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就職情報誌「企業への招待」の創刊

1962年実施

大学新聞広告の取次から一冊まるごと求人情報の冊子へ——江副浩正社長はなぜ「企業と学生が出会う場」を事業化したのか

時期 1962
意思決定者 江副浩正(社長)
論点 求人広告事業の創出
概要
1962年、大学新聞への求人広告取次から出発した大学広告(現リクルート)の江副浩正社長が、大学生向けの求人情報だけを集めた冊子「企業への招待」を創刊した。掲載企業から広告料を得て学生に届ける媒体で、リクルートの求人メディア事業の原点となった。
背景
高度成長の入り口にあった当時、大学進学者は増えていたが、学生が就職先を選ぶ手立ては学校の掲示板や教授推薦、縁故に限られていた。とりわけ中堅・中小企業には、自社の求人情報を学生へ直接届ける手段が乏しかった。
内容
江副社長は、誌面を求人情報だけで埋め、掲載企業からの広告料だけで一冊を成り立たせるという着想を「企業への招待」として形にした。無名の媒体に広告主を集めるため、見込み客を一社ずつ訪ね、採用担当者の意見を聞きながら誌面を組み立てた。
含意
大学新聞の広告を取り次ぐ代理業から、媒体を自社で発行し広告主を直接開拓する側へ回った点に特徴がある。個人と企業が出会う場を提供し双方から価値を引き出す構造は、のちの就職情報産業とリクルートの「リボンモデル」の出発点になった。
筆者の見解

「広告で情報を成り立たせる」という発明

この創刊の核心は、一つの雑誌を出したことそのものではなく、「求人情報を、企業からの広告料だけで成り立つ一冊の媒体にまとめる」という事業様式を発明した点にある。学生には情報が届き、企業には人材との接点が生まれ、その費用は広告主が負担する。三者の利害を一冊の冊子の上でかみ合わせたことで、リクルートは他社の媒体に広告を取り次ぐ代理業から、情報が集まる場そのものを握る側へと回った。個人と企業が出会う場を設計し、双方から価値を引き出す——のちに「リボンモデル」と呼ばれる構造の原型が、この零細企業の一冊から始まったとみることができる。

もっとも、1962年の時点で、これがのちに数兆円規模の企業へつながる出発点になると当人たちが見通していたわけではないとみられる。無名の冊子に広告主を集めるには、見込み客を一社ずつ訪ねて頭を下げ、誌面の中身まで顧客に尋ねて回るほかなく、創刊は泥臭い訪問営業の積み重ねの上に立っていた。それでも、特定領域の情報を集約して広告で成り立たせるという型は、住宅・転職・中古車といった生活領域へ移植可能な普遍性を備えていた。規模を追う前に「情報が集まる場をどう設計するか」を最初に問うたこの一冊は、リクルートという会社の性格を早い段階で決めた選択であったといえる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

教授推薦と縁故に頼っていた就職市場

リクルートが生まれた1960年前後の日本は、高度成長の入り口にあり、大学進学者は増えつつあった。しかし学生が就職先を選ぶ手立ては、学校の掲示板や教授推薦、縁故に限られ、自分の意思で幅広く企業を比べて選ぶことは難しかった。企業の側も、戦後復興から高度成長へ移るなかで自社に合う人材の確保を急いでいたが、とりわけ知名度の低い中堅・中小企業には、求人情報を学生へ直接届ける手段が乏しかった。企業と学生を結ぶ就職情報の流通経路そのものが、まだ整っていなかった[1]

大学新聞の広告取次から出発した零細企業

江副浩正氏は東京大学在学中、学生新聞である東京大学新聞(東大新聞)で広告の営業に携わっていた。新聞の収益が販売から広告へ移りつつある時代の変化を、媒体の現場で身をもって知る立場にあり、求人広告を出したい企業と、それを受ける媒体との橋渡しに早くから通じていた。この経験が、卒業と同月の起業につながっていく[2]

1960年3月、東京大学教育学部を卒業した江副社長は、東京・港区の小さなビルの屋上プレハブで大学新聞広告社を個人創業した。事業は、複数の大学新聞の求人広告を一手に取り扱う代理業であり、同年10月には資本金60万円で法人化された。しかし、この段階のリクルートは、あくまで他社が発行する大学新聞に広告を取り次ぐ立場にとどまり、収益の規模も従業員も、ごく限られた零細企業であった[3][4]

決断

「一冊まるごと就職情報」という着想

大学新聞への広告取次を続けるなかで、江副社長は、媒体そのものを自社で発行する構想へ傾いていった。着想のもとになったのは、アメリカの大学で使われていた就職情報のガイドブックであったとされる。誌面を求人情報だけで埋め、掲載企業からの広告料だけで一冊を成り立たせられる——広告が情報そのものになるというこの気づきが、事業の転機になった[5]

1962年、江副社長はこの構想を就職情報誌「企業への招待」として形にした。大学生向けの求人情報だけを集めた冊子を、掲載企業から広告料を得たうえで学生に届けるという仕組みである。学生は一冊を見れば複数の企業を比べられ、企業は多くの大学へ足を運ばなくても学生に求人を届けられる。他社の媒体に広告を取り次ぐ立場から、個人ユーザーと企業クライアントが出会う場を自ら提供する側へと、事業の性格が変わった[6][7]

顧客に聞いて組み立てた創刊

無名の媒体に広告主を集める確立した方法は、当時どこにもなかった。江副社長は、大学新聞で取引のあった会社を中心に見込み客を一社ずつ訪ね、採用担当者に直接、誌面をどう作るべきかを聞いて回った。配本する大学をどこにするか、事務系と技術系を分けるか、掲載料はいくらなら参画してもらえるか——媒体の中身を、顧客である企業の声から組み立てていく手法である。刷り上がりの見本(ツカ見本)を作り、紙質の良否まで見込み客に確かめる、地道な訪問営業の積み重ねの上に創刊はあった[8]

結果

媒体名から社名へ、就職情報事業の確立

「企業への招待」の創刊で、事業の主軸は大学新聞の広告取次から、就職情報誌の発行と広告主開拓へと移った。これに伴い、媒体名を冠する社名では業容を表しきれなくなり、1963年4月に日本リクルートメントセンター、同年8月には日本リクルートセンターへと、法人の看板そのものが組み替えられていく。江副社長が就職情報誌の見込み客へのヒアリングを「リクルートブック創刊時」と後年に振り返ったように、「企業への招待」は、のちに新卒学生向け就職情報誌の代名詞となる媒体の系譜の起点になった[9]

求人情報を集約し、広告料で成り立たせるこの型は、就職の領域にとどまらなかった。個人ユーザーと企業クライアントが出会う場を作り、双方から価値を引き出すという発想は、のちに住宅情報やとらばーゆといった生活領域の媒体へ次々と移植され、そのつど新しい市場を生んでいく。今日のリクルートが「リボンモデル」と呼ぶマッチングの構造は、1962年のこの一冊にその原型を見いだすことができる[10]

出典・参考
  • リクルートホールディングス 沿革「価値創造の歴史」(公式サイト)https://recruit-holdings.com/ja/about/history/
  • 株式会社リクルート 沿革・歴史(公式サイト)https://www.recruit.co.jp/company/history/
  • リクルートホールディングス 有価証券報告書【沿革】(EDINET)
  • 東京大学新聞オンライン 2014年11月6日「リクルートが生まれた場所、東京大学新聞——リクルート創業者 江副浩正氏の『唯一の上司』」https://www.todaishimbun.org/amano1102/
  • Decide 1987年3月号 江副浩正インタビュー(国立国会図書館デジタルコレクション pid/2863681)