東京エレクトロン の歴史

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創業 1963年
母体 TBS
創業地 東京都港区
創業
1963年11月、日商(後の日商岩井)を退職した久保徳雄氏が東京放送から資本金500万円の出資を受け、東京都港区に東京エレクトロン研究所を設立した。当初の業務はVTRやカーラジオの輸出と電子機器の輸入で、社員は数名にすぎない。翌1964年5月に日商で半導体製造装置の輸入販売を担当していた小高敏夫氏が合流し、同年10月には総合商社との競り合いを制してフェアチャイルド社の総代理店となった。ICテスター第1号機の代金4,000万円は東京放送の債務保証による銀行借入で支払い、日本電気へ納入している。放送局の出資で独立した当時の国内では、ICの実用化そのものが否定的に見られていた。
決断
儲かる商品の条件を先に決め、それに合わない事業から降りてきた。1974年9月期は売上の6割を占めた輸出部門が約3億円の赤字を出し、同年12月に小高敏夫氏は扱う商品を選ぶ7つの条件を社内へ示した。市場が伸びること、大メーカーの主力製品でないこと、他社が容易に参入できないこと、代金回収の心配がない一流企業へ売れること、多額の資金が要らないこと、値崩れしないこと、付加価値と利益率が高いこと。カーラジオも電卓もこの条件から外れており、1978年までに消費財の輸出販売を打ち切った。輸出高は1977年9月期の90億円から翌期28億円へ落ち、1979年9月期にゼロとなった。売上の過半を手放したことが、IC製造装置へ資源を集中する余地を作った。
現況
単一セグメントの装置メーカーとして、売上の9割を日本の外で稼いでいる。2026年3月期の売上高2兆4,435億円の地域別内訳は中国8,326億円・韓国5,439億円・台湾4,999億円で、日本は2,394億円にとどまる。この顧客地図は1994年に代理店経由の海外販売を直販へ全面転換したことから始まった。米国シェアは1995年末の8%から1999年末に34%へ上がり、売上高に占める自社製品の比率も1994年3月期の55.8%から2000年3月期の94.9%へ上昇して、商社から装置メーカーへの移行が完了する。生成AI向けの先端ロジックとHBM用DRAMの需要が2025年3月期以降の伸びを支え、営業利益6,249億円・営業利益率25.6%を残した。
競合
首位企業と一つになる道が閉じたあと、単独で製品の幅を広げてきた。2013年に世界首位のアプライドマテリアルズとの経営統合で合意したものの、米司法省は両社共通の是正提案では統合で失われる競争を代替できないと判断し、2015年に統合は解消された。規模で並ぶ選択肢が消えた後は工程ごとの地位を積み上げ、絶縁膜エッチングの世界シェアはCY2024に60%へ達した。露光装置を持たない点でASMLとも後工程へ回ったニコンとも競合せず、前工程の周辺を面で押さえている。後工程でもHBM向けテンポラリーボンダー/デボンダーの売上が2025年3月期に300億円と2年前の約3倍になり、装置の種類を増やすことが規模の代わりを果たした。
東京エレクトロン:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
1997年3月期2026年3月期

設立ストーリー IC産業の仕掛人として商社からメーカーへの転換期 (1963年〜)

東京放送の500万円と、IC製造装置の代理権

1963年11月、日商(現・日商岩井)の社員だった久保徳雄氏は同社を辞め、東京放送から500万円の出資を受けて[1]、東京都港区に東京エレクトロン研究所を設立[2]した。久保氏は後年、理想の会社をつくりたいという夢を抱いて[3]商社から独立したと述べ、総合商社のなかで上から信頼してもらえず、やる気が出なかった経験がその下敷きにあったと明かしている。社名に『研究所』と付けたのは、ただの商社ではなく製造に近寄った形の技術サービス[4]が必要になると考えたからである。当初の業務はVTRやカーラジオの輸出と電子機器関係の輸入[5]で、社員は数名にすぎなかった。翌1964年5月、日商で半導体製造装置の輸入販売を担当していた小高敏夫氏が合流した[6]。小高氏は、その仕事が総合商社の体質に合わないビジネスだと痛感[7]し、新しい会社で自分の考える理想的なやり方を試すつもりでいた。

  • 異端の男とその一族 火の玉集団・東京エレクトロンの奇跡(1982年4月)
    • [1]久保は必死に金ヅルを探し、遂に東京放送という絶好の金ヅルをさがし当て、500万円の資金を引き出すことに成功した
    • [6]小高敏夫が正式に東京エレクトロンに入社したのは、創立から半年後の1964年5月であった
    • [7]小高は日商において主として半導体製造装置の輸入販売を担当し、その仕事が総合商社の体質に合わないビジネスであることを痛感していた
  • 東京エレクトロン 有価証券報告書【沿革】
    • [2]1963年11月 ㈱東京放送の関係会社として東京都港区に㈱東京エレクトロン研究所を設立(資本金5百万円)
    • [5]1963年11月 VTR、カーラジオ等の輸出及び電子機器関係の輸入業務を開始
  • 日経ビジネス 1991年3月18日号
    • [3]久保徳雄氏「理想的な会社をつくりたい。こんな夢を抱いて商社から独立、3〜4人の仲間と東京エレクトロンを設立したのが1963年の11月です」
  • 証券アナリストジャーナル 1980年7月号
    • [4]久保徳雄社長「『研究所』としたのは、ただの商社ではなく製造に近寄った形の技術サービスが必要になるのではないかと考えたからである」

小高氏は入社の1週間後に渡米し、1964年5月末にサームコ社の拡散炉[8]の輸入販売を始めた。創立1年目の同社は東京放送本館内に10坪ほどの事務所[9]を借りるにすぎなかったが、同年10月[10]、総合商社との競り合いに勝って[11]フェアチャイルド社の総代理店となった。ICテスターの第1号機は代金4000万円を東京放送の債務保証[12]による銀行借入で支払い、日本電気に納入した。1963年から1964年にかけての日本では、ICの実用化について否定的な見方[13]が圧倒的に多かった。小高氏は日本電気・日立製作所・東芝・富士通を回ってICの将来性を説き、各社の開発責任者に同行して[14]フェアチャイルド社のIC工場を案内した。1974年9月の社報で小高氏は、大型テスターを日本で約180台納入[15]し、日本市場のシェアは1位だと報告した。

  • 異端の男とその一族 火の玉集団・東京エレクトロンの奇跡(1982年4月)
    • [8]小高敏夫は入社1週間後に渡米し、1964年5月末にサームコ社の拡散炉の輸入販売を開始した
    • [10]努力が実を結び、10月に入って代理店契約に関する合意が成立した。すぐに久保がシリコンバレーのフェアチャイルド社へ飛び、サインを終えた
    • [12]一年後、待望のICテスター第一号機が入荷した。代金4,000万円も、東京放送の債務保証による銀行借入で無事に支払いを済ませた
    • [13]38年から39年にかけての日本では、まだICの実用化については否定的な見方が圧倒的に多かった
    • [14]各社ごとに、その都度小高自身が同行してフェアチャイルド社を訪ねた
    • [15]四九年九月の社報で、大型テスターを日本で約180台納入し、日本市場のシェアは1位であると報告した
  • 日経ビジネス 1984年4月26日号
    • [9]創立1年目、まだTBS本館内に10坪程の事務所を借りていた当時
    • [11]TELは総合商社との競り合いに勝ち、米国フェアチャイルド(FC)の総代理店となった
  • 異端の男とその一族 火の玉集団・東京エレクトロンの奇跡(1982年4月)
    • [1]久保は必死に金ヅルを探し、遂に東京放送という絶好の金ヅルをさがし当て、500万円の資金を引き出すことに成功した
    • [6]小高敏夫が正式に東京エレクトロンに入社したのは、創立から半年後の1964年5月であった
    • [7]小高は日商において主として半導体製造装置の輸入販売を担当し、その仕事が総合商社の体質に合わないビジネスであることを痛感していた
    • [8]小高敏夫は入社1週間後に渡米し、1964年5月末にサームコ社の拡散炉の輸入販売を開始した
    • [10]努力が実を結び、10月に入って代理店契約に関する合意が成立した。すぐに久保がシリコンバレーのフェアチャイルド社へ飛び、サインを終えた
    • [12]一年後、待望のICテスター第一号機が入荷した。代金4,000万円も、東京放送の債務保証による銀行借入で無事に支払いを済ませた
    • [13]38年から39年にかけての日本では、まだICの実用化については否定的な見方が圧倒的に多かった
    • [14]各社ごとに、その都度小高自身が同行してフェアチャイルド社を訪ねた
    • [15]四九年九月の社報で、大型テスターを日本で約180台納入し、日本市場のシェアは1位であると報告した
  • 東京エレクトロン 有価証券報告書【沿革】
    • [2]1963年11月 ㈱東京放送の関係会社として東京都港区に㈱東京エレクトロン研究所を設立(資本金5百万円)
    • [5]1963年11月 VTR、カーラジオ等の輸出及び電子機器関係の輸入業務を開始
  • 日経ビジネス 1991年3月18日号
    • [3]久保徳雄氏「理想的な会社をつくりたい。こんな夢を抱いて商社から独立、3〜4人の仲間と東京エレクトロンを設立したのが1963年の11月です」
  • 証券アナリストジャーナル 1980年7月号
    • [4]久保徳雄社長「『研究所』としたのは、ただの商社ではなく製造に近寄った形の技術サービスが必要になるのではないかと考えたからである」
  • 日経ビジネス 1984年4月26日号
    • [9]創立1年目、まだTBS本館内に10坪程の事務所を借りていた当時
    • [11]TELは総合商社との競り合いに勝ち、米国フェアチャイルド(FC)の総代理店となった

消費財輸出からの全面撤退と、7条件による商品選別

1971年8月のニクソン・ショックに続く変動相場制[16]への移行で、同社は利益が半減した。1973年の石油ショックが重なり、1974年9月期は売上の6割を占めた輸出部門が約3億円の赤字[17]を出した。小高氏は同年12月の社報で、経常利益が前期の3億3000万円から2億円へ減り[18]、その原因が輸出部門の赤字にあると社内へ報告した。利益では輸入部門が約5億円を稼いでいた[19]。小高氏は、カーステレオでは松下通信工業が生産を本格化させる[20]など大手が相次いで参入し、技術と商品の差はほとんどなく中小企業では太刀打ちできなかったとふり返った。輸出商品はすべて欧米企業のブランドで売るOEM[21]で、最終消費者の動向がつかめず、米国から突然注文が打ち切られると在庫の山ができた。完全撤退に最も強く反対した常務1人が辞任し、ほかに2人も独立などの別の理由[22]で去った後、1974年11月に久保徳雄社長・小高専務の体制が発足[23]した。

  • 異端の男とその一族 火の玉集団・東京エレクトロンの奇跡(1982年4月)
    • [16]1971年8月のニクソン・ショックから12月のスミソニアン会議を経て国際通貨は変動相場制へ移行し、東京エレクトロンもドル・ショックで利益半減に見舞われた
    • [17]約200億円の売上げのうち、6割を輸出部門が占め…輸出部門で約3億円の赤字が出ていたことになる
    • [18]1974年12月の社報で小高は、1974年9月期に経常利益が前年の3億3000万円から2億円に減少した事実と、その減益の原因が輸出部門の赤字にあったことを報告した
    • [19]利益では、輸入部門がなんと約5億円もかせいでいた
    • [22]最も強く完全撤退に反対していた常務一人が辞任し、ほかに二人が独立などの別の理由で去って行った
    • [23]1974年11月、久保社長・小高専務体制がスタートした
  • 日経ビジネス 1982年5月31日号(小高敏夫社長インタビュー)
    • [20]小高敏夫社長「カーステレオでは松下通信工業が生産を本格化させるなど、大手がこぞって進出して来た。技術、商品面の差はほとんどない。これじゃ、ウチのような中小企業は太刀打ちできない」
    • [21]小高敏夫社長「当社の輸出商品はすべて欧米企業のブランドで売るOEMでした。だから、最終消費者の動向が我々にはよくわからんのです。で、突然米国から注文の打ち切りがくると、在庫の山ができる」

1974年12月の社報で[24]、小高氏は不採算部門の思い切った縮小と廃止を打ち出し、扱う商品を選ぶ7つの条件[25]を並べた。市場がこれから伸びること、競争相手が少なく大メーカーの主力製品でないこと[26]、他社が容易に参入できないこと、販売先が一流会社で代金回収の心配がないこと、扱うのに多額の資金が要らないこと、在庫している間に値崩れしないこと[27]、付加価値と利益率が高いこと。カーラジオ・カーステレオ・電卓の輸出は、この7条件から明らかに外れていた[28]。撤退は段階的に進み、電卓の輸出販売を1976年9月に[29]、カーステレオとトランシーバーの輸出販売を1978年9月に打ち切った。輸出高は1977年9月期の90億円から翌期は28億円[30]に減り、1979年9月期にゼロとなった。久保徳雄社長は、これらの市場が急拡大するなかで大きな販売網と資金がなければ競争に勝てない[31]と知って撤退したと語った。

  • 異端の男とその一族 火の玉集団・東京エレクトロンの奇跡(1982年4月)
    • [24]1974年12月の社報に「明日の飛躍のために」と題する小高の文章が掲載され、不採算部門については思い切った縮小なり廃止を考えたいと打ち出した
    • [25]小高が社報で示した、なにを扱うかを判断するための7項目
    • [26](1)マーケットが今から大きくなる分野の製品(2)その製品について競争相手が少ないこと。とくに大メーカーの主力製品でないこと(3)他社が容易に参入できない製品(4)販売先が一流会社であり、代金回収についての心配がない製品であること
    • [27](5)取り扱うのにあまり金がかからぬ製品であること(6)製品が在庫している間に値崩れしないこと(7)付加価値の高い、利益率の高い製品であること
    • [28]カーラジオ、カーステレオ、電卓などの耐久消費財の輸出は、社報に書かれた七条件からは明らかに外れていた
  • 証券 1980年6月号 32(6)(375)
    • [29]電卓の輸出販売については国内大手メーカーのマスプロ製品におされ1976年9月に撤退し、カーステレオ、トランシーバーの輸出販売についても1978年9月に至り全面的に撤退している
  • 証券アナリストジャーナル 1980年7月号
    • [30]久保徳雄社長「1977年9月期に90億円あった輸出が、1978年9月期には28億円に減り、1979年9月期にはなくなった」
    • [31]久保徳雄社長「当社は電卓、CB、カー・ステレオなどの輸出をかなりの期間手がけたが、これらの市場が急拡大するに及び、大きな販売網と資金がないと競争に勝てないことを知って、撤退したのである」
  • 異端の男とその一族 火の玉集団・東京エレクトロンの奇跡(1982年4月)
    • [16]1971年8月のニクソン・ショックから12月のスミソニアン会議を経て国際通貨は変動相場制へ移行し、東京エレクトロンもドル・ショックで利益半減に見舞われた
    • [17]約200億円の売上げのうち、6割を輸出部門が占め…輸出部門で約3億円の赤字が出ていたことになる
    • [18]1974年12月の社報で小高は、1974年9月期に経常利益が前年の3億3000万円から2億円に減少した事実と、その減益の原因が輸出部門の赤字にあったことを報告した
    • [19]利益では、輸入部門がなんと約5億円もかせいでいた
    • [22]最も強く完全撤退に反対していた常務一人が辞任し、ほかに二人が独立などの別の理由で去って行った
    • [23]1974年11月、久保社長・小高専務体制がスタートした
    • [24]1974年12月の社報に「明日の飛躍のために」と題する小高の文章が掲載され、不採算部門については思い切った縮小なり廃止を考えたいと打ち出した
    • [25]小高が社報で示した、なにを扱うかを判断するための7項目
    • [26](1)マーケットが今から大きくなる分野の製品(2)その製品について競争相手が少ないこと。とくに大メーカーの主力製品でないこと(3)他社が容易に参入できない製品(4)販売先が一流会社であり、代金回収についての心配がない製品であること
    • [27](5)取り扱うのにあまり金がかからぬ製品であること(6)製品が在庫している間に値崩れしないこと(7)付加価値の高い、利益率の高い製品であること
    • [28]カーラジオ、カーステレオ、電卓などの耐久消費財の輸出は、社報に書かれた七条件からは明らかに外れていた
  • 日経ビジネス 1982年5月31日号(小高敏夫社長インタビュー)
    • [20]小高敏夫社長「カーステレオでは松下通信工業が生産を本格化させるなど、大手がこぞって進出して来た。技術、商品面の差はほとんどない。これじゃ、ウチのような中小企業は太刀打ちできない」
    • [21]小高敏夫社長「当社の輸出商品はすべて欧米企業のブランドで売るOEMでした。だから、最終消費者の動向が我々にはよくわからんのです。で、突然米国から注文の打ち切りがくると、在庫の山ができる」
  • 証券 1980年6月号 32(6)(375)
    • [29]電卓の輸出販売については国内大手メーカーのマスプロ製品におされ1976年9月に撤退し、カーステレオ、トランシーバーの輸出販売についても1978年9月に至り全面的に撤退している
  • 証券アナリストジャーナル 1980年7月号
    • [30]久保徳雄社長「1977年9月期に90億円あった輸出が、1978年9月期には28億円に減り、1979年9月期にはなくなった」
    • [31]久保徳雄社長「当社は電卓、CB、カー・ステレオなどの輸出をかなりの期間手がけたが、これらの市場が急拡大するに及び、大きな販売網と資金がないと競争に勝てないことを知って、撤退したのである」

商社とメーカーを兼ねた業態からメーカーへの移行

1979年9月期の取扱製品は輸入品が約75%を占め[32]、子会社テルメックのプローバーと、サームコ社との合弁テル・サームコの拡散炉が全体の20%強[33]を占めた。テル・サームコを1968年に横浜へ設立[34]して以来、拡散炉は国産。売上高の25%を関連会社が自社生産した製品[35]が占め、輸入したシステムについても顧客の要望に応じた手直しやソフトウェアの開発という、製造メーカーの領域の仕事を担った[36]。これらの製品はアフターサービスに高度な技術力を要して能力開発への投資も大きく、経常利益率は商社型よりメーカー型に近くなる[37]久保徳雄社長は説明した。1978年10月に社名を東京エレクトロン株式会社へ改め[38]、1980年6月に東京証券取引所市場第二部へ上場[39]した。1980年度の半導体製造機器の国内市場約1000億円のうち同社は約25%[40]を占めて首位に立ち、拡散炉・高圧酸化炉・減圧CVD炉の3品目は国内シェアがそれぞれ70%[41]に達した。

  • 証券 1980年6月号 32(6)(375)
    • [32]1979年9月期の取扱製品は輸入品が約75%を占めた
    • [33]子会社テルメックのプローバーと合弁テル・サームコの拡散炉が全体の20%強を占めた
  • 異端の男とその一族 火の玉集団・東京エレクトロンの奇跡(1982年4月)
    • [34]1968年、サームコ社との合弁でテル・サームコを横浜に設立し、拡散炉の国産化に踏み切った
    • [40]1980年度の半導体製造機器の国内市場は約1000億円で、東京エレクトロンは約25%を占めて首位に立った
    • [41]拡散炉・高圧酸化炉・減圧CVD炉の3品目は国内シェアがそれぞれ約70%に達した(1980年度)
  • 証券アナリストジャーナル 1980年7月号
    • [35]久保徳雄社長「売上高の25%は関連会社が自社生産した製品である」
    • [36]久保徳雄社長「輸入販売しているシステム製品についても顧客の要望に応じて手直しをしたり、ソフト・ウエアの開発を行うなど、本来製造メーカーの領域に属する仕事を行う能力を持っている」
    • [37]久保徳雄社長「これらのシステム製品群はアフター・サービスについても高度の技術力が必要である。このため能力開発のための投資も大きく、経常利益率は従来の『商社型』よりむしろ『メーカー型』に近くなる」
    • [38]1978年10月に社名を東京エレクトロン株式会社へ改めた
  • 東京エレクトロン 有価証券報告書【沿革】
    • [39]1980年6月 東京証券取引所市場第二部上場

1983年に熊本へ初の自社工場[42]を建て、1984年2月にIC製造装置メーカーのテルメックを吸収合併し[43]、同年3月に東証第一部へ指定替え[44]となった。小高敏夫社長は一部昇格と同時に業種区分を商社から電機へ変えるよう求めた[45]が、認められなかった。1985年9月期に1501億円[46]まで伸びた売上高は、半導体不況で翌1986年9月期に843億円へ落ち[47]、営業利益は創業以来初の赤字[48]となった。1986年10月に吉田稔社長が辞任[49]し、2年前に会長へ退いていた小高氏が社長に復帰した。解任動議が出されたという証言[50]も流れた。内製化はその後も続き、1988年2月にテル・サームコの全株式を取得[51]し、1993年4月には東京エレクトロン相模と東京エレクトロン東北を合併[52]した。

  • 日経ビジネス 1984年4月26日号
    • [42]1983年、熊本に初の自社工場を建設した
    • [43]1984年2月、IC製造装置メーカーのテルメックを吸収合併した
    • [45]小高敏夫社長は一部昇格と同時に業種区分を商社から電機へ変えるよう求めたが、認められなかった
  • 東京エレクトロン 有価証券報告書【沿革】
    • [44]1984年3月 東京証券取引所市場第一部へ指定替え
    • [52]1993年4月 東京エレクトロン相模㈱(1968年2月設立、旧テル・サームコ㈱)と東京エレクトロン東北㈱を合併
  • 証券調査(241)
    • [46]1985年9月期 売上高1501億円
    • [47]1986年9月期 売上高843億円
  • 日経ビジネス 1987年2月2日号
    • [48]1986年9月期に営業利益で創業以来初の赤字を計上した
    • [49]1986年10月、吉田稔社長が辞任し、小高敏夫が社長に復帰した
    • [50]「8月に緊急役員会が開かれ、吉田社長の解任動議が出された」(東エレクに近い関係者)という証言もある。直接の当事者が沈黙を守っているため、真相は藪の中
  • 東京エレクトロン 有価証券報告書(過年度)
    • [51]1988/2 テル・サームコ株式会社(1968年2月設立)の全株式を取得し、テル相模株式会社とする
  • 証券 1980年6月号 32(6)(375)
    • [32]1979年9月期の取扱製品は輸入品が約75%を占めた
    • [33]子会社テルメックのプローバーと合弁テル・サームコの拡散炉が全体の20%強を占めた
  • 異端の男とその一族 火の玉集団・東京エレクトロンの奇跡(1982年4月)
    • [34]1968年、サームコ社との合弁でテル・サームコを横浜に設立し、拡散炉の国産化に踏み切った
    • [40]1980年度の半導体製造機器の国内市場は約1000億円で、東京エレクトロンは約25%を占めて首位に立った
    • [41]拡散炉・高圧酸化炉・減圧CVD炉の3品目は国内シェアがそれぞれ約70%に達した(1980年度)
  • 証券アナリストジャーナル 1980年7月号
    • [35]久保徳雄社長「売上高の25%は関連会社が自社生産した製品である」
    • [36]久保徳雄社長「輸入販売しているシステム製品についても顧客の要望に応じて手直しをしたり、ソフト・ウエアの開発を行うなど、本来製造メーカーの領域に属する仕事を行う能力を持っている」
    • [37]久保徳雄社長「これらのシステム製品群はアフター・サービスについても高度の技術力が必要である。このため能力開発のための投資も大きく、経常利益率は従来の『商社型』よりむしろ『メーカー型』に近くなる」
    • [38]1978年10月に社名を東京エレクトロン株式会社へ改めた
  • 東京エレクトロン 有価証券報告書【沿革】
    • [39]1980年6月 東京証券取引所市場第二部上場
    • [44]1984年3月 東京証券取引所市場第一部へ指定替え
    • [52]1993年4月 東京エレクトロン相模㈱(1968年2月設立、旧テル・サームコ㈱)と東京エレクトロン東北㈱を合併
  • 日経ビジネス 1984年4月26日号
    • [42]1983年、熊本に初の自社工場を建設した
    • [43]1984年2月、IC製造装置メーカーのテルメックを吸収合併した
    • [45]小高敏夫社長は一部昇格と同時に業種区分を商社から電機へ変えるよう求めたが、認められなかった
  • 証券調査(241)
    • [46]1985年9月期 売上高1501億円
    • [47]1986年9月期 売上高843億円
  • 日経ビジネス 1987年2月2日号
    • [48]1986年9月期に営業利益で創業以来初の赤字を計上した
    • [49]1986年10月、吉田稔社長が辞任し、小高敏夫が社長に復帰した
    • [50]「8月に緊急役員会が開かれ、吉田社長の解任動議が出された」(東エレクに近い関係者)という証言もある。直接の当事者が沈黙を守っているため、真相は藪の中
  • 東京エレクトロン 有価証券報告書(過年度)
    • [51]1988/2 テル・サームコ株式会社(1968年2月設立)の全株式を取得し、テル相模株式会社とする

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東京エレクトロンの沿革1963〜2025年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1963〜1993年IC産業の仕掛人として商社からメーカーへの転換期東京放送の出資を得た創業

1963年11月、日商(現・双日)を辞めた久保徳雄氏が、盟友の小高敏夫氏とともに東京エレクトロン研究所を設立した経営判断。まとまった資金を持たない久保氏は、東京放送(TBS)から資本金500万円の出資を引き出し、当時まだ実用化に懐疑的だったIC(集積回路)の製造装置という最先端領域を事業ドメインに選んだ。

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サームコ社と代理店契約を締結し拡散炉の輸入販売を開始★★
フェアチャイルド社と代理店契約を締結しICテスターの輸入販売を開始
大阪支社を開設
Tokyo Electron America, Inc. を設立
久保徳雄消費財輸出からの全面撤退

1974年、石油ショック下で社長に就いた久保徳雄氏と専務の小高敏夫氏が、売上の約6割を稼いでいた電卓・カーステレオなど消費財の輸出事業からの全面撤退を決め、半導体製造装置の輸入・国産化に経営資源を集中させた経営判断。撤退は電卓(1976年9月)、カーステレオ・トランシーバー(1978年9月)と段階的に完了した。

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久保徳雄消費財輸出事業から全面撤退★★
久保徳雄桜洋行に合併
久保徳雄東京証券取引所市場第二部に上場
小高敏夫山梨事業所を開設
小高敏夫テルメックを合併
小高敏夫テル・ラムの全株式を取得しテル山梨に
小高敏夫テル・サームコの全株式を取得しテル相模に
小高敏夫東京エレクトロンデバイスが電子部品販売を開始
井上皓東京エレクトロンデバイスの全株式を取得
1994〜2015年グローバル化の光と影、AMAT統合構想までの拡大期井上皓Tokyo Electron Europe Ltd. を設立
井上皓海外販売の直販体制への全面転換

1994年10月、東京エレクトロンが欧米向け半導体製造装置の販売を代理店経由から直販へ全面転換した経営判断。米テキサス州オースティンに戦略拠点を構え、海外法人のトップにはすべて現地の人間を据えて日本人はサポート役に回るという戦略を採り、6年間で国内依存の収益構造をグローバル型へ組み替えた。

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東哲郎Tokyo Electron Arizona, LLC を設立
東哲郎Supercritical Systems, Inc.の全株式を取得
東哲郎Timbre Technologies, Inc.の全株式を取得
東哲郎東京エレクトロンデバイスを東京証券取引所市場第二部に上場
東哲郎Tokyo Electron (Shanghai) Ltd. を設立
佐藤潔TEL Technology Center, America, LLCを設立
竹中博司営業赤字・純損失を計上★★
竹中博司太陽光パネル製造装置事業に参入★★
東哲郎東京エレクトロンとアプライドマテリアルズの経営統合(2013年合意・2015年破談)

2013年9月、半導体製造装置で世界首位級の米アプライドマテリアルズと、同分野上位の東京エレクトロンがオランダ登記の持株会社による対等統合に合意。だが各国の独占禁止法審査が難航し、2015年4月に解消された案件。

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東哲郎太陽光パネル製造装置(PVE)事業からの撤退を決定★★
東哲郎Applied Materials, Inc.との経営統合契約を解約★★
2016〜2025年独自路線の躍進と生成AI時代の収益拡大期河合利樹東京エレクトロン九州 合志事業所に新開発棟の建設を決定
河合利樹新中期経営計画を発表(FY2027目標)
河合利樹東京エレクトロン宮城 生産新棟の建設を発表
河合利樹東京エレクトロン九州 合志事業所の新開発棟(プロセス開発棟)が竣工
出典・参考
  • 東京エレクトロン 有価証券報告書【沿革】
  • 東京エレクトロン 有価証券報告書(過年度)
  • 証券アナリストジャーナル 1980年7月号
  • 証券 1980年6月号 32(6)(375)
  • 日経ビジネス 1982年5月31日号(小高敏夫社長インタビュー)
  • 日経ビジネス 1984年4月26日号
  • 日経ビジネス 1987年2月2日号
  • 日経ビジネス 1991年3月18日号
  • 異端の男とその一族 火の玉集団・東京エレクトロンの奇跡(1982年4月)
  • 証券調査(241)

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