← リクルートHDの年表

リクルート3代目社長・河野栄子の就任と世代交代

1997年実施

リクルート事件とダイエー傘下をくぐり抜けた再建局面で、生え抜きの営業ウーマンはなぜ総帥に選ばれたのか

時期 1997年6月
意思決定者 河野栄子(社長)
論点 世代交代と経営体制
概要
1997年6月、リクルートは女性初の営業職として中途入社した生え抜きの河野栄子氏を3代目社長に迎え、創業者・江副浩正、2代目・位田尚隆に続く世代交代を果たした。独自の営業手法を確立して副社長まで上り詰めた実力者への継承であった。
背景
リクルート事件と、その後のダイエーへの株式譲渡という企業存亡の危機を、位田尚隆社長がくぐり抜けた直後の局面にあたる。グループは約1兆円の借入金を抱え、不動産に依存しない収益構造への転換が課題となっていた。
内容
1994年に位田社長が河野氏を取締役副社長に据えた時点で後継は既定路線となっており、副社長としての2年間で事業全体を統括し増収増益・最高益更新の実績を上げた河野氏が、1997年6月に社長へ昇格した。位田社長は相談役に退いた。
含意
創業者でも社内の主流派でもない営業出身の女性が、実力でグループの総帥に就いた点に特徴がある。就任にあたり河野社長は、営業利益による借入金返済、既存事業の大胆な圧縮、海外を含む他社との連携という課題認識を示した。
筆者の見解

実力で階段を上った「サラリーウーマン」が問うもの

この社長交代の核心は、単なる女性経営者の登場ではなく、創業者の個性やカリスマに依存してきたリクルートが、実力で階段を上ってきた生え抜きの営業出身者へ経営を委ねた点にある。江副浩正氏の求心力とリクルート事件、そしてダイエー傘下という激動を経たあとに求められたのは、派手な創業精神ではなく、現場で数字をつくり続けてきた実務家の手腕であった。位田尚隆社長が難局を収拾したうえで河野氏を指名し、河野氏もまた副社長時代に増収増益で応えていた経緯は、この継承が感情や話題性ではなく実績の積み上げの上に成り立っていたことを示している。

もっとも、この記事は河野氏が就任した直後のものであり、掲げた課題がどこまで実現したかは当時なお射程の外にあった。それでも、不動産に頼らず本業の利益で借入金を返す収益構造への転換、既存事業を半分に削るほどの大胆な見直し、海外を含む他社との連携という河野社長の問題意識は、のちのリクルートが情報誌からネットサービスへ、そして海外M&Aを軸とする成長企業へと姿を変えていく方向を、早い時期に言い当てていたとみることもできる。性別ではなく力量で語られるべき経営者が、再建局面の会社をどう作り替えていくのか——就任時点の本記事は、その問いを静かに投げかけている。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

リクルート事件とダイエー傘下 — 再建途上の経営

河野栄子氏が社長に就くリクルートは、1980年代末以降、企業の存亡にかかわる大波を続けざまにくぐり抜けてきた会社であった。1988年に表面化したリクルート事件では、創業者・江副浩正が政官財を巻き込む未公開株譲渡の中心人物として逮捕され、経営の一線から退いた。さらに1992年には、江副氏が保有株をダイエーへ電撃的に譲渡し、リクルートは中内功社長率いるダイエーの実質的な傘下に入る。2代目社長・位田尚隆は、この二つの激震を社長として乗り切り、今回、相談役に退いた[1]

ダイエーが取得したのはリクルートの発行済株式の約33.9%(約455億円)で、バブル崩壊で系列のリクルートコスモスなどが銀行管理下に陥りかねない危機を背景とした、救済色の濃い買収であった。河野氏が経営を引き継ぐ時点でも、グループは約1兆円の借入金を抱えていた。値下がりした不動産を売って資金をつくる従来のやり方は限界に近づき、本業の営業利益で借金を返す収益構造への転換が、次の経営者に残された課題となっていた[2][3]

女性初の営業職から副社長へ — 河野栄子氏の歩み

河野栄子氏は1946年1月、兵庫県姫路市に生まれた。1969年3月に早稲田大学教育学部を卒業して日産サニー共立販売に営業職として入社するが、大衆車の営業は厳しく、同期の女性営業社員が次々と事務やショールームへ配置換えになっていった。事務職の給料では東京で自活できないと考えていた河野氏は、日本リクルートセンター(現リクルート)が男女を問わず営業職を募集する新聞広告を見つけ、初の女性営業職として採用される。就職から半年たらずでの転職であった[4]

河野氏は、電話でアポイントを取る当時の定型的なやり方を効率が悪いと感じ、資料を大量に抱えて担当地域の会社を番地順に訪ねる“飛び込み”営業を編み出した。競合他社の情報を提供して相手の関心を引き、決定権を持つ人物に狙いを定めて理詰めで決断へ導くこの手法は、やがてリクルートの営業スタイルとして定着していく。営業現場での実績を重ね、河野氏は1984年に38歳で取締役、翌年常務、86年専務と昇進し、1994年に取締役副社長へと駆け上がった[5]

決断

位田尚隆社長が描いた後継 — 既定路線の世代交代

河野氏の社長就任は、突然の抜擢ではなかった。1994年、位田尚隆社長がダイエーの中内功会長と相談して河野氏を副社長ポストに据えた時点で、後継社長が河野氏であることは社内で既定路線となっていた。位田社長は「自分のあとは河野さんにやってもらう」と酒の席でも公言しており、その後継指名は、リクルート事件とダイエー傘下という難局を乗り切ったうえでの、次代への引き継ぎであった。位田社長自身が「グループ全体を見た結果、河野さんしかいなかったといっていい」と語ったように、消去法ではなく明確な信任に基づく選択であったとみられる[6]

河野氏は副社長としての2年間、会社の事業全体を統括する立場から、増収増益、しかも最高益更新という実績をつくった。就任にふさわしい成果を自ら示していたため、社内も当然のように社長昇格を受け入れ、河野氏本人にとっても意外な出来事ではなかった。数字と実績で裏打ちされた昇格であった点が、この世代交代の安定感を支えていた[7]

「女性社長」という括りへの違和感

就任にあたって河野社長が繰り返し示したのは、「女性社長」として注目されることへの違和感であった。1963年創業のリクルートは女性社員が3分の1を占めるものの、男性優位の社会に変わりはない。そのなかで河野社長は、社内の主流派に乗ることも上司に取り入ることもなく、自ら考え行動して現在の地位を実力で手にしたという自負を持つ。「男勝り」でも「女だてらに」でもなく、あくまで自然体で仕事をしてきたからこそ、性別で語られることに違和感を覚えると語る[8]

経済同友会で河野社長と親交のあるオリックス社長・宮内義彦は、その独自性を的確に言い当てている。力のある女性経営者はこれまでもいたが、その多くは創業者であり、河野社長のように男社会の中で階段を一段ずつ上ってきた「サラリーウーマン」はいなかった、という評である。宮内社長は「新社長の中では大丈夫かなと思う人もいるが、河野さんは安心感がある。女性うんぬんは関係ない」とも付け加え、性別ではなく経営者としての力量で河野社長を評価した[9]

結果

就任にあたって掲げた課題 — 借入金返済と事業の作り替え

3代目社長として河野が真っ先に見据えたのは、約1兆円の借入金を抱えるグループの舵取りであった。値下がりしても売れる不動産があった時代は終わり、これからは本業の営業利益で借金を返していくほかないと河野社長は認識していた。住宅情報誌1誌で数百億円を売り上げる時代も続かないとみて、新規事業の立ち上げは当然として、既存事業についても「1割や2割ではなく、ぱっと5割削ってしまうようなチャレンジ」を掲げた。守りの再建にとどまらず、収益の柱そのものを組み替える構えであった[10]

あわせて河野社長は、市場の広がりにも冷静な目を向けていた。テレビやインターネット、デジタル衛星放送とメディアが増えても、企業が出せる広告費の総額は変わらず、日本市場だけを見れば広告のパイは広がらないという読みである。ならばコストを削るしかなく、リクルートの独自性にこだわるより、コストやスピードの面から海外を含む他社とどう組むかを考え、世界に通用するソフトを作らなければ生き残れないと河野社長は展望した。就任時点の記事であるため、これらの課題認識が実際の成果に結びつくかは、当時なお見通せない段階にあった[11]

出典・参考
  • 日経ビジネス 1997年7月14日号「河野栄子氏[リクルート社長]独自の“飛び込み”営業開発「理想の上司」が3代目社長に」(日経BP社)
  • 日経ビジネス 1992年7月27日号「何でも飲み込む拡大路線。浪花節的M&A、後でつじつま合わせ」(日経BP社)