創業者の因幡弥太郎氏は、今宮工業高校を経て南海電鉄の変電所に勤める給与生活者だった[1]。1938年4月、仲間2名とともに大阪府堺市で特殊電動発電機メーカーの因幡電機製作所を興す[2]。発足したときにはすでに戦時体制下で、家庭用の電気器具は一切作ってはならないと定められていた[3]。そこで手がけたのが、飛行機の心臓部にあたる通信機、すなわち電波兵器のコンバーター、ダイヤル、コネクターだった[4]。旧日本海軍の管理工場に指定され、1941年には電動式発電機を完成させて最新の電波兵器に装備した[5]。技術者が中心となって、注文に応じ特殊な機械を作る小さな工場だった[6]。
敗戦の年である1945年、大阪・今里で営業を再開した[7]。法人としての因幡電機産業が生まれるのはその4年後で、1949年5月、大阪市東成区に資本金139万円を投じて設立し、モーターなど電気機器類の製造・販売を始めた[8]。当初の製品はコンバータと電熱器で、一時は家電も作って松下電器などに納入した[9]。堺の工場で軍需品を作っていた技術者の会社が、そのまま民生用の電気機器メーカーとして再出発した形である[10]。作ったものの納め先は松下電器のような大手電機メーカーで、自社の名で市場へ売る商売ではなかった[11]。設立から現在まで社名も英文商号のINABA DENKI SANGYO CO., LTD.も変えていない[12]。
因幡弥太郎氏が設立にあたって掲げた誓いは3つある[13]。第一が、汗をかかずに儲ける浮利を追ってはならないというものだった[14]。第二が、創業時の精神と苦労を忘れないことで、毎年の創業記念日を、捨てるべきものを捨てて新しいことを創業する日と定めた[15]。第三が、経営者が私利私欲を持たず会社をガラス張りで経営することだった[16]。第一の誓いは資産の持ち方にそのまま表れる。石油危機の前、土地を買えば1年でほぼ2倍になる土地ブームのさなかにも土地には手を出さず、余資は銀行預金に置いた[17]。1973年の石油危機後の不況と1990年代初頭の不況を経て、因幡弥太郎氏はこの第一の誓いが正しかったと述べた[18]。
戦後の混乱期は、どこで何が作られているのかが分からない時代だった[19]。1950年、因幡電機産業は一部の工場を残して流通業に専念する道を選び、作る側から、作られたものを集めて配る側へ回った[20]。創業から10年ごとに大変革を行うという方針に沿ったもので、この数え方でいえば流通業への専念が最初の大変革にあたる[21]。扱ったのは電球、ブラケット、ソケット、碍子、配線器具、ステップルといった電設資材で、これを地方の問屋へ売った[22]。設立時に掲げたモーターなど電気機器類の製造・販売は、わずか1年で会社の中心から外れた[23]。
卸へ移った会社は売り先のある土地へ順に拠点を置き、1950年10月に九州支店を福岡県福岡市へ新築移転し[24]、1951年12月には東京支店を東京都港区に新設して東日本地区へ進出する[25]。東京の営業所は当初浜松町に置き、1953年に新橋へ移した[26]。1958年3月には札幌出張所を北海道札幌市に設けて、北海道と東北をつないだ[27]。流通業へ移ってから8年で、九州・関東・北海道の3方面に足場を置いたことになる[28]。中部への進出は1969年5月の名古屋営業所、中国地区は1971年10月の広島営業所と、20年をかけて全国の主要都市を埋めた[29]。
10年ごとの変革は1965年に二度目が来て、テレビや冷蔵庫といった消費材の取扱いを中止し、扱う品目を設備材だけに絞った[30]。当時の売上は家電のウエイトが高く、削ったのは会社の稼ぎ頭にあたる[31]。それでも撤退を選んだ理由は2つあり、ひとつは家電業界の系列化、もうひとつは代金回収への不安だった[32]。系列店を通じて売る仕組みが固まれば、独立系の卸が入る余地は細る。この判断によって、因幡電機産業の商圏は建物の電気工事に使う資材へ一本化された。大阪ではきんでんをはじめとする電設工事業者があらゆる建築物の電気工事を施工しており、その業者へ何万点という商品と材料を供給する立場に立った[33]。
設備材に絞った会社は、扱う品目の数と伝票の量で勝負する商売になった。因幡電機産業が業界で最初に手を付けたのが計算機による事務の合理化で、1967年にパンチカードシステムを導入し、1970年にはバロースの計算機を入れた[34]。本社は1966年3月に大阪市西区本田町へ移り、1974年8月には同区立売堀の大阪トヨタビル7階へ移った[35]。同じ1974年、同業者を結集して全日本電設資材卸業協同組合連合会を作り、因幡弥太郎氏が設立以来の会長を引き受けた[36]。全国におよそ1,200から1,300の同業者がいる業界で、上位の位置を占めていた[37]。
1973年10月の第一次石油危機で日本経済が混乱に陥ると[38]、因幡弥太郎氏はアメリカを訪ね、現地企業がこの局所的な急変にどう対応しているかを視察した[39]。持ち帰った答えが、事業部ごとに会社を分ける制度だった[40]。組織上の問題は視察の前から見えており、1940年代の初めから導入していた独立採算制が、規模の拡大につれて働かなくなり、事業部と支店の間にもたれ合いが出ていたのである[41]。従業員は600人に届いていた[42]。企業の規模が大きくなっても中小企業の弾力性と機動力を失わずに済む方法はないか、というのが因幡弥太郎氏の抱えた問いだった[43]。
1976年9月、因幡電機産業は3つの事業部と東京・大阪の両支店を、因幡産業機器、因幡電設資材、近畿因幡電材、大阪因幡電機、東京因幡電機の5社として分社した[44]。動きは速く、9月5日に社内へ発表して届け出や印鑑作りといった一切の事務手続きを15日間で終え、同月20日には新体制を発足させた[45]。社内からは異論が続き社員にも動揺があったが、因幡弥太郎氏はこれを押し切った[46]。新会社の社長には従来の事業部長と支店長がそのまま就き、親会社が各社の株式95%を保有して、因幡弥太郎氏が全社の会長を兼ねた[47]。
分けたことによる変化は2年で数字に出た。分社前の1975年9月期の売上高313億円が、1976年9月期に323億円、分社後1年目の1977年9月期に5社合計で376億円、1978年9月期には432億円まで伸び、2年で34%の増加になった[48][49]。税引き利益はもっと大きく動き、1976年9月期の1億1,000万円に対して1978年9月期は約3億円と、およそ3倍へ膨らんだ[50]。各社が引当金を積み増していることを勘定に入れると、実質の増益幅は5倍近いとされた[51]。従業員数は590人と分社前より減っており、1人当たり売上高は5,100万円から7,322万円へ44%伸びた[52]。
各社の目標利益は、基本人件費の40%と総資産の4%を足して2で割った額とした[53]。この目標に対する経常利益の達成率へ、達成率1%当たり0.03という支給率を掛けて業績賞与を決める[54]。達成率100%なら3カ月分、上限は150%のときの4.5カ月分で、50%以下なら支給しない[55]。人を増やしても資産を膨らませても目標額が上がるため、各社は現有の人員で仕事量の増加を処理し、売上債権と在庫の管理を締めた[56]。本社に残したのは総務・経理・計算機室だけで、その68人が伝票処理の手数料、金融の代行手数料、不動産の賃貸料で独立採算を組んだ[57]。
分社の翌々年、グループはもう一度割れた。1978年、因幡産業機器の中に省力機器課を置いて空調メーカーになることを決め、同年9月にこれを因幡電工として分離独立させ、グループは7社になった[58][59]。作ったのは空調機の室内機と室外機をつなぐ配管の部材で、空調機そのものは大手電機メーカーが作るという棲み分けのなかで、その間をつなぐ部品に絞った[60]。因幡電工が手がけた空調事業は、当時のグループ会社の収益の柱に育つ[61]。1950年に手放したメーカー機能が、分社した子会社の一課から戻ってきた[62]。この部門の利益は、のちに会社全体のなかで大きなウェイトを占めるようになる[63]。
分社した各社が独立採算で利益を出したため、グループは稼いだ資金を関連会社の設立と生産設備へ回せた[64]。1979年8月にイナバエンジニアリングを大阪市西区に設立し[65]、1986年には4月に因幡香港有限公司、8月にINDEK corporationを米国に置いて海外へ出た[66]。1987年4月には因幡電工の茨木工場を大阪府茨木市に新設し、空調部材の生産能力を増強[67]。1980年9月期のグループ7社合計は売上高606億1,000万円、経常利益16億6,000万円、従業員646人で、分社直前の1976年9月期と比べて売上高が1.9倍、経常利益は5.9倍に達した[68]。
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|---|---|---|---|---|
| 1938〜1965年因幡電機製作所の創業と、電設資材の卸への特化 | 特殊電動発電機メーカーの因幡電機製作所を3名で創業 | ★★ | ||
| 電動式発電機を完成、旧日本海軍の管理工場に指定 | ★ | |||
| 終戦後に営業を再開 | ★ | |||
| 因幡電機産業を設立、電気機器類の製造販売を開始 | ★★ | |||
| 1966〜1987年600人を100人ずつに割った1976年の分社 | 因幡弥太郎 | 福岡・東京・札幌・名古屋・広島に営業拠点を整備 | ★ | |
| 因幡弥太郎 | 事業部を因幡産業機器など5社に分社、グループ6社体制 | ★★★ | ||
| 因幡弥太郎 | 因幡産業機器の省力機器課を因幡電工として分離独立 | ★★★ | ||
| 因幡弥太郎 | 因幡電工の茨木工場を新設 | ★ | ||
| 1988〜2003年分社6社の再統合と、大阪証券取引所への上場 | 因幡弥太郎 | 分社した6社を合併、1本部4事業部に再編 | ★★★ | |
| 因幡弥太郎 | 奈良工場を新設 | ★ | ||
| 因幡弥太郎 | 大阪証券取引所市場第二部に上場 | ★ | ||
| 因幡弥太郎 | 茨城工場を新設 | ★ | ||
| 因幡弥太郎 | 産業機器の日本オートメを買収 | ★★ | ||
| 因幡弥寿雄 | 福岡工場を新設 | ★ | ||
| 因幡弥寿雄 | 東京証券取引所市場第二部に上場 | ★ | ||
| 因幡弥寿雄 | 東京証券取引所と大阪証券取引所の市場第一部に指定 | ★ | ||
| 出口健 | 電設資材卸の東光電機産業を買収 | ★★ | ||
| 2004〜2026年パトライト買収で自社製品を利益の柱に据えた転換 | 守谷承弘 | 春日電機の事業を譲受、SIAM ORIENT ELECTRICを子会社化 | ★★ | |
| 守谷承弘 | 報告セグメントを電設資材・産業機器・自社製品の3区分に再編 | ★★ | ||
| 守谷承弘 | 東京本社を開設、大阪との2本社体制 | ★ | ||
| 守谷承弘 | パトライトを買収、自社製品事業を拡大 | ★★★ | ||
| 守谷承弘 | 子会社SIAM ORIENT ELECTRICの新工場を建設 | ★ | ||
| 喜多肇一 | 東京証券取引所のプライム市場に移行 | ★ |
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事実根拠:出所(因幡電機産業)