清水荘平氏は東京帝国大学の物理学教室で長岡半太郎のもとに実験を担当しながら、講義を聴いた[1]。当時は高度の精密技術を要するものが国産でできるはずはないというのが常識で、パイロメータと呼ぶ熱電気式高温度計は大学も工場も全量を外国から輸入していた[2]。故障すれば外国へ送り返し、買値の半額ほどの修理費を取られたうえ、早くて半年、長いときは一年以上たって返送された[3]。その間、研究は中断し、工場は計器のない運転を強いられた[4]。清水は理論が正しくやり方も正しいなら理論と実際は一致するはずだと考え、大学の故障したパイロメータを無断で分解して組み立て、修理してみせた[5]。
修理に成功して製作も可能だと確信した清水は、25歳だった1919年4月[6]、東京の麻布富士見町に研究所兼工場を設け、工業計器の国産化に着手した[7]。徹夜を重ねた実験の末に仕上げた高温計は、東京帝大冶金学教室の俵国一、東北帝大金属工学教室の本多光太郎、京都帝大冶金学教室の斎藤大吉のもとへ標準器として納められ、いずれの教授からも高い評価を受けた[8]。社名の北辰は北極星を指す[9]。大洋を渡る船乗りが指針としてきた不動の星にちなみ、社章も北極星をかたどった[10]。業界で不動の地位を占め、製品があらゆる産業の最も信頼できる指針となるようにという願いを社名に込めた[11]。
麻布の工場は本邦初の工業用温度計の製造と販売を始めた[12]。1920年には熱電高温指示計懸垂型・型式20、1923年には10のマイナス8乗の反照検流計と、新製品の国産化が続いた[13]。1922年には日本で最初の工業計器にあたる熱電温度計を完成させ、市販に移した[14]。もっとも清水は、工業計器の製作が誰にとっても精密な技術を要する難しい仕事で、自分のような若輩の乗り出す事業ではないと当初は考えていた[15]。手をつけてみると想像以上の難事業で、優秀な部品を手に入れるところから苦労が始まった[16]。どんなに入念な加工をしても材質が粗悪なら立派な製品はできず、材質が良くても加工が適切でなければ同じだと清水は考えていた[17]。
技術的に安定してきた製品を工場で使ってもらうため、清水は俵国一の紹介で川崎造船を訪ね、松方幸次郎社長に売り込んだ[18]。当時の葺合工場は国産自給を期して薄鉄板の製造を始めたばかりだったが、松方はモータもロールも重要な生産設備はすべて外国品を使っており、測温のような重要な計器に国産品は使えないと断った[19]。理由をたずねた清水に、松方は、外国品に劣らない一流の薄板を国産で自給することが日本にとって急務の大事業であり、優秀な設備を使わなければ優秀な製品はできないと説いた[20]。そのうえで、高くても使うから外国品に劣らないものを作れと清水に告げた[21]。
清水は京都帝大の斎藤大吉に腹蔵のない試験を依頼し、外国品に優るとも劣らないという評価を得た[22]。斎藤の紹介で再訪した葺合工場はパイロメータを1台購入したが、帰京した清水のもとへ、計器が85度狂っているという電報がすぐに届いた[23]。担当技師とともに京都帝大で厳密な試験にかけたところ、狂っていたのは経年変化を起こしたドイツ人技師長のスタンダードのほうだった[24]。この一件のあと川崎造船は逐次国産品へ切り換え、清水の製品を使うようになった[25]。同じころ売り込みを始めた住友製鋼では八回も九回も断られ、清水は路傍で泣いたのちに出直し、ついに受注をとった[26]。
事業の発展に伴い、北辰電機製作所は1926年に工場を目黒区洗足へ新築移転した[27]。洗足では当時最も困難とされていた電気抵抗式温度計や各種ガス分析計を完成させた[28]。1929年には商工省から研究奨励金の下付を受け、日本では製作不可能とされていた測深儀・探信儀・風信儀・測程儀などの航海機器の製作に乗り出した[29]。航空計器の製作に入ったのは1931年である[30]。1932年、ドイツのアンシュツ式転輪羅針儀の技術を導入し、東京計器のスペリー式を抑えて海軍に採用された[31]。この採用によって転輪羅針儀はほとんどすべての海軍艦艇に装備され、同社の生産額の大部分を占めた[32]。
創業から株式組織に改めるまでの15年間、北辰電機製作所は清水個人の企業として続いた[33]。1934年1月、清水は蒲田区下丸子に建てた工場へ移り、同年3月に資本金200万円の株式会社北辰電機製作所を設立して、工業計器の量産に入った[34]。工業計器への需要は当初微々たるものだったが、日中戦争が始まり太平洋戦争に突入するにおよんで、産業の重化学工業化とともに次第に増えた[35]。横河電機や島津製作所も製造に加わったなかで、終戦前の最盛期にあたる1943年から1944年にかけて、同社の生産額は国内需要量の5割から6割にあたった[36]。
清水は航空計器の量産のため、1938年に富士電機製造との共同出資で資本金1,000万円の富士航空計器をつくった[37]。1943年には資本金1,500万円の北辰航空兵器を設立し、両社を合わせた従業員は一万数千名に達した[38]。航空計器は当時の陸海軍需要の7割を占め、転輪羅針儀は日本海軍主要艦艇の需要の大部分を占めた[39]。一方、工業計器は戦時中でも産業の全般には行き渡っていなかった[40]。1945年4月、爆撃で本社工場の85%を失い、終戦を迎えた[41]。終戦時の資本金は1,000万円、年産額は2億円に達していた[42]。
1945年4月の爆撃で北辰電機製作所は施設の85%を失い、資本金1,000万円を残したまま終戦を迎えた[43]。設備の大半を焼いたため、戦後の再建は同業他社に比べて苦労が大きかった[44]。1946年、会社は民需に転換して工業計器と航海機器の製作を始め[45]、あわせて技術を温存する目的で16ミリ発声映写機の試作に着手し、同年に第1号機を完成させた[46]。ただし映写機を本格的に製品化するまでには、そこからさらに3年を要した[47]。1949年以後は外航船の建造が再開して転輪羅針儀の発注が戻り、工業計器類の生産を軸に据えて次第に立ち直った[48]。
1949年2月1日、旧法人は企業再建整備法により解散し、工業計器類を担う北辰電機製作所と、16ミリ映写機と航海機器を担う北辰精密工業の2社が第二会社として設立された[49]。登記上は新しい会社だが、2社はいずれも旧会社の全額現物出資によって分立しており、設備も製品の系列も旧社から連続している[50]。分立した時期はドッジ不況の最中で毎期の欠損に苦しみ、資金難から取引銀行の業務管理を受けた場面もあった[51]。1951年からは特需関連産業の需要が旺盛になり、被戦災工場の修復による能率向上と相まって経理面が改善し、工業計器の好調で黒字へ転じた[52]。1952年4月には北辰精密工業を吸収合併して資本金2,000万円となり、同年12月の有償無償各1の3倍増資で6,000万円まで積み増した[53]。
国内の工業計器生産額は、1949年の9,774万円から1950年に5億1,647万円、1951年に9億2,874万円、1952年に13億1,862万円へ伸び、1953年は20億円と推定された[54]。特需で受注が増えた各産業が設備を広げたこと、企業合理化の手立てとして計器による製品の質的向上と人件費・資材の節約が重んじられたことが、伸びを押し上げた[55]。北辰電機製作所はこの市場で全国生産高の2割を占め、横河電機・富士電機・島津製作所と小メーカー十数社が並ぶなかで首位に立った[56]。もっとも需要が本格的に増えたのは1951年からの2、3年に限られ、戦後の各社進出で受注競争は激しく、価格は1951年末から横ばいを続けていた[57]。
1953年に航空計器の生産を再開し[58]、翌1954年4月5日、北辰電機製作所は東京証券取引所へ株式を上場した[59]。上場時の資本金は1億6,000万円、上場株式数は320万株で、本社工場は東京都大田区下丸子町312番地にあった[60]。生産金額の比率は工業計器類および自動制御装置が68.6%、16ミリ映写機が16.5%、航海機器が13.9%、航空計器が1.0%で、工業計器がすでに生産額の3分の2を超えていた[61]。従業員は1953年9月末で600人、うち約40人が技術者である[62]。戦災施設の復旧に力を割いていたため、配当を始められたのは1953年3月期だった[63]。1954年5月の総会には第3次資産再評価案を提出する予定で、再評価余裕額は約1億8,000万円と見込んでいた[64]。
輸入された工業計器は、プラントに付属して入るものを含めて年間7億円ほどに達し、国内市場を圧迫していた[65]。産業設備投資に計器が占める比率は米国の4%に対して日本が1%程度にとどまり、そこには賃金水準の違いが間接的に響いた[66]。清水荘平社長は、工業計器の製作は誰がやっても精密な技術を要する難しい仕事で、自分のような若輩が乗り出すべき事業ではないと思っていたが、誰かがやりとげなければならない重要な事業であればこそ思い切って国産化を志したと述べている[67]。手をつけてみると想像以上の難事業で、まず優秀な部品を手に入れることから苦労した[68]。清水社長は、どれほど入念緻密に加工しても材質が粗悪なら立派な製品はできないとして、材質の面になお多くの問題が残ると見ていた[69]。
1956年から1957年にかけては、オートメーション景気と造船ブームが受注を押し上げた[70]。1956年9月期は前期に比べ4割の増収と8割の増益になり、配当を3分引き上げて1割5分とした[71]。戦災で設備の大半を失い、同業他社より重い再建を背負った会社が、ここで本格的な展開期に入った[72]。1957年3月期の総受注額は12億から13億円に達する見込みで、これを消化する生産能力も拡充したことから、通期の売上高は10億円前後と見られた[73]。工業用計器の需要が予想以上に旺盛で生産設備の再拡充を迫られ、1957年1月末払込みで2割無償を付けた倍額増資を行い、資本金を5億2,800万円へ引き上げた[74]。
1932年のドイツ製アンシュツ転輪羅針儀に始まった技術導入は[75]、戦後に相手先と分野を広げた。1954年、航海機器の空冷式転輪羅針儀についてドイツのチェプラート社と、航空計器のオートシンとマグネシンについて米国のベンディックス社と、それぞれ技術援助契約を結んだ[76]。1956年にはジャイロ水平儀と液体流量計をベンディックス社から、燃量計を米国のリキッドメーター社から導入し[77]、1957年に工業計器で米国のバートン社と[78]、1958年に各種の流量計・濃度計・粘度計で米国のフィッシャー社と契約した[79]。1960年には質量分析計をベンディックス社から入れ、さらにデータ処理装置について米国のIBMと特許権実施契約を結んだことで、導入の対象は計器そのものから情報処理にまで及んだ[80]。
1962年、オートメーション機器の専用工場が完成した[81]。しかし業績は同じ年に折り返す。売上高は1961年9月期の28億8,135万円、1962年3月期の28億5,053万円から、1962年9月期に19億6,962万円、1963年3月期には19億612万円へ落ちた[82]。税込利益は2億8,025万円、2億5,413万円と来たあと1962年9月期に2,327万円まで細り、1963年3月期は308万円で、売上利益率は9.7%から0.2%になった[83]。有価証券報告書の税込純利益で見れば、1963年3月期は5,010万円の損失である[84]。資本金は20億円のまま据え置かれ、資本金回転率は年3.8回から1.1回へ下がった[85]。
1963年3月期の販売実績は、工業計器が13億2,533万円、航空計器が2億1,332万円、航海機器と磁気ドラムが合わせて2億3,996万円、映写機が1億2,748万円で、合計19億612万円だった[86]。生産比率でみると工業計器73%、航空計器11%、航海機器8%、磁気ドラム2%、映写機6%となり、上場時の68.6%からさらに工業計器へ寄った[87]。従業員は1,939人[88]。金融系列は住友系で、主取引銀行には住友銀行と住友信託銀行、日本興業銀行に加えて協和銀行と横浜銀行が並ぶ[89]。工業計器の専業メーカーとしては横河電機に次ぐ業界2位につけた[90]。1963年には工業計器の技術についてルーマニアのマシンインポート社と技術援助契約を結び、技術を導入する側から出す側にも回った[91]。
1964年時点の北辰電機製作所は、着手中の事業計画を一つも持たなかった[92]。1963年3月期の販売実績は合計19億612万円で、うち工業計器が13億2,533万円、航海機器と磁気ドラムが2億3,996万円、航空計器が2億1,332万円、映写機が1億2,748万円を占めた[93]。外国製の置き換えは計器ごとに提携先を分けて進めており、1954年には航海機器の空冷式転輪羅針儀でドイツのチェプラート社と、航空計器のオートシン・マグネシンで米国ベンディックス社と技術援助契約を結んでいた[94]。社長は1934年に就任した創業者の清水荘平氏が務めた[95]。
1960年、北辰電機は日本能率協会の経営診断を受け、製品がそれぞれ固有の市場を持つという勧告に沿って営業と製造を一体化し、事業部制を敷いた[96]。ところが事業部長の関心は傘下事業部の利益に向かい、製品開発も短期で成果の出るものへ偏ったため、営業・技術・製造をつなぐ流れは良くなったものの、小じんまりとして技術の会社に相応しくないという理由で、同社は再び横割りの組織へ戻した[97]。受注を選べた売り手市場が買い手市場に変わってからは営業と製造技術の間で衝突が絶えず、1962年から1963年の深刻な不況で業績も振るわないなか、労働組合の賃金要求は激しさを増していた[98]。
1964年後半から1965年初めにかけて組織の全面的な見直しに入った北辰電機は、数人のチームに社内の実情を調査させ、米国の実際も現地で調べたうえで対策案を作らせ、経営に本当に必要な機能かどうかを既存の部門にこだわらず洗い直した[99]。24部・73課・134係あった組織は、約20の機能単位へ置き換えられた[100]。部長・課長の名称は消え、係長級から取締役級までが担当と呼ばれ、機能ごとの責任者がその運営の最高責任者として権限を持った[101]。稟議の件数は大幅に減った一方で部門間の通知と報告は激増し、売上高が100億円を超えてからも同社はこれを従来と同じ人員でこなした[102]。
1958年、北辰電機は米フィッシャー&ポーター社と技術提携を結んだ[103]。山武は1952年から1953年にハネウェルと、横河は1955年にフォックスボロと組んでおり、伝送信号のレベルは提携先ごとに割れ、フォックスボロが10〜50ミリアンペア、横河が5〜25ミリアンペア、山武が4〜20ミリアンペア、北辰が2〜10ミリアンペアを採る[104]。1965年、北辰電機はフィッシャー&ポーター社と共同でDDCを発表しており、横河電機のYODIC500は1966年、山武のH20コンピュータシステムは1968年と、この分野で北辰が先んじた[105]。国産のプロセス用電算機第1号となるHOCシリーズと、日本初のDDCシステムはいずれも同社の開発による[106]。
1972年3月以降、社内には総評全国金属労働組合東京地方本部北辰電機支部と、全国金属産業労働組合同盟に加盟する北辰電機労働組合の二つが併存し、1978年時点の組合員数は前者が約44名、後者が約1,850名にのぼった[107]。1974年12月24日の衆議院法務委員会では、青柳盛雄議員が同社の規模を資本金30億円、従業員約2,300名と述べた[108]。支部側の申し立てを受けて、東京都地方労働委員会は1976年12月7日に一部救済を命じ、考課点の是正と夏季賞与の差額支払、11名を1971年6月にさかのぼる昇格、10日間のポスト・ノーティス掲示を主文に掲げた[109]。会社は命令の取り消しを求めて提訴し、1981年10月22日、東京地方裁判所は1名を1971年6月にさかのぼって主事補に昇格させ差額を支払う部分を除き、命令を取り消した[110]。
1977年、山武ハネウェルが、業界の雄と呼ばれてきた横河電機製作所を経常利益で抜き、工業計器業界の首位に立った[111]。同業他社がこれを多角化の成功と受け止めたとおり、山武は工業計器部門が売上高の44.6%にとどまり、電子機器や空調制御といった非工業計器部門が全体の5割以上に達した[112]。これに対し横河は工業計器が8割弱、北辰電機は同じく7割で、多角化の度合いでは両社とも山武に後れを取った[113]。計測制御の分野で北辰電機は、横河電機と山武ハネウェルに次ぐ専業3大メーカーの一角を占めていた[114]。
1982年9月、横河電機製作所と北辰電機製作所は翌年4月の合併で合意した[115]。北辰電機は多角化で両社に後れ、工業計器のデジタル化への対応でも遅れて、売上高が伸び悩んでいた[116]。加えて東京芝浦電気などの総合電機メーカーが工業計器分野に力を入れ始めており、このままではジリ貧となり業績不振に追い込まれるのは避けられないと判断して合併に合意したとみられた[117]。横河の側も、1980年代に入って国内のプラント新設が飽和すると見越して海外に市場を求めていたところへ、半導体やコンピュータの技術と資本力で優る総合電機メーカーが国内外の工業計器分野へ進出し、脅威となっていた[118]。横河は業界3位の北辰電機との合併を、危機感を共有したトップ同士の信頼のもとで決めた[119]。
1983年4月1日、両社は横河北辰電機株式会社として発足し、社長には横河正三氏、副社長には合併時の北辰電機社長だった清水正博氏が就いて、新会社の社員は約5,800人、年間売上高は約1,200億円を見込んだ[120]。横河社長は、合併比率は資産と株価から決めたと断ったうえで、人材と技術は対等だと社員に向けて述べた[121]。合併時点の北辰電機は従業員約2,200人、1981年度の売上高は389億円で、工業計器が74.6%、舶用機器が13.4%、航空計器が8.3%、情報機器などのその他が3.7%を占めた[122]。
| 時代 | 年月 | 社長・CEO | 出来事 | 重要度 |
|---|---|---|---|---|
| 1919〜1945年清水荘平が挑んだ工業用温度計の国産化と軍需への傾斜 | 清水荘平が麻布富士見町に研究所兼工場を開設 | ★ | ||
| 工業用温度計の製造販売を開始 | ★★ | |||
| 各種航海機器の製作を開始 | ★★ | |||
| ドイツのアンシュツ式転輪羅針儀の技術を導入 | ★★ | |||
| 株式組織に改組 | ★ | |||
| 蒲田区下丸子に本社工場を移転 | ★ | |||
| 戦災により施設の85パーセントを失う | ★★★ | |||
| 1946〜1963年工場の85%を失った再建から工業計器73%の専業へ | 民需に転換 | ★★★ | ||
| 工業計器と航海機器の製作を開始 | ★ | |||
| 企業再建整備法により解散 | ★ | |||
| 第二会社として北辰電機製作所と北辰精密工業を設立 | ★ | |||
| 北辰精密工業を合併 | ★ | |||
| 航空計器の生産を再開 | ★ | |||
| ドイツのチェプラート社と技術援助契約を締結 | ★★ | |||
| 東京証券取引所に上場 | ★ | |||
| IBMとデータ処理装置の特許権実施契約を締結 | ★★ | |||
| オートメーション機器専用工場が竣工 | ★ | |||
| 1964〜1983年部課制を廃した専業3位、1983年に横河電機と合併 | 清水荘平氏が会長に就任 | ★ | ||
| 大阪万博の空調制御にプロセス用計算機が採用 | ★★ | |||
| 電子式工業計器EKシリーズを発表 | ★★ | |||
| 横河電機製作所に吸収合併 | ★★★ | |||
| 横河北辰電機が発足 | ★ |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(北辰電機製作所)