第二五七一号(8)決断社史 一九五〇年代令和八年十月三日(土曜日) 発行所 The社史
日本企業の決断 一九五〇年代
一九五〇〜五九年
第一〇〇号
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1959年(昭和34年)
工場や都市基盤への大型投資が集中した年である。トヨタ自動車は元町工場、三菱電機は北伊丹工場を新設し、日本国有鉄道は東海道新幹線の建設に着手した。三菱地所の丸ノ内総合改造計画や森ビルの虎ノ門への集中投資など、都心の再開発も始まった。京セラが京都セラミックとして生まれたのもこの年だ。
1958年(昭和33年)
決断の数は少ないが、新しい技術を事業に変える動きが共通する。明治製菓はカナマイシンを工業化し、日本光電工業はトランジスタへ転じ、大日本印刷はシャドーマスクの量産を始めた。東宝が不動産活用委員会を置いたように、本業の外にある資産を生かす試みも見られた。
1957年(昭和32年)
海外からの技術導入と祖業からの転身が重なった。東レは英ICI、神崎製紙はチャンピオン社から技術を入れた。UBEは石炭からセメント・化学へ移り、マキタは電気カンナで電動工具に踏み出した。カシオ計算機の計算機「14-A」、ペンタックスのアサヒペンタックスなど、自前の製品も生まれた。
1956年(昭和31年)
主力を切り替え、隣の領域へ広げる決断が多かった。コマツはブルドーザーへ転じ、島津製作所は航空機器分野に入った。三菱重工業はマンモスタンカーの建造に着手し、赤井電機は縦型テープレコーダーで輸出に出た。はごろもフーズが東京営業所を開いて内需へ向かうなど、販路を変える動きもあった。
1955年(昭和30年)
決断の向きはばらばらだが、事業の土台を据え直すものが多い。東京電力HDは火主水従へ発電の軸を移し、ソニーはトランジスタ技術で米国輸出に出た。リコーはリコピーで市場に入った。森永乳業はヒ素ミルク中毒事件の救済体制づくりを迫られ、信頼回復が経営課題となった。
1954年(昭和29年)
経営の立て直しが目立った年である。ブルドックソースは会社更生法、ツガミは和議法による再建に入った。並行して豊田自動織機はS型エンジンで農機に入りメキシコ豊田を設立し、ヤマハは音楽教室を開いた。ニチメンの丸永吸収、三菱商事の3社合併など、商社の再結集も進んだ。
1953年(昭和28年)
欧米企業との提携で技術を取り込む決断が相次いだ。日立製作所はGE・RCA・WEと、信越化学工業はGEと組んでシリコーンを事業化し、デンソーはボッシュと資本業務提携を結んだ。出光興産のイラン石油輸入断行や日本テレビHDの開局など、新しい領域へ踏み出す動きも目立った。
1952年(昭和27年)
主力を絞って切り替える決断が多い。ダイキンは朝鮮特需を機に空調へ、ゴールドウインは野球用品中心へ全面転換した。パナソニックはフィリップスと技術提携し、日本軽金属HDはアルミニウム社と資本提携した。日本興業銀行は長期信用銀行へ移り、日本長期信用銀行は川崎製鉄・トヨタへ融資した。
1951年(昭和26年)
米欧企業からの技術導入が復興の柱となった。東レは米デュポンと、三菱電機はウエスチングハウスと提携し、ブリヂストンはグッドイヤーからタイヤ製法を導入した。川崎製鉄は千葉製鉄所を建設し、九州電力は日本発送電の解体で発足した。明治製糖は川崎工場の復旧で復帰を果たした。
1950年(昭和25年)
戦後の再編で、分離独立が相次いだ。川崎重工業は川崎製鉄を、大丸は非百貨店部門を切り出し、三井金属は神岡鉱業として独立した。技術の自立を目指す動きも目立ち、クラレはビニロンを企業化し、堀場製作所は国産初のpHメータを開発した。村田製作所は部品専業への特化を選んだ。
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