第1章 年〜年

日本NCR:レジスター製造で発足し米NCRの資本の下に入った30年

1920年〜輸入代理から製造会社へ移行した設立

日本で最初のレジスターは、1897年に横浜の貿易商である牛島商会が米国のナショナル・キャッシュ・レジスターから輸入した機械で、店頭で現金を数え記録する道具は当初すべて輸入品でまかなわれた。輸入と代理販売が続いたのち、1920年2月24日、藤山愛一郎氏が静岡県大仁にレジスターの製造を目的として日本金銭登録機を設立した。社名に金銭登録機と掲げたとおり、輸入品を扱う商社ではなく、機械を国内で作る会社としての出発だった。設立の2年後にあたる1922年には、科学的な経営管理の指針書として"灯台"を創刊し、機械だけでなく、その機械を使う店の管理にまで手を伸ばした。

  • 日本NCRコマース「レジスター年表」 2025年8月20日取得(インターネット・アーカイブ保存版)
    • [1]日本で初めてのレジスターは、1897年にアメリカのナショナル・キャッシュ・レジスター(NCRの前身)から、横浜の貿易商・牛島商会によって輸入された
    • [5]1922年(大正11年)、日本NCRが科学的経営管理の指針書『灯台』を創刊した
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)「日本ナショナル金銭登録機」
    • [2]同社は大正9年2月、藤山愛一郎氏が静岡県大仁にレジスターの製造を目的として設立した日本金銭登録機に始まる。設立は大正9年2月24日
  • 事務と経営 1965年「トップ・インタビュー 日本ナショナル金銭登録機 副社長 田中元彦氏」
    • [3]日本ナショナル金銭登録機の創業は大正9年、藤山愛一郎氏が設立した日本金銭登録機がその前身である
  • 日本NCR 公式サイト「NCRのあゆみ」1920年欄(web.archive.org 2016年保存版)
    • [4]1920年 日本NCR創立(社名:日本金銭登録機)

レジスターそのものの起源は米国にあり、1878年にカフェ経営者のジェームス・リティが発明したダイアル・レジスターの販売権利をJ.H.パターソンが買い取って1884年に設立した会社が、のちに提携相手となる米NCRである。その米NCRは1933年12月、それまで結んでいた米国貿易会社との代理店契約を解約し、ナショナル金銭登録器を設けて販売部門を広げた。日本に置いたのは輸入品を売る自前の会社であり、代理店に委ねていた販路を米NCRが自ら握り直した形になる。こうして国内には、機械を作る日本金銭登録機と、米NCR製品を売る新会社が並び立った。

  • 日本NCRコマース「レジスター年表」 2025年8月20日取得(インターネット・アーカイブ保存版)
    • [6]1878年(明治11年)、世界で最初のレジスターは米国のジェームス・リティ(カフェ経営者)が発明し、ダイアル・レジスターと呼ばれた。1884年(明治17年)、J.H.パターソンが販売権利を買い取りレジスターの会社(NCRの前身)を設立した
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)「日本ナショナル金銭登録機」
    • [7]NCR(米・ザ・ナショナル・キヤッシユ・レジスター・カンパニー)は昭和8年12月、それまでの米国貿易会社との代理店契約を解約し、ナショナル金銭登録器を設けて販売部門の拡充を図った
    • [8]NCR(米・ザ・ナショナル・キヤッシユ・レジスター・カンパニー)は昭和8年12月、それまでの米国貿易会社との代理店契約を解約し、ナショナル金銭登録器を設けて販売部門の拡充を図った
    • [9]NCR(米・ザ・ナショナル・キヤッシユ・レジスター・カンパニー)は昭和8年12月、それまでの米国貿易会社との代理店契約を解約し、ナショナル金銭登録器を設けて販売部門の拡充を図った

1935年7月、日本金銭登録機は米NCRと技術ならびに資本の提携を締結し、同時に米NCR製品の製造と販売を開始した。米NCRが設けたナショナル金銭登録器は同じ月に日本ナショナル金銭登録機販売へ商号を変更し、日本金銭登録機の子会社となり、製造と販売の両方が一つの傘の下へ収まった。手続きの上では日本金銭登録機が日本ナショナル金銭登録機販売を合併する形をとったため、日本NCRは現在も、日本金銭登録機が創立した1920年2月を自社の創立の年とする。合併の主体も残った社名も日本側だったが、機械の設計と会社の資本は米NCRから入った。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)「日本ナショナル金銭登録機」
    • [10]昭和10年7月、日本金銭登録機はNCRと技術並びに資本の提携を結んだ
    • [12]ナショナル金銭登録器は昭和10年7月に日本ナショナル金銭登録機販売と商号変更し、日本金銭登録機はこれを子会社として製造・販売の両面を整えた
    • [13]この時、日本金銭登録機が日本ナショナル金銭登録機販売を合併するかたちをとったため、日本金銭登録機の創立された大正9年2月を、現在の日本NCRの創立の年としている
    • [14]昭和10年7月、日本金銭登録機はNCRと技術並びに資本の提携を結んだ
  • 事務と経営 1965年「トップ・インタビュー 日本ナショナル金銭登録機 副社長 田中元彦氏」
    • [11]昭和10年、アメリカNCR社と技術資本の提携を結び商号変更を行なうと同時に、同社製品の製造販売を開始した
参考文献[1]-[14]
  • 日本NCRコマース「レジスター年表」 2025年8月20日取得(インターネット・アーカイブ保存版)
    • [1]日本で初めてのレジスターは、1897年にアメリカのナショナル・キャッシュ・レジスター(NCRの前身)から、横浜の貿易商・牛島商会によって輸入された
    • [5]1922年(大正11年)、日本NCRが科学的経営管理の指針書『灯台』を創刊した
    • [6]1878年(明治11年)、世界で最初のレジスターは米国のジェームス・リティ(カフェ経営者)が発明し、ダイアル・レジスターと呼ばれた。1884年(明治17年)、J.H.パターソンが販売権利を買い取りレジスターの会社(NCRの前身)を設立した
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)「日本ナショナル金銭登録機」
    • [2]同社は大正9年2月、藤山愛一郎氏が静岡県大仁にレジスターの製造を目的として設立した日本金銭登録機に始まる。設立は大正9年2月24日
    • [7]NCR(米・ザ・ナショナル・キヤッシユ・レジスター・カンパニー)は昭和8年12月、それまでの米国貿易会社との代理店契約を解約し、ナショナル金銭登録器を設けて販売部門の拡充を図った
    • [8]NCR(米・ザ・ナショナル・キヤッシユ・レジスター・カンパニー)は昭和8年12月、それまでの米国貿易会社との代理店契約を解約し、ナショナル金銭登録器を設けて販売部門の拡充を図った
    • [9]NCR(米・ザ・ナショナル・キヤッシユ・レジスター・カンパニー)は昭和8年12月、それまでの米国貿易会社との代理店契約を解約し、ナショナル金銭登録器を設けて販売部門の拡充を図った
    • [10]昭和10年7月、日本金銭登録機はNCRと技術並びに資本の提携を結んだ
    • [12]ナショナル金銭登録器は昭和10年7月に日本ナショナル金銭登録機販売と商号変更し、日本金銭登録機はこれを子会社として製造・販売の両面を整えた
    • [13]この時、日本金銭登録機が日本ナショナル金銭登録機販売を合併するかたちをとったため、日本金銭登録機の創立された大正9年2月を、現在の日本NCRの創立の年としている
    • [14]昭和10年7月、日本金銭登録機はNCRと技術並びに資本の提携を結んだ
  • 事務と経営 1965年「トップ・インタビュー 日本ナショナル金銭登録機 副社長 田中元彦氏」
    • [3]日本ナショナル金銭登録機の創業は大正9年、藤山愛一郎氏が設立した日本金銭登録機がその前身である
    • [11]昭和10年、アメリカNCR社と技術資本の提携を結び商号変更を行なうと同時に、同社製品の製造販売を開始した
  • 日本NCR 公式サイト「NCRのあゆみ」1920年欄(web.archive.org 2016年保存版)
    • [4]1920年 日本NCR創立(社名:日本金銭登録機)

1935年〜大陸へ展開した販売網と敵産管理下の保守

1926年に発売された2000号レジスターは、2万個を超える部品で組まれていた。30個の各種分類合計機を積み、数点売の計算や減算、二重伝票への認証印刷までこなした。これを土台に1933年、部門別8個と取引別4個で集計・管理ができる6000号が出て、1936年前後には営業記録紙に手書きで記入できる装置、4部門合計器、スライド式レバーのキーボードを備えたN-1600号が加わった。取り扱う機種が年々厚くなるなか、1935年の提携の時点で販売網は国内の各地に加えて朝鮮、満州、台湾、中国へも延び、事業は順調に伸びた。しかし1937年ごろから戦時体制に入り、事業には種々の拘束の度が増した。

  • 日本NCRコマース「レジスター年表」 2025年8月20日取得(インターネット・アーカイブ保存版)
    • [15]1926年(大正15年・昭和1年)、『2000号レジスター』が世に送り出された。2万個以上の部品、30個におよぶ各種分類合計機、アイテマイザー(数点売計算機能)、減算機能、二重伝票の認証印刷を備えた
    • [16]1933年(昭和8年)、『6000号』レジスターを発売。『2000号』を母体に開発し、部門別(8個)、取引別(4個)での集計・管理機能等を強化した
    • [17]1936年前後の『N-1600号レジスター』は、営業記録紙に自筆書込装置、4部門合計器、スライド式レバーのキーボードを備えた
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)「日本ナショナル金銭登録機」
    • [18]当時の販売網はすでに日本各地はもとより、朝鮮、満州、台湾、中国にまでおよび、社業は順調に発展していった
    • [19]昭和12年ごろから戦時体制に入るようになり、種々の拘束の度が増してきた

1941年12月に開戦すると、米NCRの資本が入った日本ナショナル金銭登録機販売は敵産管理を受け、販売活動を停止した。止まったのは新しい機械を売る仕事のほうで、すでに客先へ据えた機械の保守サービス活動は続けたが、1943年7月には企業そのものを縮小し、敵産管理によって決定的な打撃を受けた。敵産管理は米NCR製のレジスターそのものに及ぶ規制で、その間は日本金銭登録機の名前でサービスだけが認められた。1935年に一つの傘へ収めた製造と販売のうち動いたのは製造側だけとなり、日本金銭登録機がユーザーへのサービスを引き受けたまま終戦を迎えた。

  • 日本NCRコマース「レジスター年表」 2025年8月20日取得(インターネット・アーカイブ保存版)
    • [20]1941年(昭和16年)、第2次世界大戦により敵産管理を受け販売活動を停止した
    • [21]1941年(昭和16年)、敵産管理により販売活動を停止したが、保守サービス活動は続行した
    • [23]戦時中、NCR製レジスターは『敵産管理』という厳しい規制を受け、その間は日本金銭登録機の名前でサービスだけを続けていた
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)「日本ナショナル金銭登録機」
    • [22]昭和16年12月に第二次世界大戦が勃発し、18年7月に日本ナショナル金銭登録機は企業を縮小し、敵産管理により決定的な打撃を受けた
    • [24]戦時中は、日本金銭登録機がこれに代ってユーザーのサービスに当たり、この状態が終戦まで続いた
参考文献[15]-[24]
  • 日本NCRコマース「レジスター年表」 2025年8月20日取得(インターネット・アーカイブ保存版)
    • [15]1926年(大正15年・昭和1年)、『2000号レジスター』が世に送り出された。2万個以上の部品、30個におよぶ各種分類合計機、アイテマイザー(数点売計算機能)、減算機能、二重伝票の認証印刷を備えた
    • [16]1933年(昭和8年)、『6000号』レジスターを発売。『2000号』を母体に開発し、部門別(8個)、取引別(4個)での集計・管理機能等を強化した
    • [17]1936年前後の『N-1600号レジスター』は、営業記録紙に自筆書込装置、4部門合計器、スライド式レバーのキーボードを備えた
    • [20]1941年(昭和16年)、第2次世界大戦により敵産管理を受け販売活動を停止した
    • [21]1941年(昭和16年)、敵産管理により販売活動を停止したが、保守サービス活動は続行した
    • [23]戦時中、NCR製レジスターは『敵産管理』という厳しい規制を受け、その間は日本金銭登録機の名前でサービスだけを続けていた
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)「日本ナショナル金銭登録機」
    • [18]当時の販売網はすでに日本各地はもとより、朝鮮、満州、台湾、中国にまでおよび、社業は順調に発展していった
    • [19]昭和12年ごろから戦時体制に入るようになり、種々の拘束の度が増してきた
    • [22]昭和16年12月に第二次世界大戦が勃発し、18年7月に日本ナショナル金銭登録機は企業を縮小し、敵産管理により決定的な打撃を受けた
    • [24]戦時中は、日本金銭登録機がこれに代ってユーザーのサービスに当たり、この状態が終戦まで続いた

1950年〜輸入部品の組立による立て直し

1945年8月15日の戦争終結を機に、日本金銭登録機は事業の再建へ乗り出し、1946年には札幌、仙台、京都、大阪の各営業所を開設して、これを皮切りにサービス網を増やして整えた。同じ1946年7月には、社名を日本ナショナル金銭登録機へ変更。戦前に子会社としていた販売会社の名から販売の二字を落とした社名であり、製造会社の側が、米国資本と結んだ会社の看板を引き受けた形になる。敵産管理が解かれたのは1947年12月で、ここから米NCRとの連絡も密になり、資本金は1949年に200万円へ復元した。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)「日本ナショナル金銭登録機」
    • [25]昭和20年8月15日の戦争終結を期に事業の再建にのりだした
    • [26]サービス網も、昭和21年に札幌、仙台、京都、大阪の各営業所の開設を皮切りに着々と増大、整備していった
    • [27]昭和21年7月、日本金銭登録機は現在の社名(日本ナショナル金銭登録機)に変更した
    • [28]米NCRが設けたナショナル金銭登録器は昭和10年7月に日本ナショナル金銭登録機販売と商号変更し、日本金銭登録機の子会社となった
    • [29]昭和22年12月には敵産管理が解かれたために、NCRとの連絡も密になった
    • [31]昭和24年には資本金200万円に復元した
  • 事務と経営 1965年「トップ・インタビュー 日本ナショナル金銭登録機 副社長 田中元彦氏」
    • [30]戦後、昭和22年に敵産管理がとかれた

この再建期に加わった一人が、のちに社長となる三富啓豆氏である。1918年に生まれ、1940年に早稲田大学商学部を卒業して日東紡績へ入り、その後軍隊に入って終戦を迎えた。戦後は仕事がなく、とにかくどこかの会社に潜り込みたいと探し回るうち、知人の紹介で当時まだ規模の小さかった日本NCRに職を得た。配属先は経理だったが、経理も財務も学んだことがなく、その上米国式の処理方法が分からず、日曜にも出社して外国人講師の講義を受けた。業績は振るわず管理部門は極端に縮小され、経理は人手が足りず仕事が片付かない状態が続き、毛布を持ち込んで泊まり込む日々が続いた。三富啓豆氏はこの間に2、3度、辞表を叩きつけている。

  • 日経ビジネス 1972年6月12日号
    • [32]三富氏は大正7年生まれで1972年時点で54歳。昭和15年早稲田大学商学部を卒業、日東紡績に入社、その後軍隊に入って終戦となった
    • [33]戦後は職がなく、とにかくどこでもいいから会社に入りたいとさがしていた折、知人の紹介で当時はまだちっぽけな日本NCRに入社した
    • [34]入社して経理をやらされることになったが、経理や財務についてあまり勉強しておらず、加えて米国的手法でやるからわからないため、日曜も出社して外人に講義を受けた
    • [35]この当時は、日本NCRの業績も悪く管理部門は極度に縮小、経理は人員不足で仕事がはかどらず、毛布を持ち込んでの泊まり込みが続いた
    • [36]持前のがんばり屋精神で突き進んだが、さすがに2〜3度辞表をたたきつけた

日本ナショナル金銭登録機に統計・会計部が生まれたのは1950年である。米NCRが戦時中に開発・改良を重ねた統計機や会計機を、同社が輸入し始めたことが発足のきっかけだった。同年12月には東京都大田区仲六郷で蒲田工場が開設された。米NCRから輸入した部品をそこで組み立て、市場に出せる体制が整った。同じ1950年、合計器を載せて小型化と値下げを実現した21号レジスターが発売され、レジスターのノックダウンが始まった。あわせて近代商業経営政策(Modern Merchandising Methods、通称MMM)と呼ぶ商業経営の考え方を導入し、その普及に向けた活動へ着手した。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)「日本ナショナル金銭登録機」
    • [37]昭和25年には、戦時中NCRにおいて開発、改良された会計機や統計機などを輸入するようになり、新たに統計、会計部が発足した
    • [38]昭和25年12月には東京都大田区仲六郷に蒲田工場を開設し、NCRより輸入した部品を組立てて市場に送り出すまでに発展した
  • 日本NCRコマース「レジスター年表」 2025年8月20日取得(インターネット・アーカイブ保存版)
    • [39]1950年(昭和25年)、『21号レジスター』を発売。合計器が搭載され、コンパクト化、低価格化、レジ特有の機械音の軽減等、使いやすさと耐久性に優れ、多業種で使用されるようになった。あわせてレジスターのノックダウンを開始した
    • [40]1950年(昭和25年)、新商業経営理念である『近代商業経営政策/Modern Merchandising Methods(通称MMM)』を導入し、啓蒙活動を開始した
参考文献[25]-[40]
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)「日本ナショナル金銭登録機」
    • [25]昭和20年8月15日の戦争終結を期に事業の再建にのりだした
    • [26]サービス網も、昭和21年に札幌、仙台、京都、大阪の各営業所の開設を皮切りに着々と増大、整備していった
    • [27]昭和21年7月、日本金銭登録機は現在の社名(日本ナショナル金銭登録機)に変更した
    • [28]米NCRが設けたナショナル金銭登録器は昭和10年7月に日本ナショナル金銭登録機販売と商号変更し、日本金銭登録機の子会社となった
    • [29]昭和22年12月には敵産管理が解かれたために、NCRとの連絡も密になった
    • [31]昭和24年には資本金200万円に復元した
    • [37]昭和25年には、戦時中NCRにおいて開発、改良された会計機や統計機などを輸入するようになり、新たに統計、会計部が発足した
    • [38]昭和25年12月には東京都大田区仲六郷に蒲田工場を開設し、NCRより輸入した部品を組立てて市場に送り出すまでに発展した
  • 事務と経営 1965年「トップ・インタビュー 日本ナショナル金銭登録機 副社長 田中元彦氏」
    • [30]戦後、昭和22年に敵産管理がとかれた
  • 日経ビジネス 1972年6月12日号
    • [32]三富氏は大正7年生まれで1972年時点で54歳。昭和15年早稲田大学商学部を卒業、日東紡績に入社、その後軍隊に入って終戦となった
    • [33]戦後は職がなく、とにかくどこでもいいから会社に入りたいとさがしていた折、知人の紹介で当時はまだちっぽけな日本NCRに入社した
    • [34]入社して経理をやらされることになったが、経理や財務についてあまり勉強しておらず、加えて米国的手法でやるからわからないため、日曜も出社して外人に講義を受けた
    • [35]この当時は、日本NCRの業績も悪く管理部門は極度に縮小、経理は人員不足で仕事がはかどらず、毛布を持ち込んでの泊まり込みが続いた
    • [36]持前のがんばり屋精神で突き進んだが、さすがに2〜3度辞表をたたきつけた
  • 日本NCRコマース「レジスター年表」 2025年8月20日取得(インターネット・アーカイブ保存版)
    • [39]1950年(昭和25年)、『21号レジスター』を発売。合計器が搭載され、コンパクト化、低価格化、レジ特有の機械音の軽減等、使いやすさと耐久性に優れ、多業種で使用されるようになった。あわせてレジスターのノックダウンを開始した
    • [40]1950年(昭和25年)、新商業経営理念である『近代商業経営政策/Modern Merchandising Methods(通称MMM)』を導入し、啓蒙活動を開始した

出典・参考

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出典・参考
  • 日本NCR 公式サイト「NCRのあゆみ」1920年欄(web.archive.org 2016年保存版)
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)「日本ナショナル金銭登録機」
  • 日経ビジネス 1972年6月12日号
  • 事務と経営 1965年「トップ・インタビュー 日本ナショナル金銭登録機 副社長 田中元彦氏」
  • 日本NCRコマース「レジスター年表」 2025年8月20日取得(インターネット・アーカイブ保存版)

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