谷村格氏は1987年にマッキンゼー・アンド・カンパニー日本支社[1]に入り、ヘルスケア領域のコンサルタントとして製薬・医療業界を担当し、1999年12月に同社パートナーへ昇格した[2]。パートナー就任後に投資ファンドや別ファームへ移るのが通例のなかで、谷村氏が選んだ道は事業会社としての起業だった。2000年9月、ソニーコミュニケーションネットワーク(So-net)の出資を受けて『ソネット・エムスリー株式会社』を東京都品川区に設立し[3]、自ら代表取締役兼CEOに就任した[4][5]。事業構想の中心には、医師と製薬会社の情報流通に横たわる構造的な非効率を突くという問題意識が据えられた。ソニー系列の通信子会社と組んで始動した点も、当時の事業モデル作りの特徴を示している。
谷村氏は後年、転身の動機について面白いことができそうだと思ったからだと振り返っている。マッキンゼー時代に医師から繰り返し聞いた、薬の効能や副作用の最新データを限られた時間で集めたいという切実な声と、製薬メーカー側の非効率なMR体制の双方を同時に見ていた体験が、起業の出発点となった。コンサルタントの立場からは解けない課題を、自ら事業を立ち上げて解決するという選択で、当時のマッキンゼー出身者の進路として主流とは言い難い。谷村氏は35歳でエムスリーを起業したが、もっと早くすればよかったと感じているとも語っている。ヘルスケア領域にコンサルタントとして深く関わった経験と、業界人脈の蓄積が、事業化の環境を支えた。
設立翌月の2000年10月、エムスリーは最初の主力サービス『MR[6]君』を立ち上げた。2014年時点の日本では製薬会社のMRが約5万5千人[7]、医薬品卸のMSが3万人で合計8万5千人が活動しており[8]、医師との比率は3対1[9]。米国の7対1と比べて効率が悪く[10]、医師1人あたりの面談コストが大きい構造が業界全体の課題となっていた。谷村氏はこの仕組みの独自性について、複数の製薬会社が1つのプラットフォームを通じて多数の医師と情報を流通できるサービスは世界でも例がなかったと語っている。従来は製薬会社ごとに個別のMRが医師を訪問する世界だったが、エムスリーが提案したのは複数社の情報を同じ窓口から届ける共通基盤であり、業界構造への挑戦としての色合いが濃い取り組みだった。
サービスは当初、各MRが担当医師に発信する形式で始まったが、医師がMRを指名して情報を取り出せる方式に切り替えた結果、トラフィックが伸び、3万人以上の医師が登録する『カリスマMR』も生まれた。この切り替えは、情報流通の主導権を発信側から受信側へ移すという点で、医療情報マーケティングを一段進める転換となった。2005年1月にはネットを介したビジネスモデル特許を取得し、後発の参入に対する法的な防壁も押さえた。発信型から需要駆動型へ方式を転換できた柔軟さは、後のプラットフォームビジネス全体の土台となった。医師側が能動的に情報を選び取る体験を設計した結果、会員の定着と、製薬会社から見た広告価値の向上が同時に引き出された。
2003年7月、社内で並行運営した医療情報サイト『MyMedipro』と『so-netm3.com』を統合し、医師向けポータル[11]m3.comとして一本化した[12]。同年10月には米国子会社So-net M3 USA[13] Corporationを設立し、海外展開の足場を早い時期から作っている。創業から4年後の2004年9月には東京証券取引所マザーズ市場へ株式を上場[14]し、資本市場からの成長資金調達という手段を手に入れた。FY03の連結売上15億6千万円は[15]、上場後のFY05には38億5千万円まで拡大した[16]。上場前後で売上規模が倍以上になった伸びが、財務データから読み取れる。インターネット黎明期の医療情報サービスとしては例外的なスピードでの規模拡大であり、業界に新しいプレーヤーを根付かせた最初のマイルストーンとなった。上場時の調達資金は、海外展開と子会社化戦略の原資となった。
2005年12月には、m3.com登録医師の一部が一般消費者の質問に回答する『AskDoctors』を開始した[17]。当時日本でセカンドオピニオンの重要性が叫ばれ始めた流れに乗り、医師ネットワークを医療従事者以外にも転用できると示した最初の事例となった。医師というネットワーク資産を複数のビジネスモデルへ展開する発想は、治験支援・人材紹介・電子カルテといった多角化の基本パターンとなった。医師会員基盤を軸にしたプラットフォーム事業という同社のアイデンティティも、この頃から姿を現した。一度築いた医師ネットワークをどこまで多様なサービスへ転用できるかという問いは、経営判断の中心となり、会員基盤そのものを中長期の競争優位の源泉と見なす発想が社内に浸透した。
2007年3月、創業から7年目で東京証券取引所市場第一部へ上場市場を変更した[18]。FY06の売上は57億円、営業利益は26億円で[19]、上場時から3年で売上1.5倍・利益2倍の成長フェーズに入っていた[20]。2009年12月には医師・薬剤師向けの求人広告と人材紹介[21]を行うエムスリーキャリア株式会社を設立し[22]、ポータルから派生する人材ビジネスを子会社化した。医師ネットワークを情報流通だけでなく人材マッチングへも展開するという方向性が経営の柱として前面に出始め、複数のマネタイズ経路を同一会員基盤から引き出すモデルが形を整えた。医師会員というネットワーク資産は複数の収益源を同時に支える共通基盤となり、経営の重心はポータル事業単体から会員ネットワーク全体の活用へ移った。
2010年1月、商号を『ソネット・エムスリー』[23]から『エムスリー株式会社』に改めた。ソニー系列の冠を外し、医療従事者ネットワークを軸とした独立ブランドとして市場に立つ判断で、以後の海外M&Aや多角化はこの『エムスリー』の名で進めた。ソニー系のプラットフォーム企業から医療系プラットフォーム企業への移行を社名として対外的に示した瞬間でもあり、投資家に対しても独立した事業会社としての自己定義を示す節目となった。医療従事者を軸とするグローバルなプラットフォーム企業として自らを置き直す宣言でもあり、海外展開を進めるうえでのブランドの一貫性を保つ基盤整備でもあった。
2012年10月、電子カルテの開発[24]・販売を行う株式会社シィ・エム・エス[25](現エムスリーソリューションズ)を子会社化し、医療機関の現場ITに足を踏み入れた。続く2014年2月には治験業務支援の株式会社メディサイエンスプラニングを株式交換で子会社化し[26]、製薬向けマーケティングに次ぐ収益源として治験ソリューション事業を立ち上げた。同年8月には医療機関の運営サポートを行うエムスリードクターサポート[27](現株式会社シーユーシー)を設立し[28]、本業のポータル事業とは異なる現場オペレーションへも事業領域を広げた。医療現場に近い領域へ踏み込むほど求められる業務知識は深くなるが、子会社化で現場ノウハウを取り込みつつ本業との相乗効果を狙う構成は、多角化の基本パターンとなった。
セグメント開示でもこの変化は明瞭だった。FY09に『医療ポータル』と分けて初めて『エビデンスソリューション』セグメントが立ち上がった。続くFY12には『診療プラットフォーム』、FY14には『営業プラットフォーム』が加わった。ポータル一本足だった収益構造は、医師会員ネットワークを核とする複数セグメントのポートフォリオへ変わった。単一サービスへの依存から脱却する多角化戦略は、開示上の数字としても投資家から見える形で積み上がった。複数のセグメントが相次いで誕生する過程は、会員ネットワークをどの事業領域へも転用できるという仮説が、財務データの裏付けを得て実証されていく過程でもあった。セグメントごとの粗利と成長速度の違いも、投資家との対話の論点となった。
2011年8月、エムスリーは英国の医師向けポータル運営会社Doctors.net.uk Limited[29](現M3 (EU) Limited)を連結子会社化した[30]。自前で海外医師を集めるのではなく、現地で既に医師ネットワークを持つポータルを買収して傘下に入れるというモデルだった。この型は、以後の中国Kingyee(2013年11月[31]、現Medlive Technology[32])、フランス・ドイツ・スペインのVidal Group(2016年11月[33]、現M3 Medical Holdings[34])へと繰り返す海外展開パターンの最初の事例となった。ゼロから海外ネットワークを立ち上げるのではなく、既存プレーヤーを束ねるという成長の型が、同社の海外展開の核となった。医師という国ごとの免許制のネットワークは、国境を越えて自前で集めることが難しいという実務的な制約があり、既に現地で信頼を築いているプラットフォームを取り込む選択は合理的な判断として働いた。
海外セグメントは2010年度には売上15億円[35]・利益5,500万円の小事業にすぎなかったが、FY15には売上138億円・利益16億円まで拡大した[36]。海外現地ポータルを買い集めて束ねる戦略が、国内ポータルとは別の独立した収益柱を作り上げ、M&Aを事業成長のエンジンに据えるエムスリーのスタイルが固まった。買収対象を選ぶ基準として、既存の医師ネットワーク資産と現地での実績を重んじる姿勢が繰り返し現れ、欧米買収へ直接つながった。自前主義にこだわらず、世界各地で既に機能するプラットフォームを取り込んで連携させるこの型は、同社のグローバル戦略を支える中核思想として、以後も一貫して守られた。
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|---|---|---|---|---|
| 2000〜2006年マッキンゼーから医療コンサル卒業と独立起業 | ソネット・エムスリーを設立 | ★ | ||
| MR君サービス開始 | ★★ | |||
| 並行運営した2つの医療情報サイトを統合し「m3.com」へ一本化 2003年7月、ソネット・エムスリーが社内で並行運営していた医療情報サイト『MyMedipro』と『so-netm3.com』を統合し、医療専門サイト『m3.com』として運営を始めた経営判断。医師会員を単一のポータルへ集め、その上に『MR君』以下のサービスを載せる構成へ改めた。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 子会社So-net M3 USA Corporationを設立 | ★ | |||
| 東京証券取引所マザーズに株式を上場 | ★ | |||
| 谷村格 | 初の一般消費者向けサービス「AskDoctors」提供開始 | ★ | ||
| 2007〜2015年国内医師の過半数を囲い込むプラットフォーム形成 | 谷村格 | 東京証券取引所一部に上場市場を変更 | ★ | |
| 谷村格 | エムスリーキャリアを設立 | ★★ | ||
| 谷村格 | 商号を「ソネット・エムスリー」から「エムスリー」へ改める 2009年5月26日の取締役会で商号変更を決議し、同年6月22日の第9回定時株主総会の承認を経て、2010年1月1日に商号を『ソネット・エムスリー株式会社』から『エムスリー株式会社』へ改めた経営判断。英文商号も So-net M3, Inc. から M3, Inc. へ改めた。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 谷村格 | 英Doctors.net.ukを買収し、現地ポータルを束ねる海外展開の型を固める 2011年8月23日、エムスリーは100%子会社の M3 USA Corporation を通じ、英国の医師向けポータル『Doctors.net.uk』を運営する Doctors.net.uk Ltd. の全株式を現金で取得し、連結子会社とした。取得原価は18億3,140万円で、のれん24億7,873万円を20年で均等償却する条件であった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 谷村格 | 本店を現在地に移転 | ★ | ||
| 谷村格 | シィ・エム・エスを子会社化 | ★ | ||
| 谷村格 | Kingyee Co., Limitedを子会社化 | ★ | ||
| 谷村格 | メディサイエンスプラニングを株式交換により子会社化 | ★ | ||
| 谷村格 | エムスリードクターサポートを設立 | ★ | ||
| 2016〜2023年欧米買収の加速とコロナ特需の反落を経た成長局面 | 谷村格 | Vidal Groupの持株会社AXIO Medical Holdings Limitedを子会社化 | ★★ | |
| 谷村格 | Wake Research Holdings, LLCを子会社化 | ★ | ||
| 谷村格 | DailyRounds, Inc.を子会社化 | ★ | ||
| 谷村格 | クラウド診療支援サービス「エムスリーデジカルスマート診療」提供開始 | ★ | ||
| 谷村格 | 東京証券取引所プライム市場へ移行 | ★ | ||
| 谷村格 | 「ホワイト・ジャック・プロジェクト」を開始 | ★ | ||
| 谷村格 | 連結子会社シーユーシーが東京証券取引所グロース市場へ新規上場 | ★ | ||
| 谷村格 | Kantar Groupより欧米ヘルスケア調査関連2事業を譲受 | ★ | ||
| 谷村格 | エランを公開買付けにより子会社化 | ★★ | ||
| 谷村格 | イーウェルを子会社化 | ★ |
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事実根拠:出所(エムスリー)