水産商社から即席麺への転身——「マルちゃん」で加工食品へ踏み出す
1961冬に閑散するマグロ商社は、なぜ後発から即席麺に賭けたのか
更新:
- 概要
- 1961年4月、冷凍マグロの輸出と魚肉ハム・ソーセージを軸としてきた水産物商社の東洋水産(森和夫社長)が、成長期の即席ラーメン市場へ即席麺の生産で参入し、翌1962年5月に「マルちゃん」マークを掲げてブランドを立ち上げた経営判断。これを境に、水産ベンチャーは加工食品メーカーへと主業を移していった。
- 背景
- 冷凍マグロや魚肉ソーセージは冬に需要が細る季節事業で、冬場にも売れる新たな柱を必要としていた。折しも即席ラーメンは家庭に急速に広がる成長カテゴリーで、日清食品らが先行するなか、東洋水産は後発の位置から参入した。
- 内容
- 1961年4月に即席麺の生産を始め、翌年に「マルちゃん」マークを掲げてブランド化した。埼玉・札幌・相模・福岡へラーメン工場を相次いで新設して全国の生産網を築き、品目も広げて通年で回る事業に近づけた。
- 含意
- 1968年には「マルちゃん」が全国的な人気を集め、1970年の東証上場時には即席めん市場占有率8%で業界5位に付けた。水産卸から加工食品メーカーへの転身が定着し、後の「赤いきつね」「緑のたぬき」や北米首位の源流となった。
補完から主業へという転身
この判断の芯にあるのは、水産という本業の季節性を、隣り合う加工食品で埋めようとした発想である。冷凍マグロや魚肉ソーセージで培った低温・加工の技術と、全国へ広げた工場網が、後発でありながら即席麺市場に食い込む足場になったとみることができる。多角化がしばしば本業の希薄化に終わるなかで、東洋水産の場合は補完のために始めた事業がやがて主業を置き換えていった点に、この転身の特徴がうかがえる。
見落とせないのは、国内で日清食品に先を越された後発という弱みが、そのまま海外での独自路線につながっていったことである。国内2位にとどまった即席麺事業は、やがて北米で本国以上の存在感を築き、今日の連結最高益を支える柱へと育った。1961年に冬の需要を求めて始めた即席麺が、半世紀を経てどこまで会社の性格を決めたのかは、その後の海外事業の歩みと重ねて読むことができるとみられる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
冷凍マグロと魚肉ソーセージの水産ベンチャー
東洋水産の出発点は、即席麺ではなく水産物であった。1953年3月、森和夫社長は築地の魚市場内に横須賀水産を設立し、冷凍鮪の対米輸出と国内水産物の取り扱いから事業を始めた。1956年には川崎に魚肉ハム・ソーセージの工場を設けて陸上加工へ広げ、同じ年に社名を東洋水産へ改めた。冷凍と加工を両輪にした水産ベンチャーとしての姿が、この時期に固まっていった[1]。
もっとも、水産物や魚肉ソーセージは、夏に需要が高まって冬に細る季節の波を抱えていた。1960年には東京水産興業と合併して焼津工場を得るなど業容を広げつつあったが、冬場の閑散を埋め、季節に左右されにくい新たな柱をどこに求めるかが課題として残っていた。折しも即席ラーメンは、家庭へ急速に広がる成長カテゴリーになっていた[2]。
決断
1961年、即席麺への参入とマルちゃんの旗揚げ
1961年4月、東洋水産は即席麺の生産を開始した。最初の製品は味付けの「印ラーメン」で、水産物商社が加工食品の一角へ踏み込む一歩となった。市場ではすでに日清食品らが先行しており、東洋水産は後発の位置にあったが、冬にも売れる商材を自社の工場で量産する道を選んだ。水産と魚肉加工に続く第三の事業として、即席麺が加わった[3][4]。
翌1962年5月には「マルちゃん」マークの使用を始め、同年に「ハイラーメン」を送り出した。後発が先行各社と渡り合うには、味や価格だけでなく、覚えてもらえる目印が要る。親しみやすい愛称を前面に押し出すことで、東洋水産は自社の即席麺を店頭で見分けられる商品へと育てようとした。ブランドを軸に据える構えが、この時に定まった[5][6]。
全国へ広げる生産と品揃え
参入に続いて東洋水産が急いだのは、量産と流通の足場づくりであった。1964年に埼玉と札幌、1965年に相模、1967年に福岡へと、ラーメン工場を各地へ相次いで新設していった。生産拠点を全国に散らすことで、輸送の負担を抑えながら地方の市場にも即席麺を届けられる体制を組んだ。後発の遅れを、拠点網の広さで補おうとする動きであった[7]。
拠点の増設と歩調を合わせて、扱う品目も広げていった。1962年の「ハイラーメン」に続き、1966年には「冷しラーメン」を売り出すなど、季節や好みに応じた種類を増やしていった。当初は冬の需要を当て込んで始めた即席麺を、夏場にも売れる商品まで揃えることで、通年で回る事業へと近づけていった。ブランドと品揃えの両輪で、後発の立ち位置を押し上げようとしていた[8]。
結果
マルちゃんの全国的定着と上場
賭けの成否は、まずブランドの浸透に表れた。1968年には、業界誌の水産界が「“マルちゃん”マークで1961年に発売以来、全国に爆発的人気を集め、歓迎されている」と記し、品種も次第に増えて大判の製品まで揃い、消費者の好みに応じられる体制が整っていた。参入からわずか数年で、東洋水産の即席麺は全国的な知名度を得ていた[9]。
1970年9月、東洋水産は東京証券取引所市場第二部へ株式を上場した。同じころ経済誌の新日本経済によれば、東洋水産の即席めん類は17種類に及び、市場占有率は8%で、日清食品・明星食品・サンヨー食品・エースコックに次ぐ業界5位に付けていた。数多くの業者がひしめく市場で、上位に食い込む後発として、加工食品・即席めんメーカーの地位を固めていった[10][11]。
水産卸から加工食品メーカーへ
上場のころの東洋水産は、即席めん類・魚肉ハムソーセージ・冷凍魚類・冷凍食品を4本の柱に据えていた。魚肉ハム・ソーセージは年間40億円の生産高で業界3位を保ち、利益率では乱立する即席めんを上回っていたが、成長と販売を引っ張っていたのは、明らかに即席めんであった。水産物の卸売りから出発した会社は、加工食品メーカーへと姿を変えていった[12]。
即席麺への参入は、その後の東洋水産の輪郭を決めた。1975年には生麺の生産にも踏み出し、国内では「赤いきつね」「緑のたぬき」といった主力商品を生む土台になった。さらに1987年以降の北米進出では、この即席麺事業が現地生産へ引き継がれ、米国とメキシコで首位を占める海外事業の源流となっていった。冬の閑散を補うために始めた事業が、会社の主軸へと育っていった[13]。
- 東洋水産 有価証券報告書【沿革】
- 東洋水産 会社沿革「あゆみ」(https://www.maruchan.co.jp/company/info/history.html)
- 新日本経済(1970年10月号)「マルちゃんの東洋水産・東証に上場へ」
- 水産界(1968年12月号)「水産ねり製品の今後」