1954年12月、武田郁夫氏は電子計測器専門メーカーとして資本金50万円のタケダ理研工業株式会社を愛知県豊橋市に設立した[1]。武田氏は1945年に日本大学理工学部電気工学科を出て逓信省電気研究所に入り、1948年に電電公社電気通信研究所へ移ったのち1950年に研究所を離れており、創業は31歳のときだった[2]。創業期のタケダ理研が採った戦略は独特で、日立や三菱といった電機大手が目を向けない電子計測器のニッチな市場で技術を掘り下げる選択をし[3]、武田氏は後に商売が下手だったから技術を武器にするしかなかったと自らの経営方針を振り返っている[4]。代替品の存在しない独自製品を価格競争と無縁の高値で販売し、零細企業ながら高い利益率を確保するビジネスモデルは、やがて米GE社の副社長が直接訪ねてくるほどの技術評価を獲得した[5]。
1957年2月にタケダ理研は本店を東京都板橋区に移転し[6]、1959年4月には練馬区旭町へ本部機構と工場を新築移転して[7]生産と販売の一体的な体制を整えた。1962年には1秒間に9桁の周波数を測れる周波数カウンタを世に出して高い評価を得ている[8]。1967年から68年にかけて武田氏はコンピュータ計測事業部を発足させ、測定とは人間にとっての科学情報の認識であるというコンセプトを掲げ、単品からシステムへ移るという社内標語のもとでコンピュータ計測システムへの開発投資を本格化した[9]。当時は国産ミニコンピュータに実用に耐えるものがなく輸入も禁じられていたため、タケダ理研は業界有志を募って通産省の後ろ盾で日本ミニコン(現在の日本データゼネラル)を興し、発足時の人員の九割を自社の技術者で送り込んでいる[10]。
技術で押し切る経営は、資金を出す側との対話を欠いたまま進んだ。武田氏はメインバンクの第一勧業銀行に経営を見る人材の派遣を求めたが、最初の出向者は在庫管理の失敗を強く叱責されたことで二年の任期を終えると銀行へ戻ってしまう[11]。次に迎え入れた銀行退職者のT常務にいたっては、メーカーの原価計算さえできなかったと武田氏自身が述懐する人物だった[12]。原価計算という製造業の基本すら社内に根づかないまま開発投資だけが積み上がる体質が固まっていったが、代替品のないニッチ製品で稼ぐビジネスモデルが通用するうちは、経営管理の空白が決定的な問題として表面化することはなかった[13]。
1972年、タケダ理研は通産省と機械振興協会の補助金により、4年の研究を経て国産初のLSIテストシステム「T320」を製品化した[14]。半導体試験装置そのものの開発着手は1970年で、1972年には世界に先がけて10メガヘルツで試験できるテストシステムを商品化したと後年の社長は語っている[15]。電卓やカラーテレビに使われるICの検査需要を取り込み、計測器メーカーから半導体検査装置メーカーへの転換の足がかりを得たものの、1973年のオイルショックをきっかけに日本の半導体産業全体の設備投資が冷え込んだ。1975年3月期には売上高80億円弱に対して約1億円という創業以来初の赤字を計上し、手形割引を含む借入金は50億円を超え、売上高に対する金利負担率は5%近くに達していた[16]。
1967年頃から積み上げた累積30億円超の研究開発投資は、武田氏の目には研究開発型企業の含み資産と映っていたが、銀行にはそう見えなかった[17]。1974年秋に初赤字の見通しが立つと武田氏は救済先を探し、親戚だった豊田工機の富田環社長を介してトヨタ自工副社長の豊田章一郎氏に会い、同じく親戚の岩月達夫日本電装会長に頼んで富士通へ話を通してもらった[18]。だが救済の道筋がつくのと前後して、当時92%の株式を握るオーナーだった武田氏は1975年6月に社長を退いて会長へ回る[19]。武田氏自身はこれを銀行による乗っ取りではなく、銀行の乗っ取りに見せかけてカモフラージュされた社内クーデターだったと述べており、首謀者はほかならぬ銀行出身のT常務だったという[20]。武田氏は1978年8月に会長職からも退いた[21]。
創業者の武田氏は窮余の策として、逓信省の研究所時代の元上司であった清宮博氏に対し、会社存続のための救済を直接要請する異例の行動に踏み切った[22]。清宮博社長は当時富士通の社長という立場にあり、慢性疾患の悪化で長期療養中という状況のなかで、富士通社内の強い反対を自ら調整したうえでタケダ理研への救済出資を決断した。清宮博社長は救済決定後に武田氏を自らの病床に呼び寄せて「いろいろ大変だったよ」と短く語りかけたと記録されており、翌1976年4月に清宮博社長は逝去した。文字通り死に至る病床での決断が、タケダ理研の存続を担保した瞬間であり、かつての上司と部下のあいだに通う情義が、電機大手の経営判断を一社員の個人的信頼で動かす異例の救済へと至った場面でもあった。
1976年2月、富士通がタケダ理研へ資本参加して再建に着手し、1977年には富士通から迎えた海輪利正氏が三代目社長に就任した[23]。海輪社長が再建の第一歩として突き当たったのは、タケダ理研には原価計算が存在しないという致命的な事実であり、機種ごとの採算がまったく把握されていない経営管理の空白を埋めることが最初の課題となった。海輪社長は機種別の原価管理を導入し、営業人員の現場判断での値引きを原則として禁止するなど経営の基本インフラを一つひとつ整え、並行してミニコンピュータ計測器事業から撤退する選択と集中の決断を経て、ICテスタ事業への経営資源の集中投資を断行した。第一次石油ショックで悪化した業績は富士通と第一勧業銀行の支援によって立て直されたと、四代目社長は後に講演で説明している[24]。
ICテスタ事業への経営資源の集中投資が生んだ成果は数字にはっきりと表れ、売上高に占める新製品比率は1976年の4%から1981年には45%へと伸びた。1979年には電電公社武蔵野電気通信研究所の指導を受けて世界最高性能の100MHz超LSIテストシステムを製品化し、これが以後の同社の技術の基礎になった[25]。1981年時点のLSIテストシステム世界市場では首位のフェアチャイルドが25.8%、二位のテラダインが17%を占め、タケダ理研は11.4%の三位だったが、メモリーテストシステムに限れば25.5%で世界首位に立っていた[26]。売上高は1978年度83億円から1982年度予想255億円へ五年で三倍になり、この間も新機種開発に毎年売上高の約10%を充てる方針が貫かれた[27]。
1983年2月9日、タケダ理研は東京証券取引所市場第二部に株式を上場した[28]。買い注文が多すぎて八日目まで値がつかず、ようやくついた初値6350円は、それまで新規上場株の最高だったコンピューターサービスの5300円を大きく上回った[29]。上場時の大株主は富士通28.00%を筆頭に兼松江商10.80%、東京リース8.00%と続き、創業者の武田氏は5.68%にとどまって[30]、タケダ理研は富士通の指揮系統下にある企業として新しい歩みを始めた。1985年10月には商号を株式会社アドバンテストに変更し[31]、1993年にはアジア市場重視の経営方針を宣言して韓国・台湾市場への販路を拡大、1996年には半導体検査装置の世界シェア約40%を確保するに至った[32]。
上場後のアドバンテストは、国内の同業に先んじて海外に販売網を敷いた。1988年時点で米国に十の営業拠点とソフトウェア研究開発の現地法人を置き、欧州では英国と西独に現地法人、オランダとフランスに支店を構え、アジアではシンガポールに現地法人、韓国では同和グループとの合弁会社を設けて、いずれにも販売とサービスの両機能を持たせていた[33]。輸出比率は1988年9月中間期に27%へ二ポイント上昇し、仕向地は米国が七割弱、残る二割強を西独とNIESが占めた[34]。研究開発には売上高の10%前後を毎年投じる方針を維持し、川崎のCEセンタを軸に全国二十か所以上のサービスステーションを海外拠点とも直結させる保守体制を敷いた[35]。
1980年代の高成長は、半導体産業のシリコンサイクルにそのままさらされる構造でもあった。1991年3月期は売上高815億円と過去最高を記録しながら経常利益は116億円にとどまり、前々回のピークにあたる1984年度の170億円の七割弱まで落ちている[36]。テスター部門が売上の八割を占め、そのうちソフトウェアなど関連製品はわずか3%弱という単体依存の収益構造[37]に対し、同社は1992年、検査工程そのものを自動化・集中管理する「CITEX」を投入した。テスターだけでは生き残れない時代がきており、事業を一台ごとのテスターから検査工程全体へ広げると大浦溥社長は語った[38]。
同じ時期、大浦社長は不況期でも黒字を確保できる体質への転換に着手していた。1991年8月に管理職へ緊急対策のメールを出して旗を振り、事業部ごとに経理部門と財務諸表を持たせる事業部制を導入し、賃借していた本社事務所の三分の一を返し、半導体検査装置の機種を3000から1000へ絞り込み、生産ラインと営業所の統廃合を米国やフランスでも実行した[39]。バブル期に小樽へ設けた四万三千坪の研究所も、仙台の研究所との統合を名目に閉鎖・売却している[40]。1993年にはROI重視を宣言したが、社内の反応はきょとんとしたものだったと本人は振り返る[41]。親会社に頼らず世界中の半導体メーカーと取引する方針のもと、1990年代半ばにはNECへ、1992年頃から足を運んだ米IBMへと販路を広げた[42]。
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|---|---|---|---|---|
| 1954〜1975年研究開発型ベンチャーの創業と限界が生んだ転換点 | タケダ理研工業を設立 | ★ | ||
| 本社移転 | ★ | |||
| ミニコンピュータによる計測器の開発に投資 | ★ | |||
| 国産初のICテスタ「T320」を発売 | ★★ | |||
| コンピュータ計測事業で失敗・最終赤字に転落 | ★★ | |||
| 武田郁夫氏が社長を退任し会長へ(社内クーデター) | ★★ | |||
| 1976〜1996年富士通による救済と再建、ICテスタ専業化への集中 | タケダ理研工業への富士通の救済出資とICテスタ集中による再建 1976年、オイルショック後の赤字と創業者の失脚で存続が危うくなったタケダ理研工業に対し、富士通社長の清宮博氏が救済出資を決め、海輪利正氏を社長として送り込んだ経営判断。研究開発に傾いた経営を立て直し、ミニコン計測器から手を引いてICテスタへ集中し、1983年2月の東京証券取引所第2部上場で再建を区切った。 詳細を読む | ★★★ | ||
| LSI向け検査装置「100MHzテストシステム」を開発 | ★ | |||
| Advantest America, Inc.を米国に設立 | ★ | |||
| 東京証券取引所第2部に上場・再建完了 | ★ | |||
| Advantest Europe GmbHをドイツに設立 | ★ | |||
| 群馬工場を新設 | ★ | |||
| 商号をアドバンテストに変更 | ★ | |||
| Advantest Taiwan Inc.を台湾に設立 | ★ | |||
| アジア市場の重視を宣言 | ★ | |||
| 半導体検査装置で世界シェア約40% | ★ | |||
| 群馬R&Dセンターを新設 | ★ | |||
| 1997〜2022年半導体サイクルに翻弄される世界首位と独立経営への移行 | 丸山利雄 | ニューヨーク証券取引所(NYSE)に上場 | ★ | |
| 丸山利雄 | 北九州R&Dセンターを新設 | ★ | ||
| 丸山利雄 | 市況悪化により赤字転落 | ★★ | ||
| 松野晴夫 | アドバンテストマニュファクチャリング・カスタマサポートを吸収合併 | ★ | ||
| 松野晴夫 | Verigy買収によるSoCテスタの取り込み──メモリからSoCへ、テスタ世界首位の確立 2011年、アドバンテストが松野晴夫社長のもとで、非メモリ(SoC)向けテスタに強みを持つシンガポールのVerigyを1株15米ドル・総額約11億米ドル(約909億円)で買収し、同年7月に完全子会社化した経営判断。メモリテスタで世界の先頭を走りながら弱かった非メモリ領域をVerigyの技術と欧米顧客網で補い、二つの分野を自社の内側で束ねた。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 松野晴夫 | 3期連続の赤字転落 | ★ | ||
| 吉田芳明 | 富士通の全株売却による資本関係の解消と独立経営への移行 2017年11月、富士通が退職給付信託を通じて保有するアドバンテスト株の全て(議決権ベースで第2位の11.35%、約2,014万株)を約530億円で売却し、1976年の救済出資以来およそ40年続いた両社の資本関係が終わった。アドバンテストは特定の親会社を持たない独立経営へ移り、資本の使い道を自ら決める立場を得た。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 吉田芳明 | 本社を移転 | ★ | ||
| 吉田芳明 | 東京証券取引所プライム市場に移行 | ★ | ||
| 吉田芳明 | 市況好転により過去最高益を達成 | ★ | ||
| 津久井幸一 | AI・HBMテスト需要ブームへの先行投資と過去最高益 2024年4月に発足した津久井幸一社長・ダグラス・ラフィーバGroup CEOの新体制が、生成AI向けの高性能半導体とHBMの検査需要を取り込むため、テスタの生産能力と研究開発への先行投資を続けた経営判断。世界の最上位に立つテスタメーカーとして、2025年3月期に売上高7,797億円、2026年3月期には初めて1兆円を超える1兆1,286億円、営業利益4,991億円と、業績を数倍規模へ拡大させた。 詳細を読む | ★★★ |
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事実根拠:出所(アドバンテスト)