1968年 犬山工場フィルム転換 ― パルプからフィルムへの事業モデル転換

採算割れの工場を畳むか、それとも作り替えるか――犬山工場をめぐる用途転換の決断

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時期 1968年3月
意思決定者 河崎邦夫 社長
論点 犬山工場の事業モデル転換
概要
1968年3月、東洋紡績は採算の悪化したパルプ生産拠点だった犬山工場を、閉鎖せずにフィルム生産工場へ転換する判断を下した。合成繊維の普及で先細ったパルプ・スフ事業の設備と立地を生かしたこの決断は、半世紀後にコスモシャインSRFという世界シェア6割の製品を生む土台となった。
背景
1954年のICI提携見送りで合成繊維参入が出遅れていた東洋紡績は、合成繊維の普及でスフ・レーヨンの原料需要そのものが細るなか、犬山工場のパルプ生産の採算が悪化する事態に直面していた。
内容
1968年2月にパルプ生産を停止して権利を東北パルプへ譲渡し、同年3月に化成品事業部を発足させた。衣料繊維としては不成功だったポリプロピレンをフィルム・プラスチック用途に転じ、犬山工場をその主力生産拠点に位置づけて、1971年に二軸延伸ポリエステルフィルム、1976年に二軸延伸ナイロンフィルムの生産を軌道に乗せた。
含意
工場を閉鎖せず設備と立地を転用したこの判断は、非繊維拡大路線を技術面で支える最初の足場となり、2013年開発のコスモシャインSRF(世界シェア約6割)に結実した一方、2023年3月期にはフィルムセグメントへの利益集中というリスクも表面化させた。
筆者の見解

撤退と創造は同じ判断の裏表

この決断の核心は、構造不況に陥った一事業を単に畳むのではなく、設備と立地という有形資産の使い道を白紙に近い状態から見直し、既存技術の応用範囲を再定義した点にある。パルプという素材加工の技術基盤は、フィルムという似て非なる製品領域への転用が可能であり、河崎邦夫氏の「衣料繊維としては不成功だが、フィルムやプラスチックの面では伸びる余地がある」という言葉は、失敗した用途からの撤退と別の用途への転用が一つの判断のなかで同時に進んだことを示しているとみることができる。

半世紀後にコスモシャインSRFが世界シェア6割という地位を築いたことは、この時点の判断が持ちえた射程の長さを物語る一方、フィルムセグメントへの利益集中という副作用も避けられなかった。2023年3月期の急激な減益は、技術転用によって育てた強みが、いつしか単一の事業に依存する構造的な弱さへと裏返りうることを示しており、犬山工場の転換という一つの決断は、今日の東洋紡が抱える課題とも地続きであり続けているといえる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

出遅れた合繊参入と縮小するパルプ需要

1954年、英国のインペリアル・ケミカル・インダストリーズから持ちかけられたポリエステル繊維の技術提携を、東洋紡績は設備投資の負担と市場性への確信不足を理由に見送った。1956年にアクリル繊維へ経営資源を集中したことで、ポリエステルへの本格参入は帝人や東洋レーヨンに8年近く遅れ、1966年には呉羽紡績との合併によってようやくナイロン部門を取り込んだ。合併を公表した谷口豊三郎社長(当時)は、ナイロン・ポリエステル・アクリル・ポリプロピレンをすべて持つことが「複合繊維時代に対処していく上で、大きな強みとなろう」と合併の狙いを語った[1]

だが繊維の主戦場が合成繊維へ移るにつれ、犬山工場が長く担ってきたパルプ生産そのものの位置づけが揺らいでいった。犬山工場は1940年の操業開始以来、スフやレーヨンの原料となる化繊原料パルプの生産拠点として機能してきたが、合成繊維の普及とともにスフ・人絹の需要そのものが先細り、老朽化した設備での生産は採算が合わなくなっていった[2]

小規模設備が抱えた採算の限界

繊維業界全体でも合成繊維の伸長に押され、レーヨンステープルの過剰設備廃棄が進んでいた。帝人と日本紡績(ニチボー)は生産を全廃し、東洋レーヨンも設備を半減させるなど、業界を挙げた縮小が1967年前後に相次いだ。東洋紡績社長の河崎邦夫氏は1968年6月の講演で、自社のスフ設備についても「採算が悪いことを考えて当初は全廃しようかと思った」と振り返り、化学繊維時代における再生繊維の位置づけが縮んでいた実情を率直に語った[3]

なかでも犬山工場のパルプ設備は規模が小さく、老朽化と相まって採算の悪化がとりわけ深刻だった。河崎氏は同じ講演で、犬山工場について「従来、パルプの生産を行なっていたが、スフなり人絹なりの命脈は見えてきたことでもあり、また設備が小規模であるため採算もよくない」と述べ、工場単体の事業として存続させる根拠が乏しくなっていたことを明らかにした[4]

決断

パルプ生産の停止と化成品事業部の発足

河崎邦夫社長は1968年2月、犬山工場のパルプ生産を停止し、パルプ事業そのものの権利を東北パルプへ譲渡した。工場を閉鎖して撤退するのではなく、既存の設備と立地を残したまま用途を転換する道を選び、同年3月には新たに化成品事業部を発足させて、繊維以外の素材分野を担う組織的な受け皿を整えた[5]

1968年3月の化成品事業部発足は、東洋紡績が繊維専業からの脱却を組織面で具体化した動きであり、犬山工場はこの新事業部が引き継ぐ最初の生産拠点となった。工場の閉鎖という選択肢を退け、既存設備の転用によって新分野へ踏み出す判断がこの時点で固まった[6]

衣料繊維の不成功をフィルム用途の可能性に転じる発想

犬山工場ではパルプ生産の停止に先立ち、すでにポリプロピレンフィルムの生産が始まっていた。河崎氏はこのポリプロピレンについて「衣料繊維としては不成功に終っている」と率直に認めたうえで、「フィルムやプラスチックの面では伸びる余地があり、現に伸びている。そこで犬山工場はこうした製品の主力工場にしたい」と、犬山工場をフィルム・プラスチック分野の主力拠点に位置づける方針を語った[7]

この方針のもとで犬山工場の設備転換は歩みを進め、1971年12月には二軸延伸ポリエステルフィルムの生産が、続いて1976年7月には二軸延伸ナイロンフィルムの生産が軌道に乗った。パルプという素材加工の延長線上に二軸延伸という新たな加工技術を積み上げる展開であり、繊維専業からフィルム・樹脂を含む複合素材メーカーへと事業の姿を変えていく最初の足がかりとなった[8]

結果

非繊維拡大路線を技術面で支えた犬山工場

1980年代後半、瀧澤三郎社長のもとで東洋紡は樹脂フィルムやバイオなど非繊維分野の売上構成比を、当時の20%強から中期的に35%へ引き上げる長期戦略を掲げた。犬山工場に始まったフィルム事業は、この非繊維拡大路線を技術面で支える柱の一つとなった。日経ビジネスは、高付加価値化路線が実を結んできたことが繊維本業の業績好転にも寄与していると伝えている[9]

高付加価値化路線は繊維事業そのものの収益改善にも波及し、1988年3月期の経常利益は前期比2.9倍に伸びた。瀧澤社長はこの好転について「これまで進めてきた高付加価値化路線が実を結んできたことが大きい」と語り、犬山工場発の技術転用という発想が繊維本業の立て直しにも通じる経営の型として社内に根づいていった様子がうかがえる[10]

半世紀後のコスモシャインSRFと単一セグメント依存リスク

犬山工場で積み上げた二軸延伸技術は2013年、液晶テレビ向け偏光子保護フィルム「コスモシャインSRF」の開発に結実した。従来主流だったトリアセチルセルロース系フィルムに比べ反りの発生を抑えられる特性が評価され、大型液晶パネルの品質課題を解決する製品として国内外のパネルメーカーに採用が広がり、2024年時点で世界シェアはおよそ6割に達した。この製品は現在も犬山工場と敦賀事業所内のつるがフィルム工場の2拠点で生産されている[11][12]

もっとも、フィルム事業への依存は経営リスクとしても表面化した。フィルムセグメントの営業利益は2020年3月期の165億円から2022年3月期には198億円まで拡大した後、原燃料価格の高騰と価格転嫁の遅れを受けて2023年3月期にはわずか16億円へ急落し、全社利益が特定のセグメントに集中していた構造の脆さが浮き彫りになった。東洋紡は2025年、つるがフィルム工場で「コスモシャインSRF」の生産能力を最大3割増強する方針を決め、既存ラインの改造によって2026年度からの量産開始をめざしている[13][14]

出典・参考