第2章 年〜年

サカタのタネ:Sakata Seed Americaの設立と花から野菜への転換

1948年〜食べる市場向けに研究を移した戦後の野菜種子開発

戦後の坂田種苗は、花の種子から野菜の種子へ研究の主力を移した。花よりも食べるものの市場のほうがずっと大きいという判断によるものであった。1951年4月には東北大学農学部を出た金子善一郎氏が入社し、茅ヶ崎農場でトマトの研究に従事した。同年12月、横浜市内に売店を開設し、消費者へ直接売る場を持った。この直営店は、その後47年にわたり同社で唯一の小売の窓口であり続けた。単体の売上高は、戦後の混乱期以降、途切れることなく毎年増え続けた。戦前の坂田商会は欧米の業者へ花種子を送る輸出業者であり、国内の農家や家庭を相手にする商売ではなかった。

  • 証券アナリストジャーナル 1987年6月号(金子善一郎)
    • [1]戦後は花だけではなく野菜種子も一生懸命研究した。
  • 日経ビジネス 1996年3月18日号
    • [2]もともと花の種の研究から始まった会社だが、第2次世界大戦後に野菜の種の開発に力を入れ始めた。花よりも食べる市場の方がずっと大きいと考えたためである。
  • 福島の進路 1993年6月号「我が社の経営を語る」(金子善一郎)
    • [3]昭和26年3月に東北大学農学部を卒業し同年4月に坂田種苗へ入社した金子善一郎は、初め研究担当として茅ヶ崎農場でトマトの研究をしていた。
  • サカタのタネ 有価証券報告書【沿革】
    • [4]1951年12月、売店(後のガーデンセンター横浜)の営業を開始した。
  • 日経ビジネス 1999年2月8日号
    • [5]1998年10月に2店目の直営店を開くまでは、51年に横浜市内に開いた直営店だけであった。
    • [6]単独ベースでは戦後の混乱期以降ずっと毎年増収を続けている。

一重咲きペチュニアの入賞で戻った信用は、花の領域にとどまるものであった。1959年1月にはキャベツの「金盃甘藍」が農林大臣賞を受けた。1959年4月に長野県へ三郷試験場、翌1960年4月に藤沢市へ長後試験場を開設した。入賞と受賞は、いずれも第三者が品質を判定した結果であり、買い手の側から確かめられた。種子の良否が外見で分からない以上、こうした評価は買い手に対する品質の代理指標として働いた。研究の手続きそのものは作物を問わず、花で積んだ交配と選抜の方法は野菜にもそのまま移せた。

  • 証券アナリストジャーナル 1987年6月号(金子善一郎)
    • [7]昭和34年1月にキャベツの金盃甘藍が農林大臣賞を受賞した。
    • [10]種子の良否は外見では分からないので、農家に信用して使ってもらうしかない。
    • [11]良い親をつくるのは時間の積み重ねで、研究農場ではそれぞれの品種を受け持って父親と母親の品種改良を行っている。
  • サカタのタネ 有価証券報告書【沿革】
    • [8]1959年4月に三郷試験場、1960年4月に長後試験場を開設した。
  • 証券アナリストジャーナル 1994年7月(金子善一郎)
    • [9]国内外の種苗コンクールで数多くの入賞実績を築き、サカタのタネは世界のブランドに成長した。

坂田武雄氏は、1951年ごろ欧州の農村で食べたメロンの味に着目し、その種子を持ち帰った。持ち帰った系統を改良して父方の親とし、日本在来のまくわうりを母方の親として交配した。こうして1961年に完成したのが、日本で初のF1メロンであるプリンスメロンであった。発売の当初は網目模様がなく果肉が赤いことから消費者の抵抗があった。それでも農家にとって作りやすく、味が甘かったため、1965年ごろから普及が進んだ。当時のメロンは温室で1個ずつ仕立てる高級品で、産地の生産者の名を冠して売られていた。坂田種苗が狙ったのは、その味に近いものを露地で安くつくることであった。

  • 証券アナリストジャーナル 1987年6月号(金子善一郎)
    • [12]創業者の坂田は、欧米で生活したころから日本でも欧米のように安く食べられるメロンを作りたいと思っており、ヨーロッパへ行った時にフランスの家庭で食べたメロンがおいしかったので、その種子をハンカチに包んで持ち帰った。
    • [13]持ち帰った種の遺伝子を品種改良したものを父親(花粉)とし、日本在来のまくわうりを母親にしてつくり上げた。
  • 日経ビジネス 1996年3月18日号
    • [14]1951年ごろ欧州で食べたメロンの種を持ち帰って父親に、在来のまくわうりを母親にして育種を進め、61年に完成した。
    • [15]最初は網目模様がないのと果肉が赤いことから消費者には抵抗があった。
    • [16]農家が作りやすく非常に甘いことから浸透し、完成から5年後の65年ぐらいから普及した。
    • [17]普通のマスクメロンは温室に棚を作って1個1個作るもので、高級フルーツ店が扱うメロンには産地の名人の名前が付いている。価格が高いのは当たりはずれがなくおいしいという保証料である。
    • [18]できるだけ温室メロンに近く、しかし安く作れるメロンをという考えで開発した。
参考文献[1]-[18]
  • 証券アナリストジャーナル 1987年6月号(金子善一郎)
    • [1]戦後は花だけではなく野菜種子も一生懸命研究した。
    • [7]昭和34年1月にキャベツの金盃甘藍が農林大臣賞を受賞した。
    • [10]種子の良否は外見では分からないので、農家に信用して使ってもらうしかない。
    • [11]良い親をつくるのは時間の積み重ねで、研究農場ではそれぞれの品種を受け持って父親と母親の品種改良を行っている。
    • [12]創業者の坂田は、欧米で生活したころから日本でも欧米のように安く食べられるメロンを作りたいと思っており、ヨーロッパへ行った時にフランスの家庭で食べたメロンがおいしかったので、その種子をハンカチに包んで持ち帰った。
    • [13]持ち帰った種の遺伝子を品種改良したものを父親(花粉)とし、日本在来のまくわうりを母親にしてつくり上げた。
  • 日経ビジネス 1996年3月18日号
    • [2]もともと花の種の研究から始まった会社だが、第2次世界大戦後に野菜の種の開発に力を入れ始めた。花よりも食べる市場の方がずっと大きいと考えたためである。
    • [14]1951年ごろ欧州で食べたメロンの種を持ち帰って父親に、在来のまくわうりを母親にして育種を進め、61年に完成した。
    • [15]最初は網目模様がないのと果肉が赤いことから消費者には抵抗があった。
    • [16]農家が作りやすく非常に甘いことから浸透し、完成から5年後の65年ぐらいから普及した。
    • [17]普通のマスクメロンは温室に棚を作って1個1個作るもので、高級フルーツ店が扱うメロンには産地の名人の名前が付いている。価格が高いのは当たりはずれがなくおいしいという保証料である。
    • [18]できるだけ温室メロンに近く、しかし安く作れるメロンをという考えで開発した。
  • 福島の進路 1993年6月号「我が社の経営を語る」(金子善一郎)
    • [3]昭和26年3月に東北大学農学部を卒業し同年4月に坂田種苗へ入社した金子善一郎は、初め研究担当として茅ヶ崎農場でトマトの研究をしていた。
  • サカタのタネ 有価証券報告書【沿革】
    • [4]1951年12月、売店(後のガーデンセンター横浜)の営業を開始した。
    • [8]1959年4月に三郷試験場、1960年4月に長後試験場を開設した。
  • 日経ビジネス 1999年2月8日号
    • [5]1998年10月に2店目の直営店を開くまでは、51年に横浜市内に開いた直営店だけであった。
    • [6]単独ベースでは戦後の混乱期以降ずっと毎年増収を続けている。
  • 証券アナリストジャーナル 1994年7月(金子善一郎)
    • [9]国内外の種苗コンクールで数多くの入賞実績を築き、サカタのタネは世界のブランドに成長した。

1963年〜植物特許の不在をF1で埋めた品種の囲い込み

日本には長らく植物の新品種を守る制度がなく、新品種保護の規定を盛り込んだ種苗法ができたのは1978年であった。繰り返し種子を採れる固定種では、どれほど優れた品種を開発しても模倣されれば終わる。日本の種苗各社がF1の開発に集中したのは、この制度の空白があったためである。F1は親となる系統を外へ出さない限り再現できず、収穫物から採った種子では翌年に形質が崩れる。農家は同じものを作るために毎年種子を買うことになる。新しいF1が世に出れば旧来の種子は市場から退出するため、研究開発が経営の生命線となった。金子善一郎氏は、植物特許を作るよう国会や農林水産省へ陳情に通った。法が守らない発明を、生物の性質そのもので守ったのがF1であった。

  • 日経ビジネス 1996年3月18日号
    • [19]植物に関する知的所有権は日本が先進国の中で一番遅れており、78年にようやく新品種保護の項目を盛り込んだ種苗法ができた。
    • [20]繰り返し種を採取できる固定種では、どんなにいい種を開発しても真似されたら終わりである。
    • [21]植物特許がなかったため、日本の種苗メーカーはF1の開発に夢中になった。F1は親さえ管理して外に出さなければ真似されることはない。
    • [25]植物特許を作ってほしいと国会に陳情に行ったり、農林水産省や通産省に行ったりした。
  • 証券アナリストジャーナル 1994年7月(金子善一郎)
    • [22]農家が自分で種をとり翌年生産すると遺伝の関係で必ず形質等が悪くなるので、毎年種を買わなければ同じものは作れない仕組みになっている。
    • [23]農家は毎年種を買う必要があり、毎年売り上げが立つ。景気が良くても悪くても毎年必ず需要が生じる。
  • 日経ビジネス 1984年10月29日号
    • [24]ひとたび新しいF1種子が開発されるや旧来の種子は市場から駆逐されてしまう。種子業者にとって研究開発が経営の生命線といわれるのはこのためである。

親系統を一つ育て上げるだけで、10年以上を費やす。交配すると雑種が大量にでき、狙いに合う個体をごく少数に絞ってその種を次の年に播き直す。これを何年も続けることになる。1971年6月、千葉県に君津育種場が開かれた。研究担当は社員のおよそ3分の1を占め、各人が品種を分担して研究農場に常駐した。資本や人材をつぎ込んで大企業が開発に乗り出しても、この年月だけは金で手に入らなかった。親づくりは、同じ担当者が続けて受け持たなければ成功しにくい仕事でもあった。開発の成果が制度で守られない以上、先に着手した年数そのものが参入の障壁になった。

  • 近代中小企業 1990年8月号
    • [26]ハイブリッドの親づくりにはだいたい10年はかかる。
    • [30]大企業がカネと人材を投資して開発に取り掛かっても時間を買うわけにはいかない。
    • [31]同じ担当者がその親づくりにかかわらなければ成功しにくい。時間の積み重ねが大事である。
  • 日経ビジネス 1999年2月8日号
    • [27]膨大な数の雑種の中から目的にあったものを一握りだけ残して種を採り、翌年育てる。さらによいものだけを絞り込み、また育てるという作業を何年も繰り返す。
  • サカタのタネ 有価証券報告書【沿革】
    • [28]1971年6月、君津育種場を開設した。
  • 証券アナリストジャーナル 1987年6月号(金子善一郎)
    • [29]社員の約3分の1が研究担当で、それぞれの品種を受け持って研究農場で研究している。

戦後、米国からの救援物資にゴールデンクロスバンタムというトウモロコシがあった。金子善一郎氏は学生時代にこれを研究室で栽培し、実の詰まり方に驚いた。坂田種苗は1957年にこの品種の販売権を獲得して売り出した。1971年には、収穫から4日間は甘みが落ちないスイートコーン「ハニーバンタム」を発売した。米の減反による転作の時流に乗り、栽培は急速に広がった。ホウレンソウでは、ベト病に弱い在来の固定種をF1に置き換え、発売から3年でほとんどが切り替わった。農薬を撒き続けていた作物が、品種の交代だけで散布をほとんど要さなくなった。メロンとトウモロコシが主要な収益源になった。プリンスメロンは1977年から1978年ごろに最盛期を迎え、約1万ヘクタールで栽培されて年に7億から8億個が生産された。

  • 日経ビジネス 1996年3月18日号
    • [32]戦後、米国からの救援物資の中にゴールデンクロスバンタムという種類のトウモロコシがあった。
    • [33]大学の2年生くらいのときに研究室で栽培してみたら、どこをむいても実がピシッと入っていた。
    • [34]会社に入って57年に販売権を獲得して売り出したところ、最初は半信半疑で作った農家がびっくりし、面白いように広がった。
    • [39]メロンとトウモロコシが主要な収益源になった。
  • 証券アナリストジャーナル 1987年6月号(金子善一郎)
    • [35]昭和46年に、4日間甘味が落ちないスイート・コーン「ハニー・バンタム」を発売した。
    • [36]ハニー・バンタムの栽培は米作減反による転作の時流に乗り、爆発的に増えた。
    • [37]昭和40年代までのホウレンソウは日本在来の固定種でベト病に弱かったが、ハイブリッド化したところ発売から3年ぐらいで全国のホウレンソウのほとんどが固定種から当社のハイブリッド品種に切り替えられた。
    • [38]40年代には薬づけのホウレンソウが作られていたが、ホウレンソウにはいまほとんど農薬はかかっていない。
    • [40]プリンス・メロンは最盛期の昭和52〜53年ごろ、約1万ヘクタールで栽培され、年に7億〜8億個が生産された。
参考文献[19]-[40]
  • 日経ビジネス 1996年3月18日号
    • [19]植物に関する知的所有権は日本が先進国の中で一番遅れており、78年にようやく新品種保護の項目を盛り込んだ種苗法ができた。
    • [20]繰り返し種を採取できる固定種では、どんなにいい種を開発しても真似されたら終わりである。
    • [21]植物特許がなかったため、日本の種苗メーカーはF1の開発に夢中になった。F1は親さえ管理して外に出さなければ真似されることはない。
    • [25]植物特許を作ってほしいと国会に陳情に行ったり、農林水産省や通産省に行ったりした。
    • [32]戦後、米国からの救援物資の中にゴールデンクロスバンタムという種類のトウモロコシがあった。
    • [33]大学の2年生くらいのときに研究室で栽培してみたら、どこをむいても実がピシッと入っていた。
    • [34]会社に入って57年に販売権を獲得して売り出したところ、最初は半信半疑で作った農家がびっくりし、面白いように広がった。
    • [39]メロンとトウモロコシが主要な収益源になった。
  • 証券アナリストジャーナル 1994年7月(金子善一郎)
    • [22]農家が自分で種をとり翌年生産すると遺伝の関係で必ず形質等が悪くなるので、毎年種を買わなければ同じものは作れない仕組みになっている。
    • [23]農家は毎年種を買う必要があり、毎年売り上げが立つ。景気が良くても悪くても毎年必ず需要が生じる。
  • 日経ビジネス 1984年10月29日号
    • [24]ひとたび新しいF1種子が開発されるや旧来の種子は市場から駆逐されてしまう。種子業者にとって研究開発が経営の生命線といわれるのはこのためである。
  • 近代中小企業 1990年8月号
    • [26]ハイブリッドの親づくりにはだいたい10年はかかる。
    • [30]大企業がカネと人材を投資して開発に取り掛かっても時間を買うわけにはいかない。
    • [31]同じ担当者がその親づくりにかかわらなければ成功しにくい。時間の積み重ねが大事である。
  • 日経ビジネス 1999年2月8日号
    • [27]膨大な数の雑種の中から目的にあったものを一握りだけ残して種を採り、翌年育てる。さらによいものだけを絞り込み、また育てるという作業を何年も繰り返す。
  • サカタのタネ 有価証券報告書【沿革】
    • [28]1971年6月、君津育種場を開設した。
  • 証券アナリストジャーナル 1987年6月号(金子善一郎)
    • [29]社員の約3分の1が研究担当で、それぞれの品種を受け持って研究農場で研究している。
    • [35]昭和46年に、4日間甘味が落ちないスイート・コーン「ハニー・バンタム」を発売した。
    • [36]ハニー・バンタムの栽培は米作減反による転作の時流に乗り、爆発的に増えた。
    • [37]昭和40年代までのホウレンソウは日本在来の固定種でベト病に弱かったが、ハイブリッド化したところ発売から3年ぐらいで全国のホウレンソウのほとんどが固定種から当社のハイブリッド品種に切り替えられた。
    • [38]40年代には薬づけのホウレンソウが作られていたが、ホウレンソウにはいまほとんど農薬はかかっていない。
    • [40]プリンス・メロンは最盛期の昭和52〜53年ごろ、約1万ヘクタールで栽培され、年に7億〜8億個が生産された。

1975年〜サカタ・シード・アメリカの設立と無借金経営が抱えた上限

1977年7月、坂田種苗は米国カリフォルニア州に現地法人サカタ・シード・アメリカを設立した。サンフランシスコには5万坪の研究農場を置いた。金子善一郎氏は、海外の育種農場をこの州から他地域へ広げるつもりはないと明言し、理由を3つ挙げた。西海岸の気候は日本に近く、育種の技術をそのまま移すことができる。背後には広大な市場があり、品種保護制度と採種農家も整っていた。1987年時点で、輸出は総売上高の13〜15%を占めた。日本の制度が与えなかった品種の法的な保護を、進出先の制度が肩代わりした。

  • サカタのタネ 有価証券報告書【沿革】
    • [41]1977年7月、Sakata Seed America, Inc.を設立した。
  • 証券アナリストジャーナル 1987年6月号(金子善一郎)
    • [42]昭和52年に米サンフランシスコに5万坪の研究農場をもつSakata Seed America Incを設立した。
    • [46]総売上高に占める輸出の比率は13〜15%ぐらいである。
  • 日経ビジネス 1984年10月29日号
    • [43]金子社長は、海外育種農場については52年に進出した米カリフォルニア州から手をひろげるつもりはないと言明した。
    • [44]アメリカ西海岸は比較的日本に似た気候のため、日本との育種技術互換が可能である。
    • [45]背景に広大な市場があること、アメリカの品種保護制度と採種農家がしっかりしていることが理由である。

1982年には、より味の良いものを求める需要に応えてアンデスメロンを開発した。1983年度、坂田種苗の売上高は217億円で、業界首位のタキイ種苗の318億円を下回った。しかし経常利益は48億円とタキイの52億円に迫り、売上高経常利益率では22.0%対16.2%と逆転した。この差は、狙う作物の違いから生まれていた。タキイのヒット商品は大根・白菜・キャベツという在来型の野菜であった。坂田種苗はデザート・スナック・サラダ用の作物を開発対象に据えた。高値で出荷できる作物ほど生産費に占める種子の比率は小さく、種子価格を高く設定できた。坂田種苗は出荷の時期に業者を集めて試食会を催し、テレビで広告を流した。品種を作るだけでなく、その品種が高く売れる市場まで作りにいった。

  • 証券アナリストジャーナル 1987年6月号(金子善一郎)
    • [47]一般消費者の生活向上とともによりおいしいものが求められるようになったことから、そのニーズに応えるべく昭和57年にアンデス・メロンを開発した。
  • 日経ビジネス 1984年10月29日号
    • [48]58年度の売上高はタキイ種苗が318億円、2位の坂田種苗が217億円であった。坂田種苗の59年5月期売上高は217億1200万円である。
    • [49]経常利益はタキイの52億円に対し坂田が48億円、売上高経常利益率はタキイ16.2%に対し坂田22.0%である。
    • [50]売上高営業利益率もタキイの15.7%に対し坂田が21.3%と大きく上回っている。営業利益は種子価格の利ザヤの大きさを表す。
    • [51]タキイのヒット商品は十字花科蔬菜(大根、白菜、キャベツ)などの在来型野菜が中心である。
    • [52]同社の開発目標はデザート、スナック、サラダ用作物に主として向けられており、食生活の高級化指向にマッチしている。
    • [53]高付加価値を生む農作物ならば製品価格に占める種子コストは比較的低くてすむため、坂田は種子価格をかなり独占的に設定できる。
    • [54]これらの作物が市場に出回る時期に、坂田は業者を集めて試食会を催し、日本テレビ、テレビ朝日でCFを放映している。

坂田武雄氏は借金を嫌い、坂田種苗は創業以来、無借金経営を続けた。見込みで投資せず、利益に見合う範囲でだけ設備を整える方針も守られた。1984年4月、千葉県君津市にバイオテクノロジーの研究施設を開設した。この施設だけで2億5千万円を投じたが、当時の資本金は3億円であった。同業では、タキイ種苗が三菱化成とバイオ研究で提携し、カネコ種苗は店頭登録による公募増資に動いて住友商事や協和発酵とも組んだ。新品種は製品化のリスクが大きく、坂田種苗はそれまで開発資金をすべて内部留保で賄ってきた。無借金を守るほど、投資の上限は前年までの利益に縛られた。

  • 証券アナリストジャーナル 1987年6月号(金子善一郎)
    • [55]発足以来、創業者の坂田が借金が一番嫌いだったこともあって、常に無借金経営を続けてきた。
  • 日経ビジネス 1984年10月29日号
    • [56]無理をしないのが創業以来の坂田経営哲学であり、今後も基礎体力の範囲内で開発を進める(金子社長)。
    • [57]1984年4月に千葉県君津市にバイオテク研究施設をオープンした。
    • [58]今春開設したバイオテク設備だけでも既に2億5千万円をつぎ込んでいる。資本金3億円の同社が今後も金喰い虫のバイオテクに投資を続けていくのはそう楽ではない。
    • [59]同業のタキイ種苗がバイオ研究で三菱化成と提携し、業界3位のカネコ種苗が店頭登録をして公募増資に意欲を見せ、バイオ開発でも住友商事、協和発酵と提携している。
    • [60]新品種を開発しても製品化リスクが大きいため、開発資金をすべて内部留保でまかなってきた同社にも新しい経営哲学が求められている。
参考文献[41]-[60]
  • サカタのタネ 有価証券報告書【沿革】
    • [41]1977年7月、Sakata Seed America, Inc.を設立した。
  • 証券アナリストジャーナル 1987年6月号(金子善一郎)
    • [42]昭和52年に米サンフランシスコに5万坪の研究農場をもつSakata Seed America Incを設立した。
    • [46]総売上高に占める輸出の比率は13〜15%ぐらいである。
    • [47]一般消費者の生活向上とともによりおいしいものが求められるようになったことから、そのニーズに応えるべく昭和57年にアンデス・メロンを開発した。
    • [55]発足以来、創業者の坂田が借金が一番嫌いだったこともあって、常に無借金経営を続けてきた。
  • 日経ビジネス 1984年10月29日号
    • [43]金子社長は、海外育種農場については52年に進出した米カリフォルニア州から手をひろげるつもりはないと言明した。
    • [44]アメリカ西海岸は比較的日本に似た気候のため、日本との育種技術互換が可能である。
    • [45]背景に広大な市場があること、アメリカの品種保護制度と採種農家がしっかりしていることが理由である。
    • [48]58年度の売上高はタキイ種苗が318億円、2位の坂田種苗が217億円であった。坂田種苗の59年5月期売上高は217億1200万円である。
    • [49]経常利益はタキイの52億円に対し坂田が48億円、売上高経常利益率はタキイ16.2%に対し坂田22.0%である。
    • [50]売上高営業利益率もタキイの15.7%に対し坂田が21.3%と大きく上回っている。営業利益は種子価格の利ザヤの大きさを表す。
    • [51]タキイのヒット商品は十字花科蔬菜(大根、白菜、キャベツ)などの在来型野菜が中心である。
    • [52]同社の開発目標はデザート、スナック、サラダ用作物に主として向けられており、食生活の高級化指向にマッチしている。
    • [53]高付加価値を生む農作物ならば製品価格に占める種子コストは比較的低くてすむため、坂田は種子価格をかなり独占的に設定できる。
    • [54]これらの作物が市場に出回る時期に、坂田は業者を集めて試食会を催し、日本テレビ、テレビ朝日でCFを放映している。
    • [56]無理をしないのが創業以来の坂田経営哲学であり、今後も基礎体力の範囲内で開発を進める(金子社長)。
    • [57]1984年4月に千葉県君津市にバイオテク研究施設をオープンした。
    • [58]今春開設したバイオテク設備だけでも既に2億5千万円をつぎ込んでいる。資本金3億円の同社が今後も金喰い虫のバイオテクに投資を続けていくのはそう楽ではない。
    • [59]同業のタキイ種苗がバイオ研究で三菱化成と提携し、業界3位のカネコ種苗が店頭登録をして公募増資に意欲を見せ、バイオ開発でも住友商事、協和発酵と提携している。
    • [60]新品種を開発しても製品化リスクが大きいため、開発資金をすべて内部留保でまかなってきた同社にも新しい経営哲学が求められている。

出典・参考

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出典・参考
  • サカタのタネ 有価証券報告書【沿革】
  • 日経ビジネス 1984年10月29日号
  • 証券アナリストジャーナル 1987年6月号(金子善一郎)
  • 近代中小企業 1990年8月号
  • 福島の進路 1993年6月号「我が社の経営を語る」(金子善一郎)
  • 証券アナリストジャーナル 1994年7月(金子善一郎)
  • 日経ビジネス 1996年3月18日号
  • 日経ビジネス 1999年2月8日号

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