第1章 年〜年

ソフトバンクグループ:ソフトウェア卸の日本ソフトバンク設立と出版への多角化

ソフト卸の創設から月刊Oh! PCの収益化へ

1981年〜1年半の市場調査を経たパソコンソフト卸の創設

1981年9月、24歳の孫正義氏は東京都千代田区四番町に日本ソフトバンクを設立し、パーソナルコンピューター用パッケージソフトの流通業を始めた。創業の地は福岡市である。孫氏は米国カリフォルニア大学バークレー校の在学中、事業資金を稼ぐ商品の案を1日1件考える日課を課し、1年で約250件を書き溜めた。そのうちの1件だった電訳機の試作機を1978年8月にシャープ副社長の佐々木正氏へ持ち込み、3日後に技術譲渡契約を結んで1億円を得ている。売り込みでは米国から40社余りへ手紙を出し、本命と定めたシャープを最後に回した。業種の選定では、大きな資本を要しないこと、成長性が高いこと、社会的に有意義であることを条件に数業種を選び、社員2人を雇って市場と技術を1年半調べたうえで、パソコンソフトの流通へ絞り込んでいる。

  • 日経ビジネス(1995年2月13日)
    • [1]孫正義は1957年8月11日生まれ。1981年9月に日本ソフトバンクを設立し社長に就任(設立時24歳)
  • ソフトバンクグループ 有価証券報告書(2025年3月期)【沿革】
    • [2]1981年9月 日本ソフトバンク設立(東京都千代田区四番町)・パッケージソフト流通業を開始
  • ソフトバンク(ソフトバンクG)の歴史
    • [3]創業の地 福岡市
  • 日経ビジネス(1987年1月19日)
    • [4]カリフォルニア大学バークレー校在学中、1日1件の事業アイデアを課し1年で約250件を考案
    • [5]1978年8月 電訳機の試作機をシャープ副社長 佐々木正へ持ち込み、3日後に技術譲渡契約・1億円を取得
    • [6]米国から40社余りの日本企業へ手紙を出し、8社に絞って感触を確かめ、本命のシャープを最後に回した
    • [7]大資本不要・成長性・社会的意義等の条件で数業種を選び、社員2人を雇って市場と技術を1年半調査

当時のパソコンソフト市場には、メーカーから小売店へ商品を届ける卸機能を担う専業者がほとんど存在せず、利用者は複数のマイコンショップを探し回らなければ目当てのソフトに辿り着けなかった。孫氏は書店で本を買うようにソフトを届ける中間流通として事業を設計している。ソフトメーカーの多くは社員数人規模の小さな会社で、全国を回る営業人員を抱えていなかった。小売店の側もパソコン本体や家電の販売と兼業する店がほとんどだったため、品揃えの選定から陳列方法までを代わりに引き受ける卸の存在は双方から歓迎された。創業時の社員は孫氏を含め3人で、販売網もブランドも持たない状態からの出発だった。中間マージンを得るには、メーカーからの仕入れ値を今までより下げさせ、小売店への卸値は逆に上げる必要があり、双方を説き伏せて取引の慣行そのものを変えさせなければならなかった。日本で最初のパッケージソフト専業の流通会社であった。

  • 近代中小企業(1983年6月)
    • [8]ソフト卸売機能の不在(利用者は複数のマイコンショップを探し回る状態)
    • [9]書店で本を買うようにソフトを届ける卸売としての事業設計
  • 日経ビジネス(1987年1月19日)
    • [10]ソフトメーカーは小規模で全国営業の余力が無く、小売店もハード・家電と併営。品揃えと陳列法を担う卸は双方に歓迎された
    • [11]創業時の社員は孫正義を含め3人、販売網もブランド力も無い状態
    • [12]中間マージンを取るためメーカーから従来より安く仕入れ小売店へ高く卸す必要があり、双方を説得して商売の仕方を変えさせる参入だった
  • 証券 50(3)(588)(1998年1月)
    • [13]日本初のパーソナルコンピュータ用パッケージソフトの専業流通会社として発足

資金の調達は難航した。ソフトが担保にならないため創業時の流通業へ融資する銀行は無く、第一勧業銀行が相談に応じたものの行内の手続きが進まず、シャープの佐々木正氏らが個人的に保証する形でようやく実行に至っている。事業の側にも制約があった。創業当時すでに卸会社は2、3社あったが、そのすべてがパソコン関連雑誌の出版社の事業部門であり、日本ソフトバンクと取引したソフトメーカーは雑誌への広告掲載を拒まれた。広告を絶たれることはソフトメーカーにとって致命的で、放置すれば取引先ごと共倒れになる。流通に専念するかぎり、商品の供給元を競合の出版社に握られ続ける構造であった。

  • 日経ビジネス(1995年2月13日)
    • [14]ソフトは担保にならず融資が付かず、第一勧業銀行の行内手続きも進まないなか、シャープの佐々木正らの個人保証で融資が実行された
  • 日経ビジネス(1987年1月19日)
    • [15]創業当時の卸会社2〜3社はすべてパソコン関連出版社の事業部門で、日本ソフトバンクと取引したソフトメーカーは広告掲載を拒否された
    • [16]広告掲載の拒否はソフトメーカーにとって致命的で、放置すれば共倒れになると認識されていた
参考文献[1]-[16]
  • 日経ビジネス(1995年2月13日)
    • [1]孫正義は1957年8月11日生まれ。1981年9月に日本ソフトバンクを設立し社長に就任(設立時24歳)
    • [14]ソフトは担保にならず融資が付かず、第一勧業銀行の行内手続きも進まないなか、シャープの佐々木正らの個人保証で融資が実行された
  • ソフトバンクグループ 有価証券報告書(2025年3月期)【沿革】
    • [2]1981年9月 日本ソフトバンク設立(東京都千代田区四番町)・パッケージソフト流通業を開始
  • ソフトバンク(ソフトバンクG)の歴史
    • [3]創業の地 福岡市
  • 日経ビジネス(1987年1月19日)
    • [4]カリフォルニア大学バークレー校在学中、1日1件の事業アイデアを課し1年で約250件を考案
    • [5]1978年8月 電訳機の試作機をシャープ副社長 佐々木正へ持ち込み、3日後に技術譲渡契約・1億円を取得
    • [6]米国から40社余りの日本企業へ手紙を出し、8社に絞って感触を確かめ、本命のシャープを最後に回した
    • [7]大資本不要・成長性・社会的意義等の条件で数業種を選び、社員2人を雇って市場と技術を1年半調査
    • [10]ソフトメーカーは小規模で全国営業の余力が無く、小売店もハード・家電と併営。品揃えと陳列法を担う卸は双方に歓迎された
    • [11]創業時の社員は孫正義を含め3人、販売網もブランド力も無い状態
    • [12]中間マージンを取るためメーカーから従来より安く仕入れ小売店へ高く卸す必要があり、双方を説得して商売の仕方を変えさせる参入だった
    • [15]創業当時の卸会社2〜3社はすべてパソコン関連出版社の事業部門で、日本ソフトバンクと取引したソフトメーカーは広告掲載を拒否された
    • [16]広告掲載の拒否はソフトメーカーにとって致命的で、放置すれば共倒れになると認識されていた
  • 近代中小企業(1983年6月)
    • [8]ソフト卸売機能の不在(利用者は複数のマイコンショップを探し回る状態)
    • [9]書店で本を買うようにソフトを届ける卸売としての事業設計
  • 証券 50(3)(588)(1998年1月)
    • [13]日本初のパーソナルコンピュータ用パッケージソフトの専業流通会社として発足

1982年〜月刊Oh! PCへの宣伝投入と出版の柱化

1982年5月、日本ソフトバンクは月刊"Oh! PC"と月刊"Oh! MZ"を創刊し、出版事業へ参入した。出版の経験は社内に無く、孫正義氏自身がソフトの営業の傍ら編集長を務め、記事と広告を集めて2か月で創刊号を出すという急造の体制であった。ほかのパソコン雑誌がいずれも10万部以上を売るなかで"Oh! PC"の実売は1万部そこそこにとどまり、毎号返本の山を築いて赤字が続いた。ソフトの卸売は順調に伸びており、収益だけで判じれば撤退すべき事業であった。だが取引先のソフトメーカーからは、広告掲載の道を確保するために大規模な出版を続けてほしいと要請されており、撤退は最初から選べなかった。

  • ソフトバンクグループ 有価証券報告書(2025年3月期)【沿革】
    • [17]1982年5月 月刊「Oh! PC」「Oh! MZ」創刊・出版事業に参入
  • 日経ビジネス(1987年1月19日)
    • [18]出版の経験が無いまま孫正義自身がソフト営業の傍ら編集長を務め、記事・広告を集めて2か月で創刊号を発行した急造の体制
    • [19]他のパソコン雑誌が10万部以上を売るなか「Oh! PC」の実売は1万部程度で返本が続き赤字
    • [20]ソフトハウス側から大規模な出版の継続を要請されており、出版からの撤退は選べなかった

赤字の雑誌を立て直すために孫氏が選んだのは、さらに投資を重ねる道であり、その下準備として、毎号5,000〜6,000枚返ってくる読者はがきを一枚も漏らさず自分で読み、内容を分けて弱点に順位を付けた。記事を倍に増やし、表紙は専門家にデザインを任せ、テレビ広告も出すと決めたのは、知名度の低さが第一の弱点で、表紙の意匠と記事量の不足がそれに続くと分かったからである。赤字の雑誌に1億円近くを宣伝に使う計画は、ソフト部門が伸びている最中だったこともあって社内の強い反発を招き、孫氏の側近が業界団体の関係者のもとへ説得を頼みに行く騒ぎにまで発展した。広告費が最も安い2月を選び、6,000万円の半分をパソコンメーカーに負担させた。印刷した10万部は売り切れとなり、これを型に雑誌を増やして、出版はソフト流通と並ぶ収益の柱に育った。売上高は1982年12月期の23億円から1985年12月期の115億円へ、従業員は21人から210人へ増えた。

  • 日経ビジネス(1987年1月19日)
    • [21]毎号5,000〜6,000枚の読者アンケートはがきを全て読み、分類して弱点を順位化
    • [22]記事の倍増・表紙のプロデザイナーへの委託・テレビ広告の実施を決定
    • [23]弱点の1位は知名度の低さ、次いで表紙の意匠・記事量
    • [24]ソフト部門が伸びるなか赤字の雑誌へ1億円近い宣伝費を投じる計画に社内が猛反対し、側近が業界団体の関係者へ説得を依頼した
    • [25]広告費が最安の2月を選び、6,000万円のうち半分をパソコンメーカーが負担
    • [26]拡充後は印刷した10万部が売り切れとなった
    • [27]これを型に雑誌を増やし、出版部門がソフトと並ぶ経営の柱に成長
  • 知識 2(3)(51)
    • [28]売上高 1982年12月期23億円→1985年12月期115億円、従業員 21人→210人
参考文献[17]-[28]
  • ソフトバンクグループ 有価証券報告書(2025年3月期)【沿革】
    • [17]1982年5月 月刊「Oh! PC」「Oh! MZ」創刊・出版事業に参入
  • 日経ビジネス(1987年1月19日)
    • [18]出版の経験が無いまま孫正義自身がソフト営業の傍ら編集長を務め、記事・広告を集めて2か月で創刊号を発行した急造の体制
    • [19]他のパソコン雑誌が10万部以上を売るなか「Oh! PC」の実売は1万部程度で返本が続き赤字
    • [20]ソフトハウス側から大規模な出版の継続を要請されており、出版からの撤退は選べなかった
    • [21]毎号5,000〜6,000枚の読者アンケートはがきを全て読み、分類して弱点を順位化
    • [22]記事の倍増・表紙のプロデザイナーへの委託・テレビ広告の実施を決定
    • [23]弱点の1位は知名度の低さ、次いで表紙の意匠・記事量
    • [24]ソフト部門が伸びるなか赤字の雑誌へ1億円近い宣伝費を投じる計画に社内が猛反対し、側近が業界団体の関係者へ説得を依頼した
    • [25]広告費が最安の2月を選び、6,000万円のうち半分をパソコンメーカーが負担
    • [26]拡充後は印刷した10万部が売り切れとなった
    • [27]これを型に雑誌を増やし、出版部門がソフトと並ぶ経営の柱に成長
  • 知識 2(3)(51)
    • [28]売上高 1982年12月期23億円→1985年12月期115億円、従業員 21人→210人

1983年〜大森康彦の招聘による管理体制の整備

ステロイド離脱療法によって孫正義氏が回復するまでには、3年半の時間がかかった。発端は創業1年目の肝炎で、それ以後は体に無理がきかなくなった。都内の病院を渡り歩いて入院と退院を重ねるうち、経営は孫氏の手を離れかけた。見舞いの友人に見せた管理費のグラフでは、孫氏がいなかった時期に限って数字が一様に跳ね上がっていた。それでも病室にはパソコン、ファクシミリ、電話が持ち込まれ、孫氏は離れた場所から指示を送り続けた。読んだ本も3年で4,000冊に達し、分野は多岐にわたった。会社と距離を置いたこの期間に数値で経営をつかむ手法を覚えたと孫氏は後年振り返っており、第一線を離れていた時間が計数による経営の訓練を兼ねたといえる。

  • 日経ビジネス(1995年2月13日)
    • [29]ステロイド離脱療法で回復するまで3年半を要し、その後経営の第一線へ復帰
    • [30]創業1年目に肝炎を発病し、無理の利かない体になった
    • [32]病室にパソコン・ファクシミリ・電話を持ち込んで遠隔で経営し、3年で4,000冊を読破
    • [33]会社を離れて計数を分析する「計器飛行」を学んだとの本人の回想
  • 日経ビジネス(1987年1月19日)
    • [31]入院中に見舞い客へ見せた管理費のグラフは、孫正義が社にいない時期に上昇していた

1983年3月、孫氏は会長へ退き、大森康彦氏を社長に迎えた。紹介したのは創業時に融資の保証人となったシャープの佐々木正氏で、孫氏を補佐するベテラン経営者が必要という判断からであった。迎え入れた当時の孫氏は過労で肝臓を痛めて入退院を繰り返しており、大森氏が着任するまでの経営には緩んだところもあったとされる。野村證券からセコムへ移り副社長を務めていた大森氏は、経営体質の改善を進め、業界関係者の言葉を借りれば大ナタを振るっている。この間に退職者が相当数出て、孫氏と苦楽を共にした社員も少なくなかった。急拡大した会社を管理の利く組織へ作り替える過程で生じた摩擦であり、その余熱は1987年の時点でもくすぶっていたとされる。

  • 日経ビジネス(1995年2月13日)
    • [34]1983年3月 孫正義は会長となり、大森康彦が社長に就任
  • 日経ビジネス(1987年1月19日)
    • [35]孫を補佐するベテラン経営者が必要として、シャープの佐々木正が大森康彦を紹介
    • [36]大森康彦を迎えた頃の孫正義は過労で肝臓を痛めて入退院を繰り返しており、大森が来るまでの経営には緩みもあったとされた
    • [37]大森康彦は野村證券を経てセコム副社長を務めた
    • [38]大森康彦は経営体質の改善を推進し「大ナタを振るった」と業界関係者に評された
    • [39]体質改善の過程で退職者が相当数出て、創業以来の社員も少なくなかった
    • [40]摩擦の余熱は1987年時点でもくすぶっているとされた

1986年、孫氏は社長へ復帰し、大森康彦氏が会長へ回った。病が癒えれば交代することは当初から2人の間で決めてあり、その約束を実行したものである。日常の経営業務は孫氏へ全面的に委ねられた一方、大森氏は孫氏をなお経営者として未熟な面があると評していた。会社の規模はすでに、起業の着想や個人の秀才さでは処理しきれず、組織の運営と管理を要する段階へ入っていた。数業種を比べて市場を選び、読者アンケートを順位へ直して広告を打つという、情報を数値へ落としてから動く型は創業期から一貫していた。孫氏は1億円を手にした時点で50年の事業計画を立てており、『20代で名乗りをあげ、30代で軍資金1000億円をためる。40代でひと勝負かけ、50代で完成、60代に次の世代へ継承する』という構想を描いていた。卸売と出版の2本柱は、その最初の10年にあたる。

  • 日経ビジネス(1987年1月19日)
    • [41]1986年 孫正義が社長へ復帰し、大森康彦は会長へ
    • [42]孫の病気快復後に交代することは当初から両者で取り決められていた
    • [43]日常の経営業務は孫へ委ねる一方、大森康彦は孫を経営者として未熟な面があると評した
    • [44]会社の規模拡大により、起業の才覚とは別に組織運営と管理が必要になる段階に入っていた
  • 日経ビジネス(1995年2月13日)
    • [45]電訳機の対価1億円を得た時点で「ライフプラン50年計画」を策定
参考文献[29]-[45]
  • 日経ビジネス(1995年2月13日)
    • [29]ステロイド離脱療法で回復するまで3年半を要し、その後経営の第一線へ復帰
    • [30]創業1年目に肝炎を発病し、無理の利かない体になった
    • [32]病室にパソコン・ファクシミリ・電話を持ち込んで遠隔で経営し、3年で4,000冊を読破
    • [33]会社を離れて計数を分析する「計器飛行」を学んだとの本人の回想
    • [34]1983年3月 孫正義は会長となり、大森康彦が社長に就任
    • [45]電訳機の対価1億円を得た時点で「ライフプラン50年計画」を策定
  • 日経ビジネス(1987年1月19日)
    • [31]入院中に見舞い客へ見せた管理費のグラフは、孫正義が社にいない時期に上昇していた
    • [35]孫を補佐するベテラン経営者が必要として、シャープの佐々木正が大森康彦を紹介
    • [36]大森康彦を迎えた頃の孫正義は過労で肝臓を痛めて入退院を繰り返しており、大森が来るまでの経営には緩みもあったとされた
    • [37]大森康彦は野村證券を経てセコム副社長を務めた
    • [38]大森康彦は経営体質の改善を推進し「大ナタを振るった」と業界関係者に評された
    • [39]体質改善の過程で退職者が相当数出て、創業以来の社員も少なくなかった
    • [40]摩擦の余熱は1987年時点でもくすぶっているとされた
    • [41]1986年 孫正義が社長へ復帰し、大森康彦は会長へ
    • [42]孫の病気快復後に交代することは当初から両者で取り決められていた
    • [43]日常の経営業務は孫へ委ねる一方、大森康彦は孫を経営者として未熟な面があると評した
    • [44]会社の規模拡大により、起業の才覚とは別に組織運営と管理が必要になる段階に入っていた

1981年〜1989年の業績

決算期 区分 売上高 純利益 主な投資
億円 YoY 億円 利益率
1981年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1982年12月期 単体 23 n/a n/a n/a n/a
1983年12月期 単体 45 +95.7% n/a n/a n/a
1984年12月期 単体 75 +66.7% n/a n/a n/a
1985年12月期 単体 115 +53.3% n/a n/a n/a
1986年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a
1987年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a
1988年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a
1989年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a

出所:知識.2(3)

出典・参考

7件
出典・参考
  • ソフトバンクグループ 有価証券報告書(2025年3月期)【沿革】
  • 日経ビジネス(1987年1月19日)
  • 日経ビジネス(1995年2月13日)
  • 近代中小企業(1983年6月)
  • 証券 50(3)(588)(1998年1月)
  • ソフトバンク(ソフトバンクG)の歴史
  • 知識 2(3)(51)

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