格安航空(LCC)への参入と二ブランド体制の構築
フルサービス大手は、なぜ自ら価格破壊者を抱えたのか——「目には目を」の別会社戦略
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- 概要
- 2010年9月9日、全日本空輸(ANA)が格安航空(LCC)への参入を発表した経営判断。伊東信一郎社長のもと、ANAブランドと切り離した別会社として、関西空港を拠点に運賃を大手の半額程度に抑える格安航空(後のピーチ・アビエーション)を立ち上げると決めた。翌2011年にはマレーシアのエアアジアとの合弁でエアアジア・ジャパン(後のバニラ・エア)も設立し、二つの格安ブランドで市場に参入した。
- 背景
- 2008年から香港に調査部隊を置いて海外の格安航空を研究し、その競争力の高さを確かめていた。2010年にはJALの経営破綻、数年後に迫る首都圏空港の発着枠拡大とオープンスカイ、成田・関西空港での低コスト専用ターミナル新設という環境変化が重なり、価格に敏感なアジアからの訪日需要を海外LCCに奪われる前に手を打つ必要があると判断した。
- 内容
- 新会社はANAブランドと切り離した別会社とし、全職種を本体から採らず給与体系も分けた。4時間以内の短距離路線の単純往復に絞り、燃費の悪い大型機を持たず小型機で統一。機内食や荷物の預け入れは有料化し、運賃は既存大手の半額程度を狙った。関西空港拠点のピーチと、成田拠点でエアアジアと組むエアアジア・ジャパンの二ブランドで臨んだ。
- 含意
- フルサービスの最大手が自らの手で低価格の担い手を育てる異例の判断であった。ピーチは日本初のLCCとして好発進し、2013年度に黒字化して業界屈指の高収益をあげた一方、外部との合弁に頼ったエアアジア・ジャパンは1年で袂を分かちバニラ・エアとして再出発した。守りとして始めた格安事業は、のちにANAが業界を束ねていく攻めの手立てへと姿を変えていった。
価格破壊者を自ら抱えるという選択
この参入で目を引くのは、フルサービスの最大手が自らの手で低価格の担い手を育てた点である。海外の格安航空を迎え撃つには、同じ土俵に立つほかないという結論であった。本体のブランドと人事を切り離し、意思決定も別会社に委ねたのは、大手が抱えるLCCが本体の論理に呑まれて失敗してきた歴史を踏まえた設計とみることができる。ピーチが日本初のLCCとして根づいたことは、その割り切りが働いたことを示している。
もっとも、二つのブランドを同時に走らせた選択は、明暗の分かれるものとなった。独立性を保ったピーチが高収益をあげる一方、外部との合弁に頼ったエアアジア・ジャパンは1年で袂を分かった。守りとして始めた格安事業は、やがてANAが国内の格安市場を束ねていく攻めの手立てへと姿を変えていく。価格破壊者を自ら抱えるという判断が、その後のグループ再編にどこまで資したのかは、なお検証に値するとみられる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
海外LCCの来襲と2008年からの研究
ANAが格安航空(LCC)の研究に着手したのは2008年4月、山元峯生前社長の時代であった。山元前社長は、日本へ乗り込んでくる海外LCCを迎え撃つ準備が要ると説き、アジア戦略室を新設して香港に数人の調査部隊を置いた。部隊はエアアジアやジェットスター・アジアなどアジアの強豪5社を対象に、接客態度や機内の雰囲気、運賃から格安専用ターミナルの造りまで、こまかく調べ上げていった[1]。
調査団が持ち帰ったのは、海外LCCは「安かろう、悪かろう」ではないという結論であった。約10年前の規制緩和で新興航空会社が生まれた際、ANAは対抗路線の値下げで応じ、スカイマークを除く3社を実質的に傘下へ収めていた。だが本場のLCCの競争力はその比ではないと、調査団はみていた。研究はリーマンショックによる業績悪化でいったん中断したものの、脅威の認識は社内に残った[2]。
追い風となった空港コストと首都圏空港の開放
中断していた構想が動き出したのは2010年であった。ANAが日本にLCC拠点を置く最大の障害とみていたのは、世界でもっとも高い日本の空港コストであった。国土交通省の後押しで成田・関西の両空港が低コストの専用ターミナル新設を検討し始め、この壁が下がる見込みが出てきた。混雑せず、国内線と国際線の双方に飛べ、24時間運用できるという条件から、拠点には関西空港が選ばれた[3]。
もう一つの背景に、数年後に迫る首都圏空港の発着枠拡大があった。成田・羽田の国際線発着枠が倍増し、参入・運賃・路線が自由化されれば、価格に敏感なアジアからの訪日客をめぐって海外LCCが大挙して押し寄せると、ANAはみていた。2010年当時、JALは経営破綻を経て路線縮小を続けており、ANAには優位な競争環境が広がっていた。そのなかであえて先手を打つ判断であった[4]。
決断
「目には目を」——本体と切り離した別会社という設計
伊東信一郎社長がくだしたのは、フルサービスの本体を守るために自ら格安航空を抱えるという判断であった。新会社はANAブランドと切り離した別会社とし、パイロットや客室乗務員から地上職まで全職種を本体から採らず、給与体系も分けた。親会社と一線を画して成功したカンタス系ジェットスターやシンガポール航空系タイガー・エアウェイズを手本とし、本体の論理を新会社に持ち込まない構えであった[5]。
事業モデルも大手とは別物に設計した。4時間以内で飛べる短距離路線の単純往復に絞り、燃費の悪い大型機は持たず小型機で統一。機内食や荷物の預け入れといった手間のかかるサービスは有料化し、運賃は既存大手の半額程度を狙った。当初は5機をリースして国内線・国際線にそれぞれ3〜4路線を飛ばし、5年後には15〜20機まで増やす計画であった。旧来の発想を捨てるには異業種との合弁が要るとして、旅行や金融など幅広い業種へ出資を含む提携を打診した[6]。
2010年9月の参入発表と二ブランド体制
2010年9月9日、ANAはLCC参入を正式に発表した。年内に資本金100億〜150億円の新会社を設け、ANAが40%未満を出資して筆頭株主となり、香港の投資会社ファーストイースタン投資グループが航空法の外資規制上限にあたる3分の1未満を出資して2位株主に立つ。残りは旅行・観光や金融など国内投資家から広く募る構えであった。新会社はANAの連結子会社とはせず、まったくの別会社・別ブランドとして運営する方針を示した[7]。
この参入には社内外から疑問の声もあがった。6月の株主総会では、高品質を目指すべきで格安に手を出せば既存客との食い合いになりかねないと株主が訴え、会場から拍手が起きた。証券アナリストからは、上向いてきた本体にLCCの赤字を連結で取り込みたくないのだろうとの見方も出た。伊東社長はこれに対し、潜在需要の大きなアジアからの訪日需要開拓につながると攻めを強調しつつ、海外LCCへの「防波堤的な効果もある」と守りの意義も併せて説いた[8]。
結果
ピーチの好発進と黒字化
ANAの社内プロジェクトから出発したピーチ・アビエーションは2011年に設立され、2012年3月1日、日本初のLCCとして関西空港から運航を始めた。就航初月の平均搭乗率は8割強にのぼり、大手の国内線平均である約6割を上回った。ユニークな内外装や機内食で人気を集め、心配された大手との客の食い合いも一見したところ小さかった。井上慎一CEOは、予約が日を追うごとに増えていると手ごたえを語った[9]。
ピーチは就航3年目の2013年度に黒字化を果たし、2015年度には営業利益率12.8%という業界屈指の高収益をあげて累積損失も一掃した。フルサービス大手が別会社として立ち上げた格安航空は失敗しやすいという通説を、ピーチは覆してみせた。着陸料を大幅に割り引いた関西空港と、負担を分かち合う関西財界の全面的な支援という地の利も、その支えになった[10]。
二ブランドの明暗と、ピーチへの集約
もう一方のブランドは苦戦した。ANAは2011年にマレーシアのエアアジアと組み、成田拠点のエアアジア・ジャパンを設立して2012年に就航させたが、世界共通の販売・運営システムの使用や初年度からの黒字化を求めるエアアジアと、それを日本市場になじまないとするANA側の経営陣が対立した。搭乗率もピーチに水をあけられ、就航から1年ほどで合弁は解消され、ANAがエアアジアの49%を買い取って単独運営へ切り替えた[11]。
単独運営に移ったエアアジア・ジャパンは、後にバニラ・エアとして再出発した。ANAはその後も格安事業をグループに束ねていき、2017年には304億円を投じてピーチの出資比率を38.7%から67%へ引き上げ子会社化した。ピーチとバニラの重複路線をどう整理するかが次の課題として残り、片野坂真哉社長は将来の統合を否定しなかった。二つの格安ブランドは、やがてピーチへ集約されていった[12]。
- 週刊東洋経済 2010年8月7日号「格安航空が来襲! ANAがLCC参入へ 『目には目を』で迎撃」
- 週刊東洋経済 2010年9月25日号「ANAが格安航空参入 運賃半額の危ない賭け」
- 週刊東洋経済 2012年4月2日号「日本で根付くか LCC元年の勝負 ピーチが予想外の好発進」
- 週刊東洋経済 2013年6月14日号「ANAのLCC子会社 就航1年でケンカ別れ」
- 週刊東洋経済 2017年3月11日号「LCCピーチを子会社化 ANAの“JAL包囲網”」
- 全日本空輸 有価証券報告書(2011年3月期・連結)