因幡弥太郎

因幡電機産業・元代表取締役社長

Inaba Yataro(敬称略)

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社長就任 1968年
生年月日 —
学歴 今宮工業高校
出自 —
社長就任までの出自
出自

今宮工業高校を出て南海電鉄の変電所に勤めていた。1938年4月、仲間2名とともに大阪府堺市で特殊電動発電機メーカーの因幡電機製作所を興す。戦時体制がすでに敷かれ、家庭用の電気器具は作れず、手がけたのは電波兵器のコンバーター、ダイヤル、コネクターだった。1941年に電動式発電機を完成させ、旧日本海軍の管理工場に指定される。法人としての因幡電機産業は1949年5月、大阪市東成区に資本金139万円で設立した。翌1950年には一部の工場を残して流通業へ専念し、電球や配線器具を地方問屋へ売る卸へ移った。

社長に選ばれた経緯
抜擢

1938年の創業から経営を執ってきた因幡弥太郎氏には前任者がおらず、10年おきに大きな変革を加えるという方針を定めたのも同氏自身である。その一度目は1950年の流通業への専念で、二度目にあたる1965年にはテレビや冷蔵庫などの消費材から手を引き、取扱品目を設備材に限った。家電の比重が高かった当時、切り捨てたのは会社の稼ぎ頭だった。それでも撤退を選んだ理由は、家電業界の系列化と代金回収への不安だった。1974年には同業者を集めて全日本電設資材卸業協同組合連合会を作り、設立以来その会長を引き受けた。

在任中の主な施策
施策

1973年の石油危機後に渡米し、事業部ごとに会社を分ける制度を持ち帰った。従業員600人の規模で独立採算が働かなくなり、事業部と支店のもたれ合いが出ていた。1976年9月、3事業部と東京・大阪の両支店を5社へ分社し、社内発表から15日で新体制を発足させた。1975年9月期に313億円だった売上高は1978年9月期に5社合計で432億円へ伸び、1人当たり売上高は5,100万円から7,322万円へ44%増えた。1978年9月には省力機器課を因幡電工として分け、1988年4月には6社を合併して戻した。

在任の評価
評価
執筆予定
経歴 1938〜1994年
在任中の業績
就任前-
退任時-
変化-
就任前-
退任時-
変化-
参考文献 3件
参考文献

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