日本NCR の歴史

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創業 1919年
創業者 間宮勝三郎
創業地 静岡県伊豆の国市
創業
1919年、間宮勝三郎氏が静岡県で間宮堂を創業したのがこの会社の起点である。翌1920年2月24日、藤山愛一郎氏が静岡県大仁にレジスターの製造を目的として日本金銭登録機を設立した。日本で最初のレジスターは1897年に横浜の貿易商が米国のナショナル・キャッシュ・レジスターから輸入した機械で、店頭の現金を数え記録する道具は当初すべて輸入品だった。社名に金銭登録機と掲げたとおり、輸入品を扱う商社ではなく、機械を国内で作る会社として出発した。1935年7月、日本金銭登録機は米NCRと技術および資本の提携を結び、米NCRが日本に置いていた販売会社を合併して、製造と販売を一つの傘へ収めた。合併の主体も残った社名も日本側だったが、機械の設計と会社の資本は米NCRから入った。
決断・現況・競合について
決断
作る会社として発足しながら、設計だけは一度も自社へ置かなかった。1951年12月、日本ナショナル金銭登録機は戦後最初の外資導入に踏み切った。1957年10月に投下資本14億円の大磯工場を完成させ、1958年7月から金銭登録機の自社生産へ切り替える。輸入部品の組立から国産化までは進んだが、機器の開発と基本設計はすべて米NCRが決めた。1970年に販売を強めた電子計算機センチュリーの開発費およそ500億円も米NCRが負担し、日本側は特許料を払えばよかった。三富啓豆社長は、日本の顧客向けに1台50万円の機器を200台売っても利益は開発費に消えると語った。開発費を負担しない代わりに仕様を選べない立場が、1971年の世界初の電子レジスターを日本で量産させ、改良は米国で決めさせた。
現況
上場廃止の理由は業績ではなく、親会社が持株比率を高めすぎたことだった。1998年4月から6月にかけて、米NCRの日本子会社が発行済株式の30パーセントを対象に公開買付けを実施し、持分は97パーセントへ上がる。1998年12月期は売上高908億8,300万円に対し税引前損失91億2,400万円を出し、1,000人を削減した。東京・大阪両証券取引所は少数特定者持株比率と株主数の基準に照らして2000年1月から監理ポスト、3月31日から整理ポストへ割り当て、6月30日に上場を廃止する。上場廃止後の2000年12月期は売上高639億9,800万円へ減りつつ営業利益4億1,500万円を確保した。日本の株主がいなくなったことが、決算を市場ではなく親会社の計画へ向けて作る会社に変えた。
競合
電子レジスターの市場を最初に作り、その市場で最初にシェアを侵食された。1971年、日本ナショナル金銭登録機は世界初の電子レジスターNCR 230を発表する。歯車をICとコア・メモリに置き換えた機種で、生産の6割を欧米へ輸出した。市場が立つと東京電気やシャープ電卓を12,800円で発売して価格で市場を広げたカシオ計算機など20数社が価格で競り合う。3年前に55パーセントだった販売シェアは、38〜40パーセントの東京電気とほぼ逆転した。POS端末では占有率70パーセント超を保ったが、機械式レジの下取りと無料同然のソフトウェア提供が利幅を侵食し、1978年5月期上半期の売上高経常利益率は3.5パーセントへ低下した。同じ製品を作れる会社が20社に増えた市場で、値引きの可否を東京で決められなかったことが、先に出た利得を消した。

創業ストーリー レジスター製造で発足し米NCRの資本の下に入った30年 (1919年〜)

レジスター製造で発足し米NCRの資本の下に入った30年

創業ストーリー(1)

輸入代理から製造会社へ移した1920年の設立

日本で最初のレジスターは、1897年に横浜の貿易商である牛島商会が米国のナショナル・キャッシュ・レジスターから輸入した機械で、店頭で現金を数え記録する道具は当初すべて輸入品でまかなわれた[1]。輸入と代理販売が続いたのち、1920年2月24日、藤山愛一郎氏が静岡県大仁にレジスターの製造を目的として日本金銭登録機を設立した[2][3]。社名に金銭登録機と掲げたとおり、輸入品を扱う商社ではなく、機械を国内で作る会社としての出発だった[4]。設立の2年後にあたる1922年には、科学的な経営管理の指針書として『灯台』を創刊し、機械だけでなく、その機械を使う店の管理にまで手を伸ばした[5]

  • 日本NCRコマース「レジスター年表」 2025年8月20日取得(インターネット・アーカイブ保存版)
    • [1]日本で初めてのレジスターは、1897年にアメリカのナショナル・キャッシュ・レジスター(NCRの前身)から、横浜の貿易商・牛島商会によって輸入された
    • [5]1922年(大正11年)、日本NCRが科学的経営管理の指針書『灯台』を創刊した
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)「日本ナショナル金銭登録機」
    • [2]同社は大正9年2月、藤山愛一郎氏が静岡県大仁にレジスターの製造を目的として設立した日本金銭登録機に始まる。設立は大正9年2月24日
  • 事務と経営 1965年「トップ・インタビュー 日本ナショナル金銭登録機 副社長 田中元彦氏」
    • [3]日本ナショナル金銭登録機の創業は大正9年、藤山愛一郎氏が設立した日本金銭登録機がその前身である
  • ASCII.jp 2022年3月29日 大河原克行
    • [4]日本NCRは1920年2月に創業した企業で、創業時の社名は日本金銭登録機だった

レジスターそのものの起源は米国にあり、1878年にカフェ経営者のジェームス・リティが発明したダイアル・レジスターの販売権利をJ.H.パターソンが買い取って1884年に設立した会社が、のちに提携相手となる米NCRである[6]。その米NCRは1933年12月、それまで結んでいた米国貿易会社との代理店契約を解約し、ナショナル金銭登録器を設けて販売部門を広げた[7]。日本に置いたのは輸入品を売る自前の会社であり、代理店に委ねていた販路を米NCRが自ら握り直した形になる[8]。こうして国内には、機械を作る日本金銭登録機と、米NCR製品を売る新会社が並び立った[9]

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    • [6]1878年(明治11年)、世界で最初のレジスターは米国のジェームス・リティ(カフェ経営者)が発明し、ダイアル・レジスターと呼ばれた。1884年(明治17年)、J.H.パターソンが販売権利を買い取りレジスターの会社(NCRの前身)を設立した
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)「日本ナショナル金銭登録機」
    • [7]NCR(米・ザ・ナショナル・キヤッシユ・レジスター・カンパニー)は昭和8年12月、それまでの米国貿易会社との代理店契約を解約し、ナショナル金銭登録器を設けて販売部門の拡充を図った
    • [8]NCR(米・ザ・ナショナル・キヤッシユ・レジスター・カンパニー)は昭和8年12月、それまでの米国貿易会社との代理店契約を解約し、ナショナル金銭登録器を設けて販売部門の拡充を図った
    • [9]NCR(米・ザ・ナショナル・キヤッシユ・レジスター・カンパニー)は昭和8年12月、それまでの米国貿易会社との代理店契約を解約し、ナショナル金銭登録器を設けて販売部門の拡充を図った

1935年7月、日本金銭登録機は米NCRと技術ならびに資本の提携を結び、同時に米NCR製品の製造と販売を始めた[10][11]。米NCRが設けたナショナル金銭登録器は同じ月に日本ナショナル金銭登録機販売へ商号を変え、日本金銭登録機の子会社となり、製造と販売の両方が一つの傘の下へ収まった[12]。手続きの上では日本金銭登録機が日本ナショナル金銭登録機販売を合併する形をとったため、日本NCRは現在も、日本金銭登録機が創立した1920年2月を自社の創立の年とする[13]。合併の主体も残った社名も日本側だったが、機械の設計と会社の資本は米NCRから入った[14]

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)「日本ナショナル金銭登録機」
    • [10]昭和10年7月、日本金銭登録機はNCRと技術並びに資本の提携を結んだ
    • [12]ナショナル金銭登録器は昭和10年7月に日本ナショナル金銭登録機販売と商号変更し、日本金銭登録機はこれを子会社として製造・販売の両面を整えた
    • [13]この時、日本金銭登録機が日本ナショナル金銭登録機販売を合併するかたちをとったため、日本金銭登録機の創立された大正9年2月を、現在の日本NCRの創立の年としている
    • [14]昭和10年7月、日本金銭登録機はNCRと技術並びに資本の提携を結んだ
  • 事務と経営 1965年「トップ・インタビュー 日本ナショナル金銭登録機 副社長 田中元彦氏」
    • [11]昭和10年、アメリカNCR社と技術資本の提携を結び商号変更を行なうと同時に、同社製品の製造販売を開始した
  • 日本NCRコマース「レジスター年表」 2025年8月20日取得(インターネット・アーカイブ保存版)
    • [1]日本で初めてのレジスターは、1897年にアメリカのナショナル・キャッシュ・レジスター(NCRの前身)から、横浜の貿易商・牛島商会によって輸入された
    • [5]1922年(大正11年)、日本NCRが科学的経営管理の指針書『灯台』を創刊した
    • [6]1878年(明治11年)、世界で最初のレジスターは米国のジェームス・リティ(カフェ経営者)が発明し、ダイアル・レジスターと呼ばれた。1884年(明治17年)、J.H.パターソンが販売権利を買い取りレジスターの会社(NCRの前身)を設立した
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)「日本ナショナル金銭登録機」
    • [2]同社は大正9年2月、藤山愛一郎氏が静岡県大仁にレジスターの製造を目的として設立した日本金銭登録機に始まる。設立は大正9年2月24日
    • [7]NCR(米・ザ・ナショナル・キヤッシユ・レジスター・カンパニー)は昭和8年12月、それまでの米国貿易会社との代理店契約を解約し、ナショナル金銭登録器を設けて販売部門の拡充を図った
    • [8]NCR(米・ザ・ナショナル・キヤッシユ・レジスター・カンパニー)は昭和8年12月、それまでの米国貿易会社との代理店契約を解約し、ナショナル金銭登録器を設けて販売部門の拡充を図った
    • [9]NCR(米・ザ・ナショナル・キヤッシユ・レジスター・カンパニー)は昭和8年12月、それまでの米国貿易会社との代理店契約を解約し、ナショナル金銭登録器を設けて販売部門の拡充を図った
    • [10]昭和10年7月、日本金銭登録機はNCRと技術並びに資本の提携を結んだ
    • [12]ナショナル金銭登録器は昭和10年7月に日本ナショナル金銭登録機販売と商号変更し、日本金銭登録機はこれを子会社として製造・販売の両面を整えた
    • [13]この時、日本金銭登録機が日本ナショナル金銭登録機販売を合併するかたちをとったため、日本金銭登録機の創立された大正9年2月を、現在の日本NCRの創立の年としている
    • [14]昭和10年7月、日本金銭登録機はNCRと技術並びに資本の提携を結んだ
  • 事務と経営 1965年「トップ・インタビュー 日本ナショナル金銭登録機 副社長 田中元彦氏」
    • [3]日本ナショナル金銭登録機の創業は大正9年、藤山愛一郎氏が設立した日本金銭登録機がその前身である
    • [11]昭和10年、アメリカNCR社と技術資本の提携を結び商号変更を行なうと同時に、同社製品の製造販売を開始した
  • ASCII.jp 2022年3月29日 大河原克行
    • [4]日本NCRは1920年2月に創業した企業で、創業時の社名は日本金銭登録機だった
創業ストーリー(2)

大陸へ広げた販売網と敵産管理下の保守

1935年の提携当時、販売網は日本各地はもとより、朝鮮、満州、台湾、中国にまで及び、社業は順調に発展した[15]。売る機械も年ごとに厚みを増し、1926年に世へ出た2000号レジスターは、2万個を超える部品を使い、30個におよぶ各種分類合計機と数点売の計算機能、減算機能、二重伝票の認証印刷を備えた[16]。1933年にはこれを母体として部門別8個・取引別4個での集計と管理の機能を持つ6000号を発売し、1936年前後には営業記録紙への自筆書込装置と4部門合計器、スライド式レバーのキーボードを持つN-1600号が続いた[17][18]。しかし1937年ごろから戦時体制に入り、事業には種々の拘束の度が増した[19]

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)「日本ナショナル金銭登録機」
    • [15]当時の販売網はすでに日本各地はもとより、朝鮮、満州、台湾、中国にまでおよび、社業は順調に発展していった
    • [19]昭和12年ごろから戦時体制に入るようになり、種々の拘束の度が増してきた
  • 日本NCRコマース「レジスター年表」 2025年8月20日取得(インターネット・アーカイブ保存版)
    • [16]1926年(大正15年・昭和1年)、『2000号レジスター』が世に送り出された。2万個以上の部品、30個におよぶ各種分類合計機、アイテマイザー(数点売計算機能)、減算機能、二重伝票の認証印刷を備えた
    • [17]1933年(昭和8年)、『6000号』レジスターを発売。『2000号』を母体に開発し、部門別(8個)、取引別(4個)での集計・管理機能等を強化した
    • [18]1936年前後の『N-1600号レジスター』は、営業記録紙に自筆書込装置、4部門合計器、スライド式レバーのキーボードを備えた

1941年12月に開戦すると、米NCRの資本が入った日本ナショナル金銭登録機販売は敵産管理を受け、販売活動を停止した[20]。止まったのは新しい機械を売る仕事のほうで、すでに客先へ据えた機械の保守サービス活動は続けたが、1943年7月には企業そのものを縮小し、敵産管理によって決定的な打撃を受けた[21][22]。敵産管理は米NCR製のレジスターそのものに及ぶ規制で、その間は日本金銭登録機の名前でサービスだけが認められた[23]。1935年に一つの傘へ収めた製造と販売のうち動いたのは製造側だけとなり、日本金銭登録機がユーザーへのサービスを引き受けたまま終戦を迎えた[24]

  • 日本NCRコマース「レジスター年表」 2025年8月20日取得(インターネット・アーカイブ保存版)
    • [20]1941年(昭和16年)、第2次世界大戦により敵産管理を受け販売活動を停止した
    • [21]1941年(昭和16年)、敵産管理により販売活動を停止したが、保守サービス活動は続行した
    • [23]戦時中、NCR製レジスターは『敵産管理』という厳しい規制を受け、その間は日本金銭登録機の名前でサービスだけを続けていた
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)「日本ナショナル金銭登録機」
    • [22]昭和16年12月に第二次世界大戦が勃発し、18年7月に日本ナショナル金銭登録機は企業を縮小し、敵産管理により決定的な打撃を受けた
    • [24]戦時中は、日本金銭登録機がこれに代ってユーザーのサービスに当たり、この状態が終戦まで続いた
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)「日本ナショナル金銭登録機」
    • [15]当時の販売網はすでに日本各地はもとより、朝鮮、満州、台湾、中国にまでおよび、社業は順調に発展していった
    • [19]昭和12年ごろから戦時体制に入るようになり、種々の拘束の度が増してきた
    • [22]昭和16年12月に第二次世界大戦が勃発し、18年7月に日本ナショナル金銭登録機は企業を縮小し、敵産管理により決定的な打撃を受けた
    • [24]戦時中は、日本金銭登録機がこれに代ってユーザーのサービスに当たり、この状態が終戦まで続いた
  • 日本NCRコマース「レジスター年表」 2025年8月20日取得(インターネット・アーカイブ保存版)
    • [16]1926年(大正15年・昭和1年)、『2000号レジスター』が世に送り出された。2万個以上の部品、30個におよぶ各種分類合計機、アイテマイザー(数点売計算機能)、減算機能、二重伝票の認証印刷を備えた
    • [17]1933年(昭和8年)、『6000号』レジスターを発売。『2000号』を母体に開発し、部門別(8個)、取引別(4個)での集計・管理機能等を強化した
    • [18]1936年前後の『N-1600号レジスター』は、営業記録紙に自筆書込装置、4部門合計器、スライド式レバーのキーボードを備えた
    • [20]1941年(昭和16年)、第2次世界大戦により敵産管理を受け販売活動を停止した
    • [21]1941年(昭和16年)、敵産管理により販売活動を停止したが、保守サービス活動は続行した
    • [23]戦時中、NCR製レジスターは『敵産管理』という厳しい規制を受け、その間は日本金銭登録機の名前でサービスだけを続けていた
創業ストーリー(3)

輸入部品の組立で立て直した1950年までの再建

1945年8月15日の戦争終結を機に、日本金銭登録機は事業の再建へ乗り出し、1946年には札幌、仙台、京都、大阪の各営業所を開設して、これを皮切りにサービス網を増やして整えた[25][26]。同じ1946年7月には、社名を日本ナショナル金銭登録機へ変更[27]。戦前に子会社としていた販売会社の名から販売の二字を落とした社名であり、製造会社の側が、米国資本と結んだ会社の看板を引き受けた形になる[28]。敵産管理が解かれたのは1947年12月で、ここから米NCRとの連絡も密になり、資本金は1949年に200万円へ復元した[29][30][31]

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)「日本ナショナル金銭登録機」
    • [25]昭和20年8月15日の戦争終結を期に事業の再建にのりだした
    • [26]サービス網も、昭和21年に札幌、仙台、京都、大阪の各営業所の開設を皮切りに着々と増大、整備していった
    • [27]昭和21年7月、日本金銭登録機は現在の社名(日本ナショナル金銭登録機)に変更した
    • [28]米NCRが設けたナショナル金銭登録器は昭和10年7月に日本ナショナル金銭登録機販売と商号変更し、日本金銭登録機の子会社となった
    • [29]昭和22年12月には敵産管理が解かれたために、NCRとの連絡も密になった
    • [31]昭和24年には資本金200万円に復元した
  • 事務と経営 1965年「トップ・インタビュー 日本ナショナル金銭登録機 副社長 田中元彦氏」
    • [30]戦後、昭和22年に敵産管理がとかれた

この再建期に入った一人が、のちに社長となる三富啓豆氏で、1918年に生まれ、1940年に早稲田大学商学部を卒業して日東紡績に入社し、その後軍隊に入って終戦を迎えた[32]。戦後は職がなく、どこでもいいから会社に入りたいと探していたところ、知人の紹介で当時はまだ小さかった日本NCRへ入った[33]。配属先は経理で、経理も財務も勉強しておらず、加えて米国式の手法で処理するため分からず、日曜も出社して外国人に講義を受けた[34]。業績は悪く、管理部門は極度に縮小され、経理は人員不足で仕事がはかどらず、毛布を持ち込んでの泊まり込みが続き、三富啓豆氏はこの間に2、3度辞表をたたきつけた[35][36]

  • 日経ビジネス 1972年6月12日号
    • [32]三富氏は大正7年生まれで1972年時点で54歳。昭和15年早稲田大学商学部を卒業、日東紡績に入社、その後軍隊に入って終戦となった
    • [33]戦後は職がなく、とにかくどこでもいいから会社に入りたいとさがしていた折、知人の紹介で当時はまだちっぽけな日本NCRに入社した
    • [34]入社して経理をやらされることになったが、経理や財務についてあまり勉強しておらず、加えて米国的手法でやるからわからないため、日曜も出社して外人に講義を受けた
    • [35]この当時は、日本NCRの業績も悪く管理部門は極度に縮小、経理は人員不足で仕事がはかどらず、毛布を持ち込んでの泊まり込みが続いた
    • [36]持前のがんばり屋精神で突き進んだが、さすがに2〜3度辞表をたたきつけた

1950年、日本ナショナル金銭登録機は戦時中に米NCRで開発・改良された会計機や統計機などを輸入するようになり、統計・会計部を発足させた[37]。同年12月には東京都大田区仲六郷に蒲田工場を開設し、米NCRから輸入した部品を組み立てて市場へ送り出すまでになった[38]。同じ1950年、合計器を積んで小型化と低価格化を果たした21号レジスターを発売し、レジスターのノックダウンを始めた[39]。あわせて近代商業経営政策(Modern Merchandising Methods、通称MMM)と呼ぶ商業経営の考え方を導入し、その普及に向けた活動へ着手した[40]

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)「日本ナショナル金銭登録機」
    • [37]昭和25年には、戦時中NCRにおいて開発、改良された会計機や統計機などを輸入するようになり、新たに統計、会計部が発足した
    • [38]昭和25年12月には東京都大田区仲六郷に蒲田工場を開設し、NCRより輸入した部品を組立てて市場に送り出すまでに発展した
  • 日本NCRコマース「レジスター年表」 2025年8月20日取得(インターネット・アーカイブ保存版)
    • [39]1950年(昭和25年)、『21号レジスター』を発売。合計器が搭載され、コンパクト化、低価格化、レジ特有の機械音の軽減等、使いやすさと耐久性に優れ、多業種で使用されるようになった。あわせてレジスターのノックダウンを開始した
    • [40]1950年(昭和25年)、新商業経営理念である『近代商業経営政策/Modern Merchandising Methods(通称MMM)』を導入し、啓蒙活動を開始した
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)「日本ナショナル金銭登録機」
    • [25]昭和20年8月15日の戦争終結を期に事業の再建にのりだした
    • [26]サービス網も、昭和21年に札幌、仙台、京都、大阪の各営業所の開設を皮切りに着々と増大、整備していった
    • [27]昭和21年7月、日本金銭登録機は現在の社名(日本ナショナル金銭登録機)に変更した
    • [28]米NCRが設けたナショナル金銭登録器は昭和10年7月に日本ナショナル金銭登録機販売と商号変更し、日本金銭登録機の子会社となった
    • [29]昭和22年12月には敵産管理が解かれたために、NCRとの連絡も密になった
    • [31]昭和24年には資本金200万円に復元した
    • [37]昭和25年には、戦時中NCRにおいて開発、改良された会計機や統計機などを輸入するようになり、新たに統計、会計部が発足した
    • [38]昭和25年12月には東京都大田区仲六郷に蒲田工場を開設し、NCRより輸入した部品を組立てて市場に送り出すまでに発展した
  • 事務と経営 1965年「トップ・インタビュー 日本ナショナル金銭登録機 副社長 田中元彦氏」
    • [30]戦後、昭和22年に敵産管理がとかれた
  • 日経ビジネス 1972年6月12日号
    • [32]三富氏は大正7年生まれで1972年時点で54歳。昭和15年早稲田大学商学部を卒業、日東紡績に入社、その後軍隊に入って終戦となった
    • [33]戦後は職がなく、とにかくどこでもいいから会社に入りたいとさがしていた折、知人の紹介で当時はまだちっぽけな日本NCRに入社した
    • [34]入社して経理をやらされることになったが、経理や財務についてあまり勉強しておらず、加えて米国的手法でやるからわからないため、日曜も出社して外人に講義を受けた
    • [35]この当時は、日本NCRの業績も悪く管理部門は極度に縮小、経理は人員不足で仕事がはかどらず、毛布を持ち込んでの泊まり込みが続いた
    • [36]持前のがんばり屋精神で突き進んだが、さすがに2〜3度辞表をたたきつけた
  • 日本NCRコマース「レジスター年表」 2025年8月20日取得(インターネット・アーカイブ保存版)
    • [39]1950年(昭和25年)、『21号レジスター』を発売。合計器が搭載され、コンパクト化、低価格化、レジ特有の機械音の軽減等、使いやすさと耐久性に優れ、多業種で使用されるようになった。あわせてレジスターのノックダウンを開始した
    • [40]1950年(昭和25年)、新商業経営理念である『近代商業経営政策/Modern Merchandising Methods(通称MMM)』を導入し、啓蒙活動を開始した

戦後初の外資導入で国産化し、売るものを機械からシステムへ移す

創業ストーリー(4)

戦後初の外資導入と大磯工場での金銭登録機国産化

米NCRとの関係は戦前にさかのぼり、1935年7月には、米NCRのデイーズ社長と藤山愛一郎氏が技術援助契約と資本提携を結んだ[41]。製造と販売の陣容は整ったものの、第2次世界大戦の勃発により1942年2月に政府命令で敵産管理の指定を受け、翌1943年12月には資本金30万円への減資を余儀なくされた[42]。敵産管理は1947年12月に解除され、1949年には資本金を200万円へ復元して、米NCRとの交誼も戻った[43]。そして1951年12月、日本における戦後最初の外資導入に踏み切り、資本金は2,771万4,300円となって、技術援助契約も新たに締結した[44][45]

  • 証券業報 1960年 第5号「日本ナショナル金銭登録機株式会社」
    • [41]1935年7月、当時の米国NCR社社長デイーズ氏と藤山愛一郎氏により、米国NCR社と技術援助契約ならびに資本の提携を行った
    • [42]第2次世界大戦勃発のため1942年2月に政府命令により敵産管理の指定を受け、翌1943年12月に資本金30万円への減資を余儀なくされた
    • [43]1947年12月の敵産管理解除により1949年に資本金を200万円に復元し、米国NCR社との交誼が復活した
    • [44]1951年12月、わが国における戦後最初の外資導入を行った
    • [45]1951年12月の外資導入により資本金は2,771万4,300円となり、技術援助契約を新たに締結した

外資導入後の業績は急激な上昇を示し、終戦前後における株主の苦労に報いるため、1953年と1954年の2回にわたってそれぞれ1対2、2対1の株式配当を実施して、資本金は1億2,471万4,350円へ躍進した[46]。1954年7月には大磯工場の建設資金として米NCRと借入金契約を結び、米国製やドイツ製の優秀な工作機械と冶工具をそろえて据え付けた[47]。工場は1956年8月に着工し、1957年10月、投下資本11億円余りをもって完成をみた[48]。戦後再び念願としていた金銭登録機の国産化は、輸入部品の組立から一歩進んで、ここで実現した[49]

  • 証券業報 1960年 第5号「日本ナショナル金銭登録機株式会社」
    • [46]外資導入後に業績が急激な上昇を示したため、終戦前後における株主の苦労に酬いるべく1953年・1954年の2回にわたりそれぞれ1対2、2対1の株式配当を行い、資本金は1億2,471万4,350円に躍進した
    • [47]1954年7月、大磯工場建設のため米国NCR社と借入金契約を行い、米・独等の優秀な工作機械、冶工具の設置を行った
    • [48]1956年8月に大磯工場の建設に着手し、1957年10月、投下資本11億余円をもって完成をみた
    • [49]大磯工場の完成により、戦後再び念願としていた金銭登録機の国産化に成功した

大磯工場は1957年10月の完成とともに操業へ入り、1958年7月に第1回製品を完成させた[50]。それまで蒲田組立工場が輸入部品で組み立てていた金銭登録機を自社生産へ切り替え、21号型は月産約500台、6000号型は月産50台の生産能力を備えた[51]。用地19,180坪、建物4,103坪、機械設備などを含めた投下資本は14億円[52]。1954年から1956年にかけて導入した外資を自己資本化するため、1958年6月と1959年10月の2回、それぞれ1対2、1対1の有償増資を行ない、資本金を7億4,828万6,100円まで増やした[53]

  • 証券業報 1960年 第5号「日本ナショナル金銭登録機株式会社」
    • [50]大磯工場は1957年10月完成とともに操業に入り、1958年7月に第1回製品を完成した
    • [51]大磯工場操業前は蒲田組立工場において輸入部品で金銭登録機の組立を行っていた。大磯工場の生産能力は21号型が月産約500台、6000号型が月産50台である
    • [52]生産設備は土地19,180坪、建物4,103坪で、機械設備等の投下資本を含め14億円に上っている
    • [53]1954年から1956年にかけて導入した外資を自己資本化するため、1958年6月と1959年10月の2回にわたりそれぞれ1対2、1対1の有償増資を行い、資本金は7億4,828万6,100円に増大した
  • 証券業報 1960年 第5号「日本ナショナル金銭登録機株式会社」
    • [41]1935年7月、当時の米国NCR社社長デイーズ氏と藤山愛一郎氏により、米国NCR社と技術援助契約ならびに資本の提携を行った
    • [42]第2次世界大戦勃発のため1942年2月に政府命令により敵産管理の指定を受け、翌1943年12月に資本金30万円への減資を余儀なくされた
    • [43]1947年12月の敵産管理解除により1949年に資本金を200万円に復元し、米国NCR社との交誼が復活した
    • [44]1951年12月、わが国における戦後最初の外資導入を行った
    • [45]1951年12月の外資導入により資本金は2,771万4,300円となり、技術援助契約を新たに締結した
    • [46]外資導入後に業績が急激な上昇を示したため、終戦前後における株主の苦労に酬いるべく1953年・1954年の2回にわたりそれぞれ1対2、2対1の株式配当を行い、資本金は1億2,471万4,350円に躍進した
    • [47]1954年7月、大磯工場建設のため米国NCR社と借入金契約を行い、米・独等の優秀な工作機械、冶工具の設置を行った
    • [48]1956年8月に大磯工場の建設に着手し、1957年10月、投下資本11億余円をもって完成をみた
    • [49]大磯工場の完成により、戦後再び念願としていた金銭登録機の国産化に成功した
    • [50]大磯工場は1957年10月完成とともに操業に入り、1958年7月に第1回製品を完成した
    • [51]大磯工場操業前は蒲田組立工場において輸入部品で金銭登録機の組立を行っていた。大磯工場の生産能力は21号型が月産約500台、6000号型が月産50台である
    • [52]生産設備は土地19,180坪、建物4,103坪で、機械設備等の投下資本を含め14億円に上っている
    • [53]1954年から1956年にかけて導入した外資を自己資本化するため、1958年6月と1959年10月の2回にわたりそれぞれ1対2、1対1の有償増資を行い、資本金は7億4,828万6,100円に増大した
創業ストーリー(5)

株式の70%を握る米本社と代理店を置かない直販網

国産化を果たしても、資本の所在は動かず、1958年時点で資本金1億2,470万円の7割以上を米NCR本社が保有し、会長には本社から派遣された米国人が就いた[54]。社長と副社長は日本人だったが、役員13人のうち6人が米国人で、会計機部長や大磯工場長といった社内の重要ポストもあらかた米国人が占めた[55]。組織も日本式とは違い、部の下にまた部があったり部長1人しかいない部があったりして、権限の委譲が進み、権限の階層が少ない平たい構造をとった[56]。セールスマンは総務課や経理課へ転勤することがなく、どこまでもセールスマンとして働いた[57]

  • 東京電力株式会社社報 1958年「見学ルポ アメリカ式の合理的経営(日本ナショナル金銭登録機会社)」
    • [54]資本金1億2,470万円の7割以上をNCR本社が独占しており、日本NCR会長はNCR本社から派遣されている米人である
    • [55]社長・副社長は日本人だが、役員13人中6人までが米人であるほか、会計機部長・大磯工場長など社内の重要ポストもあらかた米人が占めている
    • [56]部の下にまた部があったり部長1人しかいない部があったりして日本式の部課係とは考え方が違い、権限の委譲が十分に行われ、権限の階層が少ないFlat Organizationになっている
    • [57]このセールスマンはどこまでもセールスマンであって、総務課へ転勤したり経理課へ転勤したりすることはない

1959年11月30日現在の発行済株式総数14,965,722株のうち、外国人の保有は10,605,925株、率にして70.87%[58]。1960年2月24日の創立40周年にあたっては記念行事の一環として利益準備金の資本組入れに伴う4対1の新株発行を行ない、資本金は9億3,535万7,600円となった[59]。同年4月13日に店頭売買の承認を受け、20日から売買が始まった[60]。株主数は1,576名を数えたものの、筆頭株主はザ・ナショナル・キャッシュ・レヂスター・カンパニーであり、米NCR社は同社株式の70%を持ち続けた[61]

  • 証券業報 1960年 第5号「日本ナショナル金銭登録機株式会社」
    • [58]1959年11月30日現在の発行済株式総数14,965,722株のうち、外国人の所有株式数は10,605,925株、発行済株式総数に対する割合は70.87%である
    • [59]1960年2月24日に創立40周年を迎えるにあたり、記念行事の一環として利益準備金の資本組入れに伴う4対1の新株式の発行を行い、資本金は9億3,535万7,600円となった
    • [60]店頭売買承認日は1960年4月13日、店頭売買開始日は1960年4月20日である
    • [61]1960年2月24日現在の株主数は1,576名で、1960年3月31日現在の大株主筆頭はザ・ナショナル・キャッシュ・レヂスター・カンパニーの13,095,000株。米国NCR社が同社株式の70%を持っている

販売では代理店制度その他、他社を通じた方法を一切とらず、札幌から鹿児島まで全国44カ所に営業所を置いて、販売網と技術サービス網を自前で張った[62][63]。1958年12月から1959年11月までの1年間で売上高52億3,520万円、当期純利益3億9,189万円を計上し、品目別では会計機が25億6,166万円で52.4%、金銭登録機が17億2,743万円で35.4%を占めた[64][65]。受注高は58億円に達し、前年度を17億円上回った[66]。市場占有率は60%を超えるとみられ、年間54億円にのぼる米NCR社の研究成果を無償で受け取れる立場にもあった[67]

  • 証券業報 1960年 第5号「日本ナショナル金銭登録機株式会社」
    • [62]販売部門は代理店制度やその他、他社を通じた販売は一切行っていない
    • [63]全国44カ所にわたり広範囲の販売網、技術サーヴィス網をもち、地方営業所は札幌から鹿児島まで各地に設けられている
    • [64]1958年12月1日から1959年11月30日までの売上高は5,235,208,644円、当期純利益は391,892,015円である
    • [65]1959年度の商品別売上は会計機2,561,666千円(52.4%)、金銭登録機1,727,430千円(35.4%)である
    • [66]1959年度の受注高は58億円を示し、前期受注高に比し17億円の増加である
    • [67]市場占有率は60%を上回るものと想定されている。米国NCR社が同社株式の70%をもち、年間54億円にのぼる研究成果を無償で供与している
  • 東京電力株式会社社報 1958年「見学ルポ アメリカ式の合理的経営(日本ナショナル金銭登録機会社)」
    • [54]資本金1億2,470万円の7割以上をNCR本社が独占しており、日本NCR会長はNCR本社から派遣されている米人である
    • [55]社長・副社長は日本人だが、役員13人中6人までが米人であるほか、会計機部長・大磯工場長など社内の重要ポストもあらかた米人が占めている
    • [56]部の下にまた部があったり部長1人しかいない部があったりして日本式の部課係とは考え方が違い、権限の委譲が十分に行われ、権限の階層が少ないFlat Organizationになっている
    • [57]このセールスマンはどこまでもセールスマンであって、総務課へ転勤したり経理課へ転勤したりすることはない
  • 証券業報 1960年 第5号「日本ナショナル金銭登録機株式会社」
    • [58]1959年11月30日現在の発行済株式総数14,965,722株のうち、外国人の所有株式数は10,605,925株、発行済株式総数に対する割合は70.87%である
    • [59]1960年2月24日に創立40周年を迎えるにあたり、記念行事の一環として利益準備金の資本組入れに伴う4対1の新株式の発行を行い、資本金は9億3,535万7,600円となった
    • [60]店頭売買承認日は1960年4月13日、店頭売買開始日は1960年4月20日である
    • [61]1960年2月24日現在の株主数は1,576名で、1960年3月31日現在の大株主筆頭はザ・ナショナル・キャッシュ・レヂスター・カンパニーの13,095,000株。米国NCR社が同社株式の70%を持っている
    • [62]販売部門は代理店制度やその他、他社を通じた販売は一切行っていない
    • [63]全国44カ所にわたり広範囲の販売網、技術サーヴィス網をもち、地方営業所は札幌から鹿児島まで各地に設けられている
    • [64]1958年12月1日から1959年11月30日までの売上高は5,235,208,644円、当期純利益は391,892,015円である
    • [65]1959年度の商品別売上は会計機2,561,666千円(52.4%)、金銭登録機1,727,430千円(35.4%)である
    • [66]1959年度の受注高は58億円を示し、前期受注高に比し17億円の増加である
    • [67]市場占有率は60%を上回るものと想定されている。米国NCR社が同社株式の70%をもち、年間54億円にのぼる研究成果を無償で供与している
創業ストーリー(6)

システムを売る方針とコンピュータ比率50%への引き上げ

1965年、田中元彦副社長は、計算機業界だけは不況の影響を最も受けないと述べた[68]。理由は二つあり、一つは事務機械が資金を有効に使う機械であって、事務の合理化は不況のときほど強力に推し進められること、もう一つは、自社が機械ではなく、より合理的に事務を行なうためのシステムを売ることに徹している点だった[69]。不況期に生産調整や価格協定が問題になる気運は計算機業界にはなく、その必要もないという見立てである[70]。当時の資本金は40億円、年商180億円、従業員4,681名を擁するまでになり、石川繁一社長が全社を率いた[71]

  • 事務と経営 1965年「トップ・インタビュー 日本ナショナル金銭登録機 副社長 田中元彦氏」
    • [68]田中元彦副社長は、事務機産業全般はともかく計算機・会計機などの計算機業界だけは不況の影響をもっとも受けないと述べた
    • [69]田中元彦副社長は、事務機械がおカネを有効に使う機械であり事務の合理化が不況のときほど強力に推し進められること、当社が機械ではなくより合理的に事務を行なうためのシステムを売るということに徹していることを理由に挙げた
    • [70]田中元彦副社長は、不況時に問題になる生産調整や価格協定について、計算機業界ではその気運はなく必要もないと述べた
    • [71]1965年時点で資本金40億円、年商180億円、従業員数4,681名。現社長は石川繁一氏

売り方も米本社流を保ち、販売員は歩合制のコミッション・セールスで通した[72]。長年このやり方を続けて悪いところが出てこなかったからだと田中元彦副社長は説明し、弊害が出てくればいつでもやめられる、セールスマンも歩合制と理解して入社するので不満はないだろうと語った[73][74]。社是社訓は置かず、社員に求めるのは勉強する社員であることの一点だとした[75]。新入社員向けの5日間のオリエンテーション、営業部員向けの1カ月以上にわたるセールス・トレーニング・スクール、技術部員のライン別テクニカル・トレーニング・スクール、海外留学制度を整え、神奈川県相模原市に教育センターを建設する計画も立てた[76]

  • 事務と経営 1965年「トップ・インタビュー 日本ナショナル金銭登録機 副社長 田中元彦氏」
    • [72]田中元彦副社長は、コミッション・セールス制度を採用しているのは長年このやり方を続けてきて悪いところがでてこなかったからだと述べた
    • [73]田中元彦副社長は、コミッション・セールス制度を採用しているのは長年このやり方を続けてきて悪いところがでてこなかったからだと述べた
    • [74]田中元彦副社長は、弊害がでてきたらいつでもやめられる、セールスマンの方でもコミッション・セールスであることをあらかじめ理解して入ってくるのだから不満はないと思うと述べた
    • [75]田中元彦副社長は、とくべつの社是社訓などというものはないが、ただ勉強する社員であることを要求していると述べた
    • [76]新入社員のための5日間のオリエンテーション、営業部員のための1カ月以上にわたるセールス・トレーニング・スクール、技術部員のライン別テクニカル・トレーニング・スクールなどの教育制度、海外留学制度を持ち、近く神奈川県相模原市に最新の設備を備えた教育センターを建設する予定である

1970年に入ると、主力のレジスターと会計機の伸びが鈍り、直近3年間で全社売上が1.7倍弱、年20%近い成長をとげたのに対し、金銭登録機・会計機・加算機の伸びは年率13%強にとどまった[77]。そこで電子計算機センチュリーシリーズの販売に力を入れ、発売以来170セットを受注した[78]。株主総会に出席した米本社のジョージ・ヘインズ副社長は、今後5年間にNCRは売上を倍増し利益を3倍にしたいと述べた[79]。コンピュータ部門は当時なお売上の13%にすぎなかったが、同社はこれを50%へ高める計画を立て、その土台となるセンチュリーの開発費およそ500億円は米NCRが負担し、日本側は特許料を払えばよかった[80][81]

  • 野田経済 1970年12月23日新年特大号
    • [77]ここ3年間の当社全体の売上げの伸びは1.7倍弱で年に20%近い成長をとげたが、金銭登録機、会計機・加算機などの売上げの伸びは年率にして13%強である
    • [78]センチュリーを発売して以来、現在までにすでに170セットを受注している
    • [79]株主総会に出席した米本社のジョージ・ヘインズ副社長は、今後5年間にNCRは売上倍増、利益を3倍にしたいと述べた
    • [80]コンピュータ部門はいま当社売上げの13%にすぎないが、将来は50%に高める計画である
    • [81]研究開発費は米NCRが負担し、センチュリー開発にはざっと500億円の費用がかかったが、ナショ金では特許料を払えばよい
  • 事務と経営 1965年「トップ・インタビュー 日本ナショナル金銭登録機 副社長 田中元彦氏」
    • [68]田中元彦副社長は、事務機産業全般はともかく計算機・会計機などの計算機業界だけは不況の影響をもっとも受けないと述べた
    • [69]田中元彦副社長は、事務機械がおカネを有効に使う機械であり事務の合理化が不況のときほど強力に推し進められること、当社が機械ではなくより合理的に事務を行なうためのシステムを売るということに徹していることを理由に挙げた
    • [70]田中元彦副社長は、不況時に問題になる生産調整や価格協定について、計算機業界ではその気運はなく必要もないと述べた
    • [71]1965年時点で資本金40億円、年商180億円、従業員数4,681名。現社長は石川繁一氏
    • [72]田中元彦副社長は、コミッション・セールス制度を採用しているのは長年このやり方を続けてきて悪いところがでてこなかったからだと述べた
    • [73]田中元彦副社長は、コミッション・セールス制度を採用しているのは長年このやり方を続けてきて悪いところがでてこなかったからだと述べた
    • [74]田中元彦副社長は、弊害がでてきたらいつでもやめられる、セールスマンの方でもコミッション・セールスであることをあらかじめ理解して入ってくるのだから不満はないと思うと述べた
    • [75]田中元彦副社長は、とくべつの社是社訓などというものはないが、ただ勉強する社員であることを要求していると述べた
    • [76]新入社員のための5日間のオリエンテーション、営業部員のための1カ月以上にわたるセールス・トレーニング・スクール、技術部員のライン別テクニカル・トレーニング・スクールなどの教育制度、海外留学制度を持ち、近く神奈川県相模原市に最新の設備を備えた教育センターを建設する予定である
  • 野田経済 1970年12月23日新年特大号
    • [77]ここ3年間の当社全体の売上げの伸びは1.7倍弱で年に20%近い成長をとげたが、金銭登録機、会計機・加算機などの売上げの伸びは年率にして13%強である
    • [78]センチュリーを発売して以来、現在までにすでに170セットを受注している
    • [79]株主総会に出席した米本社のジョージ・ヘインズ副社長は、今後5年間にNCRは売上倍増、利益を3倍にしたいと述べた
    • [80]コンピュータ部門はいま当社売上げの13%にすぎないが、将来は50%に高める計画である
    • [81]研究開発費は米NCRが負担し、センチュリー開発にはざっと500億円の費用がかかったが、ナショ金では特許料を払えばよい

電子レジスターからPOSへ移り、親会社ごと社名を失う

創業ストーリー(7)

世界初の電子レジスターと競合続出による収益率低下

1971年、日本ナショナル金銭登録機は世界初の電子レジスターNCR 230を発表[82]。歯車をICとコア・メモリに置き換え、30分類の合計機能と軽いタッチの操作性を備えた機種で、爆発的に広まった[83]。同じ年には世界初のオンライン現金自動支払い機NCR 415も送り出し、前年に発表した百貨店向けPOSターミナルNCR 280 リテイル・ターミナルは、日本初のペン状リーダーによる商品タグの自動入力と、緑・白・黒の3色を使うカラー・バーコード・システムを備えて、百貨店での普及を押し上げた[84][85]。電子レジスターは大磯工場で量産してその6割を欧米へ輸出し、1973年には社名を日本ナショナル金銭登録機から日本エヌ・シー・アールへ改めた[86][87]

電子レジスターの市場には東京電気、シャープカシオ計算機が相次いで参入し、20数社が価格で競り合う混戦になった[88]。3年前に55%だった同社の販売シェアは、38〜40%だった東京電気とほぼ逆転した[89]。POS端末機では市場占有率70%超を保ったものの、機械式レジの下取りと、無料か破格の安値でのソフトウェア提供、顧客先へのシステムエンジニア派遣が利幅を削り、販売員の給与と手当も1975年以降に上がって、1977年度には10年前の6倍へ膨らんだ[90][91]。1978年5月期上半期の売上高は340億円で前年同期比10%減、経常利益は12億円で64%減、売上高経常利益率は3.5%と過去最低を記録した[92]。上半期の売上高が前年同期を割ったのは、1964年の株式上場以来はじめてのことだった[93]

  • 日経ビジネス 1978年12月4日号
    • [88]ECR市場に東京電気、シャープ、カシオ計算機などが新規参入し、現在では20数社が価格でしのぎを削る混乱気味の市場になっている。
    • [89]3年前、日本エヌ・シー・アールのECR販売シェアは55%、東京電気は38〜40%だったのが、現在ではほぼ正反対になっている。
    • [90]POS端末機の市場占有率は70%を超すが、機械式レジの下取り、無料か破格の安値でのソフトウェア提供、システムエンジニアのユーザー派遣で人件費が急増した。
    • [91]販売員の給与・手当は昭和50年以降急上昇し、52年度は10年前と比べ約6倍になった。
    • [92]昭和53年5月までの上半期は売上高340億円(前年同期比10%減)、経常利益12億円(同64%減)、売上高経常利益率3.5%で過去最低を記録した。
    • [93]上半期の売り上げで前年同期を下回ったのは、昭和39年の株式上場以来初めてだった。

資本の70%を米国NCR本社が握り、機器の開発と基本設計はすべて米国NCRで決まった[94]。日本の特定の顧客向けに1台50万円の機器を200台生産して売れても利益は開発費に食われてしまうと三富啓豆社長は語り、日本側で設計に踏み込めない理由に挙げた[95]。アーネスト・M・キャビット会長は、米国デイトンの研究開発陣が全世界のニーズに合う製品を開発しているとして今後も米国中心の開発を続けると述べ、米国70%・日本30%の出資比率を変える話は出たこともないと否定した[96]。値引きをしない米国NCRの販売方針も、競合との競り合いで同社を不利な位置に置いた[97]

  • 日経ビジネス 1978年12月4日号
    • [94]資本の70%を米国NCR本社が握り、機器の開発と基本設計はすべて米国NCRで決定する。
    • [95]三富社長は「例えば、日本の特定のユーザー向けに、1台50万円の機器を200台生産し、それが売れたとしても利益は開発費に食われてしまう」と述べた。
    • [96]キャビット会長は米国デイトンの研究開発陣が全世界のニーズに合った製品を開発しているとして今後とも米国での開発中心でいくと答え、米国NCR70%・日本側30%の出資比率の変更は話題にのぼったこともないと述べた。
    • [97]米国NCRの販売政策に基づいて値引きをしない姿勢を貫いたことで、他メーカーより多少不利な立場に立たされた。
    • [82]1971年(昭和46年)、世界初の電子レジスター「NCR 230」を発表した。
    • [84]1971年(昭和46年)、世界初のオンライン現金自動支払い機「NCR 415」を発表した。
    • [83]「NCR 230 ECR」は歯車からIC、コア・メモリへ移り、30分類の合計機能と軽いタッチの操作性を持つ高性能レジスターとして爆発的に普及した。
    • [85]1970年発売の百貨店用POS「NCR 280 リテイル・ターミナル」は日本初のペン状リーダーによる商品タグの自動入力と、緑・白・黒の3色を使ったカラー・バーコード・システムを備え、百貨店での普及が急速に拡大した。
    • [87]1973年(昭和48年)、日本ナショナル金銭登録機(株)を日本エヌ・シー・アール(株)と改称した。
  • 日経ビジネス 1978年12月4日号
    • [86]大磯工場で製造しているECRの60%が欧米向け輸出だった。
    • [88]ECR市場に東京電気、シャープ、カシオ計算機などが新規参入し、現在では20数社が価格でしのぎを削る混乱気味の市場になっている。
    • [89]3年前、日本エヌ・シー・アールのECR販売シェアは55%、東京電気は38〜40%だったのが、現在ではほぼ正反対になっている。
    • [90]POS端末機の市場占有率は70%を超すが、機械式レジの下取り、無料か破格の安値でのソフトウェア提供、システムエンジニアのユーザー派遣で人件費が急増した。
    • [91]販売員の給与・手当は昭和50年以降急上昇し、52年度は10年前と比べ約6倍になった。
    • [92]昭和53年5月までの上半期は売上高340億円(前年同期比10%減)、経常利益12億円(同64%減)、売上高経常利益率3.5%で過去最低を記録した。
    • [93]上半期の売り上げで前年同期を下回ったのは、昭和39年の株式上場以来初めてだった。
    • [94]資本の70%を米国NCR本社が握り、機器の開発と基本設計はすべて米国NCRで決定する。
    • [95]三富社長は「例えば、日本の特定のユーザー向けに、1台50万円の機器を200台生産し、それが売れたとしても利益は開発費に食われてしまう」と述べた。
    • [96]キャビット会長は米国デイトンの研究開発陣が全世界のニーズに合った製品を開発しているとして今後とも米国での開発中心でいくと答え、米国NCR70%・日本側30%の出資比率の変更は話題にのぼったこともないと述べた。
    • [97]米国NCRの販売政策に基づいて値引きをしない姿勢を貫いたことで、他メーカーより多少不利な立場に立たされた。
創業ストーリー(8)

端末単品からシステム販売への転換とJANスキャニング

事務機の端末を単品で売る時代は終わり、端末をどうコンピューターに結びつけて売るかというソフトウェアの時代に入ったと、三富啓豆社長は自社の立ち位置を置き直した[98]。1977年にオフィス・コンピューターから超大型機までを体系化したNCR 8000シリーズを発表し、1977年度にはコンピューターが売上高で初めて首位に立った[99]。売り方も変えた[100]。個人の歩合給を軸としたコミッションセールスを薄め、チームで顧客の要望をつかむ形へ移したところ、1977年春に成績上位の販売員が数十人退社している[101]。システムエンジニアは1976年末の800人から1000人へ増え、数年後に1500人まで増やす方針を掲げる一方、ハードウェアを売り歩くだけの販売員の採用は打ち切った[102][103]

  • 日経ビジネス 1978年12月4日号
    • [98]三富社長は「事務機の端末を単品で売る時代は終わり、端末をどうコンピューターに結びつけて売るかというソフトウェアの時代に入った」と述べた。
    • [99]昭和52年度にオフィス・コンピューターから超大型コンピューターまでを体系化した「NCR8000シリーズ」を発表し、コンピューターが売り上げの中で初めてトップになった。
    • [100]従来のコミッション制が手直しされ、昭和52年春に個人セールスで優秀な成績をあげてきたセールスマンが数十人退社した。
    • [101]従来のコミッション制が手直しされ、昭和52年春に個人セールスで優秀な成績をあげてきたセールスマンが数十人退社した。
    • [102]システムエンジニアの数は昭和51年末に800人だったのが現在では1000人に増え、数年後には1500人までもっていく方針。
    • [103]単にハードウェアを売って歩くセールスマンは一切採用しない構えだった。

1979年、日本流通システム開発センターの委託を受け、たつみチェーンでNCR 255/6060による日本で最初のJANコードのPOS・スキャニング店頭実験を始めた[104]。以後はスーパーマーケット向けインラインコントローラーNCR 2950 Grand Master、百貨店向けNCR 2152 POSターミナルと、業態ごとに機種を分けて品ぞろえを広げた[105]。1985年にはイトーヨーカ堂の全124店に8000台のPOSシステムを納め、本部と全店をつなぐオンライン・システムを作った[106]。店舗と商品の特性が把握できるようになり、本部仕入れへのデータ活用と、売上集計・監査の合理化が同時に進んだ[107]

    • [104]日本における最初のJANコードによるPOS/スキャニング・システム店頭実験は、1979年(昭和54年)に(財)日本流通システム開発センターの委託によって「たつみチェーン」でスタートした「NCR 255/6060」システムである。
    • [105]1980年(昭和55年)に「2950 Grand Master スーパーマーケット向けインラインコントローラー」、1981年(昭和56年)に「2152 POSターミナル 百貨店向けPOSターミナル」を出した。
    • [106]1985年(昭和60年)、イトーヨーカ堂全124店に8000台のPOSシステムを導入し、本部と全店をつなぐオンライン・システムを構築した。
    • [107]イトーヨーカ堂への全店POS導入により店舗や商品の特性が把握でき、本部仕入れへのデータの活用が可能になり、あわせて売上集計・監査が合理化された。

1982年に主要製品へのオープン・システム採用を表明し、1983年には世界初のビジネスUNIX機NCR TOWER1632と、32ビットVLSIマイクロプロセサーを積んだ汎用機NCR ITX9300を発表した[108]。1988年2月、金融システム事業部長から取締役・常務と進んだ秋山育雄氏が48歳で社長に就いた[109]。米NCR本社と米CDCの共同開発計画に1976年から加わってミネアポリスへ渡り、3か月後に中止命令を受けた経験を、秋山育雄社長は冷静な判断の必要を学んだ場として振り返った[110]。同じ1988年に打ち出したNCR統合リテイル・システム'90sは、百貨店・大型店向けARMIS/E、スーパーマーケット向けTRIM/E、中小規模スーパー向け2123/ADCOMに分けて提供し、翌1989年には日本エヌ・シー・アール販売を設立した[111][112]

    • [108]1982年に主要製品にオープン・システムの採用を表明し、1983年に世界初のビジネスUNIX機「NCR TOWER1632」と世界初の32ビット・チップVLSIマイクロプロセサー搭載の汎用コンピューター「NCR ITX9300」を発表した。
  • 日経ビジネス 1988年5月9日号
    • [109]秋山育雄氏は昭和15年3月30日生まれの48歳。58年金融システム事業部長、同年取締役、59年常務を経て、63年2月社長に就任した。
    • [110]昭和51年、米NCR本社がライバルの米CDCと共同で開発していた新型コンピューターのプロジェクトメンバーに選ばれミネアポリスへ渡ったが、3カ月後に中止命令が下り、この時に「仕事にはムードだけでなく冷静な判断が必要なことを学んだ」。
    • [111]1988年(昭和63年)発表の「NCR統合リテイル・システム'90s」は、百貨店・大型店向けの「NCR ARMIS/Eシステム」、スーパーマーケット向けの「NCR TRIM/Eシステム」、中小規模スーパー向けの「NCR 2123/ADCOMシステム」として提供された。
    • [112]1989年(平成1年)、日本エヌ・シー・アール販売(株)を設立した。
  • 日経ビジネス 1978年12月4日号
    • [98]三富社長は「事務機の端末を単品で売る時代は終わり、端末をどうコンピューターに結びつけて売るかというソフトウェアの時代に入った」と述べた。
    • [99]昭和52年度にオフィス・コンピューターから超大型コンピューターまでを体系化した「NCR8000シリーズ」を発表し、コンピューターが売り上げの中で初めてトップになった。
    • [100]従来のコミッション制が手直しされ、昭和52年春に個人セールスで優秀な成績をあげてきたセールスマンが数十人退社した。
    • [101]従来のコミッション制が手直しされ、昭和52年春に個人セールスで優秀な成績をあげてきたセールスマンが数十人退社した。
    • [102]システムエンジニアの数は昭和51年末に800人だったのが現在では1000人に増え、数年後には1500人までもっていく方針。
    • [103]単にハードウェアを売って歩くセールスマンは一切採用しない構えだった。
    • [104]日本における最初のJANコードによるPOS/スキャニング・システム店頭実験は、1979年(昭和54年)に(財)日本流通システム開発センターの委託によって「たつみチェーン」でスタートした「NCR 255/6060」システムである。
    • [105]1980年(昭和55年)に「2950 Grand Master スーパーマーケット向けインラインコントローラー」、1981年(昭和56年)に「2152 POSターミナル 百貨店向けPOSターミナル」を出した。
    • [106]1985年(昭和60年)、イトーヨーカ堂全124店に8000台のPOSシステムを導入し、本部と全店をつなぐオンライン・システムを構築した。
    • [107]イトーヨーカ堂への全店POS導入により店舗や商品の特性が把握でき、本部仕入れへのデータの活用が可能になり、あわせて売上集計・監査が合理化された。
    • [108]1982年に主要製品にオープン・システムの採用を表明し、1983年に世界初のビジネスUNIX機「NCR TOWER1632」と世界初の32ビット・チップVLSIマイクロプロセサー搭載の汎用コンピューター「NCR ITX9300」を発表した。
  • 日経ビジネス 1988年5月9日号
    • [109]秋山育雄氏は昭和15年3月30日生まれの48歳。58年金融システム事業部長、同年取締役、59年常務を経て、63年2月社長に就任した。
    • [110]昭和51年、米NCR本社がライバルの米CDCと共同で開発していた新型コンピューターのプロジェクトメンバーに選ばれミネアポリスへ渡ったが、3カ月後に中止命令が下り、この時に「仕事にはムードだけでなく冷静な判断が必要なことを学んだ」。
    • [111]1988年(昭和63年)発表の「NCR統合リテイル・システム'90s」は、百貨店・大型店向けの「NCR ARMIS/Eシステム」、スーパーマーケット向けの「NCR TRIM/Eシステム」、中小規模スーパー向けの「NCR 2123/ADCOMシステム」として提供された。
    • [112]1989年(平成1年)、日本エヌ・シー・アール販売(株)を設立した。
創業ストーリー(9)

AT&T傘下入りで消えた日本法人の社名と2年後の復称

1991年9月19日、米NCRはAT&Tの完全子会社と合併し、AT&Tの傘下に入った[113]。同年8月にはAT&Tのロバート・E・アレン会長が日本法人を表敬訪問[114]。1992年3月、神経炎に侵されて右手が上がらなくなった秋山育雄社長の後を受け、副社長の田中稀一郎氏が58歳で社長に就いた[115]。田中稀一郎社長は入社4年目に初の米国駐在員となり、スーパーストアやディスカウントストアが続々と生まれる現場を見た人物で、1985年のイトーヨーカ堂へのPOS端末導入を流通業界に大きなインパクトを与えた仕事として挙げた[116]

    • [113]NCR was a publicly traded company on the New York Stock Exchange prior to its merger with a wholly-owned subsidiary of AT&T Corp. (AT&T) on September 19, 1991.(米NCRは1991年9月19日にAT&Tの完全子会社と合併した)
  • 日経ビジネス 1992年4月13日号
    • [114]91年8月、AT&Tのロバート・E・アレン会長が表敬訪問した。
    • [115]秋山育雄前社長(52歳、現副会長)が神経炎に侵され右手が上がらなくなったため、91年7月に常務から副社長へ昇格していた田中稀一郎氏(1933年7月26日生まれ、58歳)が92年3月に社長へ就任した。
    • [116]田中氏は入社4年目にして初の米国駐在員となりスーパーストアやディスカウントストアが続々誕生する現場を目撃した。1985年にイトーヨーカ堂全店へPOS端末導入を果たし「流通業界に大きなインパクトを与えた」と自負する。

金融・流通に偏った受注を製造業へ広げる方針も掲げ、自らはトップセールスに徹し、技術・製造は44歳の高橋秀明副社長に任せる分担を組んだ[117]。1992年にはNCRシステム3000を発表してパソコンから超並列サーバーまでを同一アーキテクチャーで並べ、日本テラデータを傘下に収めている[118]。日本初の商用超並列処理コンピューターNCR 3600と、日本初の本格的なペン入力パソコンNCR 3125も同じ年に出した[119]

1994年、米NCRは社名をAT&Tグローバル・インフォメーション・ソリューションズへ改め、日本法人も日本AT&T情報システムへ社名を改めた[120]。同じ年には世界初のWindows対応POSターミナルWinPOSを発売し、あわせて日本NCRサービスを発足させた[121]。1996年、米国側の社名がNCRコーポレーションへ戻ると、日本法人も日本NCRへ社名を戻し、同年にはWindows NTを採用したPOSワークステーションWin POS 21を発売した[122][123]。AT&Tは1996年12月31日にNCR持分の全部を株主へ分配し[124]、米NCRは1997年にAT&Tから分離独立して、ニューヨーク証券取引所へ株式を再び上場させた[125]

日本の株主を外した公開買付けと市場からの退場

創業ストーリー(10)

発行済株式の30%を狙った1998年4月の公開買付け

買付けにあたったのは日本NCRとは別に米NCRが日本に置いた子会社、エヌ・シー・アール・ホールディングス株式会社であり、買付期間は4月20日から6月3日までと定められた[126]

買付けは6月3日に終わり、米NCRの持分は27%上積みされて97%へ、取得原価は2億7,400万ドルとなった[127]。1998年12月31日時点で米NCRは間接保有分を含め214,513,012株、発行済株式総数の97.50%を握った[128]

創業ストーリー(11)

1,000人削減とATM事業を切り出した分社

買付けが進んだ1998年12月期、日本NCRは売上高908億8,300万円に対し営業損失26億2,500万円、経常損失18億9,200万円を計上し、特別退職金67億円などを加えて税引前当期損失91億2,400万円を出した[129]。米NCRの連結でも日本の売上高は1997年の8億5,900万ドルから1998年に6億8,700万ドルへ2割減った[130]。日本法人は1,000人の人員削減にあわせて対象者の年金給付債務を清算し、米NCRは1998年第4四半期に税引前5,000万ドルの一時費用を計上した[131]。日本側の稼ぐ力が細った年と、米NCRが日本の少数株主から株を買い集めた年は、同じ1998年である。

同じ1998年、日本NCRは経営効率の改善とATM事業を取り巻く環境の変化への対応を理由に、ATM事業を本体から切り離し、1998年12月25日付で日本ATM株式会社を発足させた[132]。日本ATMが売ったのは機械そのものではなく、設置済みの機器を止めずに動かし続ける請負にほかならない。

1999年12月期の売上高は712億2,300万円と前年から2割近く減り、営業損失10億2,800万円、経常損失12億4,500万円を残した[133]。米NCRの連結で見た日本の売上高も6億1,200万ドルへ下がり、同じ年には赤坂の不動産売却が連結の特別項目に載った[134]。日本NCRは1999年3月に執行役員制度を導入し、戦略決定を速めるために取締役会の意思決定と業務執行を分けた[135]。公開買付けの成立で、日本NCR株は時期こそ未定ながら最長で2000年6月ごろまでに東京・大阪両証券取引所で上場廃止となる見込みとなった[136]

    • [129]第110期(1998年12月期)売上高90,883百万円、営業損失2,625百万円、経常損失1,892百万円、特別損失に特別退職金6,700百万円ほか、税引前当期損失9,124百万円
    • [132]日本NCRは1998年12月25日付でATM事業を分離し日本ATM株式会社を発足。理由は経営効率の改善とATMビジネス環境の変化への対応
    • [136]「時期は未定(最長平成12年6月頃まで)でありますが、当社株式は東京・大阪両証券取引所において上場廃止となる見込み」
    • [130]米NCR連結の地域別売上 Japan は1997年859百万ドル、1998年687百万ドル。1998年の日本の売上は20%減
    • [134]米NCR連結の地域別売上 Japan は1999年612百万ドル。1999年に赤坂の不動産を売却し特別項目に計上
    • [131]日本子会社の1,000人の人員削減に伴い年金給付債務を清算し、1998年第4四半期に税引前5,000万ドルの一時費用を計上
    • [133]第111期(1999年12月期)売上高71,223百万円、営業損失1,028百万円、経常損失1,245百万円
    • [135]1999年3月に執行役員制度を導入し、取締役会の意思決定機能と業務執行機能を分離
創業ストーリー(12)

監理ポストから整理ポストを経た上場廃止の日

東京証券取引所と大阪証券取引所は、少数特定者持株比率と株主数の上場廃止基準に照らし、日本NCR株を2000年1月1日から3月30日まで監理ポストに置いた[137]。続いて3月31日から6月29日まで整理ポストが割り当てられ、6月30日をもって上場は廃止となった[138]。日本NCRは、整理ポストの割当ては公開買付けの経緯によるもので自社の業績を起因としたものではないと告知した[139]。退場のきっかけは株式交換でも少数株主の買い取りでもなく、親会社の持株比率が上場廃止基準に触れたことにある。上場廃止後も日本NCRは存続会社として営業を続け、顧客関係管理の分野で評価を得ていたデータウェアハウスを事業の軸に置くと表明した[140]

    • [137]東証・大証の少数特定者持株比率および株主数についての上場廃止基準に従い、2000年1月1日から3月30日まで監理ポスト期間
    • [138]整理ポスト割当期間は2000年3月31日〜6月29日、上場廃止日は2000年6月30日
    • [139]「今回の整理ポスト割り当ては、上記経緯によるものであり、当社の業績を起因としたものではありません」
    • [140]上場廃止後もCRM分野で評価を得ているデータ・ウエアハウスを中心とした各種ビジネス・ソリューションの提供を継続すると告知

上場廃止の手続きが進むあいだに日本NCRが外から迎えた上田寿男氏は、1967年に北海道大学工学部電子工学科を出て日本電気に入り、1974年に日本ディジタル・イクイップメントへ移って情報システムの営業を担い、1998年3月に同社の社長へ就いた[141]。同年10月の合併でコンパック日本法人の副社長となったのち、1999年12月に日本NCRへ副社長として入社し、2000年4月に社長へ昇格した[142]

  • 日経ビジネス 2000年4月17日号
    • [141]上田寿男は1945年2月18日北海道生まれ、1967年3月北海道大学工学部電子工学科卒、同年日本電気入社、1974年日本DEC入社、1998年に日本DEC社長就任
    • [142]1998年のDECとコンパックの合併に伴いコンパック日本法人副社長に就任、1999年12月に日本NCRへ副社長として入社、2000年4月に社長就任

2000年12月期の売上高は639億9,800万円と前年から約10%減ったが、粗利益率の改善と経費削減で営業利益4億1,500万円、経常利益6億800万円を確保し、受注高は544億6,800万円と前年比3.6%増となった[143]。田中稀一郎社長は代表取締役会長へ退き、2001年4月時点の役員一覧に会長として名を連ねた[144]。入社4年目の1960年に米本社へ送られ、レジスターを勧める前に小売業の新しい経営手法を紹介する売り方を学んだ田中稀一郎会長は[145]、その40年後、日本の株主が一人もいなくなった会社の会長席に座った。

    • [143]第112期(2000年12月期)売上高63,998百万円、営業利益415百万円、経常利益608百万円。売上高は前年同期比約10%減、グロスマージン率の改善と経費削減で営業利益を確保。受注高544億6,800万円で前年比3.6%増
    • [144]2001年4月時点の役員一覧に代表取締役会長 田中稀一郎、代表取締役社長 上田寿男
  • 経営コンサルタント 1998年「田中稀一郎 日本NCR社長」
    • [145]田中稀一郎は1960年に入社4年目で米本社へ1年間派遣され、モノを売る前に新しい小売経営の手法を紹介し、そのための道具としてレジスターを採用してもらう啓蒙型の販売方法を学んだ
    • [137]東証・大証の少数特定者持株比率および株主数についての上場廃止基準に従い、2000年1月1日から3月30日まで監理ポスト期間
    • [138]整理ポスト割当期間は2000年3月31日〜6月29日、上場廃止日は2000年6月30日
    • [139]「今回の整理ポスト割り当ては、上記経緯によるものであり、当社の業績を起因としたものではありません」
    • [140]上場廃止後もCRM分野で評価を得ているデータ・ウエアハウスを中心とした各種ビジネス・ソリューションの提供を継続すると告知
  • 日経ビジネス 2000年4月17日号
    • [141]上田寿男は1945年2月18日北海道生まれ、1967年3月北海道大学工学部電子工学科卒、同年日本電気入社、1974年日本DEC入社、1998年に日本DEC社長就任
    • [142]1998年のDECとコンパックの合併に伴いコンパック日本法人副社長に就任、1999年12月に日本NCRへ副社長として入社、2000年4月に社長就任
    • [143]第112期(2000年12月期)売上高63,998百万円、営業利益415百万円、経常利益608百万円。売上高は前年同期比約10%減、グロスマージン率の改善と経費削減で営業利益を確保。受注高544億6,800万円で前年比3.6%増
    • [144]2001年4月時点の役員一覧に代表取締役会長 田中稀一郎、代表取締役社長 上田寿男
  • 経営コンサルタント 1998年「田中稀一郎 日本NCR社長」
    • [145]田中稀一郎は1960年に入社4年目で米本社へ1年間派遣され、モノを売る前に新しい小売経営の手法を紹介し、そのための道具としてレジスターを採用してもらう啓蒙型の販売方法を学んだ

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沿革年表 1919〜2023年

日本NCRの沿革1919〜2023年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1919〜1950年レジスター製造で発足し米NCRの資本の下に入った30年間宮勝三郎氏が間宮堂を創業
日本金銭登録機を設立
間宮精一氏が国産初のレジスターを開発★★★
米NCRと資本・技術提携★★★
1951〜1970年戦後初の外資導入で国産化し、売るものを機械からシステムへ移す戦後初の外資導入として米NCRの出資を受け入れ★★★
東京証券取引所市場第二部に上場
東京証券取引所市場第一部に指定
1971〜1997年電子レジスターからPOSへ移り、親会社ごと社名を失う銀行向け通帳記入機を日本で初めて開発★★
イトーヨーカ堂に全商品管理POSを納入★★
米NCRのエイ・ティ・アンド・ティによる買収★★
日本エイ・ティ・アンド・ティ情報システムに商号変更
日本エヌ・シー・アールに商号変更
1998〜2000年日本の株主を外した公開買付けと市場からの退場ATM事業を日本ATMに分社★★
米NCRによる株式公開買付けが成立★★★
上場廃止
テラデータ事業を分社化★★
全事業を日本NCRコマースに移管★★
出典・参考 27件
出典・参考

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