第三事業部の新設による内視鏡事業の本格化
1969年実施医師の要請で始まった胃カメラを、会社としての投資対象へどう引き上げたか
- 概要
- 1969年3月、オリンパス光学工業は第三事業部を新設し、1950年に医師の要請で始めた胃カメラ・内視鏡を、顕微鏡・カメラに次ぐ第三の事業として会社の投資対象に据えた経営判断。社長の内藤隆福は医療機械と情報の二領域を掲げ、ファイバー技術を共通の基盤に新事業を育てる方針を示した。
- 背景
- 胃カメラと内視鏡の開発は東京大学の医師の要請から始まり、技術者と医師の協力に支えられていたが、社内では成長市場のカメラが主役で、内視鏡は顕微鏡・測定器と同じ第一事業部の一部にとどまっていた。1963年のファイバースコープ完成で医療現場の需要は増え、独立した投資判断を下しにくい事業体制との食い違いが表面化した。
- 内容
- 第三事業部は医療機器(内視鏡)と情報機器(ファクシミリ)の二領域を束ね、ファイバー技術を共通の基盤とする新事業の投資母体とした。内視鏡は顕微鏡・測定器から切り離され、独立した事業として資源を割り当てられた。技術の蓄積ではなく事業体制の組み替えによって、内視鏡の成長段階を切り替えた。
- 含意
- 1955年に全国胃カメラ研究会の事務局を引き受けて以来、オリンパスは医師コミュニティの運営を自ら担い、臨床の声を製品へ還流させる仕組みを制度化した。この医師との関係が他社を寄せ付けない参入障壁となり、1993年には軟性内視鏡で世界シェア約8割を占める独走体制へ結実した。
顧客コミュニティを自ら担い、市場をつくる
この判断の核心は、優れた製品を作る前に、その製品を使う医師の集まりそのものをオリンパスが引き受けた点にある。全国胃カメラ研究会の事務局、医師との連絡会、海外の研修財団——顧客コミュニティの基盤を自社が運営することで、臨床の声を製品へ還流させ、販路も同時に厚くした。優れた技術で先行するだけでは医療市場のシェアは取れない。1969年の第三事業部は、この仕組みへ会社の資源を初めて正面から振り向けた決定だった。
胃カメラは医師の要請で始まり、当初は経営戦略と呼べるものを持たなかった。その周辺の営みを、内藤隆福は第三事業部という器に入れ、医療と情報の二領域で育てようとした。情報のファクシミリは主役になれなかったが、医療の内視鏡は、のちにカメラも顕微鏡も手放したオリンパスに残る唯一の中核事業へと育つ。会社を象徴したカメラではなく、周辺から始まった内視鏡が本体の性格を決めていく。1969年の第三事業部の新設は、その長い転換の最初の一歩だった。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
医師の要請から始まった胃カメラと医療参入
オリンパス光学工業は戦前から病院へ顕微鏡を納入し、医療の現場と接点を持っていた。この縁から1950年、東京大学の医師が胃の内部を撮影するカメラの開発を持ちかけ、顕微鏡で培った精密光学とカメラの技術を組み合わせて胃カメラ「ガストロカメラ」を実用化した。これが内視鏡事業の出発点となる。ただし1950年代から60年代にかけての成長市場はあくまで民生カメラであり、内視鏡は技術者と一部の医師の協力に支えられた、経営の周辺の営みにとどまった[1]。
ファイバースコープの需要増と事業体制の食い違い
社内の体制は、内視鏡の成長に追いついていなかった。オリンパスは1960年に事業部制を敷いたが、内視鏡は顕微鏡や測定器と同じ第一事業部の一部として扱われ、独立した投資の判断を下しにくかった。1963年にファイバースコープ内視鏡を完成させると、写真の現像を待たずに胃の内部を観察できる利点から医療現場の需要は増え、胃カメラとファイバーの需要の大幅な伸びは社外からも見込まれていた。技術の前進と事業体制の食い違いが、この時期に表面化した[2][3]。
決断
第三事業部の新設と内視鏡の独立事業化
1969年3月、オリンパスは第三事業部を新設した。内視鏡は顕微鏡・測定器から切り離され、顕微鏡・カメラに次ぐ第三の事業として、独立した投資の対象になった。技術や製品の蓄積ではなく、事業体制の組み替えという経営の判断が、内視鏡の成長段階を切り替えた。社長の内藤隆福は、この事業部を医療機器と情報機器の二領域にまたがる新事業の母体とし、ファイバー技術を共通の基盤に据えた[4]。
内藤が二領域に将来性を見た背景には、当時の産業観があった。世界とりわけアメリカが有望な分野として医療機械産業を第一に挙げ、次に情報産業を挙げているとして、内藤はこの二つにオリンパスの重点を置くと社内に説いた。医療の内視鏡と情報のファクシミリを、いずれもファイバー技術の応用として一つの事業部にまとめる設計には、光学の技術を核に新しい市場を開くという構想があった。もっとも、後年に会社を支えたのは内視鏡のほうであり、情報機器は主役にならなかった[5]。
結果
医師コミュニティを抱えた内視鏡の独走体制
内視鏡を独立させた第三事業部の下で、オリンパスは医師コミュニティの運営を自ら担う仕組みを厚くした。1955年に発足した全国胃カメラ研究会でオリンパスが事務局を務め、その学術部分はのちに消化器内視鏡学会へ発展した。技術開発を医師と語り合う場も、1983年設立の消化器内視鏡推進連絡会へ引き継がれ、消化器系の有力医師200人以上が集まった。長年の共同開発でできた医師との太いパイプが、他社を寄せ付けない競争力の源泉になった[6][7]。
海外でも同じ仕組みを敷いた。1983年に内視鏡医学研究振興財団を設け、アジア・アフリカ・中南米などの若手医師を毎年十数人ずつ研修生に受け入れ、事務的・資金的な援助を引き受けた。累計の研修医は200人を超えた。こうして育てた医師の網が販路と臨床の声を同時に運び、1993年の時点でオリンパスは軟性内視鏡で世界市場の約8割という圧倒的なシェアを占め、内視鏡部門だけでグループの全利益を稼ぎ出す独走体制を築いた[8][9]。
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968年)
- オリンパス光学工業 50年の歩み(オリンパス光学工業, 1969)
- 日経ビジネス 1993年10月4日号「医師との太いパイプ強み 内視鏡で独走体制築く」