シャドーマスク・フォトマスクによるエレクトロニクスへの多角化

印刷で培った製版技術を、なぜ紙ではなくカラーテレビや半導体の部品へ賭けたのか

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時期 1958年
意思決定者 北島織衛 社長
論点 多角化とエレクトロニクスへの技術転用
概要
1958年、大日本印刷が印刷の製版技術を応用してカラーテレビ用シャドーマスクを国内で初めて量産し、フォトマスクや中央研究所へと広げて、紙以外のエレクトロニクス部材を新しい事業の柱へ育てた経営判断。北島織衛氏が主導した。
背景
戦後再建を終えた北島織衛氏は「一本や二本の柱では危うい」として複数の事業の柱を求めていた。当時まともな研究所を持つ唯一の印刷会社として、1957年に通産省主導のカラーテレビ国産化の試作へ加わった。
内容
米国のエッチング技術を写真凸版の原理で応用して試作し、1958年に上福岡の無塵工場でシャドーマスクを国内初量産。1959年にフォトマスク、1967年にクロムマスクへ進み、1966年完成の中央研究所で応用研究を体系化した。
含意
本業がなお伸びる時期に、採算より次の柱を優先して畑違いの電子部品へ踏み込んだ選択であった。エレクトロニクス部材は紙に次ぐ柱へ育ち、後年の有機ELメタルマスクやリチウムイオン電池材料へ連なる源流となった。
筆者の見解

印刷技術を紙の外へ——次の柱を育てる賭け

この判断の核心は、財務の危機に迫られた守りの一手ではなく、本業がなお伸びる時期に、あえて畑違いの電子部品へ踏み込んだ攻めの選択にあったとみることができる。北島織衛氏は「一本や二本の柱では危うい」という考えを、紙器・包装だけでなく、カラーテレビや半導体という当時の最先端市場へも当てはめた。印刷でつちかった微細な製版技術が金属やガラスの上でも生きるという見立てに、研究所と資金を賭けた点に、この会社の技術志向がうかがえる。

もっとも、量産の初期は歩留まりが低く、パイオニアゆえの労苦も小さくなかった。それでも紙の外に置いたこの柱は、紙媒体が縮んでいく時代に、会社を支える大きな幹の一つへ育っていく。印刷会社が電子部品や電池材料の主要な供給者でもあるという今日の姿は、半世紀余り前に通産省の試作へ加わり、上福岡に無塵工場を建てた一連の選択の延長線上にある。本業の傍らで次の柱をどう育てるか——この問いに早い時期から向き合った点で、示唆に富む判断といえる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

「複数の柱」を求めた北島織衛の経営

戦後の労働争議で崩壊寸前まで追い込まれた大日本印刷を、専務として再建五カ年計画で立て直し、1955年に社長へ就いたのが北島織衛氏であった。北島氏は一つの事業だけに頼る危うさを避け、印刷という本業の外へ新しい柱を伸ばそうとした。米国視察で見た紙器・包装の需要をもとに大崎工場へ紙器の専門工場を設けたときも、出版で食ってきた会社が紙器に手を出すのは浮気だという役員の反対を、「失敗したらハラを切る」と押し切った。この紙器進出の成功が、印刷の枠を越える多角化の足がかりとなった[1][2]

新しい柱を探る北島氏の目は、印刷でつちかった微細なパターンを版から素材へ写しとる技術に向いた。文字や絵柄を精密に転写する製版・エッチングの技術は、紙以外の金属やガラスにも応用が利く。加えて大日本印刷は、当時の印刷会社では珍しく本格的な研究所をもっていた。四流産業とも呼ばれた印刷業を陽のあたる会社にしたいと考えた北島氏は、技術に金を惜しまず、古関敬三氏ら技術陣が高価な機械を求めれば黙って買い与えたという。この技術の蓄えと研究の足場が、紙の外への進出を支える土台となった[3][4]

カラーテレビ国産化とシャドーマスクという接点

転機は1957年に訪れた。通産省の音頭で日本のカラーテレビ国産化の研究が始まり、大日本印刷はその試作委員会に加えられた。米国RCAが開発したカラーブラウン管では、電子ビームを色ごとに導くシャドーマスクが印刷の技術で作られていたためである。ブラウン管のガラスバルブは旭硝子、蛍光体は大日本塗料、そしてシャドーマスクは大日本印刷と、いずれもその分野で抜きんでた企業へ研究が託された。印刷会社が茶の間のテレビの内部部品を担うという、本業からは遠い役回りであった[5][6]

シャドーマスクは、厚さ0.1ミリほどの薄い鋼板に数十万個の小さな穴を均質にあけた部品で、電子銃から放たれる電子ビームを蛍光体へ正しく導いて色を出させる。1ミリの1000分の1の精度が求められ、わずかな傷やホコリも許されない難しい仕事だった。米国では鋼板を腐食させるエッチングでこれを作っており、大日本印刷も写真凸版の原理を応用した同じやり方で、参画からおよそ1年で試作品を仕上げた。試作を担った古関敬三氏は、これで役目は済むと考えていたという[7][8]

決断

国内初のシャドーマスク量産と上福岡の無塵工場

試作で手を引くつもりだった大日本印刷に、関係者は「そのまま生産をやってくれ」と求めた。北島氏はこれを受け、まずは研究所の一隅でほそぼそと製造を始めさせた。やがてカラーテレビの生産が伸びるとシャドーマスクの量産が要り、埼玉県上福岡市の陸軍火工廠跡に専用工場を建てた。水が豊富で空気がきれいで地盤が固いという三条件が、微細な加工に欠かせなかったためである。こうして1958年、大日本印刷は国内メーカーとして初めてシャドーマスクの量産と販売に踏み切った[9][10][11]

1ミリの1000分の1の精度を保つには、空気中の微細なゴミも大敵だった。国内に手本となる無塵工場がなかったため、古関氏は窓のない工場をつくり、入り口に空気シャワーを設け、塵の出にくい布地で作業服まで仕立てた。歩留まりは当初25パーセントにとどまったが、技術陣が工程を磨いて引き上げていった。はじめは米国バックビー社と技術提携していたものの、量産が進むにつれて独自の製造方式を築き、やがて欧米へ技術を輸出するに至った[12][13][14]

フォトマスクへの進出と中央研究所

シャドーマスクで得た写真製版と精密加工の技術は、半導体の量産に欠かせないフォトマスクへ進んだ。フォトマスクは集積回路の回路図を縮小してガラス原版に焼きつけた部品で、大日本印刷が着手したのは1959年、まだ半導体がトランジスタの時代であった。1964年にはフォトマスク原版用の大型カメラを独自に開発し、米国製フォトレピーターを国内で初めて導入する。感光材はゼラチンを使うエマルジョン方式から、1966年に中央研究所で開発したクロム蒸着方式へ移り、翌1967年からクロムマスクの量産が始まった[15][16]

1966年7月に完成した中央研究所は、こうした応用研究を一手に担う拠点となり、印刷技術を電子部品へつなぐ試みを体系化した。北島氏は技術への投資を惜しまず、研究所が求める高価な機械を黙って買い与えたと古関氏は証言している。役員の反対を押し切って紙器へ進んだときと同じく、目先の採算より次の柱を育てることに重きを置く判断であった。カラーテレビとICという当時の先端市場に、印刷の製版技術で食い込むこの選択は、紙以外の柱を求めた北島経営の核にあたる[17][18]

結果

紙に次ぐ柱へ育ったエレクトロニクス部材

量産に踏み切った部材は、やがて印刷本業に次ぐ柱へ育った。社史が推定した1980年ごろの数字では、シャドーマスクの国内シェアは7割以上、世界シェアは4割以上に達し、松下電器・三菱電機・日立製作所・日本電気・ソニーのカラーテレビへ供給されたほか、海外へも大量に輸出された。フォトマスクでも製品の質とコストの両面で業界の先頭に立った。印刷業界で凸版印刷と二強をなしてきた大日本印刷は、紙の外側に築いたこの柱によって、電子部品の主要な供給者となった[19][20]

紙以外への進出は、この後も細く長く続いた。1959年に始めたフォトマスクは月産の枚数を年々増やし、シャドーマスクとともに半導体・ディスプレイ部材の供給という新しい事業の背骨となった。印刷会社の売上に占める電子部材の比重は時代とともに増し、後年には有機ELディスプレイ用のメタルマスクやリチウムイオン電池の外装材など、微細な転写・成形の技術を核とする製品群へ連なった。1957年に通産省の試作へ加わった一手は、今日のエレクトロニクス事業の源流にあたる[21][22][23]

出典・参考
  • 大日本印刷『世界最大の総合印刷企業』(野下三郎, 朝日ソノラマ, 1980)
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
  • 大日本印刷 有価証券報告書【沿革】