この決断の核心は、優れた営業人材をどう処遇するかという問いに、独立の会社を与えて答えた点にあるとみられる。大河内は、装置を壊すほど激しい市村清氏を組織の内側に押し込めるのではなく、事業ごと外へ切り出して丸ごと任せた。発明の工業化を掲げ、傍系会社を独立採算で走らせてきた理研コンツェルンの体質があったからこそ選べた道であり、財閥本体からの分離とも戦時統合からの再分割とも異なる、独特の起業の型がうかがえる。
もっとも、外部出身者への一任は、古参社員との軋轢や本社での孤立を抜けた先にようやく成り立ったものであった。会社化がすべてを解いたわけではなく、市村清氏はその後も大河内との対立を重ねていく。それでも、組織に収まりきらない個をあえて独立させ、市場と向き合う裁量を渡したこの選択から、感光紙からカメラ、複写機へと続くリコーの転換が始まった。人を組織に合わせるのか、人に合わせて会社の形を用意するのか——1936年の分離独立は、その問いを早い時期に体現した一例といえる。