ヒューリック日本橋興業からヒューリックへの商号変更と東証一部上場

銀行の名を外して、市場に値段をつけられる会社になるか——創業50周年に始まった2年間の準備

時期 2008年11月
意思決定者(推定) 西浦三郎 社長
論点 銀行系関連会社からの独立と資本市場への接続
概要
2007年1月に創業50周年を機に商号を日本橋興業からヒューリックへ改め、2008年11月11日に東京証券取引所市場第一部へ株式を上場した判断。非上場の銀行関連会社から、株式市場で評価される不動産会社へ立場を移した。
背景
2006年3月、旧富士銀行に入行し取締役副頭取を務めた西浦三郎氏が社長に就任した。当時の日本橋興業は、旧富士銀行の店舗ビルと社宅・独身寮の運営を柱とする非上場の関連会社であった。
内容
商号の「HULIC」はHUMAN・LIFE・CREATEの3語を組み合わせた造語で、銀行名を冠したビルの名称も順次改められた。上場は金融危機のさなかの2008年11月で、資本金は38億7千9百万円となった。
含意
上場によって株式を対価とする合併が可能になり、2010年の千秋商事・芙蓉総合開発、2012年の旧昭栄との合併がこの資本の仕組みの上で実現した。銀行の資産管理を担う会社という位置づけは、ここで市場に開かれた事業会社へ変わった。
筆者の見解

名を替えることと、値段がつくこと

商号の変更と上場は、外から見れば体裁を整える手続きに見える。ただ、この会社にとっては意味が重なっていた。日本橋興業という名は、旧富士銀行の不動産を預かるという役割そのものを指していた。名を替え、株式を市場に置けば、賃料の支払い手も、経営の評価者も、銀行の外側へ広がる。西浦氏が就任から2年足らずでこの2つを続けて実行したところに、銀行の関連会社という立場を早く終わらせようとする判断が読み取れる。

一方で、上場の時期は選ばれたというより巡り合わせに近い。金融危機の底で株式を売り出せば、手取りは想定を下回る。それでも延期しなかった判断が、2010年と2012年の合併を可能にする資本の仕組みを2年早く用意した。市場の値がつく会社であるかどうかは、資金の量よりも、次に何ができるかを決める条件になる。銀行の系列に生まれた会社が独立していく道筋として、この2年間の手続きは軽くない意味を持っていたとみることができる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

銀行の副頭取が、関連会社の社長として来る

2006年3月、西浦三郎氏が日本橋興業の社長に就任した。1948年に東京で生まれ、1971年に富士銀行へ入行して取締役副頭取を務めた人物で、銀行の経営側から関連会社へ移った形になる。当時の日本橋興業は、旧富士銀行の店舗ビルと社宅・独身寮を保有し運営する非上場の会社であった。1990年代後半に銀行本体から移された数十件の物件が資産の中心にあり、賃料の主な支払い手も旧富士銀行であった。銀行の資産を預かる立場を続けるのか、自ら物件を選んで買う会社になるのかが、就任時の課題として残っていた[1][2]

収益の形は、当時から独特であった。2007年12月期の単体の売上高は331億円で、そこから101億円の営業利益を計上している。売上の3割が営業利益として残る構造で、賃貸に絞った事業の利幅の厚さを示していた。半面、売上の規模では大手不動産会社に遠く及ばず、資金調達も銀行借入に頼る非上場の中堅であった。物件を買い増して規模を追うには、借入以外の資金の出し手が要る。上場を検討する理由は、この一点にあった[3]

創業50周年に、銀行の名を外す

2007年1月、日本橋興業は商号をヒューリック株式会社へ改めた。有価証券報告書は、創業50周年の節目を迎えるにあたっての変更であり、これまでの資産を最大限有効に生かしつつ新たな事業をはかるためと説明している。日本橋という創業の地に由来する社名は、旧富士銀行の関連会社であることと分かちがたく結びついていた。設立から半世紀にあたる年に名を替えた点に、区切りを外から見える形で示す意図がうかがえる[4]

新しい商号のHULICは、HUMAN・LIFE・CREATEの3語を組み合わせた造語である。安心と信頼に満ちた社会の実現を企業理念に掲げ、人々の暮らしを快適にする商品とサービスを創造するという意味が込められた。社名の変更に伴い、保有するビルの名称も改められた。福岡富士ビルはヒューリック福岡ビル、銀座富士ビルはヒューリック銀座ビルというように、銀行の名を冠していた物件が自社の名を冠する物件へ替わった。看板の掛け替えは、賃料の支払い手が銀行1社であった時代との切り離しを、テナントと取引先の側にも伝える作業であった[5][6]

決断

金融危機のさなかの上場

2008年11月11日、ヒューリックは東京証券取引所市場第一部へ株式を上場した。上場に伴う新株の発行で、資本金は38億7千9百万円となった。商号の変更から1年10カ月、社長交代からは2年8カ月にあたる。二部や新興市場を経ずに一部へ直接上場した点は、保有する不動産の規模と賃貸収入の安定が審査の裏づけになったことを示している。銀行の関連会社として半世紀を過ごした会社が、株価という外部の評価にさらされる立場へ移った[7][8]

上場の時期は、市場環境から見れば最も不利な部類に入る。2008年秋の金融危機で株式相場は急落し、不動産業界では資金繰りに行き詰まる会社が相次いでいた。当時の状況について西浦氏は後年、リーマンショックのときも大恐慌が起こるといわれたが結局は収まったと述べ、市況の急変を一時的なものと見る立場をとっている。市況の底で上場すれば、調達できる金額は好況期より小さくなる。それでも予定どおり上場に踏み切ったのは、資金そのものより、株式を発行して対価に使える立場を得ることに重きが置かれたためだとみられる[9]

結果

上場直後の損失と、株式を使った拡大

上場直後の業績は厳しかった。2008年12月期の単体売上高は265億円、営業利益は106億円を確保したものの、当期純利益は19億円まで縮んだ。翌2009年12月期は売上高156億円、営業利益50億円となり、当期純損失71億円を計上している。不動産市況の悪化が保有資産の評価に及んだ期であり、上場1年目の株主には損失の計上から始まる決算が届いた。賃貸収入の安定という同社の説明が、市況の下振れをすべて吸収するものではないことも同時に示された[10]

上場によって得た株式という対価は、その後の合併で使われた。2010年7月には千秋商事と芙蓉総合開発の2社を合併し、同じ月に保険代理店事業をヒューリック保険サービスへ分割している。2012年7月には旧富士銀系の上場不動産会社である旧昭栄と合併し、株式の交付によって発行済株式数が増えた。非上場のままであれば、これらの再編は現金による買い取りに限られていた。上場は資金調達の窓口であると同時に、会社を買い集めるための通貨を手に入れる決定でもあった[11][12]

出典・参考

免責事項およびポリシー