ソフトバンクグループ米エヌビディアへのアーム売却——最大400億ドルの契約と、規制が壊した世紀のディール

2022年破談

財務防衛のために虎の子を手放すか、AI時代の中核として抱え続けるか——孫正義氏が選んだ売却は、なぜ2022年2月に破談へと至ったのか

時期 2020年9月
意思決定者 孫正義 ソフトバンクグループ 会長兼社長
論点 財務防衛と中核資産の資金化
概要
2020年9月14日、ソフトバンクグループが、2016年に約3.3兆円で買収した英半導体設計アームの全株式を、米エヌビディアへ最大400億ドル(約4.2兆円)で売却する契約を発表した経営判断。英国・中国・EU・米国の規制当局の承認を得られず、2022年2月8日に契約解消(破談)となった。
背景
2020年3月のコロナショックで株価が急落し、2020年3月期に過去最大の9,615億円の最終赤字を計上。最大4.5兆円の資産売却プログラムで守りを固めるなか、買収以降も赤字が続いていたアームの資金化が選択肢に浮上した。
内容
対価は現金最大170億ドルとエヌビディア株式215億ドル相当の組み合わせで、完了後はソフトバンクグループ側がエヌビディア発行済み株式の約6.7〜8.1%を保有する主要株主となる設計。クロージングには英中EU米の規制承認が必要で、完了まで約18カ月を見込んだ。
含意
各国の独禁当局が「半導体業界のスイス」の中立性を問題視して破談に至ったが、手付金12.5億ドルが手元に残り、アームは2023年9月にナスダックへ再上場。生成AIブームで時価総額は買収額を大きく超え、売れなかったことが結果的に同社へAI期の中核資産を残した。
筆者の見解

売れなかったことが残したもの

この判断の出発点は、攻めではなく守りにあった。コロナショックで信用不安に追い込まれた投資会社が、赤字の続く虎の子を最高値で資金化する——売却契約そのものは、当時の財務状況に照らせば筋の通った選択であったとみることができる。対価の過半を株式で受け取り、AI半導体の勝者の主要株主に回るという設計にも、単純な撤退にとどめない計算がうかがえる。しかし、その成否を最終的に決めたのは、孫正義氏の意思でも市場でもなく、基幹技術の中立性を守ろうとする各国の規制当局であった。

皮肉なのは、取引を壊した「半導体業界のスイス」という性格そのものが、破談後のアームの価値を支えた点である。一社に抱え込まれなかったからこそ、アームの設計は生成AI期にあらゆる陣営へ広がり、時価総額は売却対価を大きく超えていった。売りたかった資産が売れなかったことで最大の資産になったという結末は、経営判断の巧拙だけでは説明がつかない。地政学と規制が大型テックM&Aの成立可能性を左右する時代に、企業は何を手放し、何を抱え続けるべきか——この破談は、その問いの重さを示す事例といえる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

コロナショックと4.5兆円の資産売却プログラム

2020年3月、新型コロナウイルスによる株式市場の急落は、ソフトバンクグループの信用問題にまで発展していた。3月19日には株価が1日で17%強下落し、1カ月でほぼ半値となった。企業への投資を主業とする同社にとって、保有株の価値下落は収益悪化に直結する。格付け見通しの引き下げと、米エリオット・マネジメントによる2兆円の自社株買い要求も重なり、同社は3月23日、最大4.5兆円の保有資産売却と計2.5兆円の自社株取得という対策を打ち出した[1]

業績も底が抜けていた。2020年3月期の連結最終損益は過去最大の9,615億円の赤字となり、その主因であるソフトバンク・ビジョン・ファンドは同期に1兆4,125億円の税引き前赤字を計上していた。シェアオフィスの米ウィーカンパニーへの巨額支援が象徴するように、10兆円ファンドの投資先の価値毀損が同社の損益を直撃しており、攻めの投資を続けるための財務の立て直しが急務となっていた[2][3]

「最大の防御は現金」——浮上したアームの資金化

2020年8月11日の決算会見で、孫正義会長兼社長は「守りを固める」ことを繰り返し語った。当初1年をかける予定だった4.5兆円の資産売却は、アリババ株の先渡売買契約やTモバイル株の売却により、8月3日までに4.3兆円分のめどがついていた。この会見で孫氏は、2016年に3.3兆円で買収した英アーム・ホールディングスの売却に初めて言及し、「一部または全株を売却することも選択肢」と述べた。米エヌビディアとの交渉が報じられるなかでの発言であった[4]

売却対象となるアームは、単なる保有資産のひとつではなかった。半導体回路の設計情報をライセンス販売する同社の技術は、スマートフォン向け半導体のほとんどに使われる業界の基幹インフラである。一方で買収後は研究開発費が重く、2020年3月期は売上高2,066億円に対し428億円の営業赤字と、ソフトバンクグループ傘下ではほとんどの期間が赤字であった。「AI時代の布石」と位置づけた虎の子を、財務のためにどう資金化するかが焦点となっていた[5]

決断

最大400億ドル——現金と株式を組み合わせた売却契約

2020年9月14日、ソフトバンクグループはアーム全株式を米エヌビディアへ売却する契約の締結を発表した。対価は、契約締結時の現金20億ドル、クロージング時の現金100億ドルとエヌビディア普通株式215億ドル相当、アームの業績条件達成を前提とするアーンアウト最大50億ドル、アーム従業員向けの15億ドル相当の株式報酬で構成され、取引総額は最大400億ドル(約4.2兆円)に達した。2016年の買収額3.3兆円から、約4年で1兆円近くを上乗せする売却であった[6][7]

この契約の核心は、対価の過半をエヌビディア株式で受け取る設計にあった。取引完了後、ソフトバンクグループとビジョン・ファンドは合計でエヌビディア発行済み株式の約6.7〜8.1%を保有する主要株主となる見込みであった。孫正義氏は「エヌビディアの主要株主として、アームの成長に投資することを楽しみにしている」とコメントしており、アームを手放しつつ、AI半導体の勝者の株主として間接的に関与を残すという建て付けが、この売却を単純な撤退と分けていた[8][9]

18カ月の規制審査を見込んだ賭け

ただし、この契約は締結の時点から長い審査を織り込んでいた。クロージングは英国・中国・EU・米国を含む規制当局の承認が条件とされ、完了までに約18カ月かかる見込みが示された。半導体の設計情報という戦略物資を扱う英国企業を、米国のGPU最大手が買う取引である。米中対立が深まり、各国が半導体を安全保障の中核に据え始めた時期のクロスボーダー案件として、審査の行方は当初から不確実性をはらんでいた[10]

懸念の中心は、アームの中立性であった。アームの設計情報を購入する顧客には、米クアルコムや米アップルなど、エヌビディアと競合する有力企業が名を連ねる。特定の半導体メーカーの傘下に入れば、ライバルへのライセンス供与の中立性が揺らぎかねない。買収発表の直後から「今後の中立性には疑問の声が多い」と報じられており、業界の共有インフラを一社が抱え込む構図そのものが、後の規制当局の介入を招く火種となっていた[11]

結果

規制の壁と、2022年2月の破談

審査は想定を超えて難航した。英国の競争・市場庁(CMA)は2021年8月に「競争上の懸念がある」とする報告書をまとめ、EUも本格調査に入った。決定打となったのは米国である。2021年12月2日、米連邦取引委員会(FTC)は反トラスト法に基づき買収の差し止めを求めてエヌビディアなどを提訴した。FTCは訴状で、幅広いメーカーに設計技術を供与するアームを「半導体業界のスイス」と呼び、買収は競合他社を弱体化させる能力と動機を与えると主張していた[12][13]

2022年2月8日、両社は規制上の課題を理由に契約の解消に合意したと発表した。孫正義氏は決算会見で「これ以上努力しても難しいと、エヌビディア側から(買収断念の)話があった」と経緯を説明している。受領済みの手付金12.5億ドル(1,438億円)は契約条項により返金義務がなく、2022年3月期第4四半期に利益として認識された。1兆円規模の投資リターンを得るはずだった当ては外れ、同社は代わりに、2022年度中のアームの株式上場を準備する方針へと転換した[14][15]

ナスダック再上場と、手元に残った中核資産

破談の時点で、孫氏はアームについて「(株を)持っていてよかったという金額になる」と強調していたが、当時は米国IT株の下落が続いており、上場が売却ほどのリターンを生むかは不透明とみられていた。実際の上場は当初方針から1年遅れた2023年9月14日、米ナスダックで実現する。初値は56.10ドル、初日の終値は売り出し価格51ドルを25%上回る63.59ドルで、時価総額は652億ドル(約9兆6,100億円)に達した。ソフトバンクグループは約10%を売り出したのみで、上場後も約90%を保有し続けた[16][17]

その後の生成AIブームは、この破談の意味を書き換えた。データセンター向けでもアームの設計採用が広がり、株価は上場後も急伸を続け、2024年夏には時価総額が約25兆円に達した。約3.3兆円で買収し、最大400億ドルで手放すはずだった資産は、売却対価をはるかに超える価値でソフトバンクグループの手元に残り、保有株式価値に占める最大の柱として、後のOpenAI出資などAI投資の担保・原資を支える存在となった[18]

出典・参考

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