日本航空 の歴史

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創業 1951年
創業者 藤山愛一郎
創業地 東京都
創業
1951年8月1日、資本金1億円で日本航空株式会社が設立され、翌1952年10月から自主運航による国内線の定期航空輸送を始めた。1953年10月、日本航空株式会社法にもとづき、旧会社と政府の折半出資による資本金20億円の新会社が設立される。新会社は旧会社の権利義務の一切を継承し、本邦唯一の国際線定期航空運送事業の免許会社として発足した。1954年2月には東京〜ホノルル〜サンフランシスコ線を開設し、本邦企業として初の国際線定期輸送に入る。国が資本の半分を出して免許を1社へ集める設計は、外貨の乏しい復興期に航空主権を国の管理下へ置くためのものであり、同時に路線も運賃も会社が単独では決められない出発点でもあった。
決断
増やす判断は自ら下し、減らす判断は破綻に下させた。1966年6月、日本航空はボーイング747の導入を決めて大量輸送体制へ移る。旅客・貨物需要の倍増予測と空港の過密に対し、便数ではなく機体の大きさで応えた設備投資だった。1983年にはIATA統計の旅客・貨物輸送実績が世界一となり、1987年11月に完全民営化する。ところが1993年3月期に連結経常損失557億円・当期純損失479億円を計上すると、同年6月に賞与抑制と人員合理化によるコスト構造の改革に入る。それでも高コストは残り、2001年11月には日本エアシステムとの経営統合を発表した。2010年1月、負債総額2兆3200億円で会社更生法の適用を申請し、翌2月に稲盛和夫氏を無報酬の会長に迎える。約1万6000人の人員削減と45路線の廃止は、更生手続の下で初めて通った。
現況
非航空で利益の5割という目標に対し、売上の76%はなお航空である。2026年3月期の連結売上収益は2兆125億円、営業利益は2073億円。内訳はフルサービスキャリア事業が1兆5355億円、LCC事業が1013億円、マイル/金融・コマース事業が1482億円である。2024年4月に社長へ就任した鳥取三津子氏は非航空事業の利益比率を5割へ引き上げる構造改革を掲げ、マイル経済圏の拡大とデジタルサービスを具体策に置いた。ただし非航空にあたるマイル/金融・コマース事業は売上の7%で、ここから利益の半分を出すには現在の規模を数倍にする必要がある。ZIPAIR Tokyoとスプリング・ジャパンを抱えるLCC事業も売上の5%にとどまり、収益の重さは依然として国際線の座席にかかっている。
競合
破綻した日本航空が身軽になり、耐えた全日本空輸が重さを引き継いだ。1953年から1985年まで、国際線の定期免許は日本航空1社に限られていた。1986年3月に全日本空輸へ東京〜グアム線が免許され、1988年には旅客・貨物の輸送実績世界一を明け渡す。条件が入れ替わったのは2010年で、会社更生手続の債権放棄と公的資金で日本航空の財務が大幅に圧縮される一方、全日本空輸は縮小したJALに合わせて国際線を広げた。国内線では全日本空輸が二ブランド体制でLCCへ参入したことが両社の運賃の下限を押し下げ、日本航空もZIPAIR TokyoとスプリングジャパンをLCC事業として抱える。路線網の広さで差はつかず、更生手続の下で入れ替えた原価管理の仕組みが、2026年3月期に10.3%の営業利益率を生んでいる。
日本航空:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
1997年3月期2026年3月期

創業ストーリー 国が国際線の免許を1社に集めて始まった半官半民の20年 (1951年〜)

日航法が与えた本邦唯一の国際線免許

1951年8月[1]、資本金1億円[2]で日本航空株式会社が設立された。1952年10月からは自主運航[3]による国内線の定期航空輸送事業に移った。1953年10月[4]、日本航空株式会社法に基づき、旧会社と政府の折半出資による資本金20億円の新会社[5]が設立される。新会社は旧会社の権利義務の一切を継承し、本邦唯一の国際線定期航空運送事業の免許会社[6]として発足した。1954年2月[7]には東京〜ホノルル〜サンフランシスコ線を開設した。

  • 日本航空 有価証券報告書【沿革】
    • [1]1951年8月1日に旧会社が資本金1億円をもって設立された
    • [2]設立時の資本金は1億円
    • [4]1953年10月1日に日本航空株式会社法に基づく新会社が設立された
    • [5]旧会社と政府の折半出資による20億円の資本金をもって設立された
    • [6]旧会社の権利義務の一切を継承し、本邦唯一の国際線定期航空運送事業の免許会社として発足した
    • [7]1954年2月に東京〜ホノルル〜サンフランシスコ線を開設し本邦企業初の国際線定期輸送を開始した
  • 日本航空 有価証券報告書
    • [3]翌年10月から自主運航による国内線定期航空輸送事業を開始した

日航法は、国際線の免許を1社に集める代わりに、経営の手続きも国に握らせた。日本航空は毎年、事業計画と収支予算を政府に提出して認可を受け[8]、その範囲で運営した。伍堂輝雄副社長は1964年の講演[9]で、この認可予算は最低限度の責任にすぎず[10]、収入では予算以上、経費では節減を積まなければならないと説明した。役員の選任にも運輸大臣の認可を要し[11]、経営の自由度は法律で縛られていた。国費による海外出張で日航機を使う比率は、次官会議の通達を受けて1961年前半の39%から1964年初めには60%[12]まで上がったが、日本人全体では42%[13]にとどまっていた。伍堂副社長は講演の場でも、日本人が日本航空を利用するムードを作ってほしいと聴衆に求めた[14]

  • 証券アナリストジャーナル 1964年10月号 伍堂輝雄
    • [8]日航法により毎年政府に事業計画・収支予算の認可申請を行い、認可を得て運営していた
    • [9]伍堂輝雄は1964年当時の日本航空副社長
    • [10]認可予算は最低限度の責任であり、実際にはこれを上回る実績を上げなければならないと述べた
    • [12]国費による外国旅行での日航機利用率は1961年前半39%から1964年1〜2月に60%へ上昇した
    • [13]日本人全体での日航機利用率は42%にとどまっていた
    • [14]日本人は日本航空を利用するというムード作りを聴衆に求めた
  • 日経ビジネス 1979年12月17日
    • [11]日本航空は役員の選任に運輸大臣の認可を必要とし、法律・行政にがんじがらめになっていた
  • 日本航空 有価証券報告書【沿革】
    • [1]1951年8月1日に旧会社が資本金1億円をもって設立された
    • [2]設立時の資本金は1億円
    • [4]1953年10月1日に日本航空株式会社法に基づく新会社が設立された
    • [5]旧会社と政府の折半出資による20億円の資本金をもって設立された
    • [6]旧会社の権利義務の一切を継承し、本邦唯一の国際線定期航空運送事業の免許会社として発足した
    • [7]1954年2月に東京〜ホノルル〜サンフランシスコ線を開設し本邦企業初の国際線定期輸送を開始した
  • 日本航空 有価証券報告書
    • [3]翌年10月から自主運航による国内線定期航空輸送事業を開始した
  • 証券アナリストジャーナル 1964年10月号 伍堂輝雄
    • [8]日航法により毎年政府に事業計画・収支予算の認可申請を行い、認可を得て運営していた
    • [9]伍堂輝雄は1964年当時の日本航空副社長
    • [10]認可予算は最低限度の責任であり、実際にはこれを上回る実績を上げなければならないと述べた
    • [12]国費による外国旅行での日航機利用率は1961年前半39%から1964年1〜2月に60%へ上昇した
    • [13]日本人全体での日航機利用率は42%にとどまっていた
    • [14]日本人は日本航空を利用するというムード作りを聴衆に求めた
  • 日経ビジネス 1979年12月17日
    • [11]日本航空は役員の選任に運輸大臣の認可を必要とし、法律・行政にがんじがらめになっていた

ジェット化がもたらした赤字と政府認可下の経営

国際航空は1958年にピストン機からジェット機への転換が始まり[15]、各社が機材を償却しきらないまま買い替えに走った[16]。輸送力は一挙に増え、需給が崩れて1962年には各国の航空会社が軒並み赤字に落ちた[17]。日本航空はジェット機への切替が1年遅れたため影響も1年遅れて現れ、1962年度に28億円の赤字[18]を出した。南回り欧州線の開設とシンガポール線の延長[19]が重なり、路線の拡張が経営の負担になっていた。1963年度は既存路線の拡充と合理化に絞り、太平洋線を週11便に増やす[20]一方、パンアメリカン航空のジェット貨物便に対抗できなくなった太平洋の貨物専用便は運航を止めた[21]。整備会社との合併とジェット燃料の国内自給体制[22]も、この年に整えた。

  • 証券アナリストジャーナル 1964年10月号 伍堂輝雄
    • [15]1958年にピストン機からジェット機への切替えが始まった
    • [16]従来機を充分償却しないまま新しいジェット機を購入する必要が生じた
    • [17]1962年には世界各国の航空会社の業績が底に達しほとんどが赤字経営となった
    • [18]日本航空はジェット機への切替えが1年遅れ、昭和37年度に28億円の赤字を出した
    • [19]シンガポール線のジャカルタ延長と南回りヨーロッパ線開設が経営上の負担になった
    • [20]昭和38年度に太平洋線を週11便に増便した
    • [21]パンアメリカン航空のジェット貨物専用便に対抗できず太平洋の貨物専用便の運航を中止した
    • [22]合理化の一環として整備会社と合併し、ジェット燃料の国内自給体制を整えた

1963年度の営業収益は387億6,300万円と前年比37%増[23]となり、乗員訓練費の未償却残のうち約5億円を特別償却したうえで15億2,600万円の利益[24]を計上した。繰越欠損金13億円を全て消せる見通しが立ったのは翌1964年度[25]である。日本航空は運航開始当初のパイロットを全て外国人に頼っており[26]、1964年の時点でも国内線のレシプロ機に30余名の外国人パイロット[27]が残っていた。国際線の機長を1人育てるには10年から12年と1人当たり3,500万円[28]を要し、この10年間の乗員訓練費は約63億円、1964年度だけで年間約20億円[29]に達した。商法改正で1964年度からは当該年度の経費として落とすことになり、政府から3億5,000万円の補助金[30]を受けて処理した。

  • 証券アナリストジャーナル 1964年10月号 伍堂輝雄
    • [23]昭和38年度の営業収益は387億6,300万円で対前年比37%増
    • [24]乗員訓練費の未償却残のうち当初の部分約5億円の特別償却を行い15億2,600万円の利益計上にとどまった
    • [25]昭和39年度は繰越欠損金13億円を全部消してなお相当の利益が見込まれた
    • [26]日航が運航を開始した当初は全部外国人パイロットに依存していた
    • [27]1964年時点で国内線のレシプロ機に30余名の外国人パイロットが残っていた
    • [28]1人前の国際線機長に育てるには10〜12年と1人当たり3,500万円を要した
    • [29]この10年間に約63億円の乗員訓練費を支出し、1964年度だけで年間約20億円になった
    • [30]昭和39年度の予算で政府から3億5,000万円の補助金を受けた
  • 証券アナリストジャーナル 1964年10月号 伍堂輝雄
    • [15]1958年にピストン機からジェット機への切替えが始まった
    • [16]従来機を充分償却しないまま新しいジェット機を購入する必要が生じた
    • [17]1962年には世界各国の航空会社の業績が底に達しほとんどが赤字経営となった
    • [18]日本航空はジェット機への切替えが1年遅れ、昭和37年度に28億円の赤字を出した
    • [19]シンガポール線のジャカルタ延長と南回りヨーロッパ線開設が経営上の負担になった
    • [20]昭和38年度に太平洋線を週11便に増便した
    • [21]パンアメリカン航空のジェット貨物専用便に対抗できず太平洋の貨物専用便の運航を中止した
    • [22]合理化の一環として整備会社と合併し、ジェット燃料の国内自給体制を整えた
    • [23]昭和38年度の営業収益は387億6,300万円で対前年比37%増
    • [24]乗員訓練費の未償却残のうち当初の部分約5億円の特別償却を行い15億2,600万円の利益計上にとどまった
    • [25]昭和39年度は繰越欠損金13億円を全部消してなお相当の利益が見込まれた
    • [26]日航が運航を開始した当初は全部外国人パイロットに依存していた
    • [27]1964年時点で国内線のレシプロ機に30余名の外国人パイロットが残っていた
    • [28]1人前の国際線機長に育てるには10〜12年と1人当たり3,500万円を要した
    • [29]この10年間に約63億円の乗員訓練費を支出し、1964年度だけで年間約20億円になった
    • [30]昭和39年度の予算で政府から3億5,000万円の補助金を受けた

高い利益率の内訳と、ジャンボ機導入の決定

半官半民の日本航空は、他国の主要航空会社と比べても速く伸びた。1958年から1967年までの営業収入の年平均増加率は24.9%で、北米10社の11.9%、欧州10社の12.8%[31]を上回る。売上営業利益率も18%と北米10社の10%、欧州10社の6%[32]を超えた。ただし田中鎮雄常務は1969年の講演[33]で、利益率が高いのは収入レートが欧米より低い代わりに利用率が高いためで、有効トンキロ当たりの原価は北米10社の8セントに対し日本航空は18セント[34]と、原価水準は必ずしも低いといえない[35]と断った。IATA加盟社中の順位は1963年の14位から1967年に8位[36]へ上がり、田中茂信常務は1973年ごろのビッグ5入りを目標[37]に掲げた。

  • 証券アナリストジャーナル 1969年7月号 田中鎮雄
    • [31]1958〜67年の営業収入の対前年増加率平均は当社24.9%、北米10社11.9%、欧州10社12.8%
    • [32]売上営業利益率は当社18%、北米10社10%、欧州10社6%
    • [33]田中鎮雄は1969年当時の日本航空常務取締役
    • [34]有効トンキロ当たり原価は北米10社8セント、欧州10社21セント、当社18セントだった
    • [35]営業利益率が高いのは収入レートが低いものの利用率が比較的高いためで、原価水準は必ずしも低いとはいえないと述べた
    • [36]IATAランクは1963年の第14位から1967年に第8位へ躍進した
    • [37]1973年頃にはIATA加盟国のビッグ5入りを目標にしていた

1968年に策定した中期5カ年計画は、1969年度に1,280億円の売上を1973年度に2,690億円[38]へ、航空機の保有を50機から77機[39]へ増やす内容だった。1970年ごろには旅客が当時の2倍、貨物が3倍[40]になると見込まれ、便数を増やさずに需要をさばく手段が要る。1966年6月16日[41]、日本航空は重役会でボーイング747型機の購入を決め、1機66.6億円の490人乗り[42]を1970年から羽田〜太平洋路線に投入する計画を発表した。従来機の2倍から3倍の座席を1機に積む[43]選択である。同年8月、松尾静磨社長[44]は米国航空会社の不定期便増便に反対[45]し、国際線免許の独占を守る方針を示した。株式は1961年10月に証券取引所の市場第二部へ上場し、1970年2月に第一部へ指定[46]された。

  • 証券アナリストジャーナル 1969年7月号 田中鎮雄
    • [38]中期5カ年計画の売上は44年度1,280億円から48年度2,690億円
    • [39]航空機保有数は44年度50機から48年度77機とする計画だった
  • 読売新聞 1966年6月16日
    • [40]1970年ごろには旅客が当時の2倍、貨物が3倍になると予測された
    • [41]1966年6月16日に重役会でボーイング747型機の購入を正式決定した
    • [42]1機66.6億円の490人乗りを1970年から羽田〜太平洋路線へ投入する計画だった
    • [43]従来機の2〜3倍の座席を持つジャンボ機を導入する判断だった
  • 読売新聞 1966年8月9日
    • [44]松尾静磨は当時の日本航空社長
    • [45]定期航空に与える影響も大きいので米国不定期便の増便は認めるべきではないと述べ、国際線免許の独占を守る方針を示した
  • 日本航空 有価証券報告書【沿革】
    • [46]1961年10月に証券取引所(東京、大阪、名古屋)市場第二部に上場し、1970年2月に市場第一部へ指定された

ボーイング747の運航は1970年7月に始まった[47]。当時の羽田空港は発着能力の限界に近づき、成田の新空港はまだ建設中[48]で、1機で2倍から3倍を運ぶ大型機に輸送力を託すほかない状況だった。路線と商品はこの間に厚みを増した。1960年8月に初のジェット旅客機ダグラスDC-8[49]が運航を始め、1961年6月に北回り欧州線[50]、1965年1月にはジャルパックの販売[51]も始まった。1966年11月にニューヨーク線[52]を開き、1967年3月には世界一周路線[53]も開設した。国際線を1社で担う体制のもとで路線網は広がり、1971年5月には日本国内航空と東亜航空の合併で東亜国内航空[54]が生まれ、国内線は3社体制となった。

  • 日本航空 有価証券報告書【沿革】
    • [47]1970年7月にボーイング747型航空機(ジャンボジェット)が運航開始した
    • [49]1960年8月に初のジェット旅客機ダグラスDC-8型航空機が運航開始した
    • [50]1961年6月に北回り欧州線を開設した
    • [51]1965年1月にジャルパックの販売を開始した
    • [52]1966年11月にニューヨーク線を開設した
    • [53]1967年3月に世界一周路線(西回り)を開設した
    • [54]1971年5月に日本国内航空と東亜航空の合併により東亜国内航空が設立された
  • 読売新聞 1970年7月2日
    • [48]羽田はもうギリギリいっぱいで、成田に新空港の建設が急がれていた
  • 証券アナリストジャーナル 1969年7月号 田中鎮雄
    • [31]1958〜67年の営業収入の対前年増加率平均は当社24.9%、北米10社11.9%、欧州10社12.8%
    • [32]売上営業利益率は当社18%、北米10社10%、欧州10社6%
    • [33]田中鎮雄は1969年当時の日本航空常務取締役
    • [34]有効トンキロ当たり原価は北米10社8セント、欧州10社21セント、当社18セントだった
    • [35]営業利益率が高いのは収入レートが低いものの利用率が比較的高いためで、原価水準は必ずしも低いとはいえないと述べた
    • [36]IATAランクは1963年の第14位から1967年に第8位へ躍進した
    • [37]1973年頃にはIATA加盟国のビッグ5入りを目標にしていた
    • [38]中期5カ年計画の売上は44年度1,280億円から48年度2,690億円
    • [39]航空機保有数は44年度50機から48年度77機とする計画だった
  • 読売新聞 1966年6月16日
    • [40]1970年ごろには旅客が当時の2倍、貨物が3倍になると予測された
    • [41]1966年6月16日に重役会でボーイング747型機の購入を正式決定した
    • [42]1機66.6億円の490人乗りを1970年から羽田〜太平洋路線へ投入する計画だった
    • [43]従来機の2〜3倍の座席を持つジャンボ機を導入する判断だった
  • 読売新聞 1966年8月9日
    • [44]松尾静磨は当時の日本航空社長
    • [45]定期航空に与える影響も大きいので米国不定期便の増便は認めるべきではないと述べ、国際線免許の独占を守る方針を示した
  • 日本航空 有価証券報告書【沿革】
    • [46]1961年10月に証券取引所(東京、大阪、名古屋)市場第二部に上場し、1970年2月に市場第一部へ指定された
    • [47]1970年7月にボーイング747型航空機(ジャンボジェット)が運航開始した
    • [49]1960年8月に初のジェット旅客機ダグラスDC-8型航空機が運航開始した
    • [50]1961年6月に北回り欧州線を開設した
    • [51]1965年1月にジャルパックの販売を開始した
    • [52]1966年11月にニューヨーク線を開設した
    • [53]1967年3月に世界一周路線(西回り)を開設した
    • [54]1971年5月に日本国内航空と東亜航空の合併により東亜国内航空が設立された
  • 読売新聞 1970年7月2日
    • [48]羽田はもうギリギリいっぱいで、成田に新空港の建設が急がれていた

石油危機下の合理化と全日空に開いた生産性の差

石油危機は、大型機を積み増した直後の日本航空を直撃した。1974年度と1975年度は経常赤字に落ち[55]、1976年3月期の経常損失は98億円[56]に達した。同社は地上部門の合理化で立て直しにかかり、1976年度と1977年度は大卒男子の採用を止め、退職者を補充しない方針と合わせて3年間で地上部門の間接人員を20%、直接人員を10%減らした[57]。1977年度までの3年間は航空機を1機も購入していない[58]。冬の北海道と夏の沖縄[59]という季節はずれの時期にパックツアーを設けて空席を埋め、1978年度の国内線座席利用率は66.6%[60]まで戻った。3年間で販売管理費の増加を13.2%に抑え、売上高は30.7%、税引き利益は2.63倍[61]に伸びた。

  • 日経ビジネス 1979年12月17日
    • [55]49・50年度に経常赤字に転落しながら自力で経営を立て直した
    • [57]51・52年度の大卒男子の採用中止と退職者不補充で3年間に地上部門の間接人員20%・直接人員10%を削減した
    • [58]52年度までの3年間は航空機を1機も買わなかった
    • [59]冬の北海道・夏の沖縄というシーズンオフにパックツアーを開発して需要を創造した
    • [60]53年度の国内線座席利用率は66.6%に達した
    • [61]3年間で一般管理販売費の増加は13.2%、売上は30.7%増、利益は税引きで2.63倍になった
  • 会社年鑑(1986年版)
    • [56]1976年3月期の経常損失は98億500万円

それでも生産性では全日本空輸に離されていた。1978年度の従業員1人当たり売上高は日本航空の2,334万円に対し全日空が2,790万円[62]、労働生産性は1,001万円に対し1,197万円[63]だった。差は仕事の抱え方にあり、全日空が地方空港の発券や貨物の扱いを地元の運輸会社へ委ねて宮崎では社員約10人で運営していた[64]のに対し、日本航空はこれを自社で抱えた[65]。客室乗務員の1人当たり座席キロはパンアメリカン航空の6割に届かず[66]、国際線ジャンボの標準編成を1979年春に17人から15人[67]へ減らしてもなお、KLMの13人やノースウエスト航空の最大11人[68]には及ばなかった。ストライキは年3回が恒例となり、1979年までの4年間[69]はいずれも年間1週間を超えた。

  • 日経ビジネス 1979年12月17日
    • [62]53年度の1人当たり売上は日本航空2,334万円、全日空2,790万円
    • [63]労働生産性は日本航空1,001万円、全日空1,197万円
    • [64]全日空は宮崎で発券や貨物の取り扱いを宮崎交通に委託し社員約10人で運営していた
    • [65]すべて自分でしようという日本航空と、地元の運輸会社に委託する全日空の考え方の差だった
    • [66]客室乗務員の生産性はパンナムの60%にも満たなかった
    • [67]国際線ジャンボの標準編成を1979年春に17人から15人にした
    • [68]KLMは13人、ノースウエストは最大11人が標準編成だった
    • [69]ストは年3回が恒例化し、この4年間はいずれも合計1週間以上に及んだ
  • 日経ビジネス 1979年12月17日
    • [55]49・50年度に経常赤字に転落しながら自力で経営を立て直した
    • [57]51・52年度の大卒男子の採用中止と退職者不補充で3年間に地上部門の間接人員20%・直接人員10%を削減した
    • [58]52年度までの3年間は航空機を1機も買わなかった
    • [59]冬の北海道・夏の沖縄というシーズンオフにパックツアーを開発して需要を創造した
    • [60]53年度の国内線座席利用率は66.6%に達した
    • [61]3年間で一般管理販売費の増加は13.2%、売上は30.7%増、利益は税引きで2.63倍になった
    • [62]53年度の1人当たり売上は日本航空2,334万円、全日空2,790万円
    • [63]労働生産性は日本航空1,001万円、全日空1,197万円
    • [64]全日空は宮崎で発券や貨物の取り扱いを宮崎交通に委託し社員約10人で運営していた
    • [65]すべて自分でしようという日本航空と、地元の運輸会社に委託する全日空の考え方の差だった
    • [66]客室乗務員の生産性はパンナムの60%にも満たなかった
    • [67]国際線ジャンボの標準編成を1979年春に17人から15人にした
    • [68]KLMは13人、ノースウエストは最大11人が標準編成だった
    • [69]ストは年3回が恒例化し、この4年間はいずれも合計1週間以上に及んだ
  • 会社年鑑(1986年版)
    • [56]1976年3月期の経常損失は98億500万円

日航法の存続を前提に求めた経営の自由度

運輸事務次官から1963年に専務として入社した朝田静夫氏は、1969年に副社長、1971年に社長[70]へ進んだ。全日空が中国線や東南アジア線を求めた1973年、朝田静夫社長は国際航空では1国1社が世界の大多数の方針[71]だと述べ、複数社で乗り入れれば協定で決まった便数を食い合う[72]と反対した。国策会社が作られたのはそうならないためだ[73]、というのが理由である。1979年に日本航空が運輸省へ求めたのも、日航法の廃止ではなく取締役の定数を18人から30人へ増やす[74]ことと、資本金の2倍にとどまる社債発行枠の拡大[75]だった。免許と保護を残したまま経営の自由度だけを広げる要求であり、日航法そのものは要らないとは考えていない[76]、と朝田静夫社長は明言した。

  • 日経ビジネス 1973年12月24日
    • [70]朝田静夫は運輸省事務次官を経て1963年日本航空専務、1969年副社長、1971年社長
    • [71]国際航空は世界の大多数の国が1国1社の基本方針をとっていると述べた
    • [72]航空協定で決まった便数をめぐって共食いをすることになると反対した
    • [73]そうならないよう国策会社がつくられたと述べた
  • 日経ビジネス 1979年12月17日
    • [74]日航法改正の要望は取締役を18人から30人へ増やすことだった
    • [75]社債発行枠は資本金の2倍までで、これを3倍か4倍に増やすことを求めた
    • [76]日航法はいらない、完全なプライベートカンパニーになるという考えは持っていないと述べた

1979年、日本航空は国内線運賃の平均27.4%の値上げ[77]を運輸省に申請した。国内線の燃料代金と公租公課の合計が1978年度の475億円から1979年度に760億円[78]へ膨らむためである。収入の70%を国際線が占める[79]構造のまま、為替レートは1ドル296円に据え置いていた[80]。この結果、日本で買う東京〜米国の航空券は韓国で買う韓国〜米国より27%割高[81]となり、パンアメリカン航空などは韓国や香港への直行便を増やした[82]。日本航空はこの動きを一時のことで、いずれ元へ戻ると説明した[83]。1983年、IATA統計で旅客・貨物の輸送実績が世界一となり、1987年まで5年間その座を保つ[84]。同じ1983年3月期の経常損失は270億9,300万円[85]だった。

  • 日経ビジネス 1979年12月17日
    • [77]1979年に国内線運賃を平均27.4%値上げする申請を運輸省に行った
    • [78]国内線の燃料代金と公租公課の合計は1978年度475億円、1979年度760億円
    • [79]日本航空の収入構造は70%が国際線からだった
    • [80]為替レートは1ドル296円のまま動かさなかった
    • [81]日本で買う東京〜米国の切符は韓国で買う韓国〜米国より27%割高だった
    • [82]米国のパンナムなどは韓国や香港への直行便を増やし続けた
    • [83]韓国・香港へのラッシュは一時のことでいずれ元へ戻ると説明した
  • 日本航空 有価証券報告書【沿革】
    • [84]1983年にIATA統計で旅客・貨物輸送実績世界一となり、1987年まで5年間世界一を維持した
  • 会社年鑑(1986年版)
    • [85]1983年3月期の経常損失は270億9,300万円
  • 日経ビジネス 1973年12月24日
    • [70]朝田静夫は運輸省事務次官を経て1963年日本航空専務、1969年副社長、1971年社長
    • [71]国際航空は世界の大多数の国が1国1社の基本方針をとっていると述べた
    • [72]航空協定で決まった便数をめぐって共食いをすることになると反対した
    • [73]そうならないよう国策会社がつくられたと述べた
  • 日経ビジネス 1979年12月17日
    • [74]日航法改正の要望は取締役を18人から30人へ増やすことだった
    • [75]社債発行枠は資本金の2倍までで、これを3倍か4倍に増やすことを求めた
    • [76]日航法はいらない、完全なプライベートカンパニーになるという考えは持っていないと述べた
    • [77]1979年に国内線運賃を平均27.4%値上げする申請を運輸省に行った
    • [78]国内線の燃料代金と公租公課の合計は1978年度475億円、1979年度760億円
    • [79]日本航空の収入構造は70%が国際線からだった
    • [80]為替レートは1ドル296円のまま動かさなかった
    • [81]日本で買う東京〜米国の切符は韓国で買う韓国〜米国より27%割高だった
    • [82]米国のパンナムなどは韓国や香港への直行便を増やし続けた
    • [83]韓国・香港へのラッシュは一時のことでいずれ元へ戻ると説明した
  • 日本航空 有価証券報告書【沿革】
    • [84]1983年にIATA統計で旅客・貨物輸送実績世界一となり、1987年まで5年間世界一を維持した
  • 会社年鑑(1986年版)
    • [85]1983年3月期の経常損失は270億9,300万円

四五・四七体制の終焉と、日航維新の挫折

1981年6月、生え抜きの高木養根[86]が10年務めた朝田静夫社長の後を継いだ[87]。1940年に大日本航空へ入り、敗戦による解散で退社したのち1951年8月に日本航空へ入社[88]した経歴を持つ。独占の根拠は、この時期に外から崩れ始めた。1985年4月の日米航空暫定協定[89]で日米それぞれ3社ずつが新たに太平洋路線へ乗り入れる[90]ことが決まり、国際定期線は日本航空1社と定めた四五・四七体制に正面から抵触[91]する。運輸省は同年9月に運輸政策審議会へ諮問し、1986年の最終答申[92]は四五・四七体制がその使命を終えたとして、航空企業間の競争を通じたサービス向上と国際競争力の強化[93]を掲げた。

  • 日経ビジネス 1981年9月7日
    • [86]高木養根は1981年6月に日本航空社長へ就任した生え抜き
    • [87]10年間コンビを組んだ朝田静夫前社長のあとを受けて社長に就任した
    • [88]1940年4月に大日本航空へ入社し、1945年の解散で退社、1951年8月に日本航空へ入社した
  • 日本産業史 第4巻 運輸・物流(日本経済新聞社、1994年)「四五・四七体制の終焉」
    • [89]四五・四七体制を決定的に揺るがしたのは1985年4月の日米航空暫定協定であった
    • [90]暫定協定で日米両国がそれぞれ新たに3社ずつ太平洋路線に乗り入れることが決まった
    • [91]国際定期線は日本航空一社と決めた四五・四七体制に明らかに抵触するものであった
    • [92]運輸省は1985年9月に運輸政策審議会へ諮問し、1986年に最終答申を得た
    • [93]答申は四五・四七体制はその使命を終えたとして競争を通じたサービス向上・国際競争力の強化を目指すべきとした

1985年8月12日、日本航空は役員会で完全民営化の方針を決めた[94]。その直後の夕方、東京から大阪へ向かった123便が御巣鷹山に墜落し、520人が死亡する[95]。事故の原因は機内の与圧用後部隔壁の破壊で、数年前のしりもち事故の際にボーイング社の修理に手抜かりがあった[96]ことが判明した。高木養根社長と町田直副社長は責任をとって退任[97]し、同年12月に鐘紡会長の伊藤淳二氏が副会長として送り込まれ、社長には山地進氏、副社長には日航商事社長の利光松男[98]が就いた。

  • 日本産業史 第4巻 運輸・物流(日本経済新聞社、1994年)「四五・四七体制の終焉」
    • [94]1985年8月12日に役員会で完全民営化の方針を決めた
    • [95]123便が御巣鷹山に墜落し520人の命が奪われた
    • [96]事故の原因は機内の与圧用の後部隔壁の破壊で、しりもち事故の際のボーイング社の修理に手抜かりがあった
    • [97]事故後、高木養根社長と町田直副社長は事故の責任をとって退任した
    • [98]1985年12月に鐘紡会長の伊藤淳二が副会長として送り込まれ、社長に山地進、副社長に利光松男が就任した

伊藤氏が会長として独裁体制を敷くと、山地進社長・利光副社長との間に不和が生じた[99]。鐘紡が伊藤氏を批判する本を買い占めた事件や、利光松男副社長に忠誠を誓わせる念書事件[100]が発覚し、4つだった労働組合は伊藤氏の支援で6つに増えて労使問題は複雑化[101]する。政府は1987年3月に伊藤氏を更迭した[102]。辞任の前には日航開発の経営問題と、11年間で36億ドルを超える為替予約[103]も明るみに出た。予約レートは183円で当時の実勢は130円台[104]だった。田中茂信取締役[105]もともに辞表を出した。

  • 日本産業史 第4巻 運輸・物流(日本経済新聞社、1994年)「四五・四七体制の終焉」
    • [99]伊藤氏が会長となって独裁体制を敷きはじめ、伊藤氏と山地・利光氏との間にすき間風が吹くようになった
    • [100]鐘紡が伊藤氏を批判する本を買い占め出版を妨害する事件や、利光副社長に忠誠を誓わせる念書事件が発覚した
    • [101]伊藤氏が当時4組合だったのを2つの組合の結成を支援して6つにしたことから労使・労労問題が複雑化した
    • [102]政府は伊藤氏を更迭し、山地社長−利光副社長体制が確立した
  • 日経ビジネス 1987年5月25日
    • [103]11年間にわたって36億ドル以上の為替予約をしていた問題が明らかになった
    • [104]予約レートは183円で当時の実勢は1ドル130円台だった
    • [105]田中茂信は1986年6月に取締役就任、1987年3月辞任
  • 日経ビジネス 1981年9月7日
    • [86]高木養根は1981年6月に日本航空社長へ就任した生え抜き
    • [87]10年間コンビを組んだ朝田静夫前社長のあとを受けて社長に就任した
    • [88]1940年4月に大日本航空へ入社し、1945年の解散で退社、1951年8月に日本航空へ入社した
  • 日本産業史 第4巻 運輸・物流(日本経済新聞社、1994年)「四五・四七体制の終焉」
    • [89]四五・四七体制を決定的に揺るがしたのは1985年4月の日米航空暫定協定であった
    • [90]暫定協定で日米両国がそれぞれ新たに3社ずつ太平洋路線に乗り入れることが決まった
    • [91]国際定期線は日本航空一社と決めた四五・四七体制に明らかに抵触するものであった
    • [92]運輸省は1985年9月に運輸政策審議会へ諮問し、1986年に最終答申を得た
    • [93]答申は四五・四七体制はその使命を終えたとして競争を通じたサービス向上・国際競争力の強化を目指すべきとした
    • [94]1985年8月12日に役員会で完全民営化の方針を決めた
    • [95]123便が御巣鷹山に墜落し520人の命が奪われた
    • [96]事故の原因は機内の与圧用の後部隔壁の破壊で、しりもち事故の際のボーイング社の修理に手抜かりがあった
    • [97]事故後、高木養根社長と町田直副社長は事故の責任をとって退任した
    • [98]1985年12月に鐘紡会長の伊藤淳二が副会長として送り込まれ、社長に山地進、副社長に利光松男が就任した
    • [99]伊藤氏が会長となって独裁体制を敷きはじめ、伊藤氏と山地・利光氏との間にすき間風が吹くようになった
    • [100]鐘紡が伊藤氏を批判する本を買い占め出版を妨害する事件や、利光副社長に忠誠を誓わせる念書事件が発覚した
    • [101]伊藤氏が当時4組合だったのを2つの組合の結成を支援して6つにしたことから労使・労労問題が複雑化した
    • [102]政府は伊藤氏を更迭し、山地社長−利光副社長体制が確立した
  • 日経ビジネス 1987年5月25日
    • [103]11年間にわたって36億ドル以上の為替予約をしていた問題が明らかになった
    • [104]予約レートは183円で当時の実勢は1ドル130円台だった
    • [105]田中茂信は1986年6月に取締役就任、1987年3月辞任

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日本航空の沿革1951〜2025年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1951〜1970年国が国際線の免許を1社に集めて始まった半官半民の20年日本航空設立★★
日本航空法に基づく新会社設立
東京〜ホノルル〜サンフランシスコ線開設★★
初のジェット旅客機DC-8運航開始
証券取引所に上場
ジャルパック販売開始
ボーイング747(ジャンボ)導入の決定と大量輸送体制への転換

1966年6月16日、日本航空は重役会で490人乗りのボーイング747型機の購入を正式決定し、1機66.6億円の大型機を1970年から羽田〜太平洋路線へ投入する計画を発表した経営判断である。半官半民の国策会社として国際線を独占していた時期の、大量輸送時代への先行投資であった。

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★★★
世界一周路線(西回り)開設
ボーイング747(ジャンボジェット)運航開始
1971〜1987年輸送実績世界一と、独占の維持を選び続けた経営朝田静夫東亜国内航空設立
高木養根IATA統計で旅客・貨物輸送実績世界一
山地進完全民営化★★
1988〜2009年民営化後も残った高コスト体質と、統合が重ねた赤字山地進東亜国内航空が日本エアシステム(JAS)に商号変更
利光松男マイレージプログラム導入
利光松男民営化後初の大幅赤字を受けた「親方日の丸」との決別とコスト構造改革

1993年3月期に完全民営化後初の大幅赤字を計上した日本航空が、利光松男社長のもとで賞与抑制・機材償却の見直し・人員合理化などのコスト構造改革に着手し、利益重視への転換と『親方日の丸』体質との決別を掲げた経営判断である。

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★★★
兼子勲日本航空と日本エアシステムの経営統合(2002年成立)

2002年、国内大手3社のうち日本航空と日本エアシステムが共同持株会社を設立して経営統合し、全日本空輸とほぼ拮抗する規模の航空グループが誕生した案件。

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★★★
兼子勲事業再編
新町敏行経常赤字494億円
西松遙ワンワールドに加盟
西松遙経常赤字857億円★★
2010〜2026年破綻から作り直した採算と、航空の外へ広げる収益西松遙会社更生法下での稲盛和夫氏の招聘と、アメーバ経営・JALフィロソフィによる再建

2010年1月、日本航空は負債総額2兆3,200億円で会社更生法の適用を申請し、戦後最大の事業会社の破綻となった。政府の要請を受けた京セラ創業者の稲盛和夫氏が同年2月に無報酬で会長に就き、アメーバ経営とJALフィロソフィを軸に再建を主導した経営判断である。

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★★★
大西賢稲盛和夫がJAL会長に就任★★
大西賢日本航空を吸収合併
植木義晴植木義晴氏が社長に就任
植木義晴東京証券取引所市場第一部に再上場
赤坂祐二春秋航空日本を子会社化
赤坂祐二コロナ禍で売上収益が前年比65%減★★
鳥取三津子鳥取三津子氏体制の発足と「非航空事業5割」への構造改革

2024年4月にJAL初の女性社長に就任した鳥取三津子氏が、顧客視点で利益も最大化する方針のもと、非航空事業の利益比率を50%まで引き上げる構造改革を掲げた経営判断である。航空一本足からの脱却を狙い、本稿の時点では進行中の取り組みである。

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★★★
鳥取三津子コロナ後初の本格回復
出典・参考
  • 日本航空 有価証券報告書【沿革】
  • 日本航空 有価証券報告書
  • 会社年鑑(1986年版)
  • 日本産業史 第4巻 運輸・物流(日本経済新聞社、1994年)「四五・四七体制の終焉」
  • 証券アナリストジャーナル 1964年10月号 伍堂輝雄
  • 証券アナリストジャーナル 1969年7月号 田中鎮雄
  • 日経ビジネス 1973年12月24日
  • 日経ビジネス 1979年12月17日
  • 日経ビジネス 1981年9月7日
  • 日経ビジネス 1987年5月25日
  • 読売新聞 1966年6月16日
  • 読売新聞 1966年8月9日
  • 読売新聞 1970年7月2日

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