日本で最初のレジスターは、1897年に横浜の貿易商である牛島商会が米国のナショナル・キャッシュ・レジスターから輸入した機械で、店頭で現金を数え記録する道具は当初すべて輸入品でまかなわれた[1]。輸入と代理販売が続いたのち、1920年2月24日、藤山愛一郎氏が静岡県大仁にレジスターの製造を目的として日本金銭登録機を設立した[2][3]。社名に金銭登録機と掲げたとおり、輸入品を扱う商社ではなく、機械を国内で作る会社としての出発だった[4]。設立の2年後にあたる1922年には、科学的な経営管理の指針書として『灯台』を創刊し、機械だけでなく、その機械を使う店の管理にまで手を伸ばした[5]。
レジスターそのものの起源は米国にあり、1878年にカフェ経営者のジェームス・リティが発明したダイアル・レジスターの販売権利をJ.H.パターソンが買い取って1884年に設立した会社が、のちに提携相手となる米NCRである[6]。その米NCRは1933年12月、それまで結んでいた米国貿易会社との代理店契約を解約し、ナショナル金銭登録器を設けて販売部門を広げた[7]。日本に置いたのは輸入品を売る自前の会社であり、代理店に委ねていた販路を米NCRが自ら握り直した形になる[8]。こうして国内には、機械を作る日本金銭登録機と、米NCR製品を売る新会社が並び立った[9]。
1935年7月、日本金銭登録機は米NCRと技術ならびに資本の提携を結び、同時に米NCR製品の製造と販売を始めた[10][11]。米NCRが設けたナショナル金銭登録器は同じ月に日本ナショナル金銭登録機販売へ商号を変え、日本金銭登録機の子会社となり、製造と販売の両方が一つの傘の下へ収まった[12]。手続きの上では日本金銭登録機が日本ナショナル金銭登録機販売を合併する形をとったため、日本NCRは現在も、日本金銭登録機が創立した1920年2月を自社の創立の年とする[13]。合併の主体も残った社名も日本側だったが、機械の設計と会社の資本は米NCRから入った[14]。
1935年の提携当時、販売網は日本各地はもとより、朝鮮、満州、台湾、中国にまで及び、社業は順調に発展した[15]。売る機械も年ごとに厚みを増し、1926年に世へ出た2000号レジスターは、2万個を超える部品を使い、30個におよぶ各種分類合計機と数点売の計算機能、減算機能、二重伝票の認証印刷を備えた[16]。1933年にはこれを母体として部門別8個・取引別4個での集計と管理の機能を持つ6000号を発売し、1936年前後には営業記録紙への自筆書込装置と4部門合計器、スライド式レバーのキーボードを持つN-1600号が続いた[17][18]。しかし1937年ごろから戦時体制に入り、事業には種々の拘束の度が増した[19]。
1941年12月に開戦すると、米NCRの資本が入った日本ナショナル金銭登録機販売は敵産管理を受け、販売活動を停止した[20]。止まったのは新しい機械を売る仕事のほうで、すでに客先へ据えた機械の保守サービス活動は続けたが、1943年7月には企業そのものを縮小し、敵産管理によって決定的な打撃を受けた[21][22]。敵産管理は米NCR製のレジスターそのものに及ぶ規制で、その間は日本金銭登録機の名前でサービスだけが認められた[23]。1935年に一つの傘へ収めた製造と販売のうち動いたのは製造側だけとなり、日本金銭登録機がユーザーへのサービスを引き受けたまま終戦を迎えた[24]。
1945年8月15日の戦争終結を機に、日本金銭登録機は事業の再建へ乗り出し、1946年には札幌、仙台、京都、大阪の各営業所を開設して、これを皮切りにサービス網を増やして整えた[25][26]。同じ1946年7月には、社名を日本ナショナル金銭登録機へ変更[27]。戦前に子会社としていた販売会社の名から販売の二字を落とした社名であり、製造会社の側が、米国資本と結んだ会社の看板を引き受けた形になる[28]。敵産管理が解かれたのは1947年12月で、ここから米NCRとの連絡も密になり、資本金は1949年に200万円へ復元した[29][30][31]。
この再建期に入った一人が、のちに社長となる三富啓豆氏で、1918年に生まれ、1940年に早稲田大学商学部を卒業して日東紡績に入社し、その後軍隊に入って終戦を迎えた[32]。戦後は職がなく、どこでもいいから会社に入りたいと探していたところ、知人の紹介で当時はまだ小さかった日本NCRへ入った[33]。配属先は経理で、経理も財務も勉強しておらず、加えて米国式の手法で処理するため分からず、日曜も出社して外国人に講義を受けた[34]。業績は悪く、管理部門は極度に縮小され、経理は人員不足で仕事がはかどらず、毛布を持ち込んでの泊まり込みが続き、三富啓豆氏はこの間に2、3度辞表をたたきつけた[35][36]。
1950年、日本ナショナル金銭登録機は戦時中に米NCRで開発・改良された会計機や統計機などを輸入するようになり、統計・会計部を発足させた[37]。同年12月には東京都大田区仲六郷に蒲田工場を開設し、米NCRから輸入した部品を組み立てて市場へ送り出すまでになった[38]。同じ1950年、合計器を積んで小型化と低価格化を果たした21号レジスターを発売し、レジスターのノックダウンを始めた[39]。あわせて近代商業経営政策(Modern Merchandising Methods、通称MMM)と呼ぶ商業経営の考え方を導入し、その普及に向けた活動へ着手した[40]。
米NCRとの関係は戦前にさかのぼり、1935年7月には、米NCRのデイーズ社長と藤山愛一郎氏が技術援助契約と資本提携を結んだ[41]。製造と販売の陣容は整ったものの、第2次世界大戦の勃発により1942年2月に政府命令で敵産管理の指定を受け、翌1943年12月には資本金30万円への減資を余儀なくされた[42]。敵産管理は1947年12月に解除され、1949年には資本金を200万円へ復元して、米NCRとの交誼も戻った[43]。そして1951年12月、日本における戦後最初の外資導入に踏み切り、資本金は2,771万4,300円となって、技術援助契約も新たに締結した[44][45]。
外資導入後の業績は急激な上昇を示し、終戦前後における株主の苦労に報いるため、1953年と1954年の2回にわたってそれぞれ1対2、2対1の株式配当を実施して、資本金は1億2,471万4,350円へ躍進した[46]。1954年7月には大磯工場の建設資金として米NCRと借入金契約を結び、米国製やドイツ製の優秀な工作機械と冶工具をそろえて据え付けた[47]。工場は1956年8月に着工し、1957年10月、投下資本11億円余りをもって完成をみた[48]。戦後再び念願としていた金銭登録機の国産化は、輸入部品の組立から一歩進んで、ここで実現した[49]。
大磯工場は1957年10月の完成とともに操業へ入り、1958年7月に第1回製品を完成させた[50]。それまで蒲田組立工場が輸入部品で組み立てていた金銭登録機を自社生産へ切り替え、21号型は月産約500台、6000号型は月産50台の生産能力を備えた[51]。用地19,180坪、建物4,103坪、機械設備などを含めた投下資本は14億円[52]。1954年から1956年にかけて導入した外資を自己資本化するため、1958年6月と1959年10月の2回、それぞれ1対2、1対1の有償増資を行ない、資本金を7億4,828万6,100円まで増やした[53]。
国産化を果たしても、資本の所在は動かず、1958年時点で資本金1億2,470万円の7割以上を米NCR本社が保有し、会長には本社から派遣された米国人が就いた[54]。社長と副社長は日本人だったが、役員13人のうち6人が米国人で、会計機部長や大磯工場長といった社内の重要ポストもあらかた米国人が占めた[55]。組織も日本式とは違い、部の下にまた部があったり部長1人しかいない部があったりして、権限の委譲が進み、権限の階層が少ない平たい構造をとった[56]。セールスマンは総務課や経理課へ転勤することがなく、どこまでもセールスマンとして働いた[57]。
1959年11月30日現在の発行済株式総数14,965,722株のうち、外国人の保有は10,605,925株、率にして70.87%[58]。1960年2月24日の創立40周年にあたっては記念行事の一環として利益準備金の資本組入れに伴う4対1の新株発行を行ない、資本金は9億3,535万7,600円となった[59]。同年4月13日に店頭売買の承認を受け、20日から売買が始まった[60]。株主数は1,576名を数えたものの、筆頭株主はザ・ナショナル・キャッシュ・レヂスター・カンパニーであり、米NCR社は同社株式の70%を持ち続けた[61]。
販売では代理店制度その他、他社を通じた方法を一切とらず、札幌から鹿児島まで全国44カ所に営業所を置いて、販売網と技術サービス網を自前で張った[62][63]。1958年12月から1959年11月までの1年間で売上高52億3,520万円、当期純利益3億9,189万円を計上し、品目別では会計機が25億6,166万円で52.4%、金銭登録機が17億2,743万円で35.4%を占めた[64][65]。受注高は58億円に達し、前年度を17億円上回った[66]。市場占有率は60%を超えるとみられ、年間54億円にのぼる米NCR社の研究成果を無償で受け取れる立場にもあった[67]。
1965年、田中元彦副社長は、計算機業界だけは不況の影響を最も受けないと述べた[68]。理由は二つあり、一つは事務機械が資金を有効に使う機械であって、事務の合理化は不況のときほど強力に推し進められること、もう一つは、自社が機械ではなく、より合理的に事務を行なうためのシステムを売ることに徹している点だった[69]。不況期に生産調整や価格協定が問題になる気運は計算機業界にはなく、その必要もないという見立てである[70]。当時の資本金は40億円、年商180億円、従業員4,681名を擁するまでになり、石川繁一社長が全社を率いた[71]。
売り方も米本社流を保ち、販売員は歩合制のコミッション・セールスで通した[72]。長年このやり方を続けて悪いところが出てこなかったからだと田中元彦副社長は説明し、弊害が出てくればいつでもやめられる、セールスマンも歩合制と理解して入社するので不満はないだろうと語った[73][74]。社是社訓は置かず、社員に求めるのは勉強する社員であることの一点だとした[75]。新入社員向けの5日間のオリエンテーション、営業部員向けの1カ月以上にわたるセールス・トレーニング・スクール、技術部員のライン別テクニカル・トレーニング・スクール、海外留学制度を整え、神奈川県相模原市に教育センターを建設する計画も立てた[76]。
1970年に入ると、主力のレジスターと会計機の伸びが鈍り、直近3年間で全社売上が1.7倍弱、年20%近い成長をとげたのに対し、金銭登録機・会計機・加算機の伸びは年率13%強にとどまった[77]。そこで電子計算機センチュリーシリーズの販売に力を入れ、発売以来170セットを受注した[78]。株主総会に出席した米本社のジョージ・ヘインズ副社長は、今後5年間にNCRは売上を倍増し利益を3倍にしたいと述べた[79]。コンピュータ部門は当時なお売上の13%にすぎなかったが、同社はこれを50%へ高める計画を立て、その土台となるセンチュリーの開発費およそ500億円は米NCRが負担し、日本側は特許料を払えばよかった[80][81]。
1971年、日本ナショナル金銭登録機は世界初の電子レジスターNCR 230を発表[82]。歯車をICとコア・メモリに置き換え、30分類の合計機能と軽いタッチの操作性を備えた機種で、爆発的に広まった[83]。同じ年には世界初のオンライン現金自動支払い機NCR 415も送り出し、前年に発表した百貨店向けPOSターミナルNCR 280 リテイル・ターミナルは、日本初のペン状リーダーによる商品タグの自動入力と、緑・白・黒の3色を使うカラー・バーコード・システムを備えて、百貨店での普及を押し上げた[84][85]。電子レジスターは大磯工場で量産してその6割を欧米へ輸出し、1973年には社名を日本ナショナル金銭登録機から日本エヌ・シー・アールへ改めた[86][87]。
電子レジスターの市場には東京電気、シャープ、カシオ計算機が相次いで参入し、20数社が価格で競り合う混戦になった[88]。3年前に55%だった同社の販売シェアは、38〜40%だった東京電気とほぼ逆転した[89]。POS端末機では市場占有率70%超を保ったものの、機械式レジの下取りと、無料か破格の安値でのソフトウェア提供、顧客先へのシステムエンジニア派遣が利幅を削り、販売員の給与と手当も1975年以降に上がって、1977年度には10年前の6倍へ膨らんだ[90][91]。1978年5月期上半期の売上高は340億円で前年同期比10%減、経常利益は12億円で64%減、売上高経常利益率は3.5%と過去最低を記録した[92]。上半期の売上高が前年同期を割ったのは、1964年の株式上場以来はじめてのことだった[93]。
資本の70%を米国NCR本社が握り、機器の開発と基本設計はすべて米国NCRで決まった[94]。日本の特定の顧客向けに1台50万円の機器を200台生産して売れても利益は開発費に食われてしまうと三富啓豆社長は語り、日本側で設計に踏み込めない理由に挙げた[95]。アーネスト・M・キャビット会長は、米国デイトンの研究開発陣が全世界のニーズに合う製品を開発しているとして今後も米国中心の開発を続けると述べ、米国70%・日本30%の出資比率を変える話は出たこともないと否定した[96]。値引きをしない米国NCRの販売方針も、競合との競り合いで同社を不利な位置に置いた[97]。
事務機の端末を単品で売る時代は終わり、端末をどうコンピューターに結びつけて売るかというソフトウェアの時代に入ったと、三富啓豆社長は自社の立ち位置を置き直した[98]。1977年にオフィス・コンピューターから超大型機までを体系化したNCR 8000シリーズを発表し、1977年度にはコンピューターが売上高で初めて首位に立った[99]。売り方も変えた[100]。個人の歩合給を軸としたコミッションセールスを薄め、チームで顧客の要望をつかむ形へ移したところ、1977年春に成績上位の販売員が数十人退社している[101]。システムエンジニアは1976年末の800人から1000人へ増え、数年後に1500人まで増やす方針を掲げる一方、ハードウェアを売り歩くだけの販売員の採用は打ち切った[102][103]。
1979年、日本流通システム開発センターの委託を受け、たつみチェーンでNCR 255/6060による日本で最初のJANコードのPOS・スキャニング店頭実験を始めた[104]。以後はスーパーマーケット向けインラインコントローラーNCR 2950 Grand Master、百貨店向けNCR 2152 POSターミナルと、業態ごとに機種を分けて品ぞろえを広げた[105]。1985年にはイトーヨーカ堂の全124店に8000台のPOSシステムを納め、本部と全店をつなぐオンライン・システムを作った[106]。店舗と商品の特性が把握できるようになり、本部仕入れへのデータ活用と、売上集計・監査の合理化が同時に進んだ[107]。
1982年に主要製品へのオープン・システム採用を表明し、1983年には世界初のビジネスUNIX機NCR TOWER1632と、32ビットVLSIマイクロプロセサーを積んだ汎用機NCR ITX9300を発表した[108]。1988年2月、金融システム事業部長から取締役・常務と進んだ秋山育雄氏が48歳で社長に就いた[109]。米NCR本社と米CDCの共同開発計画に1976年から加わってミネアポリスへ渡り、3か月後に中止命令を受けた経験を、秋山育雄社長は冷静な判断の必要を学んだ場として振り返った[110]。同じ1988年に打ち出したNCR統合リテイル・システム'90sは、百貨店・大型店向けARMIS/E、スーパーマーケット向けTRIM/E、中小規模スーパー向け2123/ADCOMに分けて提供し、翌1989年には日本エヌ・シー・アール販売を設立した[111][112]。
1991年9月19日、米NCRはAT&Tの完全子会社と合併し、AT&Tの傘下に入った[113]。同年8月にはAT&Tのロバート・E・アレン会長が日本法人を表敬訪問[114]。1992年3月、神経炎に侵されて右手が上がらなくなった秋山育雄社長の後を受け、副社長の田中稀一郎氏が58歳で社長に就いた[115]。田中稀一郎社長は入社4年目に初の米国駐在員となり、スーパーストアやディスカウントストアが続々と生まれる現場を見た人物で、1985年のイトーヨーカ堂へのPOS端末導入を流通業界に大きなインパクトを与えた仕事として挙げた[116]。
金融・流通に偏った受注を製造業へ広げる方針も掲げ、自らはトップセールスに徹し、技術・製造は44歳の高橋秀明副社長に任せる分担を組んだ[117]。1992年にはNCRシステム3000を発表してパソコンから超並列サーバーまでを同一アーキテクチャーで並べ、日本テラデータを傘下に収めている[118]。日本初の商用超並列処理コンピューターNCR 3600と、日本初の本格的なペン入力パソコンNCR 3125も同じ年に出した[119]。
1994年、米NCRは社名をAT&Tグローバル・インフォメーション・ソリューションズへ改め、日本法人も日本AT&T情報システムへ社名を改めた[120]。同じ年には世界初のWindows対応POSターミナルWinPOSを発売し、あわせて日本NCRサービスを発足させた[121]。1996年、米国側の社名がNCRコーポレーションへ戻ると、日本法人も日本NCRへ社名を戻し、同年にはWindows NTを採用したPOSワークステーションWin POS 21を発売した[122][123]。AT&Tは1996年12月31日にNCR持分の全部を株主へ分配し[124]、米NCRは1997年にAT&Tから分離独立して、ニューヨーク証券取引所へ株式を再び上場させた[125]。
買付けにあたったのは日本NCRとは別に米NCRが日本に置いた子会社、エヌ・シー・アール・ホールディングス株式会社であり、買付期間は4月20日から6月3日までと定められた[126]。
買付けは6月3日に終わり、米NCRの持分は27%上積みされて97%へ、取得原価は2億7,400万ドルとなった[127]。1998年12月31日時点で米NCRは間接保有分を含め214,513,012株、発行済株式総数の97.50%を握った[128]。
買付けが進んだ1998年12月期、日本NCRは売上高908億8,300万円に対し営業損失26億2,500万円、経常損失18億9,200万円を計上し、特別退職金67億円などを加えて税引前当期損失91億2,400万円を出した[129]。米NCRの連結でも日本の売上高は1997年の8億5,900万ドルから1998年に6億8,700万ドルへ2割減った[130]。日本法人は1,000人の人員削減にあわせて対象者の年金給付債務を清算し、米NCRは1998年第4四半期に税引前5,000万ドルの一時費用を計上した[131]。日本側の稼ぐ力が細った年と、米NCRが日本の少数株主から株を買い集めた年は、同じ1998年である。
同じ1998年、日本NCRは経営効率の改善とATM事業を取り巻く環境の変化への対応を理由に、ATM事業を本体から切り離し、1998年12月25日付で日本ATM株式会社を発足させた[132]。日本ATMが売ったのは機械そのものではなく、設置済みの機器を止めずに動かし続ける請負にほかならない。
1999年12月期の売上高は712億2,300万円と前年から2割近く減り、営業損失10億2,800万円、経常損失12億4,500万円を残した[133]。米NCRの連結で見た日本の売上高も6億1,200万ドルへ下がり、同じ年には赤坂の不動産売却が連結の特別項目に載った[134]。日本NCRは1999年3月に執行役員制度を導入し、戦略決定を速めるために取締役会の意思決定と業務執行を分けた[135]。公開買付けの成立で、日本NCR株は時期こそ未定ながら最長で2000年6月ごろまでに東京・大阪両証券取引所で上場廃止となる見込みとなった[136]。
東京証券取引所と大阪証券取引所は、少数特定者持株比率と株主数の上場廃止基準に照らし、日本NCR株を2000年1月1日から3月30日まで監理ポストに置いた[137]。続いて3月31日から6月29日まで整理ポストが割り当てられ、6月30日をもって上場は廃止となった[138]。日本NCRは、整理ポストの割当ては公開買付けの経緯によるもので自社の業績を起因としたものではないと告知した[139]。退場のきっかけは株式交換でも少数株主の買い取りでもなく、親会社の持株比率が上場廃止基準に触れたことにある。上場廃止後も日本NCRは存続会社として営業を続け、顧客関係管理の分野で評価を得ていたデータウェアハウスを事業の軸に置くと表明した[140]。
上場廃止の手続きが進むあいだに日本NCRが外から迎えた上田寿男氏は、1967年に北海道大学工学部電子工学科を出て日本電気に入り、1974年に日本ディジタル・イクイップメントへ移って情報システムの営業を担い、1998年3月に同社の社長へ就いた[141]。同年10月の合併でコンパック日本法人の副社長となったのち、1999年12月に日本NCRへ副社長として入社し、2000年4月に社長へ昇格した[142]。
2000年12月期の売上高は639億9,800万円と前年から約10%減ったが、粗利益率の改善と経費削減で営業利益4億1,500万円、経常利益6億800万円を確保し、受注高は544億6,800万円と前年比3.6%増となった[143]。田中稀一郎社長は代表取締役会長へ退き、2001年4月時点の役員一覧に会長として名を連ねた[144]。入社4年目の1960年に米本社へ送られ、レジスターを勧める前に小売業の新しい経営手法を紹介する売り方を学んだ田中稀一郎会長は[145]、その40年後、日本の株主が一人もいなくなった会社の会長席に座った。
| 時代 | 年月 | 社長・CEO | 出来事 | 重要度 |
|---|---|---|---|---|
| 1919〜1950年レジスター製造で発足し米NCRの資本の下に入った30年 | 間宮勝三郎氏が間宮堂を創業 | ★ | ||
| 日本金銭登録機を設立 | ★ | |||
| 間宮精一氏が国産初のレジスターを開発 | ★★★ | |||
| 米NCRと資本・技術提携 | ★★★ | |||
| 1951〜1970年戦後初の外資導入で国産化し、売るものを機械からシステムへ移す | 戦後初の外資導入として米NCRの出資を受け入れ | ★★★ | ||
| 東京証券取引所市場第二部に上場 | ★ | |||
| 東京証券取引所市場第一部に指定 | ★ | |||
| 1971〜1997年電子レジスターからPOSへ移り、親会社ごと社名を失う | 銀行向け通帳記入機を日本で初めて開発 | ★★ | ||
| イトーヨーカ堂に全商品管理POSを納入 | ★★ | |||
| 米NCRのエイ・ティ・アンド・ティによる買収 | ★★ | |||
| 日本エイ・ティ・アンド・ティ情報システムに商号変更 | ★ | |||
| 日本エヌ・シー・アールに商号変更 | ★ | |||
| 1998〜2000年日本の株主を外した公開買付けと市場からの退場 | ATM事業を日本ATMに分社 | ★★ | ||
| 米NCRによる株式公開買付けが成立 | ★★★ | |||
| 上場廃止 | ★ | |||
| テラデータ事業を分社化 | ★★ | |||
| 全事業を日本NCRコマースに移管 | ★★ |
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事実根拠:出所(日本NCR)