タマホームの創業——筑後興産ローコスト住宅部門の分離独立
1998年実施「日本の住宅は高すぎる」——玉木康裕氏が渡米で得た確信を、いかに全国の注文住宅ブランドへ育てたか
- 概要
- 1998年6月、玉木康裕氏が家業の建設会社・筑後興産で6年間温めたローコスト住宅事業を分離独立させ、福岡県筑後市に資本金1000万円・社員数名でタマホーム株式会社を設立した創業判断。ゼロからの起業ではなく、既存の低価格住宅事業を母体とするスピンオフだった。
- 背景
- 玉木康裕氏は1980年、30歳で米国の大学へ聴講生として渡り、坪単価30万円程度でハイグレードな住宅が建つ現地と日本との価格差に衝撃を受けた。1992年に家業でローコスト住宅を開発し、注文住宅の相場が坪単価50万円以上だった時代に半額の25万円で販売を始めていた。
- 内容
- 設立当初から価格を坪単価24.8万円に固定し、原価の積み上げではなく顧客が納得する価格を先に置いた。木造2階建て注文住宅をパッケージ化し、ロードサイドの小型展示場とテレビ広告を集客装置に据え、品質を支える柱として職人教育と現場への職人名掲示を敷いた。
- 含意
- 九州の一地場企業から出発し、2005年に東京へ本社を移して首都圏へ進出、2011年に47都道府県への出店を完了、2013年には創業15年で東京証券取引所第一部へ直接上場した。低価格と量販を両立させる住宅事業の型を、この創業判断が定めた。
価格を先に決める会社を、家業の外へ切り出した意味
この創業判断の核心は、住宅の値付けの順序を逆さにした点にある。原価を積み上げて売価を決めるのではなく、顧客が払える坪単価24.8万円を先に固定し、その価格で建つ家を設計と調達で成立させる。家業の建設業のなかで6年かけて確かめたこの型を、玉木康裕氏はあえて別会社へ切り出し、低価格の量販だけを追う専業として立ち上げた。既存の建設業と混ぜたままでは、量産と標準化に振り切った運営は難しかったとみられる。渡米で得た「日本の住宅は高すぎる」という一人称の確信を、事業の設計思想にまで落とし込んだところに、この創業の性格がうかがえる。
もっとも、価格を先に置くモデルは、量が伸びるあいだは強く、需要が縮む場面では弱さも抱えていた。上場後の2014年の消費増税で低価格訴求の主力商品が失速し、タマホームは2期連続の純損失に沈む。創業の型がそのまま万能だったわけではない。それでも、九州の一地場企業を15年で東証一部上場企業へ押し上げた原動力が、渡米体験に発する価格観と、それを専業会社として切り出す決断にあったことは動かない。規模の拡大そのものより、どの価格でどれだけの品質の家を量産するかという問いを事業の中心に据えた点で、この創業判断は住宅業界のなかでも独自の位置を占める。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
渡米で得た「日本の住宅は高すぎる」という確信
タマホーム創業の原点は、玉木康裕氏が1980年に米国で受けた衝撃にさかのぼる。大学卒業後に家業の建設業へ入っていた玉木康裕氏は、30歳のときに米国の大学へ聴講生として渡り、当時の建築事情を学んだ。そこで目にしたのが、日本とはかけ離れた住宅と土地の価格差だった。玉木康裕氏はのちに「30歳のときにアメリカの大学に聴講生として、当時の建築事情を勉強しに行ったんです。その時に驚いたのが、土地と住宅の価格差です」と振り返っている。米国の住宅は坪単価30万円程度でありながらハイグレードで、日本の相場との開きが「日本にもローコスト住宅と豊かな暮らしを実現させたい」という信念へ結び付いた[1][2]。
玉木康裕氏の問題意識は、住宅そのものの作り方への批判に向かっていた。玉木康裕氏は「何も、変わったことはしていません。もともと、日本の住宅の建築費は高すぎるんです」と語り、価格が高いのは構造的な理由によると考えていた。めざしたのは、衣料品のユニクロと同じく安さと品質を両立させた家の量販である。玉木康裕氏は「日本の住宅は高すぎる。庶民の夢、住まいこそアメリカのようにあるべき」との思いから、「ユニクロのように安くて高品質な家を提供していこう」と事業の狙いを定めた[3][4]。
家業で6年育てたローコスト住宅事業
この構想は、いきなり新会社として世に出たのではなく、家業のなかで実地に試されていた。玉木康裕氏は家業の建設業・筑後興産の専務取締役として、1992年にローコスト住宅を開発し、注文住宅の相場が坪単価50万円以上だった時代に、その半額にあたる坪単価25万円での販売を始めた。玉木康裕氏は「その後1992年にローコスト住宅を開発し、日本の注文住宅は坪単価50万円以上が相場の時代、半額の25万円で販売を開始。1998年には、当部門を家業より分離独立させ、タマホーム(株)を設立」と、6年間の助走を経た分離独立の経緯を明かしている。創業前の6年間で、低価格住宅を一定量売る事業の実績は積み上がっていた[5][6]。
決断
家業からの分離独立とタマホーム設立
1998年6月、玉木康裕氏は48歳で、家業のローコスト住宅部門を筑後興産から分離独立させ、福岡県筑後市にタマホーム株式会社を設立した。資本金は1000万円、社員は数名という小規模な出発だった。企業理念には「家づくり、家族づくり、幸せづくりのお手伝い」を掲げた。家業の一部門を切り出す形をとったのは、住宅の低価格量販を本業の建設業とは別の事業として、専業で追う体制を組むためだった[7][8]。
坪単価24.8万円・展示場・広告という量販の型
新会社の事業設計は、価格から逆算する発想で貫かれていた。玉木康裕氏は設立当初、価格を坪単価24.8万円に設定した。原価を積み上げて値付けするのではなく、顧客が納得する価格を先に置き、その価格で建てられる家をつくるという順序だった。玉木康裕氏は「タマホームでは、設立当初、価格を坪単価24.8万円に設定。原価の積み上げで価格を設定するのではなく、お客様が納得する価格で良い家をつくることをめざした」と述べている。木造2階建て注文住宅をパッケージ化して設計工数と材料調達費を抑え、2000年1月1日に筑後市久富へ開設したモデルハウス1号店を皮切りに、ロードサイドの小型展示場を量販の窓口に使う販売のかたちを組み上げた[9][10]。
低価格の量販を品質と両立させる裏付けとして、玉木康裕氏は職人教育と広告の二つを事業の柱に据えた。注文住宅では職人の技術が仕上がりを左右すると考え、職人教育に力を注ぐとともに、建築現場に職人の名前を掲示する運用を敷いた。玉木康裕氏は「またタマホームの建築現場には職人の名前を表に提示しています。これは『いつでも見てください』という自信の表明であり、手抜きをしない姿勢と高い技術力があるからこそできることなのです」と説明する。同時に、良い家をつくるだけでは客は集まらないとして、「私たちはタマホームをより多くの方々に知っていただくため、広告活動も意欲的に展開しています」と、広告を集客の要に置いた。根底には「人間を大切にしない会社が良い家をつくれるはずがない」という創業以来の考えがあった[11][12][13]。
結果
九州発の注文住宅専業として全国網を築き上場へ
筑後市で始めた低価格の量産注文住宅は、地方郊外を中心に支持を集めた。玉木康裕氏は当時の公式サイトで「タマホーム(株)は1998年に福岡からはじまり、九州、中国、関西、東海へ全国展開を視野に入れた出店戦略を強力に推進。2005年には本社を東京へ移転し、関東圏へも進出することができました」と、西から東への出店の広がりを語っている。売上高は2001年5月期の19億円から2004年5月期の226億円へ短期間で膨らみ、連結売上高も2005年5月期の463億円から2006年5月期には809億円へ伸びた。九州の地場ハウスメーカーが、創業7年で首都圏まで店舗網を持つ全国企業へ移った[14][15]。
出店はその後も速く、2006年12月に100店、2008年10月に150店、2011年3月に200店と続き、2011年1月にはタマホーム沖縄の展示場開設で47都道府県への出店を完了した。創業から13年で全国全都道府県に展示場を構える企業となり、地方に分散した店舗網を、商品の標準化と本社一括の原価管理で支えるモデルが定着した。2013年3月には創業15年目で東京証券取引所第一部および福岡証券取引所本則市場へ株式を上場した。二部やマザーズを経ず東証一部へ直接上場する例は当時の住宅業界で珍しく、創業者・玉木康裕氏が発行済株式の36.23%を保有する同族構造のまま公開企業となった。上場前後のFY11(2012年5月期)連結売上高は1,696億円、FY12(2013年5月期)は1,523億円で、年商1,500億円規模で公開市場へ移った[16][17][18]。
- タマホーム公式サイト「皆様へ」社長メッセージ(Web Archive 2007年7月17日採取)
- NetIB-NEWS(データ・マックス)2008年2月1日「No.004 タマホーム株式会社 代表取締役社長 玉木康裕 氏」
- KENJA GLOBAL(賢者.tv)2007年3月「タマホーム株式会社 玉木康裕」
- タマホーム公式サイト 会社概要・業績(Web Archive 2007年6月14日採取)
- タマホーム 有価証券報告書【沿革】
- タマホーム 有価証券報告書(主要な経営指標等の推移)