五島昇社長による多角化——流通・ホテル・観光・航空への事業拡張
多摩田園都市で得た開発力と資金を元手に、東急はどこまで事業を広げ「上場13社」の企業集団を築いたか
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- 概要
- 多摩田園都市の開発で得た資金と組織の余力を元手に、二代目の五島昇社長が鉄道・不動産の枠を超えて流通・ホテル・観光・航空へ事業を広げ、上場13社を含む企業集団を築いた判断。高度成長の追い風のもと1968年から1970年代にかけて多角化が進み、1980年代には五島昇社長が3C(CATV・カルチャー・消費者クレジット)を重点新規事業に掲げた。
- 背景
- 1953年に五島慶太氏が構想した多摩田園都市の開発は東急に莫大な利益をもたらし、区画整理で東急建設が、宅地販売で東急不動産が、沿線出店で東急ストアが、後背地の人口増で東急百貨店が潤った。鉄道敷設を含め累計6,000〜7,000億円を投じた大事業がグループの成長を支え、多角化の資金と組織の余力を生んだ。
- 内容
- 五島昇社長のもとで東急は鉄道・不動産にとどまらず、流通(東急ストア)・ホテル・観光・航空(東亜国内航空)へ事業を広げ、上場13社を含む企業集団を形づくった。1972年の「人間の豊かさを求める ヒューマナイザー東急グループ」というスローガンに拡大の思想が表れ、1983年には五島昇社長が3Cを重点新規事業に掲げた。
- 含意
- 沿線開発で稼いだ資金を新事業へ回す拡大は高度成長期に成果を上げたが、東急総合研究所の新井喜美夫所長は多摩田園都市の成功が損益に「無頓着」な体質を生んだと反省した。バブル期に膨らんだリゾート・百貨店事業は1995年3月期の特別損失429億円につながり、拡大の反動が1990年代の経営再建の課題となった。
「量」を追った拡大の功罪
五島昇社長の多角化は、多摩田園都市という一つの大成功が生んだ余力を、生活に関わる幅広い事業へ振り向ける試みであったとみることができる。鉄道が沿線に人を集め、その人々の消費や余暇までグループで受け止める——高度成長と地価の上昇が続くかぎり、この拡大は事業の裾野を広げ、旅客と収益をともに押し上げる好循環として働いた。上場13社を数える企業集団は、その循環が形になった姿であったといえる。ただし、成功が続くあいだは、個々の事業がどれだけ稼いでいるかという問いは後景に退きやすい。
田園都市の「埋蔵金」という言葉が示すように、東急の拡大は、一つの開発が生み続ける利益に支えられていた。地価が上がるかぎり土地を売っても残額が減らないという恵まれた条件は、裏を返せば、事業ごとの採算を厳しく問う動機を弱めた面もあったとみられる。バブル崩壊後にリゾートや百貨店の整理を迫られ、鉄道・不動産・生活サービスへ選択と集中を進めた1990年代の再建は、量を追った時代の帳尻を合わせる作業でもあった。拡大がどこで質の吟味に切り替わるべきだったのかは、沿線という一つの土台に多くを負う私鉄経営に、今も問いを残しているとみられる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
多摩田園都市が生んだ開発力と資金
五島昇社長が多角化を進める足場は、父・五島慶太氏が構想した多摩田園都市の開発にあった。1953年の「城西南地区開発趣意書」に始まる開発は、川崎・町田・横浜・大和の4市にまたがる多摩丘陵約5,000ヘクタールに及ぶ総合開発で、東急に莫大な利益をもたらした。首都圏への人口流入が続くなか、沿線には次々と宅地が生まれ、1960年代のうちに沿線人口が50万人へ届くと見込まれるほどの勢いで開発は進み、その造成と分譲が収益となって還ってきた。鉄道を敷いて土地と住宅を売るという慶太氏以来の型が、昇氏の代に入って大量の資金を生み出す仕組みとして回りはじめていた[1]。
この開発は、東急本体だけでなくグループ各社の成長を押し上げた。1988年の日経ビジネスによれば、区画整理の工事で東急建設が潤い、宅地や建て売り住宅の受託販売で東急不動産が、沿線への出店で東急ストアが、後背地の人口増加で東急百貨店が、それぞれ利益を得ていった。鉄道の敷設費用を含め累計6,000〜7,000億円を投じたこの大事業が、グループの成長を長く支えた。一つの開発が建設・不動産・流通・百貨店の複数の事業を同時に太らせるこの経験が、東急に多角化を担う資金と組織の余力をもたらした[2]。
決断
鉄道・不動産を超える企業集団の形成
五島昇社長のもとで、東急は鉄道と不動産の枠を超える企業集団へ広がった。沿線への出店を重ねた東急ストアが流通を担い、宿泊や旅行を扱うホテル・観光の事業が加わり、東亜国内航空の系譜を引く航空事業もグループに含まれた。1986年の日経ビジネスは、この集団を「上場企業13社を含む現在の東急グループ」と記し、旅客が一貫して増え続ける恵まれた条件も沿線人口の恒常的な増加によると指摘した。鉄道が運ぶ沿線の暮らしを、消費から余暇までグループで丸ごと受け止める構えが、1968年から1970年代にかけて形をとっていった[3][4]。
拡大の意志は、生活サービスの新しい領域へも向かった。1983年ごろから、東急グループでは「3C」——CATV(有線テレビ)、カルチャー(文化事業)、消費者クレジット——が重点新規事業の象徴として掲げられ、五島昇社長みずからがこれを打ち出した。渋谷に建てた大型文化施設「東急文化村」やケーブルテレビ局など、数100億円を投じる事業が並んだが、いずれも単体では採算の見通しが立ちにくく、グループ全体への波及効果に望みをつないでいた。沿線の暮らしを丸ごと事業化しようとする発想が、鉄道と不動産の外へさらに広がっていった[5][6]。
結果
「量から質」への転換と、田園都市に頼る体質
拡大を続けた東急グループは、1980年代に入ると量から質への転換を掲げ始めた。1972年から掲げた「人間の豊かさを求める ヒューマナイザー東急グループ」というスローガンを、1986年に「21世紀に豊かさを深める」と改めたのも、量的な膨張から質を深める方向へ意識を移した表れであった。もっとも東急総合研究所の新井喜美夫所長は、多摩田園都市の開発が大成功したために「東急グループ全体が損益に対して無頓着になっている」と反省を口にした。拡大を支えた田園都市の利益が、かえって採算への緊張を緩めていたという見方であった[7][8]。
田園都市が生む利益は、地価の上昇が続くかぎり尽きなかった。新井所長は「いくら土地を売っても残額は減らない。このために金勘定にこだわらない体質になっている」と述べ、いざとなれば運賃値上げで収入を確保できるという発想の危うさにも触れた。拡大を許した豊かな元手は、事業ごとの採算を突き詰める規律をむしろ弱めていった。その反動は、バブル期に膨らんだリゾート・百貨店事業の不振として表れ、1995年3月期の特別損失429億円につながった。多角化の反動が、1990年代の経営再建の課題となって残った[9][10]。
- 日経ビジネス 1988年4月11日号「東急グループの3C戦略・『量から質』へ、壮大な実験の行方は?」
- 日経ビジネス 1986年6月23日号
- 東急 有価証券報告書 第156期(2025年3月期)【沿革】
- 会社年鑑(東京急行電鉄・単体業績、1978年3月期)