大日本印刷 の歴史

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創業 1876年
創業者 佐久間貞一
創業地 東京
創業
1876年10月、佐久間貞一氏・大内青巒氏・宏仏海氏らが東京府下京橋区西紺屋町に秀英舎を創業した。保田久成氏が出した資金1,000円で高橋活版所の設備を譲り受け、煉瓦造りの社屋に手動印刷機4台を据えて操業を始めた。社名は勝海舟が、当時の先進国だった英国より秀でよという意で名付けたと伝わる。1886年11月に牛込区市谷加賀町に第一工場を新設し、1894年1月に株式会社へ改組して佐久間氏が初代社長に就任、活字書体の秀英体を自前で設計する技術志向を早くから持った。1935年2月には日清印刷と対等合併して、商号を大日本印刷へ改める。1949年5月に東京証券取引所へ上場した。
決断
印刷の微細な転写技術を、紙から金属・ガラス・フィルムへ当て直してきた。1957年に通産省主導のカラーテレビ国産化へ加わり、写真凸版の原理をエッチングへ応用して1958年にシャドーマスクを国内で初めて量産した。厚さ0.1ミリの鋼板に数十万個の穴を均質に開ける工程は、版を作る技術そのものだった。1959年には半導体用フォトマスクでガラスへ当て先を移し、1966年7月の中央研究所が応用研究を体系化する。以降も液晶カラーフィルタ、2021年3月に鶴瀬工場へ設けたリチウムイオン電池部材、2024年5月稼働の有機EL用メタルマスクへ、同じ工程を当てる基材を替えている。台湾・韓国勢の台頭で液晶カラーフィルタの採算は崩れたが、精度を出す工程は次の基材へ移せる。紙媒体が縮んでも事業が続いたのは、この移し替えを繰り返したからである。
現況
純利益が営業利益を上回る決算が、3年続いている。2026年3月期の連結売上高は1兆5,126億円で、営業利益1,010億円に対し、特別利益580億円を含む純利益は1,040億円だった。前2期も営業利益754億円に対し純利益1,109億円、営業利益936億円に対し純利益1,107億円で、差を埋めたのは政策保有株式の売却益である。セグメントはスマートコミュニケーション7,487億円・利益400億円、ライフ&ヘルスケア5,121億円・利益373億円、エレクトロニクス2,518億円・利益507億円で、売上の17%にすぎないエレクトロニクスが利益の4割を占める。2023年2月に公表した経営の基本方針に沿う自己株式取得は2026年3月時点で累計約2,200億円に達した。
競合
TOPPANが組織を組み替えた場面で、大日本印刷は資本を組み替えた。TOPPANは2023年10月に持株会社へ移行して社名から『印刷』を外し、2025年10月にはフォトマスク事業をテクセンドフォトマスクとして上場させ、持分を46.57%へ下げた。大日本印刷は商号も事業会社の形も変えず、5年累計3,000億円の自己株式取得と政策保有株式の売却で応じた。2026年3月期の連結売上高はTOPPANの1兆8,050億円に対し1兆5,126億円だが、エレクトロニクスは2,518億円・利益507億円で、TOPPANの1,859億円・337億円を規模でも利益率でも上回る。社名から『印刷』を外したのはTOPPANだが、半導体部材の規模で先に出たのは社名を残した大日本印刷であり、商号の変更が競争優位を生んだわけではない。
大日本印刷:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
1997年3月期2026年3月期

創業ストーリー 秀英舎から大日本印刷への統合と中央研究所設立までの成長期 (1876年〜)

秀英舎の創業と活版印刷業の草分け

1876年10月、佐久間貞一・大内青巒・宏仏海らが発起人となり、東京府下京橋区西紺屋町(現在の銀座西四丁目付近)に秀英舎[1]を創業した。佐久間の縁戚にあたる保田久成が資金1,000円を拠出し、売りに出ていた高橋活版所の設備[2]を買い取って、煉瓦造りの社屋に手動印刷機4台を据えて出発した。社名は旧幕臣の佐久間が依頼した勝海舟が[3]、当時の先進国だった英国よりも秀でる覚悟で事業に努めよという意で名付けたと伝わる。佐久間は布教を司る大教院や仏教新聞『明教新誌』に関わるなかで、木版印刷に代わる活版印刷の到来を西洋人宣教師から聞き、自ら活版所の開業に踏み切った。官公庁の文書・法令集や出版物の印刷を担い、明治初期の近代活字印刷業の草分けとして早くから地歩を築いた。

  • 有価証券報告書
    • [1]1876年10月 東京府下京橋区(西紺屋町)に秀英舎として創業
  • 大日本印刷:世界最大の総合印刷企業(朝日ソノラマ・1980年)
    • [2]発起人は佐久間貞一・大内青巒・宏仏海、保田久成が1,000円を拠出し高橋活版所の設備を買収して出発
    • [3]社名「秀英舎」は勝海舟が英国に秀でる意で名付けたと伝わる

創業まもなく中村正直訳『西国立志編』など明治初期の名著の印刷を引き受けて企業基盤を固め[4]、1886年11月には牛込区市谷加賀町に約1万6千平方メートル(約4,900坪)の敷地を取得して第一工場(市谷工場)を開設した。[5]当初は活版部から始まり、鋳造課・電気版課・石版部へと設備を広げ、町工場の域を出なかった同社は有数の活版印刷会社へと成長した。1888年4月には有限責任会社組織に[6]、1894年1月には商法施行に合わせて株式会社組織へ改組し[7]、初代社長には佐久間貞一氏が就いて近代的な組織形態を早期に整えた。[8]活字書体(秀英体)を自前で開発する技術志向は[9]、後年のエレクトロニクス事業へつながる技術型企業の素地となった。

  • 大日本印刷:世界最大の総合印刷企業(朝日ソノラマ・1980年)
    • [4]中村正直訳『西国立志編』など明治初期の名著の印刷を引き受け企業基盤を固める
  • 有価証券報告書
    • [5]1886年11月 市谷加賀町に約1万6千平方メートル(約4,900坪)を取得し第一工場を開設
    • [6]1888年4月 有限責任会社組織に変更
    • [7]1894年1月 商法施行に伴い株式会社組織に変更
    • [9]秀英舎時代から活字書体(秀英体)を独自開発
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [8]1894年 商法施行・株式会社化に伴い佐久間貞一が初代社長に就任

市谷の第一工場は鉄筋コンクリート造の近代印刷工場へ建て替えられ、1923年9月の関東大震災で東京の印刷業界が壊滅的な打撃を受けるなか、秀英舎の新工場は軽微な被災にとどまった。同業が操業を止めた間も印刷の注文が同社に殺到し、これが飛躍の契機となった。[10]同年10月には本社を市谷の新工場へ移し[11]、以後150年にわたる市谷本社体制を固めた。震災を境に新聞・雑誌など定期刊行物の受注が集中し、大正末から昭和初期にかけて凸版・平版・凹版の三版式をそろえた総合印刷工場として大量生産体制を整え[12]、後の合併と多角化を支える生産基盤を築いた。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [10]1923年9月の関東大震災で同業が壊滅するなか秀英舎の新工場は軽微な被災にとどまり注文が殺到、飛躍の契機となった
    • [12]凸版・平版・凹版の三版式をそろえた総合印刷工場として大量生産体制を整えた
  • 有価証券報告書
    • [11]1923年10月 本社を現在地(市谷)に移転
  • 有価証券報告書
    • [1]1876年10月 東京府下京橋区(西紺屋町)に秀英舎として創業
    • [5]1886年11月 市谷加賀町に約1万6千平方メートル(約4,900坪)を取得し第一工場を開設
    • [6]1888年4月 有限責任会社組織に変更
    • [7]1894年1月 商法施行に伴い株式会社組織に変更
    • [9]秀英舎時代から活字書体(秀英体)を独自開発
    • [11]1923年10月 本社を現在地(市谷)に移転
  • 大日本印刷:世界最大の総合印刷企業(朝日ソノラマ・1980年)
    • [2]発起人は佐久間貞一・大内青巒・宏仏海、保田久成が1,000円を拠出し高橋活版所の設備を買収して出発
    • [3]社名「秀英舎」は勝海舟が英国に秀でる意で名付けたと伝わる
    • [4]中村正直訳『西国立志編』など明治初期の名著の印刷を引き受け企業基盤を固める
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [8]1894年 商法施行・株式会社化に伴い佐久間貞一が初代社長に就任
    • [10]1923年9月の関東大震災で同業が壊滅するなか秀英舎の新工場は軽微な被災にとどまり注文が殺到、飛躍の契機となった
    • [12]凸版・平版・凹版の三版式をそろえた総合印刷工場として大量生産体制を整えた

日清印刷との合併による「大日本印刷」の誕生

合併相手の日清印刷は1907年に設立され、牛込区榎町に工場を構えてから、1927年に田端の市田オフセット印刷所[13]、1928年に入新井の辻本写真工芸社を買収し、1932年には大崎に分工場を設けてグラビア印刷を手がける総合印刷所へ成長していた。1934年11月、秀英舎の専務青木弘と日清印刷の専務平野登美夫が対等合併の契約に調印し[14]、1935年2月に両社は合併、商号を大日本印刷株式会社へ改めた。[15]資本金600万円で発足した新会社の初代社長には増田義一[16]が就き、専務には青木・平野が並んだ。当時の日本印刷業界における最大規模の再編で、新会社は当時日本最大の印刷会社となり、以後の『DNP』というブランドの起点となった。[17]

  • 大日本印刷:世界最大の総合印刷企業(朝日ソノラマ・1980年)
    • [13]日清印刷は1907年設立、榎町に工場。1927年市田オフセット印刷所・1928年辻本写真工芸社を買収、1932年大崎分工場でグラビア印刷
    • [14]1934年11月 秀英舎専務青木弘と日清印刷専務平野登美夫が対等合併に調印
    • [16]資本金600万円で発足、初代社長は増田義一、専務に青木弘・平野登美夫
  • 有価証券報告書
    • [15]1935年2月 日清印刷を合併し大日本印刷株式会社と改称
    • [17]当時日本最大の印刷会社となり「DNP」ブランドの起点

日中戦争開始後の用紙統制と工場空襲をくぐり抜け、戦後は1946年9月に榎町工場を操業再開し、10月には京都工場を開設した。[18]同年には大蔵省の管理工場に指定されて紙幣・証券類の印刷を担い[19]、これが後の証券・カード分野の素地となった。1949年5月には東京証券取引所に上場して戦後復興期の資本調達基盤を整え[20]、1951年11月の大崎工場、1956年9月の日本精版合併による大阪工場発足で東京・大阪の2大拠点体制を固めた。[21]書体という『ソフト』と全国の工場群という『ハード』を併せ持つ体制は、復興期から高度成長期にかけて急拡大する出版・教科書・商業印刷の需要に応える供給力となり、以後の多角化投資を支える収益基盤を形づくった。

  • 有価証券報告書
    • [18]1946年9月 榎町工場を操業再開、10月 京都工場を開設(京都工場は開設で操業再開ではない)
    • [20]1949年5月 東京証券取引所に上場
    • [21]1951年11月 大崎工場、1956年9月 日本精版を合併し大阪工場として発足(東京・大阪2拠点)
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社・1955年)
    • [19]1946年 大蔵省の管理工場に指定され紙幣・証券類を印刷(後の証券・カード分野の素地)
  • 大日本印刷:世界最大の総合印刷企業(朝日ソノラマ・1980年)
    • [13]日清印刷は1907年設立、榎町に工場。1927年市田オフセット印刷所・1928年辻本写真工芸社を買収、1932年大崎分工場でグラビア印刷
    • [14]1934年11月 秀英舎専務青木弘と日清印刷専務平野登美夫が対等合併に調印
    • [16]資本金600万円で発足、初代社長は増田義一、専務に青木弘・平野登美夫
  • 有価証券報告書
    • [15]1935年2月 日清印刷を合併し大日本印刷株式会社と改称
    • [17]当時日本最大の印刷会社となり「DNP」ブランドの起点
    • [18]1946年9月 榎町工場を操業再開、10月 京都工場を開設(京都工場は開設で操業再開ではない)
    • [20]1949年5月 東京証券取引所に上場
    • [21]1951年11月 大崎工場、1956年9月 日本精版を合併し大阪工場として発足(東京・大阪2拠点)
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社・1955年)
    • [19]1946年 大蔵省の管理工場に指定され紙幣・証券類を印刷(後の証券・カード分野の素地)

北島織衛の再建と拡印刷・多角化の源流

戦後の混乱期、大日本印刷は労働争議で経営が揺らいだが、1955年に社長へ就いた北島織衛が再建を主導した。北島は当時専務だった青木弘の三男で、日本興業銀行への入行を志して果たせず大日本印刷へ入社し、営業の現場から頭角を現した経営者だった。[22]社長就任に先立つ1951年6月には、専務として再建五カ年計画を全社へ発表し、全従業員の投票で全面的な支持[23]を得て立て直しの足場を固めた。一つの事業の柱だけに頼る危うさを避けて複数の柱を立てる方針を掲げ、1951年に開設した大崎工場を足がかりに、米国視察で着目した紙器・包装印刷へ進出した。[24]社内には出版偏重を崩すことへの反対もあったが押し切り、これが後の包装事業の柱へ育った。印刷の対象や素材、前後の工程まで広げる『拡印刷』と、受注産業でありながら自ら企画を売り込む発想とを軸に、北島は24年にわたって積極経営を率いた[25]

  • 大日本印刷:世界最大の総合印刷企業(朝日ソノラマ・1980年)
    • [22]1955年 北島織衛が社長に就任し再建を主導(青木弘の三男、日本興業銀行の入社試験に落ち大日本印刷へ入社)
    • [24]1951年開設の大崎工場を足がかりに米国視察で着目した紙器・包装印刷へ進出
    • [25]「拡印刷」を軸とする積極経営を24年率いた
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [23]1951年6月 北島(当時専務)が再建五カ年計画を全社へ発表し全従業員の投票で全面的な支持を得た

多角化の柱の一つが、印刷の微細パターン転写技術を紙以外へ応用するエレクトロニクス部材だった。1957年、通産省主導で始まったカラーテレビ国産化の試作にシャドーマスクの担い手として加わり、まともな研究所を持つ唯一の印刷会社として期待を集めた[26]。エッチング技術でブラウン管用シャドーマスクを試作し、1958年には国内メーカーで初めて量産・販売を始め、埼玉県上福岡市に無塵工場を構えた。[27]1959年にはICの製造に欠かせないフォトマスク、1967年にはクロムマスクの生産へと広げ[28]、半導体・ディスプレイ部材の供給者としての地位を固めた。1966年7月に完成した中央研究所は、こうした応用研究[29]を体系的に担う拠点で、後のエレクトロニクス事業の発祥地となった。

  • 大日本印刷:世界最大の総合印刷企業(朝日ソノラマ・1980年)
    • [26]1957年 通産省主導のカラーテレビ国産化試作にシャドーマスクで参画(研究所を持つ唯一の印刷会社)
    • [27]1958年 国内メーカーで初めてシャドーマスクを量産・販売、上福岡に無塵工場を建設
    • [28]1959年フォトマスク、1967年クロムマスクの生産へ展開
  • 有価証券報告書
    • [29]1966年7月 中央研究所を完成(応用研究の拠点・後のエレクトロニクス事業の発祥地)

多角化はエレクトロニクスにとどまらなかった。北島は紙コップなど自社製品の需要拡大も見込み、1963年に大日本印刷が6割を出資して北海道飲料を設立、コカ・コーラの北海道ボトリングへ踏み込んだ。[30]寒冷地での清涼飲料は売れないとの見方を覆して事業は伸び、後の清涼飲料セグメント(現在の北海道コカ・コーラボトリング)の源流となった。[31]1972年1月の赤羽工場など高度成長期の生産拡張を重ね[32]、1975年7月には製造技術そのものを体系的に研究する生産総合研究所を設立した。[33]中央研究所と生産総合研究所の2本柱が、印刷会社の枠を越えてエレクトロニクス・包装・機能性材料へ広がる多角化の技術基盤となった。

  • 大日本印刷:世界最大の総合印刷企業(朝日ソノラマ・1980年)
    • [30]1963年 6割出資で北海道飲料を設立しコカ・コーラ北海道ボトリングへ進出
    • [31]後の清涼飲料セグメント(北海道コカ・コーラボトリング)の源流
  • 有価証券報告書
    • [32]1972年1月 赤羽工場を開設
    • [33]1975年7月 生産総合研究所を設立
  • 大日本印刷:世界最大の総合印刷企業(朝日ソノラマ・1980年)
    • [22]1955年 北島織衛が社長に就任し再建を主導(青木弘の三男、日本興業銀行の入社試験に落ち大日本印刷へ入社)
    • [24]1951年開設の大崎工場を足がかりに米国視察で着目した紙器・包装印刷へ進出
    • [25]「拡印刷」を軸とする積極経営を24年率いた
    • [26]1957年 通産省主導のカラーテレビ国産化試作にシャドーマスクで参画(研究所を持つ唯一の印刷会社)
    • [27]1958年 国内メーカーで初めてシャドーマスクを量産・販売、上福岡に無塵工場を建設
    • [28]1959年フォトマスク、1967年クロムマスクの生産へ展開
    • [30]1963年 6割出資で北海道飲料を設立しコカ・コーラ北海道ボトリングへ進出
    • [31]後の清涼飲料セグメント(北海道コカ・コーラボトリング)の源流
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [23]1951年6月 北島(当時専務)が再建五カ年計画を全社へ発表し全従業員の投票で全面的な支持を得た
  • 有価証券報告書
    • [29]1966年7月 中央研究所を完成(応用研究の拠点・後のエレクトロニクス事業の発祥地)
    • [32]1972年1月 赤羽工場を開設
    • [33]1975年7月 生産総合研究所を設立

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大日本印刷の沿革1876〜2025年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1876〜1975年秀英舎から大日本印刷への統合と中央研究所設立までの成長期東京府下京橋区に秀英舎として創業
第一工場(市谷工場)を開設
舎則を改め有限責任会社組織に変更
組織に変更
本社を現在地(市谷)に移転
日清印刷との対等合併と「大日本印刷」の誕生

1876年創業の秀英舎が1907年設立の日清印刷と対等合併し、1935年3月に資本金600万円の大日本印刷が発足した経営判断。当時日本最大の印刷会社が生まれ、現在まで続く『大日本印刷(DNP)』という社名がこのとき定まった。

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★★★
東京証券取引所に上場
大崎工場を新設
日本精版を合併し大阪工場として発足★★
シャドーマスク・フォトマスクによるエレクトロニクスへの多角化

1958年、大日本印刷が印刷の製版技術を応用してカラーテレビ用シャドーマスクを国内で初めて量産し、フォトマスクや中央研究所へと広げて、紙以外のエレクトロニクス部材を新しい事業の柱へ育てた経営判断。北島織衛氏が主導した。

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★★★
中央研究所を完成
赤羽工場を新設、二葉印刷を合併、蕨工場を新設
生産総合研究所を設立
1976〜2019年多角化と売上ピーク到達、そして長い調整局面の時期北島義俊中央研究所柏研究施設を完成
北島義俊大利根工場を新設
北島義俊売上高1兆5,075億円、営業利益1,206億円
北島義俊コニカミノルタHDの証明写真事業等を買収★★
北島義俊丸善を子会社化★★
北島義俊ジュンク堂書店を子会社化
北島義俊初の純損失▲209億円を計上★★
北島義俊CHIグループを設立
北島義俊純損失▲164億円。特別損失366億円
北島義俊DNP北海道・東北・中部・西日本の地域子会社4社を分割・統合
北島義斉北島義斉氏が社長に就任
北島義斉純損失▲356億円。特別損失1,000億円★★
2020〜2025年経営基本方針とDNP財務戦略の転換期北島義斉純利益694億円まで回復
北島義斉リチウムイオン電池部材の工場を鶴瀬工場内に開設
北島義斉「経営の基本方針」への転換と5年3,000億円の自己株式取得

2023年、大日本印刷(DNP)は『DNPグループの経営の基本方針』を公表し、ROE10%を長期目標に、5年間で累計3,000億円の自己株式取得と政策保有株式の売却、成長事業への集中投資を同時に進める財務戦略へ転換した。同年1月に米エリオット・マネジメントが約5%を取得して主要株主に加わっており、外部株主の圧力とDNP自身の変革志向が重なった転換であった。

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★★★
北島義斉レゾナック・パッケージングを取得しDNP高機能マテリアル彦根として子会社化★★
出典・参考
  • 有価証券報告書
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社・1955年)
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
  • 大日本印刷:世界最大の総合印刷企業(朝日ソノラマ・1980年)

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