理研感光紙の分離独立と市村清への経営一任
装置をハンマーで壊した外部出身者に、大河内正敏はなぜ一社を任せたか
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- 概要
- 1936年2月、理研コンツェルンが感光紙部門を分離し、資本金35万円の理研感光紙株式会社を設立、経営を市村清に一任した経営判断。のちのリコーはこの独立から始まった。
- 背景
- 市村清は保険外交員から感光紙の九州総代理店となり、満鉄への大口採用を成功させて理研コンツェルン総帥・大河内正敏の目に留まった。破格の待遇で本社の感光紙部長に招かれたが、古参社員の反発にあい、本社での立場は不安定であった。
- 内容
- 冷房が機能しない事務所をあてがわれた市村がその装置をハンマーで壊す事態に至ったが、大河内は処分せず、感光紙部門を独立の会社にして任せると決めた。1936年2月、資本金35万円・従業員33名の理研感光紙が発足し、市村が代表取締役に就いた。
- 含意
- 発明の工業化を掲げる理研コンツェルンには、傍系会社を独立採算で切り出す体質があった。市村の市場感覚と営業規律をこの会社化で受け止めたことが、感光紙からカメラ、複写機へと続くリコーの連続的な事業転換の底流を形づくった。
組織に収まらぬ人材を、独立した会社で活かす
この決断の核心は、優れた営業人材をどう処遇するかという問いに、独立の会社を与えて答えた点にあるとみることができる。大河内は、装置を壊すほど激しい市村を組織の内側に押し込めるのではなく、事業ごと外へ切り出して丸ごと任せた。発明の工業化を掲げ、傍系会社を独立採算で走らせてきた理研コンツェルンの体質があったからこそ選べた道であり、財閥本体からの分離とも戦時統合からの再分割とも異なる、独特の起業の型がうかがえる。
もっとも、外部出身者への一任は、古参社員との軋轢や本社での孤立を抜けた先にようやく成り立ったものであった。会社化がすべてを解いたわけではなく、市村はその後も大河内との対立を重ねていく。それでも、組織に収まりきらない個をあえて独立させ、市場と向き合う裁量を渡したこの選択から、感光紙からカメラ、複写機へと続くリコーの転換が始まった。人を組織に合わせるのか、人に合わせて会社の形を用意するのか——1936年の分離独立は、その問いを早い時期に体現した一例といえる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
保険外交から感光紙販売へ
市村清は佐賀県の貧農に生まれ、銀行員や上海勤務を経て、富国生命の保険外交員として身を立てた。仕事で通ううちに、富国生命の佐賀代理店主が理研感光紙の九州総代理店を兼ねていた縁から、市村は1929年に感光紙販売の権利を譲り受け、福岡に理研感光紙九州総代理店の看板を掲げた。人のいやがる保険募集で成果を出した営業の力を、そのまま感光紙の販売へ持ち込んだ[1]。
感光紙の売れ行きは、市村の手で急速に伸びた。最初は月に200本ほどであった売上が半年で400本、800本と積み上がり、1年で月3000本に達した。取引先には三菱造船や三井三池、八幡製鉄といった大口が並んだ。やがて九州にとどまらず朝鮮・満州の総代理店も任され、店員を優遇する利益三分主義のもとで店は数十人の所帯へ育っていった[2]。
満鉄攻略と理研本社への招聘
1934年、市村は満州の国策会社である満鉄に理研の陽画感光紙を売り込んだ。青写真への統一を進める社内の抵抗にあいながら、各部門を一つずつ説き、比較試験の末に本社の全部門へ陽画感光紙を採用させた。この働きぶりが、理研コンツェルンを率いる大河内正敏の耳に入る。満鉄でも市村の話で持ちきりだと伝わり、大河内は市村を本社に迎えたいと考えるようになった[3]。
大河内は、九州の一代理店にすぎない市村に、感光紙部長として月給と交際費を十分に出し、いずれは重役にするという破格の条件を重ねて示した。市村は迷いつつ本社へ移ったが、待っていたのは冷たい対応であった。廊下で顔をそむけられ、食堂で膳を配ってもらえない日々が続き、外部から来た人材への古参社員の反発は根深く、市村の本社での立場は宙に浮いたままであった[4]。
決断
ハンマー事件と会社化の決断
感光紙部の人事と経理を市村に任せる決定が出て、専用の事務所が用意された。ところが、あてがわれた部屋の冷房は下から埃を舞い上げるばかりで、執務に堪える設備ではなかった。市村はこれを自分への嫌がらせと受け取り、装置をハンマーでたたき壊してしまう。解雇されても構わないと腹を決めた市村を、大河内は処分しなかった[5]。
報告を受けた大河内が市村に示したのは、さらに踏み込んだ提案であった。感光紙部門を独立の会社にして君に任せる、好きな場所へ事務所を移してよい、と告げた。組織の内側で軋轢を抱え込むより、事業ごと外へ切り出して営業に長けた市村に委ねる——この判断が、後年のリコーへと連なる分離独立を生んだ。1936年の春、市村は36歳であった[6]。
理研感光紙の発足と独立採算
1936年2月、理研感光紙株式会社が発足した。資本金は35万円、うち払い込みは15万円で、残る20万円は大河内が知能資本と称する重い負担であった。事務所を東京・日比谷に置き、市村が代表取締役に就いた。従業員は33名。発明の工業化を掲げる理研コンツェルンが、感光紙という一事業を独立採算の会社として切り出し、その舵取りを外部出身の市村に丸ごと預けた形であった[7]。
会社を任された市村は、まず製品の原価を下げにかかった。原紙を三菱から王子製紙へ切り替えようと、幾度も足を運んで藤原銀次郎の同意を取りつけ、単価をポンドあたり12銭5厘と、従来より2銭安い水準へ引き下げた。素材を仕入れて売るだけでなく、原価と品質の管理まで握る経営を、独立初年から自ら回していった。営業の感覚と原価への執着が、新会社の底流に据えられた[8]。
結果
理研光学工業への改称とリコーの始まり
独立した理研感光紙は、市村のもとで感光紙事業を軌道に乗せ、1938年に理研光学工業へ商号を改めてカメラの製造へ進んだ。感光紙という素材から、カメラという機器へ——分離独立で得た経営の自由が、次の事業への乗り換えを可能にした。理化学研究所発明の陽画感光紙を継いだこの一社が、理研系の傍系会社群のなかからのちのリコーへと育っていく[9]。
戦後は二眼レフのリコーフレックス、1955年の複写機リコピー101へと事業を乗り換え、総合事務機メーカーへ育っていく。装置をハンマーで壊した外部出身者に一社を委ねた1936年の判断は、組織に収まりきらない人材を独立した会社で受け止め、その営業の力を存分に振るわせた点で、リコーの連続的な事業転換の出発点となった[10]。
- 市村清「私の履歴書」(日本経済新聞社『私の履歴書 経済人5』, 1980)
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- リコー 有価証券報告書【沿革】