GE・RCA・WEとの相次ぐ技術提携と国産技術主義の撤回

創業以来の自前主義を貫くか、外国技術を借りて東芝に対等で挑むか——火力発電の技術格差にどう向き合ったか

更新:

時期 1953
意思決定者 倉田主税(社長)・駒井健一郎 電源部門担当、のちの社長
論点 技術路線と国際競争
概要
1952年から54年にかけて、日立製作所が米RCA・GE・WEと三年連続で技術提携を結び、創業以来40年以上掲げた国産技術主義を事実上撤回した経営判断。電源部門を率いた駒井健一郎氏(のちの社長)が主導し、火力発電の技術格差を外部提携で埋めた。
背景
戦後の電力設備投資で火力発電の需要が高まる一方、日立の火力は戦前のドイツAEG依存で経験が浅く、東芝や三菱重工に後れていた。自前主義のままでは受注競争に対等で臨めなかった。
内容
1952年にRCA(テレビ用ブラウン管)、1953年にGE(蒸気タービン・発電機)、1954年にWE(トランジスタ)と提携。GEは東芝が先行していたが、火力タービンの大容量化を見込み複数ライセンシーを容認した。放送・電力・半導体の三分野を同時に押さえた。
含意
創業者・小平浪平氏の「他人の力に依存しない」という原則を、成功したのちの世代が自ら手放した点に特徴がある。導入した火力タービン技術はのちの社会インフラ事業の骨格となり、1959年には重電で東芝を追い抜いたと業界で認知された。
筆者の見解

理念の看板より、技術で対等に立つ実

この判断の核心は、財務危機への対応ではなく、創業の理念そのものへ後継の世代が手を入れた点にある。小平浪平氏が掲げた自前主義は、日立を財閥にも外資にも属さない独立の技術企業として立たせた原点であった。その原点を、東芝に後れを取るという現実の前で、駒井健一郎氏ら電源部門の実務家が対等に勝負するために手放した。守るべき理念と勝つための現実がぶつかったとき、日立は理念の看板よりも技術で対等に立つ実を選んだとみることができる。

もっとも、外に頼るか自前を貫くかという問いは、一度の提携で決着したわけではない。導入した技術を自社の設計へ取り込み、やがて世界の一角を占めるまでに育てた点に、この撤回の本質がうかがえる。日立はその後も、半導体からの撤退、海外企業の大型買収、デジタルとエネルギーへの事業の入れ替えと、何を自前で持ち何を外から取るかを繰り返し問い直してきた。1950年代の三つの提携は、その長い問いの出発点として読み直すことができる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

国産技術主義という創業の旗印

日立製作所は、創業者・小平浪平氏が掲げた国産技術主義を旗印に育った会社である。輸入電機に高額のロイヤリティを払い続けるよりも、同じ額を自前の研究へ投じて技術を社内に残すべきだという信念のもと、外国企業との技術提携を避けて重電機を独力で手がけてきた。財閥資本と海外技術を相手に国産を貫いたことは、精神主義とも評される社風を日立に根づかせた[1]

こうした独力志向は、同業の東芝との対比でしばしば語られた。ある経済誌は両社を評して、東芝が三井の資本とゼネラル・エレクトリック(GE)の技術を後ろ盾に明治以来アメリカ的な合理主義を身につけたのに対し、日立は久原鉱業所の修理工場から出発し財閥資本と外国技術を向こうに回して国産の道を歩んだと整理し、東芝をドライ、日立をウェットと呼んだ。技術を外に頼らない路線は、日立の自己像そのものであった[2]

戦後の火力発電で露呈した技術格差

戦後、その路線が試練に直面する。1950年の朝鮮戦争を機に電力関係の設備投資が活発になり、火力発電所の新設計画が相次いだ。電源設備の受注を担った駒井健一郎氏によれば、日立は水力発電では経験も実験設備も豊富で優位に立っていた一方、火力は戦前にドイツのAEGから技術を導入したにとどまり経験が浅く、東芝や三菱重工の後塵を拝していた。日立の火力技術は信頼されず、注文もなかなか取れなかった[3]

火力の受注現場では、発注側の不安も大きかった。ある経済誌が伝えるところでは、日立が東京電力へ火力設備を納めた際、先方の社長は、外国品に負けないものを入れたいが技術は大丈夫か、数十億円をかけてつくる以上は良いものができなければ会社が潰れてしまう、と念を押したという。国産にこだわるほど発注側に技術への不安を残す構図であり、自前主義は火力という後発分野で重い制約になりつつあった[4]

決断

三年連続の技術提携という理念の撤回

1952年から54年にかけて、日立は相次いで外国企業と技術提携を結んだ。1952年に米RCAとテレビ用ブラウン管、1953年に米GEと蒸気タービン・発電機、1954年に米ウェスタン・エレクトリック(WE)とトランジスタ。創業以来40年以上守ってきた国産技術主義を、三年のあいだに事実上撤回する判断であった。駒井健一郎氏は当時の心境を、早急に外国の一流メーカーと技術提携して対等に勝負したいと考えた、と述べている[5][6]

なかでもGEとの提携は容易ではなかった。GEはすでに東芝と提携しており、社内には日立まで加えることへの難色もあった。しかし当時の日本の電力は水力主体から火力主体へ移ろうとしており、火力タービンの大容量化と需要増加が急速に見込まれた。技術進歩の速さも重なって、GEは複数のライセンシーを持つことを認めた。後発の日立が、先行する東芝と同じ技術の土俵に立つ足がかりを得た[7]

テレビ・発電機・半導体を同時に押さえる

三つの提携は、単発の技術導入にとどまらなかった。RCAからテレビ、GEから発電機と蒸気タービン、WEからトランジスタと、放送・電力・半導体という戦後成長の三分野を、日立はわずか三年で一括して押さえた。家庭用電器から重電、さらに黎明期の半導体まで、総合電機としての事業基盤をこの短期間に設計し直したことになる[8]

この撤回は、自前主義の全面放棄ではなかった。日立は技術格差をはっきり認めたうえで、外国の一流企業から時間を買い、導入した技術を自社の設計・生産へ取り込んでいった。創業者が掲げた他人に頼らないという原則を、成功したのちの世代が自ら手放したこの判断は、方針への固執と転換の境界を示す事例といえる[9]

結果

重電で東芝を追い抜く

提携の効果は、重電の勢力図に表れた。1959年ごろには、東芝に追いつき追い越せを長年の目標としてきた日立が、企業規模だけでなく重電機部門でもついに東芝を追い抜いた、というのが業界の定説となった。1957年の時点でもある経済誌は日立を一流中の一流メーカーと呼び、重電・家庭用電器の両部門で好調を保つ原動力を、充実した技術陣に求めていた[10][11]

提携で得た技術は、その後の日立の背骨となった。GEから導入した蒸気タービンと発電機の技術は、火力・原子力へと広がって電力事業の柱となり、のちに社会インフラ事業の骨格を成した。放送・半導体でも提携を足場に自社開発を積み上げ、日立は重電から家電・エレクトロニクスまでを抱える総合電機へと歩を進めた。国産主義の撤回は、皮肉にも日立を技術の会社として押し上げる転機になったとみることができる[12]

出典・参考
  • 実業の世界(1957年9月)「ナゼ今日の盛況をもたらしたか・日立製作所の巻」
  • マネジメント(1959年6月)「日立は果たして東芝を追い抜いたか」
  • ダイヤモンド臨時増刊(1961年9月10日)「日立対東芝」
  • 日本経済新聞(1981年1月)駒井健一郎「私の履歴書」
  • 私の履歴書 経済人12
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
  • 日立製作所 有価証券報告書 第156期(2025年3月期)【沿革】