ボーイング747(ジャンボ)導入の決定と大量輸送体制への転換

増便できない過密のなか、1機66.6億円の巨人機に輸送力を賭けたのはなぜか

更新:

時期 1966年6月
意思決定者 松尾静麿 社長
論点 輸送力の確保と大量輸送時代への対応
概要
1966年6月16日、日本航空は重役会で490人乗りのボーイング747型機の購入を正式決定し、1機66.6億円の大型機を1970年から羽田〜太平洋路線へ投入する計画を発表した経営判断である。半官半民の国策会社として国際線を独占していた時期の、大量輸送時代への先行投資であった。
背景
1970年ごろには旅客が当時の2倍、貨物が3倍になると予測される一方、羽田空港は増便の余地がなく、成田新空港も未完成であった。施設や機数を一挙に増やせないなか、1機で2〜3倍を運ぶ大型機に輸送力を託す必要が生じていた。
内容
便数を増やさずに需要を捌くため、従来機の2〜3倍の座席を持つジャンボ機を導入する。同時に松尾静麿社長は米国不定期便の増便に反対し、国際線免許の独占を守る方針を示した。輸送力の拡大と免許独占の維持は一体の戦略であった。
含意
1970年7月の運航開始で大量輸送時代が到来し、1983年にはIATA統計で旅客・貨物輸送実績が世界一となった。ただし需要を前提に積んだ大型機は、後年には過剰投資として2010年の経営破綻の一因にも数えられることになる。
筆者の見解

繁栄を用意した投資の、長い射程

倍増する需要を大型機一発で受け止める判断は、免許独占という前提のうえでは理にかなっていたとみることができる。増便を政治的に抑えつつ輸送力を確保する策として、ジャンボは技術と制度の双方に噛み合った。売上規模を上回りかねない機体投資に踏み切れたのも、需要が制度で保証されていたからであり、この一手が1980年代の「世界一」までを準備した面は大きい。

ただし、需要の保証を前提に積んだ設備は、前提が崩れたときに重荷へと転じる。1966年に賭けた輸送力の象徴であるジャンボ機は、2010年の経営破綻に際して「300席を超える大型機の退役」として整理の対象になった。繁栄を用意した設備投資が、半世紀後には過剰の象徴として書き換えられる——制度に守られた時代の合理が、制度を失った時代にどう跳ね返るかを、この判断は長い時間をかけて示したとみられる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

ジェット化と、迫る需要の倍増

日本航空は1960年にジェット旅客機DC-8の運航を始め、1961年に北回り欧州線、1966年にニューヨーク線、1967年に世界一周路線を開設してグローバルネットワークを整えた。国際線の免許を1社で独占する国策会社として、路線網は急速に広がっていた。輸送需要も高度経済成長を背景に伸び続け、1970年ごろには旅客が当時の2倍、貨物が3倍になると見込まれていた[1]

ところが受け皿となる空港は限界に近づいていた。羽田空港はすでに発着枠がふさがり、増便で需要を吸収する余地はほとんどなかった。成田の新空港は建設が急がれていたが完成の見通しは立たず、施設や機数を一挙に2.5倍へ増やすことも現実的ではなかった。便数を増やせないまま倍増する需要をどう運ぶかが、経営上の課題として立ち上がっていた[2]

決断

重役会が下した1機66.6億円の設備投資

1966年6月16日、日本航空は重役会で490人乗りのボーイング747型機の購入を正式決定した。1機66.6億円・全長70mの「空のマンモス」を、3年後の1970年から羽田発の太平洋路線へ投入する計画であった。ねらいは経済性と空港周辺の混雑解決に置かれた。便数を増やさずに需要を運ぶには、1機で従来の2〜3倍の客席を持つ機体が答えになる、という論理であった[3][4]

1機66.6億円という投資は、単体売上が671億円(1967年3月期)の会社にとって決して軽くはなかった。それでも大型機に踏み切れたのは、国際線を1社で独占する免許制度が需要を保証していたからであった。松尾静麿社長は同年8月、米国不定期便の増便に「定期航空に与える影響も大きいので、これらの増便は認めるべきではない[5]」と反対し、免許独占を守る考えを示した。輸送力の拡大と独占の維持は、切り離せない一組の判断であった。

結果

大量輸送時代の到来と、世界一の座

1970年7月、日本航空は羽田〜太平洋線でボーイング747の運航を始め、日米3社によるジャンボ競争時代が幕を開けた。便数を増やさずに大量の旅客を運ぶ大型機は、過密緩和の切り札となった。輸送力の拡大は業績の伸びにも表れ、単体売上は1970年3月期の1,374億円から1973年3月期には2,208億円へと拡大した。大量輸送を前提にした事業構造への転換が進んだ[6][7]

大型機による輸送力は、1983年にIATA統計での旅客・貨物輸送実績世界一という頂点をもたらし、その座は1987年まで5年続いた。もっともこの世界一は、海外キャリアが参入できない免許制度が需要を独占させた結果でもあった。競争ではなく制度設計が与えた繁栄のなかで、大量輸送を前提に積み上げた大型機は、需要が読み違えられたときには固定費へと姿を変える性格を併せ持っていた[8]

出典・参考
  • 日本航空 有価証券報告書【沿革】
  • 日本航空 会社年鑑(1976年版・単体業績)
  • 読売新聞(1966年6月16日)「日本の空も超巨人機時代」
  • 読売新聞(1966年8月9日)
  • 読売新聞(1970年7月2日)「ジャンボ競争時代の幕開け」