日本電池の歴史は設立の22年前、島津製作所から始まる。二代目島津源蔵が蓄電池の製作に着手したのは1895年で、当時の蓄電池は全量が輸入に頼り国産は至難とされていた[1]。1905年の日本海海戦では、工場の予備電源として据えていた据置用蓄電池を携帯用に組み替えて海軍へ供出し、これが軍艦の無線電信機の電源となった[2]。1908年には標準型を在庫し「GS」の商標で一般需要に応じるまでになる[3]。1917年、この蓄電池工場が独立して日本電池が設立された[4]。島津家の個人経営では資金にも販売にも限界があり、三菱・大倉・島津の三系が出資して資本金350万円の会社組織へ移した[5]。当初は社長制を置かず、源蔵が代表専務取締役として主宰している[6]。大阪では1918年に湯浅七左衛門が湯浅蓄電池製造所を創業し[7]、80年以上続く二強体制の原型がここで決まった。
発足当初の納入先は海軍省・鉄道省などの官公需が中心で、民需への参入は1919年の自動車用電池の発売以降である。商売の建て付けを組み替えたのは大正末の反動不況だった。ワシントン会議後の軍縮で官庁予算が削られ、1924年下半期の総販売高は前期の約5分の1まで落ち込んだ[8]。鉛価は騰貴し同業者間の競争も激化して、二割配当は一割二分へ減じた[9]。官需を主とする商売では立ち行かないと見た経営陣は、民間方面へ積極的に進出する方針へ変えた[10]。東京・福岡・大阪・名古屋・札幌・広島に販売機関を置き、特約店網を全国へ広げ[11]、フォードとゼネラルモーターズが日本に組立工場を設けた際には両社の商標でGS蓄電池を納入する特約も結んでいる[12]。この転換で得た民需の基盤は戦後まで効き、1953年の日本電池は資金需要を収益で賄える会社と評され、借入金を返して実質無借金になっている[13]。
戦後の自動車普及を機に製造方式を機械化し、量産が加速した[14]。1965年度、日本電池はわが国の自動車用電池総生産高の36%にあたる1万8,720トンを生産し、二位以下を大きく引き離す業界一位に立つ[15]。1953年時点でも蓄電池35%・安全灯65%・整流器90%でいずれも首位である[16]。需要は新車用と補修用がほぼ半々で、1年から1年半で交換を要する消耗品だが、収益を支えたのは補修用だった[17]。新車向けは値下げ圧力が強く、1960年からの3年で30%、1963年からはさらに20%の値下げを求められ、鉛価も高騰して、売上高が10年で約4倍になる間に税引純益は1.7倍にとどまった[18]。町の修理工場は買い手の交渉力が弱く、利鞘が厚かったためである。岡田辰三社長は1967年刊の対談で[19]『こうして鉛電池工業は、自動車用電池を中心に、近年大きく成長してきたわけです』[引用元]と述べ、鉛電池の時代は燃料電池が経済的になるまであと10年は続くと見通した[20]。
市場の異変は、社内の空気の変化としても現れた。1993年、日本電池会長の寿栄松憲昭は、会長職に就いて時間ができたのを機に課長クラスとの懇談会を始めている。月2回、25人ずつ集めて自身の経験を話す会で、動機はものづくりを大切に思う気持ちが希薄になっているのではないかという危機意識だった[21]。技術者が現場に出るのを嫌がり、計算機の画面上で仕事を済ませようとする者が増えている、それでは技術者の自己満足で終わる製品しか生まれない、というのが会長の見立てである[22]。寿栄松自身は若い頃、炭坑のトロッコ用電池の容器が割れるという苦情を何十回も受け、誓約書を書いて坑内に入り、脱線したまま枕木の上を走らせる実際の使われ方を確かめて設計を改めた経験を持つ[23]。現場から遠ざかることへの警戒は、稼ぎ方が変わり始めた時期の実感と重なっていた。
1990年代に前提が崩れた。自動車修理のチェーン化が進み、カー用品店とディーラー網が台頭したことで、補修向けにも小売側から強い値下げ圧力がかかる。従来の町の修理工場は価格交渉力の弱い買い手であり、そこに鉛蓄電池メーカーが依存できる構造が成立していた。完成車の性能向上で鉛バッテリーの寿命が延び、交換サイクルが長期化したことも需要を削った。国内補修用市場の規模は1993年度の706億円から2002年度には599億円へ縮小し[24]、同じ期間に補修用鉛蓄電池の単価は約6,000円から約3,600円へ、10年で約40%下落する[25]。数量の縮小と単価の下落が同時進行し、補修で稼ぐモデルは、10年を待たずに土台から崩れた形だった。
日本電池は1999年3月期に35億円の最終赤字へ転落し[26]、藤沢工場の生産ラインを閉鎖した。上場後初の最終赤字であり、補修市場の構造変化が直接数字として現れた初めての決算でもある。もう一方のユアサコーポレーション(1992年に湯浅電池から商号変更、1998年にリチウムイオンポリマー二次電池を開発)も同じ市況に直面していた。国内に2つの鉛蓄電池メーカーが並び立つ余地はすでに失われており、両社は競合関係を解消する道を探ることとなる。通常の業界再編は強い側が弱い側を吸収する形で進むが、鉛蓄電池の再編は、買い手が売り手を吸収する形ではなく、双方が減産のために手を組むという鉛蓄電池ならではの異例の構図を取った。
統合の相手となる湯浅は、日本電池とは別の歩き方をしてきた会社である。1953年時点の湯浅蓄電池は高槻を主力工場とし、小田原は極板だけを作る二工場体制で[27]、1950年初めには悪条件が重なって業績不振に陥っていた[28]。ドッジ不況では帝国銀行の管理下に置かれ、社長の湯浅佑一が会長へ退く局面まで経験している[29]。1955年には乾電池部門と合併して湯浅電池となり、株式を新規上場した[30]。同じ時期、両社は蓄電池の本邦二大メーカーと並び称されている。湯浅佑一は関西経営者協会の会長も務め、学閥を持たない実力主義と社内学校による人材育成を早くから掲げた経営者だった[31]。技術で押す京都と人づくりで押す大阪という、性格の異なる2社が半世紀後に一つの持株会社の下に入る。
2003年7月、日本電池とユアサコーポレーションは経営統合の基本合意書を締結した[32]。統合の実体は水平合併による規模拡大ではなく、国内ラインの停止と工場閉鎖による減産である。2004年4月に共同持株会社ジーエス・ユアサコーポレーションが発足[33]し、両社を完全子会社として傘下に置いた。同時に東証一部・大証一部に上場した。GSとユアサの販社網・工場を並べたうえで、どちらをどう畳むかが最初の経営課題となる。経営陣は統合時に、国内では固定費削減(高槻工場閉鎖・希望退職・販社集約)、海外ではアジアを中心とする設備投資、研究開発ではリチウムイオン電池の開発強化を3つの柱として公表した。統合直後の有報も、補修製品では国内同業に加え低コストの海外勢が加わり競争が激化していると記した[34]。減産と次世代投資を抱き合わせた統合方針は、以後の20年を貫く経営の基本型となった。
統合初年度(2005年3月期)は最終赤字147億円。特別損失として固定資産除却損・事業再編費用など計76億円を計上した。翌2006年3月期には子会社退職年金特別費用22億円、高槻工場跡地再開発関係費用41億円など、特別損失の累計は169億円に達した[35]。構造改革計画は適正人員体制の早期実現を掲げて国内グループ全体で600人の募集を見込んだ[36]。高槻工場の閉鎖は湯浅側の象徴的拠点を畳む判断であり、統合比率のうえでもユアサ側により重い痛みを要求した形である。資産売却で投資有価証券売却益63億円などを立て、かろうじて黒字を確保した。既存事業を削ることが統合の本題であり、収益面での即効性は経営陣自身も期待しなかった。2期続けて特別損失を計上する体力負荷が、次の柱を探す動機をいっそう強めた。
統合で体力を絞り込んだ後、経営陣は次の柱をリチウムイオン電池に定めた。ただし単独投資ではなく完成車メーカーとのJV方式を取る。JVにすれば投資額と開発リスクを折半でき、納入先を持った状態で量産設備を立ち上げられるためである。後発参入の鉛蓄電池メーカーが、車載電池という新市場で日系大手・韓国勢と張り合うには現実的な選択肢だった。2005年10月にインドのタタグループと合弁でTata AutoComp GY Batteries[37]、2007年12月に三菱商事・三菱自動車とリチウムエナジージャパン(LEJ)[38]、2009年4月にホンダとブルーエナジー(BEC)を設立した。[39]LEJはPHEV・EV向け、BECはHEV向けと顧客別に棲み分ける設計で、1社ずつ相手を変える形で顧客側にも専任体制を敷いた。
2009年7月・8月には一般募集増資と第三者割当増資で資本金を330億円に引き上げ[40]、金融危機直後の局面でリチウムイオン電池への投資原資を得た。リーマン・ショック直後の株価で増資を決めた判断は、LiB投資を後ろ倒しにできない事情を示している。2012年3月には滋賀県栗東市にLEJ第一工場棟を竣工し[41]、車載用リチウムイオン電池の国内量産が始まる。鉛蓄電池で稼いだキャッシュをリチウムへ振り向けるという、以後10年以上続く事業モデルの原型がここで固まった。2014年3月には2019年満期のユーロ[42]円建転換社債型新株予約権付社債を発行し、250億円規模の追加資金を調達した。増資・社債・JVの3本立てで投資負担を分散する動きが続いた。
リチウムへ仕込む一方で、鉛蓄電池の収益基盤にも手を打ち続けた。2013年にタイのSiam GS Batteryを連結子会社化[43]、2015年10月にトルコのInci Aku Sanayiを持分法適用関連会社にし、社名をInci GS Yuasaへ変更する。[44]鉛蓄電池は重量と物流費の比率が高く、地産地消で現地工場を持つことが輸出よりも合理的な品目である。海外セグメントは2014年3月期以降、欧米地域だけで売上1,600億円超を占め、2015年3月期には売上1,838億円・営業利益108億円と、国内鉛蓄電池の縮小を地産地消の海外拠点が補う構図に移った。2015年12月にはSiam GS Battery経由でマレーシアのYuasa Battery Malaysiaも連結子会社化し[45]、アセアン4拠点体制を整える。国内の縮小と海外の拡張が同じ期間に並行した。
2016年10月にはパナソニックの鉛蓄電池事業を160億円で譲受し[46]、パナソニックストレージバッテリーをGSユアサエナジーへ改称して子会社化した。パナソニックが撤退した鉛蓄電池事業を引き受けた形で、国内の鉛蓄電池メーカーは、第1期末に二強体制への集約を済ませたうえで、さらに一段の再編を経た形になる。2017年10月にはハンガリーにGS Yuasa Hungaryを設立して[47]欧州自動車向けの現地供給体制を整え、2018年9月にはGSユアサエナジーを100%子会社化した。[48]2014年6月に村尾修が依田誠から社長を引き継ぎ、以後9年務めた[49]。国内の固定費削減と海外の地産地消投資が並行した時期で、やらないことを決めて選択肢を絞る判断を積み重ねた。
2017年3月期から始まる新セグメント区分では、自動車電池と産業電池の両方が安定的に利益を出した。自動車電池は売上2,382億円・営業利益161億円(2017年3月期)[50]、産業電池は売上727億円・営業利益87億円で、これとは別に車載用リチウムイオン電池は売上393億円ながら利益はほぼゼロだった。[51][52]連結営業利益は2014年3月期の181億円から2019年3月期の226億円まで拡大した。鉛蓄電池という成熟産業を抱えたままでも一定の利益成長を保てる構図が、出来上がっていた。補修市場の縮小した国内では自動車電池事業の利益寄与度が相対的に下がり、Inci GS Yuasa(トルコ)・Siam GS Battery(タイ)といった地産地消の海外拠点が連結利益の底上げを担う構造へ移った。第1期の稼ぎ方が海外で引き継がれた形である。
一方、リチウムイオン電池は同時期、JV会計の性質上ほとんど連結セグメント上に姿を見せない。JV持分法の下ではLEJとBECの売上は外部売上として計上されず、利益も持分法投資損益としてまとめて表示される。稼ぎ頭は依然として鉛蓄電池で、LiBは投資と研究開発のフェーズにとどまった。社長の村尾修は後に『海外の鉛蓄電池メーカーと比べるとまだまだ稼げる』と、既存事業の伸びしろに言及している(決算説明会[53](2024年3月期))。鉛で稼ぎLiBへ仕込むという第2期の戦略は、短期の収益性のうえでは成功したが、LiBを事業として回収する段階には至らなかった。車載LiBは長い仕込み期間を必要とし、第2期の段階では投資回収の目途は立っていない。
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|---|---|---|---|---|
| 島津源蔵が京都で鉛蓄電池の国産化に着手 | ★★ | |||
| 日本海海戦に際し海軍へ供出した蓄電池を軍艦の無線電信機の電源に採用 | ★★ | |||
| 標準型の在庫販売と「GS」商標の使用を開始 | ★ | |||
| 1917〜2003年鉛蓄電池の二強が需要構造の崩壊に直面した時代 | 日本電池を設立 | ★ | ||
| 湯浅蓄電池製造を設立 | ★ | |||
| 自動車用蓄電池の製作・販売を開始 | ★★ | |||
| 島津源蔵が島津式鉛粉製造法を発明し特許を出願 | ★★ | |||
| 米国USL社へ島津式亜酸化鉛粉製造法の特許権を譲渡 | ★★ | |||
| 日本フォード・日本ゼネラルモータースへ自動車用電池の納入を開始 | ★ | |||
| 島津源蔵氏が社長を辞任し山岡景範氏が社長に就任 | ★ | |||
| 山岡景範氏が会長、岡田辰三氏が社長に就任 | ★ | |||
| 藤沢工場が竣工し自動車用電池の一貫生産工場として操業を開始 | ★★ | |||
| 2004〜2018年鉛で稼いだキャッシュをリチウムへ振り向けた賭けの15年 | 日本電池とユアサ コーポレーションの株式移転による経営統合と、高槻事業所の閉鎖・希望退職による減産 1917年設立の日本電池と1918年設立の湯浅蓄電池製造を源流とするユアサ コーポレーションは、2003年7月に経営統合の基本合意書を締結し、2004年4月に株式移転で共同持株会社ジーエス・ユアサ コーポレーションを設立した。統合の中身は規模拡大ではなく、高槻事業所の閉鎖と600人規模の希望退職による固定費と生産能力の圧縮であった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 東京証券取引所一部・大阪証券取引所一部に上場 | ★ | |||
| Tata AutoComp GY Batteriesを合弁設立 | ★ | |||
| 依田誠 | 三菱商事・三菱自動車と合弁でリチウムエナジージャパン(LEJ)を設立 | ★★ | ||
| 依田誠 | 完成車メーカーとの過半出資合弁による車載用リチウムイオン電池事業への参入 GSユアサは2007年12月に三菱商事・三菱自動車工業とリチウムエナジー ジャパンを、2009年4月に本田技研工業とブルーエナジーを設立し、車載用リチウムイオン電池へ参入した。いずれもGSユアサが過半を出資して主導権を握る形式で、依田誠社長は合弁交渉の前提条件としてマジョリティを要求したと語っている。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 依田誠 | LEJ第一工場棟を建設・生産開始 | ★ | ||
| 依田誠 | 村尾修氏が社長に就任 | ★ | ||
| 村尾修 | トルコInci Akuを持分法適用関連会社化(Inci GS Yuasaに商号変更) | ★ | ||
| 村尾修 | パナソニックの鉛蓄電池事業の譲受とパナソニック ストレージバッテリーの子会社化 2015年10月29日、GSユアサはパナソニックの鉛蓄電池事業を譲り受けることで基本合意した。国内のパナソニック ストレージバッテリー株式85.1%に加え、瀋陽・インド・タイの鉛蓄電池関連事業を対象とし、2016年10月3日に株式取得を完了して同社をGSユアサ エナジーへ改称した。村尾修社長のもとで進めた国内鉛蓄電池の集約の一環である。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 村尾修 | ハンガリーにGS Yuasa Hungaryを設立 | ★ | ||
| 2019〜2024年車載用リチウムイオン電池が連結セグメントに姿を現した5年 | 村尾修 | サンケン電気の社会システム事業を譲受(GSユアサインフラシステムズ) | ★ | |
| 村尾修 | ホンダと合弁でHonda・GS Yuasa EV Battery R&D(HGYB)を設立 | ★★ | ||
| 村尾修 | GSユアサがLEJの事業を譲受 | ★★ | ||
| 阿部貴志 | 阿部貴志氏が社長に就任 | ★ |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(GSユアサ)