1951年8月[1]、資本金1億円[2]で日本航空株式会社が設立された。1952年10月からは自主運航[3]による国内線の定期航空輸送事業に移った。1953年10月[4]、日本航空株式会社法に基づき、旧会社と政府の折半出資による資本金20億円の新会社[5]が設立される。新会社は旧会社の権利義務の一切を継承し、本邦唯一の国際線定期航空運送事業の免許会社[6]として発足した。1954年2月[7]には東京〜ホノルル〜サンフランシスコ線を開設した。
日航法は、国際線の免許を1社に集める代わりに、経営の手続きも国に握らせた。日本航空は毎年、事業計画と収支予算を政府に提出して認可を受け[8]、その範囲で運営した。伍堂輝雄副社長は1964年の講演[9]で、この認可予算は最低限度の責任にすぎず[10]、収入では予算以上、経費では節減を積まなければならないと説明した。役員の選任にも運輸大臣の認可を要し[11]、経営の自由度は法律で縛られていた。国費による海外出張で日航機を使う比率は、次官会議の通達を受けて1961年前半の39%から1964年初めには60%[12]まで上がったが、日本人全体では42%[13]にとどまっていた。伍堂副社長は講演の場でも、日本人が日本航空を利用するムードを作ってほしいと聴衆に求めた[14]。
国際航空は1958年にピストン機からジェット機への転換が始まり[15]、各社が機材を償却しきらないまま買い替えに走った[16]。輸送力は一挙に増え、需給が崩れて1962年には各国の航空会社が軒並み赤字に落ちた[17]。日本航空はジェット機への切替が1年遅れたため影響も1年遅れて現れ、1962年度に28億円の赤字[18]を出した。南回り欧州線の開設とシンガポール線の延長[19]が重なり、路線の拡張が経営の負担になっていた。1963年度は既存路線の拡充と合理化に絞り、太平洋線を週11便に増やす[20]一方、パンアメリカン航空のジェット貨物便に対抗できなくなった太平洋の貨物専用便は運航を止めた[21]。整備会社との合併とジェット燃料の国内自給体制[22]も、この年に整えた。
1963年度の営業収益は387億6,300万円と前年比37%増[23]となり、乗員訓練費の未償却残のうち約5億円を特別償却したうえで15億2,600万円の利益[24]を計上した。繰越欠損金13億円を全て消せる見通しが立ったのは翌1964年度[25]である。日本航空は運航開始当初のパイロットを全て外国人に頼っており[26]、1964年の時点でも国内線のレシプロ機に30余名の外国人パイロット[27]が残っていた。国際線の機長を1人育てるには10年から12年と1人当たり3,500万円[28]を要し、この10年間の乗員訓練費は約63億円、1964年度だけで年間約20億円[29]に達した。商法改正で1964年度からは当該年度の経費として落とすことになり、政府から3億5,000万円の補助金[30]を受けて処理した。
半官半民の日本航空は、他国の主要航空会社と比べても速く伸びた。1958年から1967年までの営業収入の年平均増加率は24.9%で、北米10社の11.9%、欧州10社の12.8%[31]を上回る。売上営業利益率も18%と北米10社の10%、欧州10社の6%[32]を超えた。ただし田中鎮雄常務は1969年の講演[33]で、利益率が高いのは収入レートが欧米より低い代わりに利用率が高いためで、有効トンキロ当たりの原価は北米10社の8セントに対し日本航空は18セント[34]と、原価水準は必ずしも低いといえない[35]と断った。IATA加盟社中の順位は1963年の14位から1967年に8位[36]へ上がり、田中茂信常務は1973年ごろのビッグ5入りを目標[37]に掲げた。
1968年に策定した中期5カ年計画は、1969年度に1,280億円の売上を1973年度に2,690億円[38]へ、航空機の保有を50機から77機[39]へ増やす内容だった。1970年ごろには旅客が当時の2倍、貨物が3倍[40]になると見込まれ、便数を増やさずに需要をさばく手段が要る。1966年6月16日[41]、日本航空は重役会でボーイング747型機の購入を決め、1機66.6億円の490人乗り[42]を1970年から羽田〜太平洋路線に投入する計画を発表した。従来機の2倍から3倍の座席を1機に積む[43]選択である。同年8月、松尾静磨社長[44]は米国航空会社の不定期便増便に反対[45]し、国際線免許の独占を守る方針を示した。株式は1961年10月に証券取引所の市場第二部へ上場し、1970年2月に第一部へ指定[46]された。
ボーイング747の運航は1970年7月に始まった[47]。当時の羽田空港は発着能力の限界に近づき、成田の新空港はまだ建設中[48]で、1機で2倍から3倍を運ぶ大型機に輸送力を託すほかない状況だった。路線と商品はこの間に厚みを増した。1960年8月に初のジェット旅客機ダグラスDC-8[49]が運航を始め、1961年6月に北回り欧州線[50]、1965年1月にはジャルパックの販売[51]も始まった。1966年11月にニューヨーク線[52]を開き、1967年3月には世界一周路線[53]も開設した。国際線を1社で担う体制のもとで路線網は広がり、1971年5月には日本国内航空と東亜航空の合併で東亜国内航空[54]が生まれ、国内線は3社体制となった。
石油危機は、大型機を積み増した直後の日本航空を直撃した。1974年度と1975年度は経常赤字に落ち[55]、1976年3月期の経常損失は98億円[56]に達した。同社は地上部門の合理化で立て直しにかかり、1976年度と1977年度は大卒男子の採用を止め、退職者を補充しない方針と合わせて3年間で地上部門の間接人員を20%、直接人員を10%減らした[57]。1977年度までの3年間は航空機を1機も購入していない[58]。冬の北海道と夏の沖縄[59]という季節はずれの時期にパックツアーを設けて空席を埋め、1978年度の国内線座席利用率は66.6%[60]まで戻った。3年間で販売管理費の増加を13.2%に抑え、売上高は30.7%、税引き利益は2.63倍[61]に伸びた。
それでも生産性では全日本空輸に離されていた。1978年度の従業員1人当たり売上高は日本航空の2,334万円に対し全日空が2,790万円[62]、労働生産性は1,001万円に対し1,197万円[63]だった。差は仕事の抱え方にあり、全日空が地方空港の発券や貨物の扱いを地元の運輸会社へ委ねて宮崎では社員約10人で運営していた[64]のに対し、日本航空はこれを自社で抱えた[65]。客室乗務員の1人当たり座席キロはパンアメリカン航空の6割に届かず[66]、国際線ジャンボの標準編成を1979年春に17人から15人[67]へ減らしてもなお、KLMの13人やノースウエスト航空の最大11人[68]には及ばなかった。ストライキは年3回が恒例となり、1979年までの4年間[69]はいずれも年間1週間を超えた。
運輸事務次官から1963年に専務として入社した朝田静夫氏は、1969年に副社長、1971年に社長[70]へ進んだ。全日空が中国線や東南アジア線を求めた1973年、朝田静夫社長は国際航空では1国1社が世界の大多数の方針[71]だと述べ、複数社で乗り入れれば協定で決まった便数を食い合う[72]と反対した。国策会社が作られたのはそうならないためだ[73]、というのが理由である。1979年に日本航空が運輸省へ求めたのも、日航法の廃止ではなく取締役の定数を18人から30人へ増やす[74]ことと、資本金の2倍にとどまる社債発行枠の拡大[75]だった。免許と保護を残したまま経営の自由度だけを広げる要求であり、日航法そのものは要らないとは考えていない[76]、と朝田静夫社長は明言した。
1979年、日本航空は国内線運賃の平均27.4%の値上げ[77]を運輸省に申請した。国内線の燃料代金と公租公課の合計が1978年度の475億円から1979年度に760億円[78]へ膨らむためである。収入の70%を国際線が占める[79]構造のまま、為替レートは1ドル296円に据え置いていた[80]。この結果、日本で買う東京〜米国の航空券は韓国で買う韓国〜米国より27%割高[81]となり、パンアメリカン航空などは韓国や香港への直行便を増やした[82]。日本航空はこの動きを一時のことで、いずれ元へ戻ると説明した[83]。1983年、IATA統計で旅客・貨物の輸送実績が世界一となり、1987年まで5年間その座を保つ[84]。同じ1983年3月期の経常損失は270億9,300万円[85]だった。
1981年6月、生え抜きの高木養根氏[86]が10年務めた朝田静夫社長の後を継いだ[87]。1940年に大日本航空へ入り、敗戦による解散で退社したのち1951年8月に日本航空へ入社[88]した経歴を持つ。独占の根拠は、この時期に外から崩れ始めた。1985年4月の日米航空暫定協定[89]で日米それぞれ3社ずつが新たに太平洋路線へ乗り入れる[90]ことが決まり、国際定期線は日本航空1社と定めた四五・四七体制に正面から抵触[91]する。運輸省は同年9月に運輸政策審議会へ諮問し、1986年の最終答申[92]は四五・四七体制がその使命を終えたとして、航空企業間の競争を通じたサービス向上と国際競争力の強化[93]を掲げた。
1985年8月12日、日本航空は役員会で完全民営化の方針を決めた[94]。その直後の夕方、東京から大阪へ向かった123便が御巣鷹山に墜落し、520人が死亡する[95]。事故の原因は機内の与圧用後部隔壁の破壊で、数年前のしりもち事故の際にボーイング社の修理に手抜かりがあった[96]ことが判明した。高木養根社長と町田直副社長は責任をとって退任[97]し、同年12月に鐘紡会長の伊藤淳二氏が副会長として送り込まれ、社長には山地進氏、副社長には日航商事社長の利光松男氏[98]が就いた。
伊藤氏が会長として独裁体制を敷くと、山地進社長・利光副社長との間に不和が生じた[99]。鐘紡が伊藤氏を批判する本を買い占めた事件や、利光松男副社長に忠誠を誓わせる念書事件[100]が発覚し、4つだった労働組合は伊藤氏の支援で6つに増えて労使問題は複雑化[101]する。政府は1987年3月に伊藤氏を更迭した[102]。辞任の前には日航開発の経営問題と、11年間で36億ドルを超える為替予約[103]も明るみに出た。予約レートは183円で当時の実勢は130円台[104]だった。田中茂信取締役[105]もともに辞表を出した。
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|---|---|---|---|---|
| 1951〜1970年国が国際線の免許を1社に集めて始まった半官半民の20年 | 日本航空設立 | ★★ | ||
| 日本航空法に基づく新会社設立 | ★ | |||
| 東京〜ホノルル〜サンフランシスコ線開設 | ★★ | |||
| 初のジェット旅客機DC-8運航開始 | ★ | |||
| 証券取引所に上場 | ★ | |||
| ジャルパック販売開始 | ★ | |||
| ボーイング747(ジャンボ)導入の決定と大量輸送体制への転換 1966年6月16日、日本航空は重役会で490人乗りのボーイング747型機の購入を正式決定し、1機66.6億円の大型機を1970年から羽田〜太平洋路線へ投入する計画を発表した経営判断である。半官半民の国策会社として国際線を独占していた時期の、大量輸送時代への先行投資であった。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 世界一周路線(西回り)開設 | ★ | |||
| ボーイング747(ジャンボジェット)運航開始 | ★ | |||
| 1971〜1987年輸送実績世界一と、独占の維持を選び続けた経営 | 朝田静夫 | 東亜国内航空設立 | ★ | |
| 高木養根 | IATA統計で旅客・貨物輸送実績世界一 | ★ | ||
| 山地進 | 完全民営化 | ★★ | ||
| 1988〜2009年民営化後も残った高コスト体質と、統合が重ねた赤字 | 山地進 | 東亜国内航空が日本エアシステム(JAS)に商号変更 | ★ | |
| 利光松男 | マイレージプログラム導入 | ★ | ||
| 利光松男 | 民営化後初の大幅赤字を受けた「親方日の丸」との決別とコスト構造改革 1993年3月期に完全民営化後初の大幅赤字を計上した日本航空が、利光松男社長のもとで賞与抑制・機材償却の見直し・人員合理化などのコスト構造改革に着手し、利益重視への転換と『親方日の丸』体質との決別を掲げた経営判断である。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 兼子勲 | 日本航空と日本エアシステムの経営統合(2002年成立) 2002年、国内大手3社のうち日本航空と日本エアシステムが共同持株会社を設立して経営統合し、全日本空輸とほぼ拮抗する規模の航空グループが誕生した案件。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 兼子勲 | 事業再編 | ★ | ||
| 新町敏行 | 経常赤字494億円 | ★ | ||
| 西松遙 | ワンワールドに加盟 | ★ | ||
| 西松遙 | 経常赤字857億円 | ★★ | ||
| 2010〜2026年破綻から作り直した採算と、航空の外へ広げる収益 | 西松遙 | 会社更生法下での稲盛和夫氏の招聘と、アメーバ経営・JALフィロソフィによる再建 2010年1月、日本航空は負債総額2兆3,200億円で会社更生法の適用を申請し、戦後最大の事業会社の破綻となった。政府の要請を受けた京セラ創業者の稲盛和夫氏が同年2月に無報酬で会長に就き、アメーバ経営とJALフィロソフィを軸に再建を主導した経営判断である。 詳細を読む | ★★★ | |
| 大西賢 | 稲盛和夫がJAL会長に就任 | ★★ | ||
| 大西賢 | 日本航空を吸収合併 | ★ | ||
| 植木義晴 | 植木義晴氏が社長に就任 | ★ | ||
| 植木義晴 | 東京証券取引所市場第一部に再上場 | ★ | ||
| 赤坂祐二 | 春秋航空日本を子会社化 | ★ | ||
| 赤坂祐二 | コロナ禍で売上収益が前年比65%減 | ★★ | ||
| 鳥取三津子 | 鳥取三津子氏体制の発足と「非航空事業5割」への構造改革 2024年4月にJAL初の女性社長に就任した鳥取三津子氏が、顧客視点で利益も最大化する方針のもと、非航空事業の利益比率を50%まで引き上げる構造改革を掲げた経営判断である。航空一本足からの脱却を狙い、本稿の時点では進行中の取り組みである。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 鳥取三津子 | コロナ後初の本格回復 | ★ |
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事実根拠:出所(日本航空)