第3章 年〜年

日本NCR:POSへの転換とエイ・ティ・アンド・ティ傘下での商号変更

1971年〜世界初の電子レジスターと競合続出による収益率低下

1971年、日本ナショナル金銭登録機は世界初の電子レジスターNCR 230を発表。歯車をICとコア・メモリに置き換え、30分類の合計機能と軽いタッチの操作性を備えた機種で、爆発的に広まった。同じ年には世界初のオンライン現金自動支払い機NCR 415も送り出し、前年に発表した百貨店向けPOSターミナルNCR 280 リテイル・ターミナルは、日本初のペン状リーダーによる商品タグの自動入力と、緑・白・黒の3色を使うカラー・バーコード・システムを備えて、百貨店での普及を押し上げた。電子レジスターは大磯工場で量産してその6割を欧米へ輸出し、1973年には社名を日本ナショナル金銭登録機から日本エヌ・シー・アールへ改めた。

  • 日本NCRコマース「NCRのあゆみ」 2023年時点(インターネット・アーカイブ保存版)
    • [1]1971年(昭和46年)、世界初の電子レジスター「NCR 230」を発表した。
    • [3]1971年(昭和46年)、世界初のオンライン現金自動支払い機「NCR 415」を発表した。
  • 日本NCRコマース「レジスター博物館 最初の電子レジスター開発 アナログからデジタル化の時代へ(1970〜1978)」 2023年時点(インターネット・アーカイブ保存版)
    • [2]「NCR 230 ECR」は歯車からIC、コア・メモリへ移り、30分類の合計機能と軽いタッチの操作性を持つ高性能レジスターとして爆発的に普及した。
    • [4]1970年発売の百貨店用POS「NCR 280 リテイル・ターミナル」は日本初のペン状リーダーによる商品タグの自動入力と、緑・白・黒の3色を使ったカラー・バーコード・システムを備え、百貨店での普及が急速に拡大した。
    • [6]1973年(昭和48年)、日本ナショナル金銭登録機(株)を日本エヌ・シー・アール(株)と改称した。
  • 日経ビジネス 1978年12月4日号
    • [5]大磯工場で製造しているECRの60%が欧米向け輸出だった。

電子レジスターの市場には東京電気、シャープ、カシオ計算機が相次いで参入し、20数社が価格で競り合う混戦になった。3年前に55%だった同社の販売シェアは、38〜40%だった東京電気とほぼ逆転した。POS端末機では市場占有率70%超を保ったものの、機械式レジの下取りと、無料か破格の安値でのソフトウェア提供、顧客先へのシステムエンジニア派遣が利幅を削り、販売員の給与と手当も1975年以降に上がって、1977年度には10年前の6倍へ膨らんだ。1978年5月期上半期の売上高は340億円で前年同期比10%減、経常利益は12億円で64%減、売上高経常利益率は3.5%と過去最低を記録した。上半期の売上高が前年同期を割ったのは、1964年の株式上場以来はじめてのことだった。

  • 日経ビジネス 1978年12月4日号
    • [7]ECR市場に東京電気、シャープ、カシオ計算機などが新規参入し、現在では20数社が価格でしのぎを削る混乱気味の市場になっている。
    • [8]3年前、日本エヌ・シー・アールのECR販売シェアは55%、東京電気は38〜40%だったのが、現在ではほぼ正反対になっている。
    • [9]POS端末機の市場占有率は70%を超すが、機械式レジの下取り、無料か破格の安値でのソフトウェア提供、システムエンジニアのユーザー派遣で人件費が急増した。
    • [10]販売員の給与・手当は昭和50年以降急上昇し、52年度は10年前と比べ約6倍になった。
    • [11]昭和53年5月までの上半期は売上高340億円(前年同期比10%減)、経常利益12億円(同64%減)、売上高経常利益率3.5%で過去最低を記録した。
    • [12]上半期の売り上げで前年同期を下回ったのは、昭和39年の株式上場以来初めてだった。

資本の70%を米国NCR本社が握り、機器の開発と基本設計はすべて米国NCRで決まった。日本の特定の顧客向けに1台50万円の機器を200台生産して売れても利益は開発費に食われてしまうと三富啓豆社長は語り、日本側で設計に踏み込めない理由に挙げた。米国デイトンの研究開発陣が全世界のニーズに合う製品を開発しているため開発は今後も米国中心で続き、米国70%・日本30%の出資比率を変える話は出たこともなかった——アーネスト・M・キャビット会長が示した方針である。値引きをしない米国NCRの販売方針も、競合との競り合いで同社を不利な位置に置いた。

  • 日経ビジネス 1978年12月4日号
    • [13]資本の70%を米国NCR本社が握り、機器の開発と基本設計はすべて米国NCRで決定する。
    • [14]三富社長は「例えば、日本の特定のユーザー向けに、1台50万円の機器を200台生産し、それが売れたとしても利益は開発費に食われてしまう」と述べた。
    • [15]キャビット会長は米国デイトンの研究開発陣が全世界のニーズに合った製品を開発しているとして今後とも米国での開発中心でいくと答え、米国NCR70%・日本側30%の出資比率の変更は話題にのぼったこともないと述べた。
    • [16]米国NCRの販売政策に基づいて値引きをしない姿勢を貫いたことで、他メーカーより多少不利な立場に立たされた。
参考文献[1]-[16]
    • [1]1971年(昭和46年)、世界初の電子レジスター「NCR 230」を発表した。
    • [3]1971年(昭和46年)、世界初のオンライン現金自動支払い機「NCR 415」を発表した。
    • [2]「NCR 230 ECR」は歯車からIC、コア・メモリへ移り、30分類の合計機能と軽いタッチの操作性を持つ高性能レジスターとして爆発的に普及した。
    • [4]1970年発売の百貨店用POS「NCR 280 リテイル・ターミナル」は日本初のペン状リーダーによる商品タグの自動入力と、緑・白・黒の3色を使ったカラー・バーコード・システムを備え、百貨店での普及が急速に拡大した。
    • [6]1973年(昭和48年)、日本ナショナル金銭登録機(株)を日本エヌ・シー・アール(株)と改称した。
  • 日経ビジネス 1978年12月4日号
    • [5]大磯工場で製造しているECRの60%が欧米向け輸出だった。
    • [7]ECR市場に東京電気、シャープ、カシオ計算機などが新規参入し、現在では20数社が価格でしのぎを削る混乱気味の市場になっている。
    • [8]3年前、日本エヌ・シー・アールのECR販売シェアは55%、東京電気は38〜40%だったのが、現在ではほぼ正反対になっている。
    • [9]POS端末機の市場占有率は70%を超すが、機械式レジの下取り、無料か破格の安値でのソフトウェア提供、システムエンジニアのユーザー派遣で人件費が急増した。
    • [10]販売員の給与・手当は昭和50年以降急上昇し、52年度は10年前と比べ約6倍になった。
    • [11]昭和53年5月までの上半期は売上高340億円(前年同期比10%減)、経常利益12億円(同64%減)、売上高経常利益率3.5%で過去最低を記録した。
    • [12]上半期の売り上げで前年同期を下回ったのは、昭和39年の株式上場以来初めてだった。
    • [13]資本の70%を米国NCR本社が握り、機器の開発と基本設計はすべて米国NCRで決定する。
    • [14]三富社長は「例えば、日本の特定のユーザー向けに、1台50万円の機器を200台生産し、それが売れたとしても利益は開発費に食われてしまう」と述べた。
    • [15]キャビット会長は米国デイトンの研究開発陣が全世界のニーズに合った製品を開発しているとして今後とも米国での開発中心でいくと答え、米国NCR70%・日本側30%の出資比率の変更は話題にのぼったこともないと述べた。
    • [16]米国NCRの販売政策に基づいて値引きをしない姿勢を貫いたことで、他メーカーより多少不利な立場に立たされた。

1977年〜端末単品からシステム販売への転換とJANスキャニング

事務機の端末を単品で売る時代は終わり、端末をどうコンピューターに結びつけて売るかというソフトウェアの時代に入ったと、三富啓豆社長は自社の立ち位置を置き直した。1977年にオフィス・コンピューターから超大型機までを体系化したNCR 8000シリーズを発表し、1977年度にはコンピューターが売上高で初めて首位に立った。売り方も変えた。個人の歩合給を軸としたコミッションセールスを薄め、チームで顧客の要望をつかむ形へ移したところ、1977年春に成績上位の販売員が数十人退社している。システムエンジニアは1976年末の800人から1000人へ増え、数年後に1500人まで増やす方針を掲げる一方、ハードウェアを売り歩くだけの販売員の採用は打ち切った。

  • 日経ビジネス 1978年12月4日号
    • [17]三富社長は「事務機の端末を単品で売る時代は終わり、端末をどうコンピューターに結びつけて売るかというソフトウェアの時代に入った」と述べた。
    • [18]昭和52年度にオフィス・コンピューターから超大型コンピューターまでを体系化した「NCR8000シリーズ」を発表し、コンピューターが売り上げの中で初めてトップになった。
    • [19]従来のコミッション制が手直しされ、昭和52年春に個人セールスで優秀な成績をあげてきたセールスマンが数十人退社した。
    • [20]従来のコミッション制が手直しされ、昭和52年春に個人セールスで優秀な成績をあげてきたセールスマンが数十人退社した。
    • [21]システムエンジニアの数は昭和51年末に800人だったのが現在では1000人に増え、数年後には1500人までもっていく方針。
    • [22]単にハードウェアを売って歩くセールスマンは一切採用しない構えだった。

1979年、日本流通システム開発センターの委託を受け、たつみチェーンでNCR 255/6060による日本で最初のJANコードのPOS・スキャニング店頭実験を始めた。以後はスーパーマーケット向けインラインコントローラーNCR 2950 Grand Master、百貨店向けNCR 2152 POSターミナルと、業態ごとに機種を分けて品ぞろえを広げた。1985年にはイトーヨーカ堂の全124店に8000台のPOSシステムを納め、本部と全店をつなぐオンライン・システムを作った。店舗と商品の特性が把握できるようになり、本部仕入れへのデータ活用と、売上集計・監査の合理化が同時に進んだ。

  • 日本NCRコマース「レジスター博物館 通産省による日本初のJANコード読取実験 JANスキャニング時代の創造 1979〜1987年」 2023年時点(インターネット・アーカイブ保存版)
    • [23]日本における最初のJANコードによるPOS/スキャニング・システム店頭実験は、1979年(昭和54年)に(財)日本流通システム開発センターの委託によって「たつみチェーン」でスタートした「NCR 255/6060」システムである。
    • [24]1980年(昭和55年)に「2950 Grand Master スーパーマーケット向けインラインコントローラー」、1981年(昭和56年)に「2152 POSターミナル 百貨店向けPOSターミナル」を出した。
    • [25]1985年(昭和60年)、イトーヨーカ堂全124店に8000台のPOSシステムを導入し、本部と全店をつなぐオンライン・システムを構築した。
    • [26]イトーヨーカ堂への全店POS導入により店舗や商品の特性が把握でき、本部仕入れへのデータの活用が可能になり、あわせて売上集計・監査が合理化された。

1982年に主要製品へのオープン・システム採用を表明し、1983年には世界初のビジネスUNIX機NCR TOWER1632と、32ビットVLSIマイクロプロセサーを積んだ汎用機NCR ITX9300を発表した。1988年2月、金融システム事業部長から取締役・常務と進んだ秋山育雄氏が48歳で社長に就任した。米NCR本社と米CDCの共同開発計画に1976年から加わってミネアポリスへ渡り、3か月後に中止命令を受けた経験を、秋山育雄社長は冷静な判断の必要を学んだ場として振り返った。同じ1988年に打ち出したNCR統合リテイル・システム'90sは、百貨店・大型店向けARMIS/E、スーパーマーケット向けTRIM/E、中小規模スーパー向け2123/ADCOMに分けて提供し、翌1989年には日本エヌ・シー・アール販売を設立した。

  • 日本NCRコマース「NCRのあゆみ」 2023年時点(インターネット・アーカイブ保存版)
    • [27]1982年に主要製品にオープン・システムの採用を表明し、1983年に世界初のビジネスUNIX機「NCR TOWER1632」と世界初の32ビット・チップVLSIマイクロプロセサー搭載の汎用コンピューター「NCR ITX9300」を発表した。
  • 日経ビジネス 1988年5月9日号
    • [28]秋山育雄氏は昭和15年3月30日生まれの48歳。58年金融システム事業部長、同年取締役、59年常務を経て、63年2月社長に就任した。
    • [29]昭和51年、米NCR本社がライバルの米CDCと共同で開発していた新型コンピューターのプロジェクトメンバーに選ばれミネアポリスへ渡ったが、3カ月後に中止命令が下り、この時に「仕事にはムードだけでなく冷静な判断が必要なことを学んだ」。
  • 日本NCRコマース「レジスター博物館 生活者指向時代の統合システムを提唱(1988〜1992)」 2023年時点(インターネット・アーカイブ保存版)
    • [30]1988年(昭和63年)発表の「NCR統合リテイル・システム'90s」は、百貨店・大型店向けの「NCR ARMIS/Eシステム」、スーパーマーケット向けの「NCR TRIM/Eシステム」、中小規模スーパー向けの「NCR 2123/ADCOMシステム」として提供された。
    • [31]1989年(平成1年)、日本エヌ・シー・アール販売(株)を設立した。
参考文献[17]-[31]
  • 日経ビジネス 1978年12月4日号
    • [17]三富社長は「事務機の端末を単品で売る時代は終わり、端末をどうコンピューターに結びつけて売るかというソフトウェアの時代に入った」と述べた。
    • [18]昭和52年度にオフィス・コンピューターから超大型コンピューターまでを体系化した「NCR8000シリーズ」を発表し、コンピューターが売り上げの中で初めてトップになった。
    • [19]従来のコミッション制が手直しされ、昭和52年春に個人セールスで優秀な成績をあげてきたセールスマンが数十人退社した。
    • [20]従来のコミッション制が手直しされ、昭和52年春に個人セールスで優秀な成績をあげてきたセールスマンが数十人退社した。
    • [21]システムエンジニアの数は昭和51年末に800人だったのが現在では1000人に増え、数年後には1500人までもっていく方針。
    • [22]単にハードウェアを売って歩くセールスマンは一切採用しない構えだった。
    • [23]日本における最初のJANコードによるPOS/スキャニング・システム店頭実験は、1979年(昭和54年)に(財)日本流通システム開発センターの委託によって「たつみチェーン」でスタートした「NCR 255/6060」システムである。
    • [24]1980年(昭和55年)に「2950 Grand Master スーパーマーケット向けインラインコントローラー」、1981年(昭和56年)に「2152 POSターミナル 百貨店向けPOSターミナル」を出した。
    • [25]1985年(昭和60年)、イトーヨーカ堂全124店に8000台のPOSシステムを導入し、本部と全店をつなぐオンライン・システムを構築した。
    • [26]イトーヨーカ堂への全店POS導入により店舗や商品の特性が把握でき、本部仕入れへのデータの活用が可能になり、あわせて売上集計・監査が合理化された。
    • [27]1982年に主要製品にオープン・システムの採用を表明し、1983年に世界初のビジネスUNIX機「NCR TOWER1632」と世界初の32ビット・チップVLSIマイクロプロセサー搭載の汎用コンピューター「NCR ITX9300」を発表した。
  • 日経ビジネス 1988年5月9日号
    • [28]秋山育雄氏は昭和15年3月30日生まれの48歳。58年金融システム事業部長、同年取締役、59年常務を経て、63年2月社長に就任した。
    • [29]昭和51年、米NCR本社がライバルの米CDCと共同で開発していた新型コンピューターのプロジェクトメンバーに選ばれミネアポリスへ渡ったが、3カ月後に中止命令が下り、この時に「仕事にはムードだけでなく冷静な判断が必要なことを学んだ」。
    • [30]1988年(昭和63年)発表の「NCR統合リテイル・システム'90s」は、百貨店・大型店向けの「NCR ARMIS/Eシステム」、スーパーマーケット向けの「NCR TRIM/Eシステム」、中小規模スーパー向けの「NCR 2123/ADCOMシステム」として提供された。
    • [31]1989年(平成1年)、日本エヌ・シー・アール販売(株)を設立した。

出典・参考

6件
出典・参考
  • 日本NCRコマース「NCRのあゆみ」 2023年時点(インターネット・アーカイブ保存版)
  • 日経ビジネス 1978年12月4日号
  • 日経ビジネス 1988年5月9日号
  • 日本NCRコマース「レジスター博物館 最初の電子レジスター開発 アナログからデジタル化の時代へ(1970〜1978)」 2023年時点(インターネット・アーカイブ保存版)
  • 日本NCRコマース「レジスター博物館 通産省による日本初のJANコード読取実験 JANスキャニング時代の創造 1979〜1987年」 2023年時点(インターネット・アーカイブ保存版)
  • 日本NCRコマース「レジスター博物館 生活者指向時代の統合システムを提唱(1988〜1992)」 2023年時点(インターネット・アーカイブ保存版)

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