株式上場
日本企業の株式公開は、資金調達より先に、株主を入れ替える手続として使われてきた。戦前から株式市場は存在したが、財閥の中核会社の株式は同族と本社が保有し、市場での流通量は限られていた。転機は戦後の財閥解体であり、持株会社が保有していた株式が市場へ放出された。株式の分散そのものが政策の目的であったため、会社の資金需要とは関係なく株主が入れ替わった。取得者として想定されたのは従業員と地域の個人であり、証券会社がその売出しを引き受けた。つまり、会社が新株を発行して現金を受け取る公開ではなく、既存株式の株主が替わるだけの公開であった。事業の分離も上場と同時に進んだ。集中排除法が旧財閥の事業を分離した戦後、三井鉱山から分かれた神岡鉱業は独立と同時に東証へ上場した。
高度成長期に入っても、公開の動機は資金調達へ移らなかった。設備資金は主力銀行が融資で供給していたからである。増資で外部の投資家を招けば配当と説明の義務を負い、取引先と互いに保有し合う株式の比率も低下する。一方、借入なら交渉相手は一行で済み、担保があれば翌年も融資を受けられる。加えて、上場を維持すれば決算の開示にも株主総会の運営にも費用がかかる。したがって、資金を借入で賄える会社に、その費用を負ってまで上場する理由は乏しかった。
公開が使われたのは、親会社が子会社の価値を現金化する場面である。イトーヨーカ堂はセブン-イレブン・ジャパンを過半支配のまま東証二部で公開し、NTTはドコモを上場させて資金を得ながら支配を維持した。子会社株式の一部だけを市場で売却すれば、親会社は売却代金を得ながら議決権の過半を維持できる。2010年代には投資ファンドのエグジットが加わり、すかいらーくがベイン傘下で東証へ戻った。これは、買収したファンドが投下資本を回収するための公開である。
さらに、資金需要のない会社まで上場した。電通は創業100年で東証一部へ、出光興産は個人商店を理想としてきた末に公開へ踏み切った。民営化も同じ手続を用い、日本郵政はゆうちょ・かんぽと3社同時に上場した。政府が保有株式をどれだけ売却するかという判断が、上場として実行された。
しかし、公開の日に会社が調達する金額は一度きりである。株主名簿に載った相手へ資本の使途を説明する義務は、その後も続く。
財務諸表のどこを見るか
発行済株式総数と資本金等の推移から入る。公募増資であれば資本金と資本準備金が同額ずつ増加し、売出しだけなら双方とも動かない。前者は会社へ金が入り、後者は既存株主の持分が現金化される。所有者別状況で外国法人等と個人の比率を追い、大株主の状況で親会社やファンドの持分がどこまで薄まったかを見る。親会社を持つ会社には親会社等に関する事項と関連当事者取引の注記があり、取引条件の決め方まで書かれている。調達額そのものは連結キャッシュ・フロー計算書の財務活動区分、株式の発行による収入で確かめられる。