第2章 年〜年

日本NCR:米NCR出資による国産化と機械からシステムへの移行

1951年〜戦後初の外資導入と大磯工場での金銭登録機国産化

米NCRとの関係は戦前にさかのぼり、1935年7月には、米NCRのデイーズ社長と藤山愛一郎氏が技術援助契約と資本提携を締結した。製造と販売の陣容は整ったものの、第2次世界大戦の勃発により1942年2月に政府命令で敵産管理の指定を受け、翌1943年12月には資本金30万円への減資を余儀なくされた。敵産管理は1947年12月に解除され、1949年には資本金を200万円へ復元して、米NCRとの交誼も戻った。そして1951年12月、日本における戦後最初の外資導入に踏み切り、資本金は2,771万4,300円となって、技術援助契約も新たに締結した。

  • 証券業報 1960年 第5号「日本ナショナル金銭登録機株式会社」
    • [1]1935年7月、当時の米国NCR社社長デイーズ氏と藤山愛一郎氏により、米国NCR社と技術援助契約ならびに資本の提携を行った
    • [2]第2次世界大戦勃発のため1942年2月に政府命令により敵産管理の指定を受け、翌1943年12月に資本金30万円への減資を余儀なくされた
    • [3]1947年12月の敵産管理解除により1949年に資本金を200万円に復元し、米国NCR社との交誼が復活した
    • [4]1951年12月、わが国における戦後最初の外資導入を行った
    • [5]1951年12月の外資導入により資本金は2,771万4,300円となり、技術援助契約を新たに締結した

資本金が1億2,471万4,350円まで膨らんだのは、株式配当によるものである。外資を迎えてから業績が急伸したのを受け、終戦をはさむ時期に苦労をかけた株主に報いようと、配当は1953年に1対2、1954年に2対1と2回に分けて実施された。1954年7月、米NCRとの間で大磯工場の建設資金を借り入れる契約が結ばれた。その資金で米国製やドイツ製の優れた工作機械と冶工具がそろえられ、工場に据え付けられた。工事は1956年8月に始まり、1957年10月に11億円余りの投資で工場は完成した。戦後の宿願だった金銭登録機を自前で造ることは、輸入部品を組み立てる段階を抜け出したこの工場で果たされた。

  • 証券業報 1960年 第5号「日本ナショナル金銭登録機株式会社」
    • [6]外資導入後に業績が急激な上昇を示したため、終戦前後における株主の苦労に酬いるべく1953年・1954年の2回にわたりそれぞれ1対2、2対1の株式配当を行い、資本金は1億2,471万4,350円に躍進した
    • [7]1954年7月、大磯工場建設のため米国NCR社と借入金契約を行い、米・独等の優秀な工作機械、冶工具の設置を行った
    • [8]1956年8月に大磯工場の建設に着手し、1957年10月、投下資本11億余円をもって完成をみた
    • [9]大磯工場の完成により、戦後再び念願としていた金銭登録機の国産化に成功した

大磯工場は1957年10月の完成とともに操業へ入り、1958年7月に第1回製品を完成させた。資本金は、1958年6月と1959年10月の2回、それぞれ1対2、1対1の有償増資を重ねて7億4,828万6,100円となった。1954年から1956年までに受け入れた外資を自社の資本へ置き換えるのがねらいだった。工場の面では、用地19,180坪、建物4,103坪に機械設備などを合わせて14億円を投じた。これにより、それまで蒲田組立工場が輸入部品から組み上げていた金銭登録機を自前の生産に移し、21号型で月産約500台、6000号型で月産50台をつくれる能力を整えた。

  • 証券業報 1960年 第5号「日本ナショナル金銭登録機株式会社」
    • [10]大磯工場は1957年10月完成とともに操業に入り、1958年7月に第1回製品を完成した
    • [11]1954年から1956年にかけて導入した外資を自己資本化するため、1958年6月と1959年10月の2回にわたりそれぞれ1対2、1対1の有償増資を行い、資本金は7億4,828万6,100円に増大した
    • [12]生産設備は土地19,180坪、建物4,103坪で、機械設備等の投下資本を含め14億円に上っている
    • [13]大磯工場操業前は蒲田組立工場において輸入部品で金銭登録機の組立を行っていた。大磯工場の生産能力は21号型が月産約500台、6000号型が月産50台である
参考文献[1]-[13]
  • 証券業報 1960年 第5号「日本ナショナル金銭登録機株式会社」
    • [1]1935年7月、当時の米国NCR社社長デイーズ氏と藤山愛一郎氏により、米国NCR社と技術援助契約ならびに資本の提携を行った
    • [2]第2次世界大戦勃発のため1942年2月に政府命令により敵産管理の指定を受け、翌1943年12月に資本金30万円への減資を余儀なくされた
    • [3]1947年12月の敵産管理解除により1949年に資本金を200万円に復元し、米国NCR社との交誼が復活した
    • [4]1951年12月、わが国における戦後最初の外資導入を行った
    • [5]1951年12月の外資導入により資本金は2,771万4,300円となり、技術援助契約を新たに締結した
    • [6]外資導入後に業績が急激な上昇を示したため、終戦前後における株主の苦労に酬いるべく1953年・1954年の2回にわたりそれぞれ1対2、2対1の株式配当を行い、資本金は1億2,471万4,350円に躍進した
    • [7]1954年7月、大磯工場建設のため米国NCR社と借入金契約を行い、米・独等の優秀な工作機械、冶工具の設置を行った
    • [8]1956年8月に大磯工場の建設に着手し、1957年10月、投下資本11億余円をもって完成をみた
    • [9]大磯工場の完成により、戦後再び念願としていた金銭登録機の国産化に成功した
    • [10]大磯工場は1957年10月完成とともに操業に入り、1958年7月に第1回製品を完成した
    • [11]1954年から1956年にかけて導入した外資を自己資本化するため、1958年6月と1959年10月の2回にわたりそれぞれ1対2、1対1の有償増資を行い、資本金は7億4,828万6,100円に増大した
    • [12]生産設備は土地19,180坪、建物4,103坪で、機械設備等の投下資本を含め14億円に上っている
    • [13]大磯工場操業前は蒲田組立工場において輸入部品で金銭登録機の組立を行っていた。大磯工場の生産能力は21号型が月産約500台、6000号型が月産50台である

1958年〜株式の70%を保有する米本社と代理店を介さない直販網

組織の形は日本の会社とは異なり、部の中にさらに部が置かれることもあれば、部長ただ1人の部もあって、権限は下へ委ねられ、階層の少ない平らな構造になっていた。セールスマンは総務課や経理課に回されることなく、最後までセールスマンとして勤めた。社長と副社長こそ日本人だったものの、役員13人中6人は米国人で、会計機部長や大磯工場長など社内の要職もほぼ米国人が握った。国産化を成し遂げたあとも資本の持ち主は変わらず、1958年時点で資本金1億2,470万円のうち7割超を米NCR本社が持ち、会長には本社が送り込んだ米国人が座っていた。

  • 東京電力株式会社社報 1958年「見学ルポ アメリカ式の合理的経営(日本ナショナル金銭登録機会社)」
    • [14]部の下にまた部があったり部長1人しかいない部があったりして日本式の部課係とは考え方が違い、権限の委譲が十分に行われ、権限の階層が少ないFlat Organizationになっている
    • [15]このセールスマンはどこまでもセールスマンであって、総務課へ転勤したり経理課へ転勤したりすることはない
    • [16]社長・副社長は日本人だが、役員13人中6人までが米人であるほか、会計機部長・大磯工場長など社内の重要ポストもあらかた米人が占めている
    • [17]資本金1億2,470万円の7割以上をNCR本社が独占しており、日本NCR会長はNCR本社から派遣されている米人である

1959年11月30日現在の発行済株式総数14,965,722株のうち、外国人の保有は10,605,925株、率にして70.87%。1960年2月24日の創立40周年にあたっては記念行事の一環として利益準備金の資本組入れに伴う4対1の新株発行を行ない、資本金は9億3,535万7,600円となった。同年4月13日に店頭売買の承認を受け、20日から売買が始まった。株主数は1,576名を数えたものの、筆頭株主はザ・ナショナル・キャッシュ・レヂスター・カンパニーであり、米NCR社は同社株式の70%を持ち続けた。

  • 証券業報 1960年 第5号「日本ナショナル金銭登録機株式会社」
    • [18]1959年11月30日現在の発行済株式総数14,965,722株のうち、外国人の所有株式数は10,605,925株、発行済株式総数に対する割合は70.87%である
    • [19]1960年2月24日に創立40周年を迎えるにあたり、記念行事の一環として利益準備金の資本組入れに伴う4対1の新株式の発行を行い、資本金は9億3,535万7,600円となった
    • [20]店頭売買承認日は1960年4月13日、店頭売買開始日は1960年4月20日である
    • [21]1960年2月24日現在の株主数は1,576名で、1960年3月31日現在の大株主筆頭はザ・ナショナル・キャッシュ・レヂスター・カンパニーの13,095,000株。米国NCR社が同社株式の70%を持っている

販売では代理店制度その他、他社を通じた方法を一切とらず、札幌から鹿児島まで全国44カ所に営業所を開設して、販売網と技術サービス網を自前で張った。1958年12月から1959年11月までの1年間で売上高52億3,520万円、当期純利益3億9,189万円を計上し、品目別では会計機が25億6,166万円で52.4%、金銭登録機が17億2,743万円で35.4%を占めた。受注高は58億円に達し、前年度を17億円上回った。市場占有率は60%を超えるとみられ、年間54億円にのぼる米NCR社の研究成果を無償で受け取れる立場にもあった。

  • 証券業報 1960年 第5号「日本ナショナル金銭登録機株式会社」
    • [22]販売部門は代理店制度やその他、他社を通じた販売は一切行っていない
    • [23]全国44カ所にわたり広範囲の販売網、技術サーヴィス網をもち、地方営業所は札幌から鹿児島まで各地に設けられている
    • [24]1958年12月1日から1959年11月30日までの売上高は5,235,208,644円、当期純利益は391,892,015円である
    • [25]1959年度の商品別売上は会計機2,561,666千円(52.4%)、金銭登録機1,727,430千円(35.4%)である
    • [26]1959年度の受注高は58億円を示し、前期受注高に比し17億円の増加である
    • [27]市場占有率は60%を上回るものと想定されている。米国NCR社が同社株式の70%をもち、年間54億円にのぼる研究成果を無償で供与している
参考文献[14]-[27]
  • 東京電力株式会社社報 1958年「見学ルポ アメリカ式の合理的経営(日本ナショナル金銭登録機会社)」
    • [14]部の下にまた部があったり部長1人しかいない部があったりして日本式の部課係とは考え方が違い、権限の委譲が十分に行われ、権限の階層が少ないFlat Organizationになっている
    • [15]このセールスマンはどこまでもセールスマンであって、総務課へ転勤したり経理課へ転勤したりすることはない
    • [16]社長・副社長は日本人だが、役員13人中6人までが米人であるほか、会計機部長・大磯工場長など社内の重要ポストもあらかた米人が占めている
    • [17]資本金1億2,470万円の7割以上をNCR本社が独占しており、日本NCR会長はNCR本社から派遣されている米人である
  • 証券業報 1960年 第5号「日本ナショナル金銭登録機株式会社」
    • [18]1959年11月30日現在の発行済株式総数14,965,722株のうち、外国人の所有株式数は10,605,925株、発行済株式総数に対する割合は70.87%である
    • [19]1960年2月24日に創立40周年を迎えるにあたり、記念行事の一環として利益準備金の資本組入れに伴う4対1の新株式の発行を行い、資本金は9億3,535万7,600円となった
    • [20]店頭売買承認日は1960年4月13日、店頭売買開始日は1960年4月20日である
    • [21]1960年2月24日現在の株主数は1,576名で、1960年3月31日現在の大株主筆頭はザ・ナショナル・キャッシュ・レヂスター・カンパニーの13,095,000株。米国NCR社が同社株式の70%を持っている
    • [22]販売部門は代理店制度やその他、他社を通じた販売は一切行っていない
    • [23]全国44カ所にわたり広範囲の販売網、技術サーヴィス網をもち、地方営業所は札幌から鹿児島まで各地に設けられている
    • [24]1958年12月1日から1959年11月30日までの売上高は5,235,208,644円、当期純利益は391,892,015円である
    • [25]1959年度の商品別売上は会計機2,561,666千円(52.4%)、金銭登録機1,727,430千円(35.4%)である
    • [26]1959年度の受注高は58億円を示し、前期受注高に比し17億円の増加である
    • [27]市場占有率は60%を上回るものと想定されている。米国NCR社が同社株式の70%をもち、年間54億円にのぼる研究成果を無償で供与している

1965年〜システムを販売する方針とコンピュータ比率50%への引き上げ

1965年当時、石川繁一社長が率いる同社は資本金40億円、年商180億円、従業員4,681名の規模に達していた。副社長の田中元彦氏は、計算機業界こそ不況の打撃を最も受けにくいと見ており、その根拠として、事務機械は資金を効率よく働かせるための機械で、景気が悪いときほど事務の合理化には力が入ること、そして同社が売っているのは機械そのものではなく、事務をより合理的にこなす仕組みだということの二つを挙げた。景気後退のたびに生産調整や価格協定が取りざたされる空気は計算機業界にはなく、そうする必要もない、というのが田中元彦副社長の見方だった。

  • 事務と経営 1965年「トップ・インタビュー 日本ナショナル金銭登録機 副社長 田中元彦氏」
    • [28]1965年時点で資本金40億円、年商180億円、従業員数4,681名。現社長は石川繁一氏
    • [29]田中元彦副社長は、事務機産業全般はともかく計算機・会計機などの計算機業界だけは不況の影響をもっとも受けないと述べた
    • [30]田中元彦副社長は、事務機械がおカネを有効に使う機械であり事務の合理化が不況のときほど強力に推し進められること、当社が機械ではなくより合理的に事務を行なうためのシステムを売るということに徹していることを理由に挙げた
    • [31]田中元彦副社長は、不況時に問題になる生産調整や価格協定について、計算機業界ではその気運はなく必要もないと述べた

売り方も米本社流を保ち、販売員は歩合制のコミッション・セールスで通した。長年このやり方を続けて悪いところが出てこなかったことが制度を残した理由であり、弊害が出てくればいつでもやめられる、セールスマンも歩合制と理解して入社するので不満はない——田中元彦副社長はそう整理していた。社是社訓は置かず、社員に求めるのは勉強する社員であることの一点だとした。新入社員向けの5日間のオリエンテーション、営業部員向けの1カ月以上にわたるセールス・トレーニング・スクール、技術部員のライン別テクニカル・トレーニング・スクール、海外留学制度を整え、神奈川県相模原市に教育センターを建設する計画も立てた。

  • 事務と経営 1965年「トップ・インタビュー 日本ナショナル金銭登録機 副社長 田中元彦氏」
    • [32]田中元彦副社長は、コミッション・セールス制度を採用しているのは長年このやり方を続けてきて悪いところがでてこなかったからだと述べた
    • [33]田中元彦副社長は、コミッション・セールス制度を採用しているのは長年このやり方を続けてきて悪いところがでてこなかったからだと述べた
    • [34]田中元彦副社長は、弊害がでてきたらいつでもやめられる、セールスマンの方でもコミッション・セールスであることをあらかじめ理解して入ってくるのだから不満はないと思うと述べた
    • [35]田中元彦副社長は、とくべつの社是社訓などというものはないが、ただ勉強する社員であることを要求していると述べた
    • [36]新入社員のための5日間のオリエンテーション、営業部員のための1カ月以上にわたるセールス・トレーニング・スクール、技術部員のライン別テクニカル・トレーニング・スクールなどの教育制度、海外留学制度を持ち、近く神奈川県相模原市に最新の設備を備えた教育センターを建設する予定である

1970年に入ると、主力のレジスターと会計機の伸びが鈍り、直近3年間で全社売上が1.7倍弱、年20%近い成長をとげたのに対し、金銭登録機・会計機・加算機の伸びは年率13%強にとどまった。そこで電子計算機センチュリーシリーズの販売に力を入れ、発売以来170セットを受注した。株主総会に出席した米本社のジョージ・ヘインズ副社長は、今後5年間で売上倍増・利益3倍という目標を掲げた。コンピュータ部門は当時なお売上の13%にすぎなかったが、同社はこれを50%へ高める計画を立て、その土台となるセンチュリーの開発費およそ500億円は米NCRが負担し、日本側は特許料を払えばよかった。

  • 野田経済 1970年12月23日新年特大号
    • [37]ここ3年間の当社全体の売上げの伸びは1.7倍弱で年に20%近い成長をとげたが、金銭登録機、会計機・加算機などの売上げの伸びは年率にして13%強である
    • [38]センチュリーを発売して以来、現在までにすでに170セットを受注している
    • [39]株主総会に出席した米本社のジョージ・ヘインズ副社長は、今後5年間にNCRは売上倍増、利益を3倍にしたいと述べた
    • [40]コンピュータ部門はいま当社売上げの13%にすぎないが、将来は50%に高める計画である
    • [41]研究開発費は米NCRが負担し、センチュリー開発にはざっと500億円の費用がかかったが、ナショ金では特許料を払えばよい
参考文献[28]-[41]
  • 事務と経営 1965年「トップ・インタビュー 日本ナショナル金銭登録機 副社長 田中元彦氏」
    • [28]1965年時点で資本金40億円、年商180億円、従業員数4,681名。現社長は石川繁一氏
    • [29]田中元彦副社長は、事務機産業全般はともかく計算機・会計機などの計算機業界だけは不況の影響をもっとも受けないと述べた
    • [30]田中元彦副社長は、事務機械がおカネを有効に使う機械であり事務の合理化が不況のときほど強力に推し進められること、当社が機械ではなくより合理的に事務を行なうためのシステムを売るということに徹していることを理由に挙げた
    • [31]田中元彦副社長は、不況時に問題になる生産調整や価格協定について、計算機業界ではその気運はなく必要もないと述べた
    • [32]田中元彦副社長は、コミッション・セールス制度を採用しているのは長年このやり方を続けてきて悪いところがでてこなかったからだと述べた
    • [33]田中元彦副社長は、コミッション・セールス制度を採用しているのは長年このやり方を続けてきて悪いところがでてこなかったからだと述べた
    • [34]田中元彦副社長は、弊害がでてきたらいつでもやめられる、セールスマンの方でもコミッション・セールスであることをあらかじめ理解して入ってくるのだから不満はないと思うと述べた
    • [35]田中元彦副社長は、とくべつの社是社訓などというものはないが、ただ勉強する社員であることを要求していると述べた
    • [36]新入社員のための5日間のオリエンテーション、営業部員のための1カ月以上にわたるセールス・トレーニング・スクール、技術部員のライン別テクニカル・トレーニング・スクールなどの教育制度、海外留学制度を持ち、近く神奈川県相模原市に最新の設備を備えた教育センターを建設する予定である
  • 野田経済 1970年12月23日新年特大号
    • [37]ここ3年間の当社全体の売上げの伸びは1.7倍弱で年に20%近い成長をとげたが、金銭登録機、会計機・加算機などの売上げの伸びは年率にして13%強である
    • [38]センチュリーを発売して以来、現在までにすでに170セットを受注している
    • [39]株主総会に出席した米本社のジョージ・ヘインズ副社長は、今後5年間にNCRは売上倍増、利益を3倍にしたいと述べた
    • [40]コンピュータ部門はいま当社売上げの13%にすぎないが、将来は50%に高める計画である
    • [41]研究開発費は米NCRが負担し、センチュリー開発にはざっと500億円の費用がかかったが、ナショ金では特許料を払えばよい

出典・参考

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出典・参考
  • 証券業報 1960年 第5号「日本ナショナル金銭登録機株式会社」
  • 東京電力株式会社社報 1958年「見学ルポ アメリカ式の合理的経営(日本ナショナル金銭登録機会社)」
  • 事務と経営 1965年「トップ・インタビュー 日本ナショナル金銭登録機 副社長 田中元彦氏」
  • 野田経済 1970年12月23日新年特大号

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