サカタのタネ:坂田農園の創業と5社合同による坂田種苗の設立
1913年〜米国の種苗会社で学んだ坂田武雄氏と苗木輸出の農園
事業の出発点は、1913年7月に坂田武雄氏が横浜の六角橋に開いた農園である。当初の名は朝日農園で、横浜に置かれたこの個人経営の農園は、ゆり根や苗木を欧米へ輸出することを主な目的としていた。坂田武雄氏は東京帝国大学農学実科の出身で、農商務省の海外派遣実習生として米国の種苗生産販売会社で研修を積んだ技術者だった。植物が好きで事業を起こした人物であり、経営では種子の品質を第一とした。農園はのちに坂田商会と名を改め、シカゴに支店を設けて、米国の買い手と直接取引する販路を得た。国内の園芸市場ではなく、研修で取引の実情を知った欧米の需要から事業を組み立てたとみられる。
- サカタのタネ 有価証券報告書【沿革】
- [1]1913年7月、坂田武雄が神奈川県城郷村(現・横浜市六角橋)で農園を設立した。
- 証券アナリストジャーナル 1987年6月号(金子善一郎)
- [2]大正2年、苗木の輸出を主たる目的として横浜に、朝日農園として創立された。
- [4]坂田武雄は東京帝大農学実科を卒業し、農商務省の海外派遣実習生試験に合格して米国の種苗生産販売会社で研修を受けて帰国した。
- 証券 1987年7月号
- [3]前身は坂田武雄が大正2年7月、ゆり根や苗木の輸出を目的として神奈川県に設立した個人経営の農園である。
- 福島の進路 1993年6月号「我が社の経営を語る」(金子善一郎)
- [5]創業者は技術屋で東大の農学部を出た人で、植物が好きでこの仕事を始め、種というものは品質が一番大事であると言っていた。
- 日経ビジネス 1998年8月3日・10日号
- [6]社名を坂田商会と改称した後、シカゴに支店を開設した。
当時の坂田商会には自前で新種を開発する力がなく、海外業者の品種を育てて種を採る受託仕事にとどまっていた。そうした仕事の一つとして、1925年ごろ英国の種苗業者からキャベツの採種を引き受け、前払い金5万円を受領している。資金繰りに苦しむ社内では、先に入ったこの報酬に手をつけてよいかが何度も論じられた。その年は天候がよく、畑の出来も順調そうだったが、協力農家に種を配って育てさせた株からは種子が1粒も採れず、業者から前払い金を返すよう求められた。坂田武雄氏は前払い金に手を付けずに残していたため、そのまま返還して取引先を失わずに済んだ。この一件の後、坂田武雄氏は見込みで投資せず、利益に見合う範囲でだけ設備を整える方針を貫いた。自然を相手にする以上は不測の事態に備えるという教訓は、1999年時点でも経営陣に引き継がれていた。天候という制御できない供給制約を抱える事業で、手元資金を厚く持つ財務方針の起点になったとみられる。
- 日経ビジネス 1999年2月8日号
- [7]創業から間もないころ、まだ自社で新種を開発する力がなかった同社は、海外の種業者のキャベツの新種を育成して種を取る仕事を引き受けた。
- [9]規模の小さかった同社は資金に事欠くことも多く、収穫は間違いないと見込んで、社内では報酬を先に使うか待つべきかの議論を繰り返していた。
- [10]この年は好天に恵まれ、作柄も良好に見えた。
- [11]協力農家に種を配って栽培したが、収穫すると種が1粒も実っておらず、海外の業者から前払いの契約金の返還を請求された。
- [12]創業者の坂田武雄は手つかずで残してあった報酬を持参して謝り、大きな取引先を失わずに済んだ。
- [14]この事件により、自然を相手にする以上何が起こるか分からず、それに備えておかなければ種苗業界で仕事はできないということが経営上の教訓となっている(須田常務)。
- 福島の進路 1993年6月号「我が社の経営を語る」(金子善一郎)
- [8]大正14年ごろ、創業者は英国の種苗業者からキャベツの採種を受注し、前金5万円を受け取った。
- [13]前金を使っていれば倒産したという経験から、創業者は見込みで投資をせず、利益に見合った設備投資に徹した。
坂田農園は1922年1月に坂田商会へ改称した。翌1923年9月の関東大震災では社屋を焼失している。種子は外見から品質の良否を判別できず、買い手は売り手を信じて使うほかない商品である。しかも買い手にとっては、その年の収穫を左右する資材でもあった。坂田商会は創業当初から「品質・誠実・奉仕」を経営の基本方針に据えた。白菜は採種が入梅と重なり、雨の多い年には莢の中で発芽して発芽率が下がったが、坂田商会はそうした年の種子に2倍蒔くよう注記を添えて売った。発芽率が落ちた種子にはその率を書き添えて売るのが、うそのない商売を掲げた同社のやり方だった。品質の悪い種子を売らないことを貫き、研究に力を注いだのは坂田武雄氏である。欧米の業者のように海の向こうにいる買い手には品質を確かめる方法がいっそう乏しく、取引を保証するのは供給者の評判そのものになる。
- サカタのタネ 有価証券報告書【沿革】
- [15]1922年1月、坂田農園は坂田商会と改称した。
- [16]1923年9月、関東大震災により社屋が焼失した。
- 証券アナリストジャーナル 1987年6月号(金子善一郎)
- [17]種子の良否は外見では分からないので、農家に信用して使ってもらうしかない。
- [18]農家にとっては、その年の生計を支えるような大事な作物の種子である。
- [19]創業当初から「品質・誠実・奉仕」を経営の基本方針としている。
- [20]白菜はちょうど入梅にかかるので、雨が多いとサヤの中で種子になる前に発芽するものもあって、発芽率の低いものになる。
- [21]発芽率の低い種子は、この種子は発芽率が60%だから2倍播いてくださいとはっきり注記して販売している。
- [22]うそのない商売をしようという方針で、発芽率が60%の種子はその旨を注記して販売している。
- [23]研究に力を入れ、悪いものは売らないということに徹している。
参考文献[1]-[23]
- サカタのタネ 有価証券報告書【沿革】
- [1]1913年7月、坂田武雄が神奈川県城郷村(現・横浜市六角橋)で農園を設立した。
- [15]1922年1月、坂田農園は坂田商会と改称した。
- [16]1923年9月、関東大震災により社屋が焼失した。
- 証券アナリストジャーナル 1987年6月号(金子善一郎)
- [2]大正2年、苗木の輸出を主たる目的として横浜に、朝日農園として創立された。
- [4]坂田武雄は東京帝大農学実科を卒業し、農商務省の海外派遣実習生試験に合格して米国の種苗生産販売会社で研修を受けて帰国した。
- [17]種子の良否は外見では分からないので、農家に信用して使ってもらうしかない。
- [18]農家にとっては、その年の生計を支えるような大事な作物の種子である。
- [19]創業当初から「品質・誠実・奉仕」を経営の基本方針としている。
- [20]白菜はちょうど入梅にかかるので、雨が多いとサヤの中で種子になる前に発芽するものもあって、発芽率の低いものになる。
- [21]発芽率の低い種子は、この種子は発芽率が60%だから2倍播いてくださいとはっきり注記して販売している。
- [22]うそのない商売をしようという方針で、発芽率が60%の種子はその旨を注記して販売している。
- [23]研究に力を入れ、悪いものは売らないということに徹している。
- 証券 1987年7月号
- [3]前身は坂田武雄が大正2年7月、ゆり根や苗木の輸出を目的として神奈川県に設立した個人経営の農園である。
- 福島の進路 1993年6月号「我が社の経営を語る」(金子善一郎)
- [5]創業者は技術屋で東大の農学部を出た人で、植物が好きでこの仕事を始め、種というものは品質が一番大事であると言っていた。
- [8]大正14年ごろ、創業者は英国の種苗業者からキャベツの採種を受注し、前金5万円を受け取った。
- [13]前金を使っていれば倒産したという経験から、創業者は見込みで投資をせず、利益に見合った設備投資に徹した。
- 日経ビジネス 1998年8月3日・10日号
- [6]社名を坂田商会と改称した後、シカゴに支店を開設した。
- 日経ビジネス 1999年2月8日号
- [7]創業から間もないころ、まだ自社で新種を開発する力がなかった同社は、海外の種業者のキャベツの新種を育成して種を取る仕事を引き受けた。
- [9]規模の小さかった同社は資金に事欠くことも多く、収穫は間違いないと見込んで、社内では報酬を先に使うか待つべきかの議論を繰り返していた。
- [10]この年は好天に恵まれ、作柄も良好に見えた。
- [11]協力農家に種を配って栽培したが、収穫すると種が1粒も実っておらず、海外の業者から前払いの契約金の返還を請求された。
- [12]創業者の坂田武雄は手つかずで残してあった報酬を持参して謝り、大きな取引先を失わずに済んだ。
- [14]この事件により、自然を相手にする以上何が起こるか分からず、それに備えておかなければ種苗業界で仕事はできないということが経営上の教訓となっている(須田常務)。
1930年〜茅ヶ崎試験場とオール・ダブル・ペチュニアが築いた輸出の名声
坂田商会は1930年5月、神奈川県茅ヶ崎に試験場を開設した。茅ヶ崎の試験場は約9千坪の農場で、日本の種苗会社が設けた初めての試験場であった。主力の商品は、創業時の苗木から花の種子へ移っていた。ペチュニアは一重咲きが通例で、突然変異で現れた八重咲きの株からは種子が採れなかった。坂田商会は、八重咲きの花粉を一重咲きの株に掛けると子がすべて八重咲きになる性質を見出し、オール・ダブル・ペチュニアを商品にした。八重咲きを確実に子へ伝える交配の組み合わせを坂田商会だけが握った点が、輸出品の差別化要因になったとみられる。
- サカタのタネ 有価証券報告書【沿革】
- [24]1930年5月、茅ヶ崎試験場を開設した。
- 福島の進路 1993年6月号「我が社の経営を語る」(金子善一郎)
- [25]昭和5年に日本の種苗会社として初めて茅ヶ崎に試験場を作った。約9千坪の農場である。
- 証券アナリストジャーナル 1987年6月号(金子善一郎)
- [26]当初は苗木が主だったが、次第に花の種子にウエイトが移り、昭和の初めに茅ヶ崎に研究農場をつくった。
- [27]それまでペチュニアの花は一重で、突然変異で八重が出来たが、その八重からは種子が取れなかった。
- [28]八重の花粉を一重にかけると全部八重になることを発見し、茅ヶ崎の農場でオール・ダブル・ペチュニアを開発した。
昭和5年に開発した世界初の八重咲きペチュニアの種子で、坂田商会は欧米各国への輸出を広げた。品種改良に本格的に力を入れた1930年ごろ以降、米国の品評会オール・アメリカ・セレクションズではペチュニア8点と鶏頭1点が入賞した。すべての花が八重咲きになるペチュニアは海外で反響を呼び、坂田商会はペチュニアの育種会社として欧米に知られた。ところが戦争で花の研究は一切できなくなり、輸出の名声を支えた育種は止まった。戦前の名声は、育種と輸出が一体で回る間だけ保たれる性質のもので、戦時統制に対して脆弱であったとみられる。
- 証券 1987年7月号
- [29]昭和5年に世界初の八重咲きのペチュニアの種子を開発し、欧米各国への輸出を拡大した。
- 日経ビジネス 1998年8月3日・10日号
- [30]1930年ごろから品種改良に力を入れ、ペチュニア8点、鶏頭1点がオール・アメリカ・セレクションズで入賞した。
- [31]すべての花が八重咲きとなるオール・ダブル・ペチュニアが反響を呼び、ペチュニアのサカタとして世界に知られた。
- 証券アナリストジャーナル 1987年6月号(金子善一郎)
- [32]戦争によって花の研究は一切できなくなった。
一つの品種を世に出すには、10年以上の歳月を要するのが種苗の育種である。交配すると雑種が大量にできるが、狙いに合う個体はごく少数しか選ばれない。選んだ個体から得た種を次の年に播いてまた育て、これを何年も続けていく。創業者自身が技術者だった坂田商会では、技術が経営の軸であり続けた。加えて種子の生産は1年に1回に限られ、天候が荒れればその1年の成果を失うこともある。入賞の舞台となったオール・アメリカ・セレクションズは花と野菜を審査する品評会で、1932年の創設以来、権威の高いものの一つとされている。茅ヶ崎の試験場は、この年数と落選の山を引き受けるための設備であり、輸出で立つ会社だから持てた固定費であった。
- 近代中小企業 1990年8月号
- [33]一つの種をつくり出すのに10年以上の年月を費やす粘りが要求される業界である。
- 日経ビジネス 1999年2月8日号
- [34]交配で生まれた膨大な数の雑種の中から目的にあったものを一握りだけ残して種を採り、翌年育てる。そこからさらによいものだけを絞り込み、また育てるという作業を何年も繰り返す。
- [37]オール・アメリカ・セレクションズは1932年から続いている、世界で最も権威のある花と野菜の品評会の1つである。
- 証券アナリストジャーナル 1987年6月号(金子善一郎)
- [35]創業者が技術者ということもあって、技術を中心にやってきた。
- [36]種子は1年に1回しか生産のチャンスがないので、天候が悪かったり台風でやられたりすると、1年を完全に棒に振ることにもなりかねない。
参考文献[24]-[37]
- サカタのタネ 有価証券報告書【沿革】
- [24]1930年5月、茅ヶ崎試験場を開設した。
- 福島の進路 1993年6月号「我が社の経営を語る」(金子善一郎)
- [25]昭和5年に日本の種苗会社として初めて茅ヶ崎に試験場を作った。約9千坪の農場である。
- 証券アナリストジャーナル 1987年6月号(金子善一郎)
- [26]当初は苗木が主だったが、次第に花の種子にウエイトが移り、昭和の初めに茅ヶ崎に研究農場をつくった。
- [27]それまでペチュニアの花は一重で、突然変異で八重が出来たが、その八重からは種子が取れなかった。
- [28]八重の花粉を一重にかけると全部八重になることを発見し、茅ヶ崎の農場でオール・ダブル・ペチュニアを開発した。
- [32]戦争によって花の研究は一切できなくなった。
- [35]創業者が技術者ということもあって、技術を中心にやってきた。
- [36]種子は1年に1回しか生産のチャンスがないので、天候が悪かったり台風でやられたりすると、1年を完全に棒に振ることにもなりかねない。
- 証券 1987年7月号
- [29]昭和5年に世界初の八重咲きのペチュニアの種子を開発し、欧米各国への輸出を拡大した。
- 日経ビジネス 1998年8月3日・10日号
- [30]1930年ごろから品種改良に力を入れ、ペチュニア8点、鶏頭1点がオール・アメリカ・セレクションズで入賞した。
- [31]すべての花が八重咲きとなるオール・ダブル・ペチュニアが反響を呼び、ペチュニアのサカタとして世界に知られた。
- 近代中小企業 1990年8月号
- [33]一つの種をつくり出すのに10年以上の年月を費やす粘りが要求される業界である。
- 日経ビジネス 1999年2月8日号
- [34]交配で生まれた膨大な数の雑種の中から目的にあったものを一握りだけ残して種を採り、翌年育てる。そこからさらによいものだけを絞り込み、また育てるという作業を何年も繰り返す。
- [37]オール・アメリカ・セレクションズは1932年から続いている、世界で最も権威のある花と野菜の品評会の1つである。
1942年〜農産種苗統制要綱による5社合同と戦後の独立回復
1942年、農林省は農産種苗統制要綱により、種苗業界の自主的な合同を勧奨した。同年12月、坂田商会はアタリヤ農園・藤田善兵衛商店・榎本徳次郎商店・養本社の4社と企業合同した。新会社の商号は坂田種苗株式会社、資本金は19万5千円であった。個人経営の農園として出発した事業は、ここで初めて株式会社の形を取った。合同は戦時統制令に基づく農林省の指導によるもので、坂田武雄氏が相手を選べる話ではなかった。合同によって坂田商会の名は消え、以後44年にわたり坂田種苗の名で事業を続けた。種苗業は食料の生産に直結する産業であり、戦時の統制が確保しようとしたのはまず供給量であって、品種の優劣ではなかった。
- 証券 1987年7月号
- [38]農産種苗統制要綱により、種苗業界の自主的合同が勧奨された。
- [41]坂田種苗株式会社の設立年月日は昭和17年12月1日である。
- サカタのタネ 有価証券報告書【沿革】
- [39]1942年12月、坂田商会、アタリヤ農園、藤田善兵衛商店、榎本徳次郎商店および養本社が企業合同した。
- [40]企業合同により資本金195千円で坂田種苗株式会社が設立された。
- [43]1986年1月、坂田種苗株式会社は商号を株式会社サカタのタネに変更した。
- 証券アナリストジャーナル 1987年6月号(金子善一郎)
- [42]昭和17年には戦時統制令に基づいて農林省の指導により、アタリア農園、藤田善兵衛商店、榎本徳次郎商店、養本社と企業合同し、坂田種苗株式会社となった。
坂田種苗では、戦争のあいだ花の研究を続けられなかった。終戦を迎えたとき、事業は全滅状態にあった。戦前に世界へ知られたオール・ダブル・ペチュニアは、日本で研究が止まっている間に米国でも作り出されていた。1913年の創業以来、坂田商会が欧米で得ていた評価は、その一品種に大きく寄りかかっていた。品種を守っていたのは制度ではなく同じ親系統を他社が持たないという事実だけで、中断はその条件を失わせた。
- 証券アナリストジャーナル 1987年6月号(金子善一郎)
- [44]戦争によって花の研究は一切できなくなった。
- [45]戦争で全滅状態になっていた。
- [46]オール・ダブル・ペチュニアは、当社が戦争で研究を中断している間にアメリカでも出来ていた。
- [47]オール・ダブル・ペチュニアの開発により社名は上がり、業績も上がった。
統制が解けた1947年、企業合同から5年を経て、坂田種苗は坂田単独の経営へ戻った。立て直しは資材の調達から始まっている。連合国軍総司令部には戦前の坂田商会を覚えている者がおり、温室を建てるガラスの手配などで便宜を得た。研究の再開後は一重咲きのペチュニアを手掛け直し、1957年1月に米国のコンクールで入賞して信用が戻った。海外の育種界で積み上げた評価は、品種と違って統制の5年でも失われずに残った。
- 証券アナリストジャーナル 1987年6月号(金子善一郎)
- [48]戦後の昭和22年、統制が解けると同時に坂田独自に戻り、再出発した。
- [49]戦後は苦労したが何とか立ち直った。
- [50]マッカーサー司令部に戦前の当社を覚えていた人がいて、温室をつくるガラスの手配などいろいろ面倒をみてもらえた。
- [51]一重のペチュニアを研究し、この一重咲ペチュニアが昭和32年1月にアメリカのコンクールで入賞し、当社の信用は復活した。
参考文献[38]-[51]
- 証券 1987年7月号
- [38]農産種苗統制要綱により、種苗業界の自主的合同が勧奨された。
- [41]坂田種苗株式会社の設立年月日は昭和17年12月1日である。
- サカタのタネ 有価証券報告書【沿革】
- [39]1942年12月、坂田商会、アタリヤ農園、藤田善兵衛商店、榎本徳次郎商店および養本社が企業合同した。
- [40]企業合同により資本金195千円で坂田種苗株式会社が設立された。
- [43]1986年1月、坂田種苗株式会社は商号を株式会社サカタのタネに変更した。
- 証券アナリストジャーナル 1987年6月号(金子善一郎)
- [42]昭和17年には戦時統制令に基づいて農林省の指導により、アタリア農園、藤田善兵衛商店、榎本徳次郎商店、養本社と企業合同し、坂田種苗株式会社となった。
- [44]戦争によって花の研究は一切できなくなった。
- [45]戦争で全滅状態になっていた。
- [46]オール・ダブル・ペチュニアは、当社が戦争で研究を中断している間にアメリカでも出来ていた。
- [47]オール・ダブル・ペチュニアの開発により社名は上がり、業績も上がった。
- [48]戦後の昭和22年、統制が解けると同時に坂田独自に戻り、再出発した。
- [49]戦後は苦労したが何とか立ち直った。
- [50]マッカーサー司令部に戦前の当社を覚えていた人がいて、温室をつくるガラスの手配などいろいろ面倒をみてもらえた。
- [51]一重のペチュニアを研究し、この一重咲ペチュニアが昭和32年1月にアメリカのコンクールで入賞し、当社の信用は復活した。
出典・参考
7件
- サカタのタネ 有価証券報告書【沿革】
- 証券アナリストジャーナル 1987年6月号(金子善一郎)
- 証券 1987年7月号
- 近代中小企業 1990年8月号
- 福島の進路 1993年6月号「我が社の経営を語る」(金子善一郎)
- 日経ビジネス 1998年8月3日・10日号
- 日経ビジネス 1999年2月8日号