三井ハイテック の歴史

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創業 1949年
創業者 三井孝昭
創業地 北九州市八幡
創業
1949年1月、安川電機で金型部門にいた三井孝昭氏が低い待遇からの脱却を目的に独立し、福岡県八幡市で金型の製造販売を個人で始めた。八幡製鐵所のおひざ元という鋼材の集積地である。三井氏は召集された戦地で敵国の兵器がすべてプレス加工で作られていることに気づき、切削なら1個に数分かかる加工が1分間に60個で仕上がるという差を持ち帰っていた。1957年4月に資本金150万円で三井工作所を設立し、1958年12月には1億枚の打抜きに耐えるタングステンカーバイド金型を開発する。商号を三井ハイテックへ改めたのは1984年5月、福岡証券取引所へ上場した年である。
決断
金型を売る会社から、その金型で打ち抜いた部品を売る会社へ移った。1959年5月にモーターコア用の精密順送り金型の製造販売を始め、家電モーターの鉄心そのものを供給する側へ回る。1966年5月には、薬品で溶かすエッチングが主流だったICリードフレームをプレスで打ち抜く方向へ切り替え、量産費用を10分の1へ下げた。国内の半導体メーカーが年商20億円に満たない中小企業の部品を採らなかったため、1972年4月に米国イリノイ州へ現地法人を設けてTIから約10億円を受注し、これを経て三菱電機や東芝にも採用が広がる。1994年には型破りな社外監査役を招いて取締役会中心の意思決定へ組み替え。2018年11月には岐阜県可児市へ103億円を投じ、当時の電機部品事業の売上79億円を超える額を車載モーターコアの量産へ充てた。
現況
売上の7割を占めるEV向けモーターコアが、先に減損を出した。2026年1月期の連結売上高2,183億円は、電機部品(モーターコア)1,546億円、電子部品(リードフレーム・IC組立)596億円、金型・工作機械41億円で構成される。売上が前期比1.6%増にとどまる一方、営業利益は127億円と21%減り、純利益は32億円と74%減った。EV需要の伸びが鈍り、電機部品で39億円の減損を含む特別損失74億円を計上したためである。それでも同期の設備投資は電機部品だけで245億円と、そのセグメント売上の16%を積んでいる。需要の波より先に生産能力を置く順序を崩さなかったことが、鈍化の局面で減損を先に生んだ。
競合
競争優位は打ち抜く精度ではなく、その金型を自分で作れることから来ている。モーターコアもリードフレームも、珪素鋼板や銅合金を金型で高速に打ち抜いて作る。同業の多くは金型を外部から購入するが、三井ハイテックは1949年の創業事業がその金型であり、摩耗と寸法の管理を社内で完結できる。この構造がEV駆動モーター用モーターコアで世界シェア6割超という位置を作り、トヨタ自動車などへ供給する立場を与えた。ニデックのようにモーターを完成品として組み立てる会社とは、同じ需要を見ながら受け持つ工程が違う。金型を内側に持ったことが、中国勢の参入で価格の下がる半導体部品と、シェアを保つ車載部品という二つの結果を同じ会社の中に生んだ。
三井ハイテック:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
2002年1月期2026年1月期

創業ストーリー 北九州八幡での創業から株式公開までの基盤形成期 (1949年〜)

創業者・三井孝昭氏の独立と「金型」への集中──安川電機からの脱出

三井孝昭氏は安川電機に入社後、金型製造部門に配属されたが[1]、労働条件が厳しく非常に精緻な仕事だったため、当初は金型の仕事を好まなかった。だが軍隊に召集され、戦場で敵国の兵器を目にした際、それがすべて金型によるプレス加工で製造されていることに気づいた。日本軍の兵器は切削加工で1個仕上げるのに数分から1時間を要したのに対し、プレス加工なら当時でも1分間に60個もの均一な製品を生産できるという彼我の差を目の当たりにし、金型の重要性に開眼した。[2]この経験が、終戦・帰国後に金型一筋の道を選ぶ原点となった。

1949年1月、安川電機に勤務していた三井孝昭氏が[3]、低賃金の待遇からの脱却を目的に独立し[4]、福岡県八幡市(現北九州市八幡西区黒崎)で金型の製造販売業を個人事業として始めた。[5]八幡製鐵所のおひざ元という製鉄業の集積地で、安川電機時代に習得したモーター向け金型の技術を生かす方針である。戦後復興期の電気製品の家庭普及が需要側を押し上げ、モーター鉄心の打抜き金型という限定領域で精度を競う事業基盤が固まった。三井孝昭氏は技術志向の経営者で、金型という製造業の裏方に集中する戦略を貫いた。

  • 株式会社三井ハイテック 有価証券報告書(【沿革】)
    • [3]1949年1月 三井孝昭が福岡県八幡市で金型の製造販売業を個人創業
    • [4]創業者は三井孝昭(安川電機からの独立)
    • [5]創業地は北九州市八幡西区黒崎

1954年3月、熱処理後総研削仕上げ金型1号機を納入し[6]、量産用金型の精度水準を引き上げた。1957年4月に資本金150万円で株式会社三井工作所を設立し[7]、個人事業から法人化を完了した[8]。1958年12月にはタングステンカーバイド金型(ノッチング型)を開発[9]、1億枚の打抜きに対応する超硬合金金型への参入を果たした。当時すでに家電が普及していたアメリカ市場に着目し、珪素鋼板から打ち抜いたモーター鉄心の輸出で業容を広げた経緯である。1959年5月、モーターコア用タングステンカーバイド精密順送り金型の製造販売を開始した[10]。エアコン・冷蔵庫等の家電用モーター・自動車部品用モーターの鉄芯(コア)を打抜くための精密金型の供給で、後年の主力事業の起点となる。創業時の1949年に50万円だった売上高は、オール研磨仕上げ金型の開発により毎年40〜50%の成長を続け、33年(1958年)に5,000万円、創業10周年の34年(1959年)には1億円に達した。[11]

  • 株式会社三井ハイテック 有価証券報告書(【沿革】)
    • [6]1954年3月 熱処理後総研削仕上げ金型1号機を納入
    • [7]1957年4月 資本金150万円で株式会社三井工作所を設立(法人化)
    • [8]設立時資本金150万円
    • [9]1958年12月 タングステンカーバイド金型(ノッチング型)を開発
    • [10]1959年5月 モーターコア用タングステンカーバイド精密順送り金型の製造販売を開始
    • [11]創業時(昭和24年)売上高50万円が、毎年40〜50%成長し昭和33年に5,000万円、創業10周年の昭和34年に1億円に到達
    • [1]三井孝昭氏は安川電機の金型製造部門に配属されたが、当初は労働条件の厳しさから金型の仕事を好まなかった
    • [2]出征中に敵国兵器がすべて金型プレス加工で作られていることを知り、金型の重要性に開眼した
    • [11]創業時(昭和24年)売上高50万円が、毎年40〜50%成長し昭和33年に5,000万円、創業10周年の昭和34年に1億円に到達
  • 株式会社三井ハイテック 有価証券報告書(【沿革】)
    • [3]1949年1月 三井孝昭が福岡県八幡市で金型の製造販売業を個人創業
    • [4]創業者は三井孝昭(安川電機からの独立)
    • [5]創業地は北九州市八幡西区黒崎
    • [6]1954年3月 熱処理後総研削仕上げ金型1号機を納入
    • [7]1957年4月 資本金150万円で株式会社三井工作所を設立(法人化)
    • [8]設立時資本金150万円
    • [9]1958年12月 タングステンカーバイド金型(ノッチング型)を開発
    • [10]1959年5月 モーターコア用タングステンカーバイド精密順送り金型の製造販売を開始

ICリードフレームのプレス加工量産──業界常識の転覆

1960年10月、北九州市八幡西区小嶺に小嶺工場(現本社・八幡事業所)を新設し[12]、生産能力を引き上げた。1961年4月には平面研削盤の量産化体制を整え外販を開始[13]、自社の生産技術を外販する工作機械事業の起点を築いた。1966年5月、三井孝昭氏はICリードフレームに着目[14]した。1960年代当時、IC(集積回路)は世界で実用化されたばかりの最先端技術で、リードフレームはエッチング方式で製造するのが業界の主流だった。エッチングは薬品を使うため量産コストが高く、半導体メーカーの量産化のボトルネックでもあった。三井孝昭氏はプレス加工で量産する方向に賭けて研究開発を進め、量産コストを1/10に削減することに成功する。同年8月には米国イリノイ州にシカゴ事務所を開設し[15]、初の海外拠点を設置した。

  • 株式会社三井ハイテック 有価証券報告書(【沿革】)
    • [12]1960年10月 小嶺工場(現本社・八幡事業所)を新設
    • [13]1961年4月 平面研削盤の量産化体制を整え外販を開始
    • [14]1966年 ICリードフレームに着目(試作金型開発)
    • [15]1966年8月 米国イリノイ州にシカゴ事務所を開設(初の海外拠点)

1969年6月、ICリードフレームの製造販売を開始[16]した。金型・モーターコアに続く3本目の柱となる事業領域への参入だが、量産化に成功しても国内に販路はなかった。当時の三井ハイテックは年商20億円未満の中小企業で、国内半導体メーカーはICの量産に乗り出しておらず、中小発の部品を採用するリスクを取りたがらなかった。三井孝昭氏は販路をアメリカに求め、1972年4月に米国イリノイ州でインターナショナル・リードフレーム・コーポレーションを設立、急成長期だった米国TI(テキサスインスツルメンツ)から約10億円の大量受注を獲得した。[17]この受注を足がかりに日本の半導体メーカーからもリードフレームの採用が広がり、リードフレーム事業の量産体制が整った。1972年12月のシンガポール進出(ミツイ・マニュファクチュアリング(シンガポール)、現ミツイ・ハイテック(シンガポール)設立)は[18]、1971年12月のニクソンショックによる円高ドル安に対応するもので、北米輸出向けリードフレームの量産コスト低減を狙った拠点である。1974年8月にはモーターコアの金型自動結束システム(MAC)を開発した[19]。モーターコア生産の『計量・ひねり・積層・結束』を自動化する装置で、世界各国で特許を取得し、年間約1億円の特許収入を生んだ。

  • 株式会社三井ハイテック 有価証券報告書(【沿革】)
    • [16]1969年6月 ICリードフレームの製造販売を開始
    • [17]1972年4月 米国イリノイ州にインターナショナル・リードフレーム・コーポレーションを設立
    • [18]1972年12月 シンガポールにミツイ・マニュファクチュアリング(シンガポール)(現ミツイ・ハイテック(シンガポール))を設立
    • [19]1974年8月 モーターコアの金型自動結束システム(MAC)を開発
  • 株式会社三井ハイテック 有価証券報告書(【沿革】)
    • [12]1960年10月 小嶺工場(現本社・八幡事業所)を新設
    • [13]1961年4月 平面研削盤の量産化体制を整え外販を開始
    • [14]1966年 ICリードフレームに着目(試作金型開発)
    • [15]1966年8月 米国イリノイ州にシカゴ事務所を開設(初の海外拠点)
    • [16]1969年6月 ICリードフレームの製造販売を開始
    • [17]1972年4月 米国イリノイ州にインターナショナル・リードフレーム・コーポレーションを設立
    • [18]1972年12月 シンガポールにミツイ・マニュファクチュアリング(シンガポール)(現ミツイ・ハイテック(シンガポール))を設立
    • [19]1974年8月 モーターコアの金型自動結束システム(MAC)を開発

「三井ハイテック」への社名変更と九州シリコンアイランド連動

1975年、三井ハイテックは創業以来初の赤字に転落した。1973年10月のオイルショックで取引先の設備投資が止まり、リードフレームとモーターコアの両方の需要が同時に縮んだ局面である。1979年10月にICリードフレームのめっき事業(自動連続スポット[20]めっき装置)を開発、1980年代に入って業績は回復に向かった。

  • 株式会社三井ハイテック 有価証券報告書(【沿革】)
    • [20]1979年10月 ICリードフレームのめっき事業(自動連続スポットめっき装置)を開発

1984年5月、商号を株式会社三井ハイテックに変更[21]した。金型・モーターコア・リードフレームの3本柱を持つ精密加工メーカーとしての自己定義の転換である。同年7月にIC組立事業を開始(2018年10月に清算)、[22]9月に福岡証券取引所に株式を上場した[23]。FY1984の売上は290億円(前年比+70.8%)・営業利益48億円(利益率16.8%)に達し、当時のリードフレームではトップシェアを握り、取引先には三菱電機・東芝・日立・TI・モトローラ・フェアチャイルドなど世界の半導体大手が並んだ。1980年代の九州はシリコンアイランドとして半導体産業の集積が進み、三井ハイテックの売上の25%は九州地区向けで占められた。本社を九州に構える地の利が、産業集積の一翼を担うかたちで業容を後押しした期間である。1985年9月には東京証券取引所市場第二部に上場[24]、1991年7月には東証一部に昇格した[25]。創業から42年で個人事業から東証一部上場企業へ成長した経緯である。

  • 株式会社三井ハイテック 有価証券報告書(【沿革】)
    • [21]1984年5月 商号を株式会社三井ハイテックに変更
    • [22]1984年7月 IC組立事業を開始(2018年10月清算)
    • [23]1984年9月 福岡証券取引所に株式を上場
    • [24]1985年9月 東京証券取引所市場第二部に上場
    • [25]1991年7月 東京証券取引所市場第一部に昇格

1987年1月のマレーシア進出[26]、1993年12月の中国北京事務所開設[27]、1994年7月の中国天津現法(三井高科技(天津)有限公司)設立[28]、1996年3月の上海現法設立[29]、1997年1月のシンガポール統括会社(ミツイ・アジア・ヘッドクォーターズ)設立と[30]、東南アジア・中国の主要地域に拠点を設けた。1990年代後半までに、世界の主要半導体パッケージ需要地(米国・東南アジア・中国)に物理的に拠点を持つ体制が整った。

  • 株式会社三井ハイテック 有価証券報告書(【沿革】)
    • [26]1987年1月 マレーシアにミツイ・ハイテック(マレーシア)を設立(マレーシア進出)
    • [27]1993年12月 中国北京事務所開設
    • [28]1994年7月 中国に三井高科技(天津)有限公司を設立
    • [29]1996年3月 中国に三井高科技(上海)有限公司を設立
    • [30]1997年1月 シンガポールにミツイ・アジア・ヘッドクォーターズ(アジア統括拠点)を設立
  • 株式会社三井ハイテック 有価証券報告書(【沿革】)
    • [20]1979年10月 ICリードフレームのめっき事業(自動連続スポットめっき装置)を開発
    • [21]1984年5月 商号を株式会社三井ハイテックに変更
    • [22]1984年7月 IC組立事業を開始(2018年10月清算)
    • [23]1984年9月 福岡証券取引所に株式を上場
    • [24]1985年9月 東京証券取引所市場第二部に上場
    • [25]1991年7月 東京証券取引所市場第一部に昇格
    • [26]1987年1月 マレーシアにミツイ・ハイテック(マレーシア)を設立(マレーシア進出)
    • [27]1993年12月 中国北京事務所開設
    • [28]1994年7月 中国に三井高科技(天津)有限公司を設立
    • [29]1996年3月 中国に三井高科技(上海)有限公司を設立
    • [30]1997年1月 シンガポールにミツイ・アジア・ヘッドクォーターズ(アジア統括拠点)を設立

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三井ハイテックの沿革1949〜2024年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1949〜1991年北九州八幡での創業から株式公開までの基盤形成期創業者三井孝昭が金型の製造販売業を開始★★
熱処理後総研削仕上げ金型1号機を納入
三井工作所を設立
タングステンカーバイド金型(ノッチング型)を開発★★
モーターコア用タングステンカーバイド精密順送り金型の製造販売を開始★★
小嶺工場を新設
平面研削盤の量産化体制を整え外販を開始
ICリードフレーム打抜き用のタングステンカーバイド試作金型を開発
シカゴ事務所を開設
ICリードフレームの製造販売を開始★★
インターナショナル・リードフレーム・コーポレーションを設立
ミツイ・マニュファクチュアリングを設立
ミツイ・マニュファクチュアリング(ホンコン)を設立
MACシステム(積層鉄芯金型内自動結束装置)を開発★★
ICリードフレームのめっき事業に参入★★
インターナショナル・リードフレーム・コーポレーションを設立
商号を三井ハイテックに変更
IC組立事業に参入★★
福岡証券取引所に株式を上場
金型部品の外販を開始
三井電器を子会社化
1992〜2014年リーマンショック直撃と業績低迷の長期化型破りな社外監査役を招いた取締役会改革

1994年に会長兼社長として経営に復帰した創業者・三井孝昭氏が、協同飼料の名物監査役だった荒川勇二氏を社外監査役に招き、常務会主導から取締役会中心へと意思決定の仕組みを組み替えた三井ハイテックの取締役会改革をめぐる経営判断。事前監査と実名評価を通じて、オーナー企業に自己を律する仕組みを持ち込んだ。

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★★★
荒川勇二氏を社外監査役に招聘
取締役会改革に着手★★
三井高科技(天津)有限公司を設立
三井高科技(広東)有限公司を設立
三井スタンピングを設立
坂上隆紀門司税関から特定輸出業者として認定
三井康誠Magnet Mold®の商標登録
2015〜2025年EV駆動モーターコア需要の波と「ヴィジョン2030」三井康誠ミツイ・ハイテックを設立
三井康誠三井電器を吸収合併し阿蘇事業所に商号変更
三井康誠ポーランドにミツイ・ハイテック(ヨーロッパ)を設立
三井康誠岐阜事業所を開設
三井康誠東京証券取引所プライム市場へ移行
三井康誠ミツイ・ハイテック ノースアメリカを設立
三井康誠ミツイ・ハイテック ドイチュランドを設立
出典・参考

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