因幡電機産業 の歴史

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創業 1938年
創業者 因幡弥太郎
創業地 大阪府堺市
創業
1938年4月、因幡弥太郎氏が仲間2名と大阪府堺市で特殊電動発電機メーカーの因幡電機製作所を興した。弥太郎氏は今宮工業高校を出て南海電鉄の変電所に勤める給与生活者だった。発足時はすでに戦時体制下で家庭用の電気器具の製造が禁じられており、手がけたのは電波兵器のコンバーター・ダイヤル・コネクターである。旧日本海軍の管理工場に指定され、1941年には電動式発電機を完成させた。1945年に大阪・今里で営業を再開し、法人としての因幡電機産業は1949年5月、大阪市東成区に資本金139万円で設立された。設立時に掲げた事業はモーターなど電気機器類の製造・販売で、社名も英文商号のINABA DENKI SANGYO CO., LTD.も現在まで変えていない。
決断
組織を割って採算を見えるようにし、見えたら戻してきた。1940年代初めから敷いた独立採算制は規模の拡大につれて働かなくなり、従業員600人の会社で事業部と支店のもたれ合いが出た。1973年の石油危機のあと渡米した因幡弥太郎氏が持ち帰った答えが、事業部ごとに会社を分ける制度である。1976年9月、3つの事業部と東京・大阪の両支店を5社へ分社し、社内発表から新体制の発足まで15日で終えた。1975年9月期に313億円だった売上高は分社2年目の1978年9月期に5社合計で432億円、税引利益は1億1,000万円から約3億円へ膨らみ、1人当たり売上高は5,100万円から7,322万円へ44%伸びた。1988年4月には6社を再統合し、人事交流と上場を理由に1本部4事業部へ戻した。
現況
売上の2割に満たない自社製品が、利益の構成では逆になっている。2026年3月期の連結売上高は4,170億円、営業利益297億円、親会社株主に帰属する当期純利益234億円で、会計基準の変更影響を除くと5期連続の最高業績だった。セグメント別の売上は電設資材2,932億円、産業機器433億円、自社製品803億円で、仕入れて売る商品部門の粗利益率が10%程度なのに対し、自ら作る製品部門は30%を超える。この構成は1950年に工場を手放して卸へ移った会社が、1978年に子会社の一課から空調部材の製造へ戻り、2013年にパトライトを取得して積み上げたものである。ただし自社製品803億円のうち606億円は空調で、ルームエアコンの出荷動向がそのまま業績を動かす。
競合
同業と同じ商品を同じ値で扱う卸で、差は自社製品の比率にしか出ない。全国に1,200から1,300の電設資材卸がいる業界で、扱う電球・配線器具・ステップルはどこも同じ仕入先から来る。因幡電機産業は1965年、売上の大きかったテレビや冷蔵庫の取扱いを中止し、設備材だけに絞った。理由は松下電器を頂点とする家電業界の系列化と、代金回収への不安である。系列店を通じて売る仕組みが固まれば独立系の卸が入る余地は細る。商圏は建物の電気工事に使う資材へ一本化した。製品部門の売上構成比は1989年度の5.2%から1993年度上期の12.5%へ上がり、2013年に取得したパトライトは回転灯と積層信号灯で世界首位にある。値決めのできる製品を2割持ったことが、粗利10%の卸に営業利益率7%を残した。
長期業績の推移 1993〜2026年
因幡電機産業:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
2002年3月期2026年3月期

創業ストーリー 因幡電機製作所の創業と、電設資材の卸への特化 (1938年〜)

創業ストーリー(1)

堺で3名が始めた特殊電動発電機メーカー

創業者の因幡弥太郎氏は、今宮工業高校を経て南海電鉄の変電所に勤める給与生活者だった[1]。1938年4月、仲間2名とともに大阪府堺市で特殊電動発電機メーカーの因幡電機製作所を興す[2]。発足したときにはすでに戦時体制下で、家庭用の電気器具は一切作ってはならないと定められていた[3]。そこで手がけたのが、飛行機の心臓部にあたる通信機、すなわち電波兵器のコンバーター、ダイヤル、コネクターだった[4]。旧日本海軍の管理工場に指定され、1941年には電動式発電機を完成させて最新の電波兵器に装備した[5]。技術者が中心となって、注文に応じ特殊な機械を作る小さな工場だった[6]

    • [1]創業者の因幡弥太郎は今宮工業高校を経て南海電鉄変電所に勤務するサラリーマンだった
    • [2]1938年4月、仲間とともに3名で大阪府堺市に特殊電動発電機メーカー因幡電機製作所を設立した
    • [5]旧・日本海軍の管理工場となり、1941年に電動式発電機を完成させて、電波兵器の最新兵器に装備された
  • 証券アナリストジャーナル 1993年3月号(因幡弥太郎・講演)
    • [3]設立当時は既に戦時体制下にあったので、家庭電気器具類は一切作ってはならないということであった
    • [4]飛行機の心臓部である通信機、いわゆる電波兵器のコンバーター、ダイヤル、コネクターその他の生産を行った
    • [6]因幡電機製作所はメーカーとして発足したが、創業当初は技術者が中心となっていた

敗戦の年である1945年、大阪・今里で営業を再開した[7]。法人としての因幡電機産業が生まれるのはその4年後で、1949年5月、大阪市東成区に資本金139万円を投じて設立し、モーターなど電気機器類の製造・販売を始めた[8]。当初の製品はコンバータと電熱器で、一時は家電も作って松下電器などに納入した[9]。堺の工場で軍需品を作っていた技術者の会社が、そのまま民生用の電気機器メーカーとして再出発した形である[10]。作ったものの納め先は松下電器のような大手電機メーカーで、自社の名で市場へ売る商売ではなかった[11]。設立から現在まで社名も英文商号のINABA DENKI SANGYO CO., LTD.も変えていない[12]

    • [7]1945年、大阪・今里で営業を再開
    • [9]創業当初、コンバータ、電熱器、一時は家電も製造し、松下電器などに納入していた
    • [11]創業当初、コンバータ、電熱器、一時は家電も製造し、松下電器などに納入していた
  • 因幡電機産業 有価証券報告書【沿革】
    • [8]1949年5月、大阪市東成区に資本金139万円にて設立、モーター等電気機器類の製造・販売を開始
  • 証券アナリストジャーナル 1993年3月号(因幡弥太郎・講演)
    • [10]戦後の昭和24年、因幡電機産業(株)を設立した
  • 因幡電機産業 有価証券報告書【表紙】【沿革】
    • [12]1949年5月の設立以来、有価証券報告書の沿革に商号変更の記載はなく、英文商号はINABA DENKI SANGYO CO., LTD.である

因幡弥太郎氏が設立にあたって掲げた誓いは3つある[13]。第一が、汗をかかずに儲ける浮利を追ってはならないというものだった[14]。第二が、創業時の精神と苦労を忘れないことで、毎年の創業記念日を、捨てるべきものを捨てて新しいことを創業する日と定めた[15]。第三が、経営者が私利私欲を持たず会社をガラス張りで経営することだった[16]。第一の誓いは資産の持ち方にそのまま表れる。石油危機の前、土地を買えば1年でほぼ2倍になる土地ブームのさなかにも土地には手を出さず、余資は銀行預金に置いた[17]。1973年の石油危機後の不況と1990年代初頭の不況を経て、因幡弥太郎氏はこの第一の誓いが正しかったと述べた[18]

  • 証券アナリストジャーナル 1993年3月号(因幡弥太郎・講演)
    • [13]当社は創業当初から3つの誓い、経営哲学を持って事業を開始した
    • [14]その第一は、汗をかかないでもうけるような、浮利を追ってはならないということである
    • [15]その第二は、創業時の精神や苦労を忘れてはいけないということ。毎年の創業記念日には、捨てるべきことはできるだけ捨てて、新しいことを創業することを誓う日としてきた
    • [16]3番目は経営者は私利私欲を持たず会社をガラス張りで経営し社員のやる気を失わなかったことである
    • [17]オイル・ショック前では、土地を買えば1年間でほぼ2倍になるという土地ブームを経験したが、当社は一切土地に手を出さず、余った資金は専ら銀行預金にしていた
    • [18]昭和48年のオイル・ショック後の不況や今回の平成バブルの崩壊後の不況では、浮利を追わなかった当社の哲学が正しかったことが明らかになった
    • [1]創業者の因幡弥太郎は今宮工業高校を経て南海電鉄変電所に勤務するサラリーマンだった
    • [2]1938年4月、仲間とともに3名で大阪府堺市に特殊電動発電機メーカー因幡電機製作所を設立した
    • [5]旧・日本海軍の管理工場となり、1941年に電動式発電機を完成させて、電波兵器の最新兵器に装備された
    • [7]1945年、大阪・今里で営業を再開
    • [9]創業当初、コンバータ、電熱器、一時は家電も製造し、松下電器などに納入していた
    • [11]創業当初、コンバータ、電熱器、一時は家電も製造し、松下電器などに納入していた
  • 証券アナリストジャーナル 1993年3月号(因幡弥太郎・講演)
    • [3]設立当時は既に戦時体制下にあったので、家庭電気器具類は一切作ってはならないということであった
    • [4]飛行機の心臓部である通信機、いわゆる電波兵器のコンバーター、ダイヤル、コネクターその他の生産を行った
    • [6]因幡電機製作所はメーカーとして発足したが、創業当初は技術者が中心となっていた
    • [10]戦後の昭和24年、因幡電機産業(株)を設立した
    • [13]当社は創業当初から3つの誓い、経営哲学を持って事業を開始した
    • [14]その第一は、汗をかかないでもうけるような、浮利を追ってはならないということである
    • [15]その第二は、創業時の精神や苦労を忘れてはいけないということ。毎年の創業記念日には、捨てるべきことはできるだけ捨てて、新しいことを創業することを誓う日としてきた
    • [16]3番目は経営者は私利私欲を持たず会社をガラス張りで経営し社員のやる気を失わなかったことである
    • [17]オイル・ショック前では、土地を買えば1年間でほぼ2倍になるという土地ブームを経験したが、当社は一切土地に手を出さず、余った資金は専ら銀行預金にしていた
    • [18]昭和48年のオイル・ショック後の不況や今回の平成バブルの崩壊後の不況では、浮利を追わなかった当社の哲学が正しかったことが明らかになった
  • 因幡電機産業 有価証券報告書【沿革】
    • [8]1949年5月、大阪市東成区に資本金139万円にて設立、モーター等電気機器類の製造・販売を開始
  • 因幡電機産業 有価証券報告書【表紙】【沿革】
    • [12]1949年5月の設立以来、有価証券報告書の沿革に商号変更の記載はなく、英文商号はINABA DENKI SANGYO CO., LTD.である
創業ストーリー(2)

工場を残して流通業へ移り、家電から撤退するまで

戦後の混乱期は、どこで何が作られているのかが分からない時代だった[19]。1950年、因幡電機産業は一部の工場を残して流通業に専念する道を選び、作る側から、作られたものを集めて配る側へ回った[20]。創業から10年ごとに大変革を行うという方針に沿ったもので、この数え方でいえば流通業への専念が最初の大変革にあたる[21]。扱ったのは電球、ブラケット、ソケット、碍子、配線器具、ステップルといった電設資材で、これを地方の問屋へ売った[22]。設立時に掲げたモーターなど電気機器類の製造・販売は、わずか1年で会社の中心から外れた[23]

  • 証券アナリストジャーナル 1993年3月号(因幡弥太郎・講演)
    • [19]戦後の混乱期では、どこで何が作られているのか全く分からない時代となった
    • [20]昭和25年、一部の工場を残して流通業に専念することにした
    • [21]創業から10年ごとに大変革を行う方針に基づいたものであった
    • [22]電球、ブラケット、ソケット、碍子、配線器具、ステップルなど電設資材の卸売業に特化し、地方問屋に販売していた
  • 因幡電機産業 有価証券報告書【沿革】
    • [23]1949年5月の設立時はモーター等電気機器類の製造・販売を開始した

卸へ移った会社は売り先のある土地へ順に拠点を置き、1950年10月に九州支店を福岡県福岡市へ新築移転し[24]、1951年12月には東京支店を東京都港区に新設して東日本地区へ進出する[25]。東京の営業所は当初浜松町に置き、1953年に新橋へ移した[26]。1958年3月には札幌出張所を北海道札幌市に設けて、北海道と東北をつないだ[27]。流通業へ移ってから8年で、九州・関東・北海道の3方面に足場を置いたことになる[28]。中部への進出は1969年5月の名古屋営業所、中国地区は1971年10月の広島営業所と、20年をかけて全国の主要都市を埋めた[29]

  • 因幡電機産業 有価証券報告書【沿革】
    • [24]1950年10月、九州支店を福岡県福岡市に新築移転
    • [25]1951年12月、東京支店を東京都港区に新設、東日本地区へ進出
    • [27]1958年3月、札幌出張所を北海道札幌市に新設、北海道、東北地区へ進出
    • [28]1950年10月、九州支店を福岡県福岡市に新築移転
    • [29]1969年5月に名古屋営業所を愛知県名古屋市東区に新設、1971年10月に広島営業所を広島県広島市に新設
    • [26]1951年、東京営業所を浜松町に開設し、1953年、東京営業所を新橋へ移した

10年ごとの変革は1965年に二度目が来て、テレビや冷蔵庫といった消費材の取扱いを中止し、扱う品目を設備材だけに絞った[30]。当時の売上は家電のウエイトが高く、削ったのは会社の稼ぎ頭にあたる[31]。それでも撤退を選んだ理由は2つあり、ひとつは家電業界の系列化、もうひとつは代金回収への不安だった[32]。系列店を通じて売る仕組みが固まれば、独立系の卸が入る余地は細る。この判断によって、因幡電機産業の商圏は建物の電気工事に使う資材へ一本化された。大阪ではきんでんをはじめとする電設工事業者があらゆる建築物の電気工事を施工しており、その業者へ何万点という商品と材料を供給する立場に立った[33]

  • 証券アナリストジャーナル 1993年3月号(因幡弥太郎・講演)
    • [30]次の変革は昭和40年に決定したテレビや冷蔵庫等の消費材の取扱いを中止して、設備材の取扱いに絞ったことである
    • [33]大阪ではきんでんを始めとする電設工事業者があらゆる建築物の電気工事を施行するが、当社はそれらの業者に何万点という商品、材料を供給する
  • 証券アナリストジャーナル 1995年8月号(因幡弥寿雄・講演)
    • [31]家電のウエィトが高かった
    • [32]家電業界の系列化や代金回収に不安があって、昭和40年撤退を決断した
  • 証券アナリストジャーナル 1993年3月号(因幡弥太郎・講演)
    • [19]戦後の混乱期では、どこで何が作られているのか全く分からない時代となった
    • [20]昭和25年、一部の工場を残して流通業に専念することにした
    • [21]創業から10年ごとに大変革を行う方針に基づいたものであった
    • [30]次の変革は昭和40年に決定したテレビや冷蔵庫等の消費材の取扱いを中止して、設備材の取扱いに絞ったことである
    • [33]大阪ではきんでんを始めとする電設工事業者があらゆる建築物の電気工事を施行するが、当社はそれらの業者に何万点という商品、材料を供給する
    • [22]電球、ブラケット、ソケット、碍子、配線器具、ステップルなど電設資材の卸売業に特化し、地方問屋に販売していた
    • [26]1951年、東京営業所を浜松町に開設し、1953年、東京営業所を新橋へ移した
  • 因幡電機産業 有価証券報告書【沿革】
    • [23]1949年5月の設立時はモーター等電気機器類の製造・販売を開始した
    • [24]1950年10月、九州支店を福岡県福岡市に新築移転
    • [25]1951年12月、東京支店を東京都港区に新設、東日本地区へ進出
    • [27]1958年3月、札幌出張所を北海道札幌市に新設、北海道、東北地区へ進出
    • [28]1950年10月、九州支店を福岡県福岡市に新築移転
    • [29]1969年5月に名古屋営業所を愛知県名古屋市東区に新設、1971年10月に広島営業所を広島県広島市に新設
  • 証券アナリストジャーナル 1995年8月号(因幡弥寿雄・講演)
    • [31]家電のウエィトが高かった
    • [32]家電業界の系列化や代金回収に不安があって、昭和40年撤退を決断した
創業ストーリー(3)

石油危機のあとに因幡弥太郎社長が見た米国

設備材に絞った会社は、扱う品目の数と伝票の量で勝負する商売になった。因幡電機産業が業界で最初に手を付けたのが計算機による事務の合理化で、1967年にパンチカードシステムを導入し、1970年にはバロースの計算機を入れた[34]。本社は1966年3月に大阪市西区本田町へ移り、1974年8月には同区立売堀の大阪トヨタビル7階へ移った[35]。同じ1974年、同業者を結集して全日本電設資材卸業協同組合連合会を作り、因幡弥太郎氏が設立以来の会長を引き受けた[36]。全国におよそ1,200から1,300の同業者がいる業界で、上位の位置を占めていた[37]

  • 証券アナリストジャーナル 1993年3月号(因幡弥太郎・講演)
    • [34]業界では、当社が最初にコンピュータを導入して、業務の合理化を図った。昭和42年にパンチカードシステムを導入し、昭和45年にはバロースのコンピュータを入れた
    • [36]昭和49年、同業者を結集して全日本電設資材卸業協同組合連合会を作ったが、当社が業界トップのシェアを持っているので、同連合会会長を設立以来ずっと引き受けている
    • [37]日本には約千二、三百の同業者がいる
    • [35]1966年3月、本社を大阪市西区本田町に移転し、1974年8月、本社を大阪市西区立売堀に移転した

1973年10月の第一次石油危機で日本経済が混乱に陥ると[38]因幡弥太郎氏はアメリカを訪ね、現地企業がこの局所的な急変にどう対応しているかを視察した[39]。持ち帰った答えが、事業部ごとに会社を分ける制度だった[40]。組織上の問題は視察の前から見えており、1940年代の初めから導入していた独立採算制が、規模の拡大につれて働かなくなり、事業部と支店の間にもたれ合いが出ていたのである[41]。従業員は600人に届いていた[42]。企業の規模が大きくなっても中小企業の弾力性と機動力を失わずに済む方法はないか、というのが因幡弥太郎氏の抱えた問いだった[43]

    • [38]1973年10月、第一次石油ショックにより日本経済は未曾有の大混乱に陥った
    • [39]創業者の因幡弥太郎氏はアメリカを訪問し、現地企業の対応を視察した
    • [40]その成果として、よりスピーディーな経営決断を下せるよう、因幡弥太郎社長は事業部毎の分社制度の採用を決断した
  • 日経ビジネス 1981年5月4日号
    • [41]企業規模が拡大するにつれ、40年代の初めから導入していた独立採算制本来のよさが徐々に失われ、各事業部や支店間でもたれあいが目立つようになってきた
    • [42]因幡弥太郎社長は従業員が600人というのは適正規模を超えていると考えた
  • 日経ビジネス 1978年11月20日号
    • [43]中小企業の最大の長所は変化に対応できる弾力性、機動力だ。企業が大きくなっても、中小企業のよさを失わずに済む方法はないか、と因幡社長は考えた
  • 証券アナリストジャーナル 1993年3月号(因幡弥太郎・講演)
    • [34]業界では、当社が最初にコンピュータを導入して、業務の合理化を図った。昭和42年にパンチカードシステムを導入し、昭和45年にはバロースのコンピュータを入れた
    • [36]昭和49年、同業者を結集して全日本電設資材卸業協同組合連合会を作ったが、当社が業界トップのシェアを持っているので、同連合会会長を設立以来ずっと引き受けている
    • [37]日本には約千二、三百の同業者がいる
    • [35]1966年3月、本社を大阪市西区本田町に移転し、1974年8月、本社を大阪市西区立売堀に移転した
    • [38]1973年10月、第一次石油ショックにより日本経済は未曾有の大混乱に陥った
    • [39]創業者の因幡弥太郎氏はアメリカを訪問し、現地企業の対応を視察した
    • [40]その成果として、よりスピーディーな経営決断を下せるよう、因幡弥太郎社長は事業部毎の分社制度の採用を決断した
  • 日経ビジネス 1981年5月4日号
    • [41]企業規模が拡大するにつれ、40年代の初めから導入していた独立採算制本来のよさが徐々に失われ、各事業部や支店間でもたれあいが目立つようになってきた
    • [42]因幡弥太郎社長は従業員が600人というのは適正規模を超えていると考えた
  • 日経ビジネス 1978年11月20日号
    • [43]中小企業の最大の長所は変化に対応できる弾力性、機動力だ。企業が大きくなっても、中小企業のよさを失わずに済む方法はないか、と因幡社長は考えた
創業ストーリー(4)

3事業部と2支店を15日で5社に分けた手順

1976年9月、因幡電機産業は3つの事業部と東京・大阪の両支店を、因幡産業機器、因幡電設資材、近畿因幡電材、大阪因幡電機、東京因幡電機の5社として分社した[44]。動きは速く、9月5日に社内へ発表して届け出や印鑑作りといった一切の事務手続きを15日間で終え、同月20日には新体制を発足させた[45]。社内からは異論が続き社員にも動揺があったが、因幡弥太郎氏はこれを押し切った[46]。新会社の社長には従来の事業部長と支店長がそのまま就き、親会社が各社の株式95%を保有して、因幡弥太郎氏が全社の会長を兼ねた[47]

  • 因幡電機産業 有価証券報告書【沿革】
    • [44]1976年9月、事業部を因幡産業機器㈱、因幡電設資材㈱、近畿因幡電材㈱、大阪因幡電機㈱、東京因幡電機㈱として分社
  • 日経ビジネス 1978年11月20日号
    • [45]9月5日に社内に発表するとともに、15日間で届け出やら印鑑づくりなど、いっさいの事務手続きを終え、同月20日には新体制を発足させてしまった
  • 日経ビジネス 1981年5月4日号
    • [46]当然、社内からは異論が続出し、社員の間には動揺もみられた。しかし、因幡社長は分社こそこれからの生きる道という強い信念から反対を押し切った
    • [47]どの新会社も社長は従来の事業部長や支店長をそのまま昇格させた。親会社の因幡電機産業が各社の株式の95%を保有し、因幡社長が全社の会長を兼ねるという形をとった

分けたことによる変化は2年で数字に出た。分社前の1975年9月期の売上高313億円が、1976年9月期に323億円、分社後1年目の1977年9月期に5社合計で376億円、1978年9月期には432億円まで伸び、2年で34%の増加になった[48][49]。税引き利益はもっと大きく動き、1976年9月期の1億1,000万円に対して1978年9月期は約3億円と、およそ3倍へ膨らんだ[50]。各社が引当金を積み増していることを勘定に入れると、実質の増益幅は5倍近いとされた[51]。従業員数は590人と分社前より減っており、1人当たり売上高は5,100万円から7,322万円へ44%伸びた[52]

  • 日経ビジネス 1978年11月20日号
    • [48]分社体制以前の50年9月期、51年9月期の売上は、それぞれ313億円、323億円だったのが、分社後1年目の52年9月期には5社合計の売上は376億円にふえ、さらに53年9月期には432億円にまで上昇した
    • [49]2年間で34%も増加したわけだ
    • [50]51年9月期の税引き利益1億1000万円に対し、53年9月期は約3億円と約3倍にふえている
    • [51]各社とも引当金を積み増していることを勘定に入れると、実質的な収益のアップは5倍近いという
    • [52]グループ全体の従業員は現在590人と分社化以前より若干減っている。従業員1人当たりの売上高は分社化前の年間5100万円(50年9月期)から7322万円へと44%も伸びている

各社の目標利益は、基本人件費の40%と総資産の4%を足して2で割った額とした[53]。この目標に対する経常利益の達成率へ、達成率1%当たり0.03という支給率を掛けて業績賞与を決める[54]。達成率100%なら3カ月分、上限は150%のときの4.5カ月分で、50%以下なら支給しない[55]。人を増やしても資産を膨らませても目標額が上がるため、各社は現有の人員で仕事量の増加を処理し、売上債権と在庫の管理を締めた[56]。本社に残したのは総務・経理・計算機室だけで、その68人が伝票処理の手数料、金融の代行手数料、不動産の賃貸料で独立採算を組んだ[57]

  • 日経ビジネス 1981年5月4日号
    • [53]目標となる経常利益額は基本人件費の40%と総資産の4%を足して2で割って求める
    • [54]これに同社が編み出した達成率1%当たりの業績賞与支給率0.03を掛け合わせ、支給額を決定する
    • [55]達成率が100%とすると3カ月分の業績賞与を固定賞与以外にもらえる。上限は達成率150%の場合の4.5カ月だ。達成率が50%以下だと業績賞与は支給されない
    • [56]業容が拡大しているからといってむやみに人員を増やさず、現有勢力で仕事量の増大を処理する工夫をこらしている。売上債権と在庫の管理を徹底することによって資産の増大を防ぐ努力もしている
    • [57]管理部門だけを残した従業員70人足らずの本社。因幡電機産業の従業員は68人。収益源は経理・総務・人事などの代行サービス料、コンピューターの委託計算料、不動産の賃貸料収入の3つ
  • 因幡電機産業 有価証券報告書【沿革】
    • [44]1976年9月、事業部を因幡産業機器㈱、因幡電設資材㈱、近畿因幡電材㈱、大阪因幡電機㈱、東京因幡電機㈱として分社
  • 日経ビジネス 1978年11月20日号
    • [45]9月5日に社内に発表するとともに、15日間で届け出やら印鑑づくりなど、いっさいの事務手続きを終え、同月20日には新体制を発足させてしまった
    • [48]分社体制以前の50年9月期、51年9月期の売上は、それぞれ313億円、323億円だったのが、分社後1年目の52年9月期には5社合計の売上は376億円にふえ、さらに53年9月期には432億円にまで上昇した
    • [49]2年間で34%も増加したわけだ
    • [50]51年9月期の税引き利益1億1000万円に対し、53年9月期は約3億円と約3倍にふえている
    • [51]各社とも引当金を積み増していることを勘定に入れると、実質的な収益のアップは5倍近いという
    • [52]グループ全体の従業員は現在590人と分社化以前より若干減っている。従業員1人当たりの売上高は分社化前の年間5100万円(50年9月期)から7322万円へと44%も伸びている
  • 日経ビジネス 1981年5月4日号
    • [46]当然、社内からは異論が続出し、社員の間には動揺もみられた。しかし、因幡社長は分社こそこれからの生きる道という強い信念から反対を押し切った
    • [47]どの新会社も社長は従来の事業部長や支店長をそのまま昇格させた。親会社の因幡電機産業が各社の株式の95%を保有し、因幡社長が全社の会長を兼ねるという形をとった
    • [53]目標となる経常利益額は基本人件費の40%と総資産の4%を足して2で割って求める
    • [54]これに同社が編み出した達成率1%当たりの業績賞与支給率0.03を掛け合わせ、支給額を決定する
    • [55]達成率が100%とすると3カ月分の業績賞与を固定賞与以外にもらえる。上限は達成率150%の場合の4.5カ月だ。達成率が50%以下だと業績賞与は支給されない
    • [56]業容が拡大しているからといってむやみに人員を増やさず、現有勢力で仕事量の増大を処理する工夫をこらしている。売上債権と在庫の管理を徹底することによって資産の増大を防ぐ努力もしている
    • [57]管理部門だけを残した従業員70人足らずの本社。因幡電機産業の従業員は68人。収益源は経理・総務・人事などの代行サービス料、コンピューターの委託計算料、不動産の賃貸料収入の3つ
創業ストーリー(5)

省力機器課から生まれた因幡電工の空調部材

分社の翌々年、グループはもう一度割れた。1978年、因幡産業機器の中に省力機器課を置いて空調メーカーになることを決め、同年9月にこれを因幡電工として分離独立させ、グループは7社になった[58][59]。作ったのは空調機の室内機と室外機をつなぐ配管の部材で、空調機そのものは大手電機メーカーが作るという棲み分けのなかで、その間をつなぐ部品に絞った[60]。因幡電工が手がけた空調事業は、当時のグループ会社の収益の柱に育つ[61]。1950年に手放したメーカー機能が、分社した子会社の一課から戻ってきた[62]。この部門の利益は、のちに会社全体のなかで大きなウェイトを占めるようになる[63]

    • [58]1978年、因幡産業機器内に省力機器課を設置し、空調メーカーとなることを決めた。同年9月、省力機器課を分社独立させ、因幡電工株式会社とした
    • [59]7社体制へ移行した
    • [61]因幡電工が手がける空調事業は当時、グループ会社の収益の柱に成長した
  • 証券アナリストジャーナル 1996年6月号(因幡弥寿雄・講演)
    • [60]空調機器は大手電機メーカーが生産しているが、当社は室内機と室外機をつなぐ部材を生産している
    • [63]空調システム部材は当社が唯一製造している製品である。この部門の利益が当社に大きなウェイトを占めている
  • 因幡電機産業 有価証券報告書【沿革】
    • [62]1978年9月、因幡産業機器㈱省力機器課を、因幡電工㈱として分離独立

分社した各社が独立採算で利益を出したため、グループは稼いだ資金を関連会社の設立と生産設備へ回せた[64]。1979年8月にイナバエンジニアリングを大阪市西区に設立し[65]、1986年には4月に因幡香港有限公司、8月にINDEK corporationを米国に置いて海外へ出た[66]。1987年4月には因幡電工の茨木工場を大阪府茨木市に新設し、空調部材の生産能力を増強[67]。1980年9月期のグループ7社合計は売上高606億1,000万円、経常利益16億6,000万円、従業員646人で、分社直前の1976年9月期と比べて売上高が1.9倍、経常利益は5.9倍に達した[68]

  • 日経ビジネス 1978年11月20日号
    • [64]実際に、経営計画は各子会社が独自に決める。独立採算だけに、社員の給与も各社ごとに社長が決め、利益管理も自分でする
  • 因幡電機産業 有価証券報告書【沿革】
    • [65]1979年8月、イナバエンジニアリング㈱を大阪市西区に設立
    • [66]1986年4月、因幡香港有限公司を香港に設立。1986年8月、INDEKcorporation を米国に設立
    • [67]1987年4月、因幡電工㈱茨木工場を大阪府茨木市に新設
  • 日経ビジネス 1981年5月4日号
    • [68]55年9月期決算(連結ベース)を分社前の51年9月期決算と比べると、売り上げは1.9倍、経常利益は実に5.9倍にも膨らんでいる。売上高606億1000万円、経常利益16億6000万円、従業員646人(グループ7社の合計)
    • [58]1978年、因幡産業機器内に省力機器課を設置し、空調メーカーとなることを決めた。同年9月、省力機器課を分社独立させ、因幡電工株式会社とした
    • [59]7社体制へ移行した
    • [61]因幡電工が手がける空調事業は当時、グループ会社の収益の柱に成長した
  • 証券アナリストジャーナル 1996年6月号(因幡弥寿雄・講演)
    • [60]空調機器は大手電機メーカーが生産しているが、当社は室内機と室外機をつなぐ部材を生産している
    • [63]空調システム部材は当社が唯一製造している製品である。この部門の利益が当社に大きなウェイトを占めている
  • 因幡電機産業 有価証券報告書【沿革】
    • [62]1978年9月、因幡産業機器㈱省力機器課を、因幡電工㈱として分離独立
    • [65]1979年8月、イナバエンジニアリング㈱を大阪市西区に設立
    • [66]1986年4月、因幡香港有限公司を香港に設立。1986年8月、INDEKcorporation を米国に設立
    • [67]1987年4月、因幡電工㈱茨木工場を大阪府茨木市に新設
  • 日経ビジネス 1978年11月20日号
    • [64]実際に、経営計画は各子会社が独自に決める。独立採算だけに、社員の給与も各社ごとに社長が決め、利益管理も自分でする
  • 日経ビジネス 1981年5月4日号
    • [68]55年9月期決算(連結ベース)を分社前の51年9月期決算と比べると、売り上げは1.9倍、経常利益は実に5.9倍にも膨らんでいる。売上高606億1000万円、経常利益16億6000万円、従業員646人(グループ7社の合計)

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沿革年表 1938〜2022年

因幡電機産業の沿革1938〜2022年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1938〜1965年因幡電機製作所の創業と、電設資材の卸への特化特殊電動発電機メーカーの因幡電機製作所を3名で創業★★
電動式発電機を完成、旧日本海軍の管理工場に指定
終戦後に営業を再開
因幡電機産業を設立、電気機器類の製造販売を開始★★
1966〜1987年600人を100人ずつに割った1976年の分社因幡弥太郎福岡・東京・札幌・名古屋・広島に営業拠点を整備
因幡弥太郎事業部を因幡産業機器など5社に分社、グループ6社体制★★★
因幡弥太郎因幡産業機器の省力機器課を因幡電工として分離独立★★★
因幡弥太郎因幡電工の茨木工場を新設
1988〜2003年分社6社の再統合と、大阪証券取引所への上場因幡弥太郎分社した6社を合併、1本部4事業部に再編★★★
因幡弥太郎奈良工場を新設
因幡弥太郎大阪証券取引所市場第二部に上場
因幡弥太郎茨城工場を新設
因幡弥太郎産業機器の日本オートメを買収★★
因幡弥寿雄福岡工場を新設
因幡弥寿雄東京証券取引所市場第二部に上場
因幡弥寿雄東京証券取引所と大阪証券取引所の市場第一部に指定
出口健電設資材卸の東光電機産業を買収★★
2004〜2026年パトライト買収で自社製品を利益の柱に据えた転換守谷承弘春日電機の事業を譲受、SIAM ORIENT ELECTRICを子会社化★★
守谷承弘報告セグメントを電設資材・産業機器・自社製品の3区分に再編★★
守谷承弘東京本社を開設、大阪との2本社体制
守谷承弘パトライトを買収、自社製品事業を拡大★★★
守谷承弘子会社SIAM ORIENT ELECTRICの新工場を建設
喜多肇一東京証券取引所のプライム市場に移行
出典・参考 8件
出典・参考

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