豊橋でタケダ理研工業を創業(1954年・アドバンテストの決断)

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論点大企業が手薄な電子計測器で起業するか
大企業が目を向けない電子計測器に集中し、量産と値引きで競う市場を捨てた出発

何をなぜ決めたか:大企業が目を向けない電子計測器に集中し、量産と値引きで競う市場を捨てた出発

概要

1954年12月、電電公社電気通信研究所を4年前に辞めた31歳の武田郁夫氏が、資本金50万円をもって愛知県豊橋市にタケダ理研工業株式会社を設立した。掲げたのは電子計測器の専門メーカーで、微小電流電位計やエレクトロニックカウンタなど実験・研究用の機器を自ら開発して売る方針である。創業当初から先端技術を計測器へ応用することを目標に置き、直流増幅技術を出発点に据えた。この流れに高速パルス技術とコンピュータ応用技術が加わり、1972年の国産初のLSIテストシステムへ届く。

背景

武田氏は1945年9月に日本大学理工学部電気工学科を出て逓信省電気研究所に入所し、1948年に電電公社電気通信研究所へ移ったが、1950年に研究所を離れた。31歳で興した会社は資本金50万円と3人で、量産の設備も既存の販路も持たない。手元にあるのは直流増幅をはじめとする計測の技術だけで、それが値打ちになる商品を探すほかなかった。『昭和29年に私を含めて3人でスタートしたタケダ理研は、今でいう研究開発型企業として、急成長しました。測定器という大企業があまり目を向けない分野で、技術を掘り下げてユニークな商品を生み出し、コストに関係なく高い値段で販売できました』

内容

世の中に他に無い品であれば値段で競う必要はない、という考え方から、コストと無関係に高値を付けた。扱ったのは実験・研究用の電子計測器で、家電メーカーの生産ラインや開発現場から来る小量・多品種の注文に、一台ずつ応じる商売だった。始まりは愛知県豊橋市、資本金50万円、社員3人という最小の規模である。それでも米GE社の副社長が訪れるほど技術を買われ、通産省からは多額の補助金を得ている。

含意

1957年2月に本店を東京都板橋区へ、1959年4月には本部機構と工場を練馬区旭町へ新築移転し、生産と販売を一体にした。1962年に1秒間に9桁を測る周波数カウンタ、1972年には通産省と機械振興協会の補助金を得て国産初のLSIテストシステムを製品化する。

一方、価格競争と無縁の商売は原価計算を必要としなかった。技術で押し切る体質は1967年からのコンピュータ計測への開発投資を累積30億円まで拡大させ、1975年3月期に創業以来初の赤字を招いて、翌1976年2月の富士通による資本参加へつながる。

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考察:商売を捨てた創業が用意したもの
考察

考察:商売を捨てた創業が用意したもの

この創業が選んだのは技術ではなく、技術だけで立つという姿勢である。資本金50万円と3人という規模で、電機の大手が目を向けない測定器へ入り、代替のない商品を高い値段で売る。価格の比べようがない市場に身を置けば、値引きに耐える原価も、商品を押し込む販売力も要らない。零細でありながら米GE社の副社長が訪ねてきたのは、その構えが効いた証拠だと思われる。捨てたのは、既製品の商流に乗る道と、量で稼ぐ道の両方であった。

もっとも、要らなかったはずの経営管理は、20年後に請求書として戻ってくる。1967年から始めたコンピュータ計測への開発投資は累積30億円を超え、石油ショックで需要が消えたとき、機種ごとの採算を把握する仕組みが社内になかった。1975年3月期の初の赤字と、翌年に仰いだ富士通の資本参加は、創業の選択が半導体検査装置という主戦場までは用意した一方で、そこへ辿り着くまで自力で持ちこたえる体力は用意しなかったことを示している。技術で立つ会社が、技術を守るために資本を外部へ委ねる——その筋道は、1954年の出発点にすでに埋め込まれていたのかもしれない。

Yutaka Sugiura, 2026年9月
資本金の推移
参考文献

参考文献

参考
  • アドバンテスト 有価証券報告書 第83期(2025年3月期)【沿革】
  • 証券 35(3)(408)(1983年3月) p32
  • 証券アナリストジャーナル 21(3)(1983年3月)(佐々木甫)
  • 日経ビジネス(1983年5月30日) 武田郁夫・タケダ理研元社長(上)

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