レーザーテック の歴史

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創業 1960年
創業者 内山康
創業地 東京都目黒区
創業
1960年7月、内山康氏が松下通信工業を離れ、東京都目黒区に有限会社東京ITV研究所を設立した。29歳での独立で、大企業が2年かける開発も中堅なら半年で仕上げにかかれるという見通しが動機であった。資金が乏しく製造設備を持てなかったため、研究開発に人を集め、製造は協力会社へ委託する分業を最初から採っている。当初の主力はX線診断用テレビジョンカメラで、松下通信工業を通じてナショナルブランドで販売され国内首位を占めた。1962年8月に日本自動制御株式会社へ改組し、1975年2月にフォトマスク・ピンホール検査装置、翌1976年10月に世界初のフォトマスク欠陥検査装置を開発する。1986年6月に商号をレーザーテック株式会社へ改め、1990年12月に株式を店頭公開した。
決断
稼げていた製品を先に落とし、そのあとで市場の見えない開発へ入った。2009年7月に第5代社長へ就任した岡林理氏は、リーマン・ショックによる赤字転落の直後に液晶事業を縮小して半導体検査へ資源を集中した。液晶用カラーフィルター修正装置は競合でも達成できる技術水準にとどまり、価格競争に沈んでいた。工場を持たない構造は売上が落ちれば即座に赤字へ転じる一方、撤退にあたって工場の閉鎖も設備の減損も生じない。2011年、売上118億円の同社はNEDOの国家プロジェクトへ参加し、市場が立ち上がる時期の読めないEUVマスク検査装置の独自開発に数十億円を投じ始めた。大手装置メーカーが採算の不確実さから見送ったことが、200人規模の会社に最先端の開発余地を残した。
現況
利益の源泉は装置の台数ではなく、代わりの効かない一工程にある。2017年4月に世界で初めてEUVマスクブランクス欠陥検査装置を実用化し、2019年9月にはパターンマスク検査装置も世界初で製品化して、EUVマスク検査の全工程を自社製品で覆った。2025年6月期の売上高は2,514億円、営業利益1,228億円、純利益846億円といずれも過去最高で、地域別は米国679億円・台湾652億円・韓国536億円と続き、日本は206億円の1割に満たない。2023年7月に新研究開発拠点が稼働し、2024年7月には仙洞田哲也氏が第6代社長へ就任した。工場を持たない構造のまま、装置一台あたりの付加価値だけで売上高営業利益率48.8%を作っている。
競合
同じ検査でも、光を透かすか反射させるかで供給者が入れ替わった。1991年の時点で、パタン相互比較方式のフォトマスク欠陥検査装置の市場は当社が約7割、米KLA社が約3割を分け合っていた。透過光を前提とする装置では、顧客が両社の特徴を使い分けて併存できたためである。EUVは波長13.5ナノメートルの光を反射させる光学系を用いるため、従来の透過型では原理的に検査できない。装置を作り直した側だけが残り、EUVマスク検査の世界シェアは100%となった。採用しているのはTSMC・サムスン電子・インテルの3社で、競争の焦点は同業ではなく、この3社の設備投資計画へ移っている。
レーザーテック:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
1996年6月期2025年6月期

創業ストーリー 工場を持たずに研究開発で生き抜いた創業と独立の時代 (1960年〜)

ファブライト経営と自社製品100%化への道筋

1960年7月、内山康は松下通信工業を離れ[1]、東京都目黒区に有限会社東京ITV研究所を設立した[2]。大企業では開発に2年かかる案件でも中堅企業なら半年で仕上げにかかれるという確信が、独立に踏み切る最大の動機だった。工場を持たず研究開発に経営資源を集中する体制を最初から選択し、製品の製造は協力会社に委託する道を選んだ。このファブライト経営は、創業時の乏しい資金制約から生まれた消極的な選択のようにも見えるが、結果として65年後の現在まで同社の競争優位の基盤となる経営モデルの原型を形成した。当初の主力製品はX線診断用テレビジョンカメラで、松下通信工業を通じて『ナショナル』ブランドで発売され、国内第1位のシェア[3]を占めた。独自の経営スタイルが創業当初から明確な形で打ち出されていた。

    • [1]創業者・内山康氏は松下通信工業(株)をスピンアウトして独立した(本人談)
    • [3]当初の主力製品はX線診断用テレビジョンカメラで、松下通信工業を通じ「ナショナル」ブランドで発売され国内第1位のシェアを占めた(内山康本人談)
  • レーザーテック 有価証券報告書 第63期(2025年6月期)【沿革】
    • [2]1960年7月 東京都目黒区に当社の前身である㈲東京ITV研究所を設立(X線テレビジョンカメラの開発・設計・製造で創業)

創業初期の事業はX線テレビや工業用カメラの受注に依存する下請け的な色合いが強く、内山は開発[4]テーマを『選ぶ力』こそが経営者に最も必要な能力だと考えていた。昭和38年8月には組織を日本自動制御株式会社に改め、電電公社の技術部に勤めていた学校の先輩[5]・粟村大吉(現副社長)を招き入れ、磁気テープの幅を測る自動測定装置をはじめとする磁気テープ関係の測定装置を自社ブランドで10種類ほど開発[6]した。1975年2月、この技術蓄積がフォトマスク・ピンホール検査装置の開発として結実し[7]、半導体業界へ本格参入する。翌1976年には世界に先がけてフォトマスクの自動検査装置『1MD1』を完成させ、十大新製品賞、科学技術庁長官賞、大河内記念技術賞を相次いで受賞した。[8]1980年には自社製品100%を達成し、大手メーカーの下請けから脱却した。技術者経営の原点が、この時期に確かな形をとった。

  • レーザーテック 有価証券報告書 第63期(2025年6月期)【沿革】
    • [4]創業時はX線テレビジョンカメラの開発・設計・製造(受注型)から出発し、1980年に下請けから完全脱却
    • [7]1975年2月 「フォトマスク・ピンホール検査装置」を開発し半導体フォトマスク検査分野へ参入
    • [5]電電公社の技術部出身で内山康氏の学校の先輩にあたる粟村大吉氏を招き入れた(内山康本人談)
    • [6]磁気テープの幅を測る自動測定装置など磁気テープ関係の測定装置を自社ブランドで10種類ほど開発した(内山康本人談)
    • [8]昭和51年(1976年)、世界に先がけてフォトマスクの自動検査装置「1MD1」を完成(内山康本人談)。有報【沿革】の1976年10月「フォトマスク欠陥検査装置を世界で初めて開発」と一致し、旧本文にあった「1975年2月に世界初」との矛盾を解消
    • [1]創業者・内山康氏は松下通信工業(株)をスピンアウトして独立した(本人談)
    • [3]当初の主力製品はX線診断用テレビジョンカメラで、松下通信工業を通じ「ナショナル」ブランドで発売され国内第1位のシェアを占めた(内山康本人談)
    • [5]電電公社の技術部出身で内山康氏の学校の先輩にあたる粟村大吉氏を招き入れた(内山康本人談)
    • [6]磁気テープの幅を測る自動測定装置など磁気テープ関係の測定装置を自社ブランドで10種類ほど開発した(内山康本人談)
    • [8]昭和51年(1976年)、世界に先がけてフォトマスクの自動検査装置「1MD1」を完成(内山康本人談)。有報【沿革】の1976年10月「フォトマスク欠陥検査装置を世界で初めて開発」と一致し、旧本文にあった「1975年2月に世界初」との矛盾を解消
  • レーザーテック 有価証券報告書 第63期(2025年6月期)【沿革】
    • [2]1960年7月 東京都目黒区に当社の前身である㈲東京ITV研究所を設立(X線テレビジョンカメラの開発・設計・製造で創業)
    • [4]創業時はX線テレビジョンカメラの開発・設計・製造(受注型)から出発し、1980年に下請けから完全脱却
    • [7]1975年2月 「フォトマスク・ピンホール検査装置」を開発し半導体フォトマスク検査分野へ参入

走査型カラーレーザー顕微鏡の世界初開発と社名変更

1985年には走査型カラーレーザー顕微鏡を世界で初めて開発し、翌1986年には社名を日本自動制御から『レーザーテック』[9]に変更した。以後はレーザー技術を軸として製品群を順次広げる。1990年12月には株式を店頭公開し[10]、独立した上場企業として資金調達の道を開いた。半導体検査装置を軸とする一方、液晶関連の検査・修正装置は1993年以降に加わり[11]、後年の事業の2本柱へとつながっていく。レーザー応用技術を自社の中核に据えて成長を目指すという戦略的方向性が、この頃からはっきり打ち出された。独立系中堅メーカーとしての誇りが、製品と社名の双方に体現されていた。フォトマスクから液晶パネル、レーザー顕微鏡へと製品を広げる独自路線は、大手装置メーカーと真っ向から競合しない領域を選び続けた結果でもある。

  • レーザーテック 有価証券報告書 第63期(2025年6月期)【沿革】
    • [9]1986年6月の商号変更は「日本自動制御株式会社」から「レーザーテック株式会社」へ。内山康氏本人の1991年講演でも「昭和38年8月、組織を変えて、日本自動制御(株)とし」と述べており、法人の変遷(㈲東京ITV研究所→日本自動制御㈱→レーザーテック㈱)が一次資料で裏付けられた。旧本文の「東京ITV研究所から」変更という記述を訂正
    • [10]1990年12月 日本証券業協会に店頭売買銘柄として株式を登録(店頭公開)
    • [11]液晶(LCD)向けカラーフィルター欠陥検査・修正装置の開発は1993年7月

創業当時の苦しい資金繰りから脱し、独自の技術で世界初の製品を次々と世に送り出す姿は、戦後日本の中堅技術系企業の理想的な成長曲線を絵に描いたような歩みだった。下請け仕事からの完全脱却、自社製品100%体制の確立、レーザーという当時の先端技術を看板事業に押し出す姿勢は、小規模ながらも技術志向を徹底する独立系メーカーの一つの完成形を示した。創業者の経営哲学が、技術開発と事業展開の双方に反映された時期だった。継続的な研究開発投資が、後年の独占企業への道筋を準備した。独立した技術系企業の一つの理想像がここにあった。独自の技術路線を守り続ける姿勢が、後年の独占的地位への道筋を準備した。

  • レーザーテック 有価証券報告書 第63期(2025年6月期)【沿革】
    • [9]1986年6月の商号変更は「日本自動制御株式会社」から「レーザーテック株式会社」へ。内山康氏本人の1991年講演でも「昭和38年8月、組織を変えて、日本自動制御(株)とし」と述べており、法人の変遷(㈲東京ITV研究所→日本自動制御㈱→レーザーテック㈱)が一次資料で裏付けられた。旧本文の「東京ITV研究所から」変更という記述を訂正
    • [10]1990年12月 日本証券業協会に店頭売買銘柄として株式を登録(店頭公開)
    • [11]液晶(LCD)向けカラーフィルター欠陥検査・修正装置の開発は1993年7月

創業者の急逝と技術者経営の内部承継という独自の形

1992年8月、創業者の内山康が61歳という若さで急逝するという、組織にとっては全く予想外の出来事が起こった。32年間にわたって主要な意思決定を一人で担ってきた創業者の突然の死は、計画的な承継ではなく文字通りの断絶だった。後任には、電電公社の技術部出身で内山[12]の学校の先輩にあたる粟村大吉が就任し、以後は技術者出身の内部昇格者が経営を担うという独特の体制が定着する。創業家による同族経営ではなく、技術者による技術者のための経営という、他社には見られない独自の承継形態が形作られた。外部に頼らず内部から経営者を育てる姿勢が、この時期に固まった。

創業者の急逝を乗り越えてなお同じ行動原則が保たれた点にこそ、他の技術系中堅企業とは一線を画す同社の特徴があった。技術者出身の経営陣による内部承継という形態は、創業者不在の時代にあっても企業文化の連続性を保つ上で重要な役割を果たした。技術者経営の内部承継が組織の強靭さを支える最大の要因となった。組織文化としての行動原則が途切れずに継承される姿である。技術者経営の内部承継がもたらした組織の強さが試された。

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レーザーテックの沿革1960〜2025年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1960〜1992年工場を持たずに研究開発で生き抜いた創業と独立の時代X線テレビ開発での独立創業★★
日本自動制御の設立
テンションアナライザー開発(自社ブランド製品第一号)
半導体フォトマスク検査への参入★★
フォトマスク欠陥検査装置「1MD1」が十大新製品賞を受賞
サンマテオに初の海外拠点を設立
自社製品100%を達成(下請けからの完全脱却)★★
走査型カラーレーザー顕微鏡を世界初開発
社名を「レーザーテック」に変更
店頭公開(株式公開)
創業者・内山康が61歳で急逝
1993〜2011年半導体集中への賭けと液晶事業からの撤退を決断した苦闘期液晶用カラーフィルター欠陥検査装置を開発
位相シフト量測定装置MPM100を世界初開発(業界標準機に)★★
マスクブランクス欠陥検査装置MAGICSシリーズ初代機を開発★★
渡壁弥一郎ジャスダック証券取引所に上場
渡壁弥一郎新横浜に研究開発センター兼本社社屋を建設・移転
岡林理EUV検査装置の開発決断★★
2012〜2026年極端紫外線独占を武器にグローバル企業へ変貌した飛躍期岡林理東京証券取引所二部に上場
岡林理東京証券取引所一部銘柄に指定
岡林理EUVパターンマスク欠陥検査装置ACTIS A150を世界初開発
岡林理東京証券取引所の年間売買代金で首位を独走
岡林理InnoPa操業開始
仙洞田哲也社長交代と仙洞田体制への移行
仙洞田哲也売上高2,514億円・営業利益1,228億円で過去最高更新
出典・参考

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