事業の分社化
日本の分社は、事業から撤退する手続ではなく新しい産業を興す手続として始まった。新規事業は投資が先行し、利益は後から付く。本体の決算に抱えたままでは、既存事業の利益が当面の赤字の補填に回り、配当にも影響する。しかし別会社にすれば、その事業のために出資を募り、その事業の採算だけで継続の是非を判断できる。本体の決裁と人事から離れれば、設備投資も採用も独自に決められる。つまり、事業の数を増やす方向の分割であった。
豊田自動織機の自動車部はトヨタ自動車として独立し、大日本セルロイドの写真フィルム部門は富士フイルムとなった。富士電機は通信機部門を富士通信機製造として切り出し、その富士通の制御部門がファナックとして分離した。三菱重工業も自動車部門を三菱自動車工業として設立した。いずれも本体の主力とは製品も設備も販路も異なり、分離した会社がやがて本体を上回る例も出た。
一方で、子会社の数は保有負担の原因にもなった。1970年代半ばから子会社の整理が始まった。1977年度に親会社と子会社の損益を合算した連結財務諸表が有価証券報告書へ加わると、親会社の単体決算には現れなかった赤字子会社が表面化した。子会社の数そのものが力を示す時代は終わり、分社の理由を説明する時代に入った。その説明として1970年代末に掲げられたのが効率である。台頭した独立系のグループは、小規模な会社を並立させて競わせる組織を採用した。一つの会社が大きくなるほど決裁は遅れ、部門ごとの採算も見えにくい。分社すれば損益が分離され、責任も分離される。
1990年代に、分社の意味は反転した。円高で輸出の採算が悪化し、国内の過当競争で価格も下落した。設備と雇用と債務を抱えたまま、次世代の投資まで本体で負担するのは難しい。そこで分社は、事業を本体から切り離す手段になった。切り出して別会社にすれば、他社との統合も売却も進めやすい。NECは主力の半導体をNECエレクトロニクスへ移し、東芝は収益源である半導体メモリを売却した。どちらも売上の大きい事業でありながら、次世代の製造装置に必要な投資額が本体の資金力を超えていた。
現在の分社は資本の入れ替えを伴う。ENEOSはJX金属を分離上場させた。一つの会社にあるかぎり、石油と金属の価値は合算された一つの株価にしか現れない。分離して初めて、それぞれの事業に別々の株主と別々の評価が付く。
財務諸表のどこを見るか
セグメント情報を年をまたいで並べ、区分が消えた年を特定する。分社であれば区分は残って連結の内側へ移り、売却なら区分ごと除かれる。会社分割は企業結合等関係の注記に載り、承継させた資産・負債の内訳と移転損益の有無、対価が株式か現金かが書かれている。連結の範囲の変更には子会社の異動として社名が記載され、持分を一部だけ残した場合は非支配株主持分か持分法投資損益へ切り替わる。手取り額は投資活動の連結の範囲の変更を伴う子会社株式の売却による収入で押さえる。
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- 持株会社化とグループ再編174