日清印刷との対等合併と「大日本印刷」の誕生

秀英舎と日清印刷は、なぜ対等合併で当時最大の印刷会社をつくったのか

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時期 1934年11月
意思決定者 増田義一 社長
論点 業界再編と生産規模
概要
1876年創業の秀英舎が1907年設立の日清印刷と対等合併し、1935年3月に資本金600万円の大日本印刷が発足した経営判断。当時日本最大の印刷会社が生まれ、現在まで続く「大日本印刷(DNP)」という社名がこのとき定まった。
背景
明治・大正を通じた新聞・雑誌・教科書など定期刊行物の需要膨張と、昭和恐慌後の過当競争。書体と活版に厚い秀英舎と、グラビア・オフセット設備を備えた日清印刷は、得意とする版式が互いを補う関係にあった。
内容
1934年11月12日、秀英舎専務 青木弘氏と日清印刷専務 平野登美夫氏が対等合併契約に調印した。翌1935年2月26日の臨時株主総会を経て、社長 増田義一氏・専務 青木弘氏/平野登美夫氏の新体制で、3月1日に大日本印刷が発足した。
含意
合併で確立した生産規模と版式の幅は、戦時統制を耐え、戦後に急拡大する出版・教科書・商業印刷の需要と、その後の多角化投資を支える収益基盤となった。
筆者の見解

対等ゆえに残った、版式の幅という遺産

この合併の特徴は、一方が他方を呑み込む買収ではなく、規模でも技術でも近い二社が対等の立場で一つになった点にみることができる。書体と活版に厚い秀英舎、グラビアとオフセットに強い日清印刷という、補い合う設備を持つ相手を選んだことが、版式をすべて備えた最大手を一挙に生んだ。過当競争が利幅を削る時代に、規模と品ぞろえを同時に手に入れる合併は、その後の印刷業界の集約を先取りする選択だったとみられる。

今日の大日本印刷は、印刷という言葉ではくくりきれないエレクトロニクスや包装、出版流通までを抱える企業へ広がっている。その多角化を支えたのは、1935年の合併で得た生産規模と、二社が持ち寄った技術の幅であった。対等合併という当時としては例の少ない選び方が、90年を経てなお同じ社名のもとに事業を束ねる会社の輪郭を決めたといえる。規模の競争にどう向き合い、どの技術を組み合わせて次の柱を育てるか——この問いは、紙媒体の縮小に直面する現在の経営にも通じている。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

秀英舎——書体と活版から総合印刷へ

大日本印刷の源をたどると、1876年10月に佐久間貞一氏らが東京府下京橋区で創業した秀英舎に行き着く。手動印刷機4台の小工場から出発した秀英舎は、活字書体(秀英体)を自前で鋳造し、官公庁の文書や出版物の印刷で地歩を固めた。1886年に市谷加賀町へ第一工場を開き、活版から鋳造・電気版・石版へと設備を広げ、有数の活版印刷会社へ育った。1923年9月の関東大震災では、鉄筋コンクリート造へ建て替えた新工場が軽微な被災にとどまり、同業が操業を止めるなか注文が殺到して飛躍の機会となった[1][2]

大正から昭和初期にかけて、都市の膨張と知識層の増加が新聞・雑誌など定期刊行物の需要を押し上げ、大量印刷の時代が訪れた。秀英舎は1914年にドイツ製の菊判二色刷活版輪転機を、1928年には技術者を欧州へ送ってサダグ原色グラビアの技術を導入し、凸版・平版・凹版の三版式をそろえた総合印刷所へ設備を整えた。もっとも昭和に入ると、初期の恐慌のもとで印刷業界は過当競争と値引き合戦の不振に陥り、一社で需要の波と設備投資の重さを抱えることの難しさが見え始めていた[3][4]

日清印刷——グラビアとオフセットの担い手

一方の日清印刷は1907年に設立され、牛込区榎町に五百余坪の工場を構えて業務を始めた。1927年に田端の市田オフセット印刷所、1928年に入新井の辻本写真工芸社を相次いで買収し、1932年には品川区大崎に分工場を設けてグラビア印刷を手がけた。写真製版を用いるオフセットとグラビアに強みを持つ日清印刷は、活版と書体に厚みのある秀英舎とは設備の性格を異にしていた。両社は同じ総合印刷所でありながら、得意とする版式が補い合う間柄にあった[5]

規模の面でも両社は近接していた。合併の直前、秀英舎は資本金400万円のうち300万円を、日清印刷は資本金200万円のうち125万円を払い込んでおり、いずれも業界の上位を占めていた。需要が膨らむ一方で過当競争が利幅を削るなか、書体と活版の秀英舎、グラビアとオフセットの日清印刷が一社にまとまれば、設備と受注をならして規模の競争を有利に運べる——そうした再編の機運が、震災を経た印刷業界に流れていた[6]

決断

対等合併の調印と資本の合算

1934年11月12日、秀英舎の専務 青木弘氏と日清印刷の専務 平野登美夫氏のあいだで、対等合併の契約書に調印が交わされた。一方が他方を吸収するのではなく、二社を対等の立場で一つに束ねる合併であった。両社の合併による新会社は大日本印刷株式会社と名付けられ、資本金は二社を合算した600万円と定められた。活版・書体の秀英舎と、グラビア・オフセットの日清印刷を、規模でも技術でも並び立たせる枠組みであった[7]

合併で誕生した大日本印刷は、当時の日本の印刷業界で最大規模の会社であった。秀英舎が明治以来つちかった書体と活版に、日清印刷のグラビア・オフセットという写真製版が加わり、凸版・平版・凹版のすべてを一社で担う総合力が整った。合併は資本を合算するだけの再編ではなく、印刷という産業のなかで版式の品ぞろえと生産規模を同時に押し上げる選択であった[8]

新会社の発足と経営体制

合併の実務は年をまたいで進み、大日本印刷は1935年2月26日に臨時株主総会を開いて取締役を選んだ。社長には出版人として知られた増田義一氏が就き、専務には調印にあたった青木弘氏・平野登美夫氏の二人がそろって並んだ。対等合併ゆえに、いずれか一方の経営陣が他方を従える体裁をとらず、両社の代表が経営の中枢を分け合う布陣であった。新会社は総会からほどなく、1935年3月1日に発足した[9]

有価証券報告書の沿革も、この再編を1935年2月に日清印刷を合併して大日本印刷株式会社へ商号を改めた出来事として記す。二社が対等の立場で一社になる合併は、当時の印刷業界では例をみない規模であり、業界の最大手が生まれる再編であった。秀英舎という社名は創業から約60年で幕を下ろし、以後の歩みは大日本印刷、のちに「DNP」と呼ばれる名のもとに続いていく[10]

結果

最大規模がもたらした受注と戦時の試練

合併の効果は業績にすぐ表れた。二社の設備と受注を一本化した大日本印刷は順調に伸び、1936年には国定教科書類の印刷も引き受けた。書体と活版に強い旧秀英舎の系統と、グラビア・オフセットに強い旧日清印刷の系統が、教科書・出版・商業印刷といった需要を幅広く受け止めた。1939年後半期の生産総額は448万余円に達し、会社発足以来の最高を記録した。規模の統合が、受注の裾野を広げていた[11]

しかし1937年7月に始まった日中戦争は、日本を統制経済へ追い込み、印刷業界は用紙の欠乏に見舞われた。定期刊行物の減ページで印刷数量は落ちたものの、大日本印刷は紙の保有が多く、各種印刷の引き受けも増えていたため、比較的堅調に推移した。1941年10月には印刷業界の新体制づくりが進んで日本印刷文化協会が創立され、初代会長には大日本印刷社長の増田義一氏が選ばれた。合併で最大手となった同社は、業界再編のまとめ役も担った[12]

戦後へ引き継がれた生産規模

戦火で榎町・早稲田の工場を失いながらも、主力の市谷工場は戦災を免れ、大日本印刷は戦後の出版ブームに応える供給力を保った。1949年5月には東京証券取引所へ上場して復興期の資本調達の足場を整え、1956年9月には日本精版を合併して大阪工場を発足させ、東京・大阪の二大拠点体制を固めた。1935年の合併でつくった生産規模は、戦後に急拡大する出版・教科書・商業印刷の三つの需要を受け止める土台となった[13][14]

社名の大日本印刷は、1935年の合併から今日まで変わらず受け継がれている。戦後の高度成長期には、この規模を土台に紙器・包装への多角化やエレクトロニクスへの応用研究が広がり、印刷にとどまらない事業の柱が育った。後年に社長を務めた北島織衛氏が掲げた「拡印刷」も、一社に束ねた版式と生産規模があってのものであった。二社の対等合併という選択が、その後の大日本印刷の骨格を形づくった[15]

出典・参考
  • 大日本印刷:世界最大の総合印刷企業(野下三郎 著・朝日ソノラマ・1980年)
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社・1955年)
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968年)
  • 大日本印刷 有価証券報告書【沿革】