4番地の新大手町ビルに置かれた。
背景
日本に総合リース会社が生まれたのは1963年で、1969年時点の業態の歴史は5年余りにすぎなかった。先発3社の成長に刺激され、1968年後半から大手金融機関と系列総合商社を母体とする後発会社の設立が相次いだ。旧富士銀行を軸とする芙蓉グループは、旧財閥系に比べ結束の弱さを指摘されていた。
内容
単独の銀行子会社でも単独の商社子会社でもなく、商社と都市銀行の双方を母体に据えた。リース会社は物件を自ら購入して貸すため長期資金を要し、同時に物件と販路を要する。丸紅飯田が営業網と物件調達を、富士銀行が資金調達の基盤を担う構図であった。
含意
1971年に証券〈新規上場会社紹介〉が大手リース18社を資本系列で分類した表で、芙蓉総合リースは「商社金融機関系」に置かれた。同年に予告された業界再編を、同社は束ねられる側ではなく束ねる側で通過し、丸紅とみずほ銀行は今日も大株主として残っている。
筆者の見解

二つの資源を一つの会社に同居させたこと

丸紅飯田が共同出資の中心に立ち、富士銀行の持分は各8%の一角にすぎない——「銀行系リース会社」という後年の呼び名だけでは、この出発点は見えにくい。芙蓉総合リースが揃えたのは、物件を買い続けるための長期資金と、それを売り込むための営業網という、片方では足りない二つの資源であった。自己資本比率3.3%で回る業態で大手行を株主に持つことは資金繰りの前提であり、仕入の45.3%が株主商社経由という同業の数字は、商社が名前だけの出資者ではないことを示している。

ただ、二頭を並べたことがそのまま強さになったわけではない。岩佐凱実頭取が「銀行はあくまで脇役」と語る一方で、国際化を急ぐ銀行とすでに海外網を持つ商社とでは外資と手を組む必要の度合いが違うと同時代に指摘されており、利害の異なる二つの母体は調整を要する構造でもあった。設立から30年余りを経て芙蓉系リース3社を束ねる側に回り、今日も丸紅とみずほ銀行が株主名簿に残っているのは、その調整を畳まずに続けた結果だとみることができる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

後発リース会社が一斉に生まれた1969年

日本に総合リース会社が生まれたのは1963年8月の日本リース・インターナショナルで、1969年の時点でも業態の歴史は5年余りにすぎない。先発3社が伸びるのを見て、1968年後半から後発の設立が相次いだ。1969年に限っても、4月に協和銀行と安宅産業の昭和リース、5月に富士銀行と丸紅飯田の芙蓉総合リース、同じ5月に東海銀行と東棉のセントラル・リース、7月に第一銀行・日本生命・伊藤忠商事のセンチュリー・リーシング・システムが設立された[1][2]

参入は相次いだが、市場そのものはまだ細かった。総合リース会社の扱い高は契約高ベースで1967年度298億円から1970年度2,200億円へ急伸したものの、民間設備投資全体に対する契約高の比率は1970年でおよそ1%にとどまり、10%に達していた米国とは開きがあった。リースを「くわしく知っている」企業も1970年の調査で22.6%にすぎない。参入とは市場を分け合うことではなく、需要を作るところから始める仕事であった[3]

結束の弱さを指摘されていた企業集団

母体となる芙蓉グループは、旧富士銀行の取引先を束ねた企業集団である。社長会である芙蓉会が動き出したのは1966年1月で、三菱・三井・住友の旧財閥系に比べれば歴史が浅かった。富士銀行副頭取の佐々木邦彦氏は「戦後ゼロからスタートし、25年近くかけてようやく結束度において財閥グループの70〜80%のところまできた」と語り、丸紅飯田のある幹部は、トップが旗を振っても中堅層に意識がなく、中核であるはずの自社も第一線は無関心であったと振り返っている[4]

結束を強める手立てとして繰り返し挙げられたのは、共同出資の新会社であった。グループのリーダーたちが異口同音に語ったのは「各社共通のプロジェクトをつくって、まずカネを出させること。これに限る」という方法である。ただし富士銀行頭取の岩佐凱実氏自身は「われわれが主導権を握っていくなどというのはもってのほかで、あくまで脇役、各企業の世話役でしかない」と述べていた。芙蓉総合リースは、この時期に芽を出した芙蓉海洋開発・芙蓉情報センターと並ぶ新産業の一つであった[5]

決断

商社を中心に据えた6社共同出資

1969年5月、資本金1億円で芙蓉総合リースが発足した。本社は東京都千代田区大手町二丁目4番地の新大手町ビルに置かれた。出資したのは丸紅飯田を中心に、富士銀行・安田信託銀行・安田火災・安田生命という芙蓉グループの金融機関4社と、不動産を手がける芙蓉開発を加えた6社である。後年は銀行系リース会社と呼ばれることになるが、共同出資の中心に据えられたのは総合商社の側であった[6][7]

二頭を並べた設計は、当時の業界の定石でもあった。オリエント・リース取締役の宮内義彦氏は1971年初めの講演で、リース会社は「都市銀行、長期信用銀行、生命保険会社など大手金融機関とその系列総合商社とが手を結んで設立したものが多い」と整理し、金融機関はリース業の持つ金融機能を、総合商社は機械・設備の販売方法としてのリースを認識したからだと説明した。「金融機関・総合商社との結び付きのないリース会社はほとんどない」というのが1971年初頭の実態であった[8]

銀行が資金を、商社が物件と営業網を

リース会社は自ら物件を買って貸すため、長期の貸与資産を借入で抱え続ける。同時期に上場したオリエント・リースの1970年9月期は自己資本比率3.3%で、リース料の平均回収期間5.9年に対し借入金の平均返済期間は3.3年であった。資金繰りは「企業の存立上重大なポイント」であり、同社については「設立の経緯、株主構成からみて、金融機関からの資金調達には比較的支障は少ない」と評されている。大手行を株主に持つことは、この業態では体裁ではなく生命線であった[9]

商社の側が持ち込むのは営業網と物件である。オリエント・リースでは株主である2商社の営業網で開拓した顧客のリース物件をその商社から調達し、1970年9月期は仕入総額の45.3%が2商社経由であった。商社にとってもリースは、延べ払いなど中長期の商社金融の一部を肩代わりし、資材購入の斡旋という商売上の利点を伴う。丸紅飯田が中心に立ったのは、グループの機能会社を支えるためというより、自らの販売手段を一つ増やす意味があったとみられる[10][11]

結果

業界の見取り図に置かれた位置

設立から2年後、証券の〈新規上場会社紹介〉が大手リース18社を資本系列で分類した表に、芙蓉総合リースは「商社金融機関系」として載った。同じ欄にはオリエント・リース、昭和リース、セントラルリース、センチュリーリーシングシステムが並び、東京リースや総合リースは「金融機関系」、住商リースや三井物産は「商社系」、日立リースは「メーカー系」に分けられている。単独銀行系でも単独商社系でもない位置が、業界の見取り図のうえで確定した[12]

1970年11月には、米国FNCB(ファースト・ナショナル・シティ・バンク)グループのシティコープ・リーシング・インターナショナルとファースト・ナショナル・シティ・オーバーシーズ・インベストメントが、合わせて20%を資本参加した。この時期の出資比率は丸紅飯田40%、FNCB20%、富士銀行を含む残り5社が各8%となる。縫谷幸治社長は、世界有数の銀行の資金力を背景に持てること、FNCBと取引のある外資系在日企業への食い込み、将来の海外進出での協力を利点に挙げた[13][14]

予告された再編を、どちらの側で通過したか

1971年のリース業界は総合リース会社19社を数え、リース事業協会は任意団体から社団法人になった。もっとも、二頭の思惑が常に重なっていたわけではない。日経ビジネスは、国際化への対応を急ぐ銀行と、すでに海外網を持つ商社とでは、米銀と組む意味あいが異なると指摘した。オリエント・リース社長室長の宮内義彦氏は「場合によっては再編成も日程にのぼってくる」と述べ、同誌は昭和50年の業界を「群雄割拠の戦国時代」と予告した[15][16]

予告された再編を、芙蓉総合リースは束ねられる側ではなく束ねる側で迎えた。2001年4月に安信リース、2002年4月に安田リースを吸収合併して芙蓉系のリース機能を集約し、2004年12月には東京証券取引所市場第一部へ上場している。母体の名は富士銀行がみずほ銀行に、丸紅飯田が丸紅に変わったが、2025年3月末の大株主には丸紅の退職給付信託が5.00%で第4位、みずほ銀行が3.00%で第8位に残る。二頭を並べた出発点は、半世紀を経てなお株主名簿の上に見てとれる[17][18]

出典・参考

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