エムスリー英Doctors.net.ukを買収し、現地ポータルを束ねる海外展開の型を固める

海外の医師を自前で集めるか、現地一番手を丸ごと買うか——谷村格社長が選んだ方法

時期 2011年8月
意思決定者(推定) 谷村格 社長
論点 海外での医師会員基盤の獲得方法
概要
2011年8月23日、エムスリーは100%子会社の M3 USA Corporation を通じ、英国の医師向けポータル「Doctors.net.uk」を運営する Doctors.net.uk Ltd. の全株式を現金で取得し、連結子会社とした。取得原価は18億3,140万円で、のれん24億7,873万円を20年で均等償却する条件であった。
背景
米国では2003年に設立した子会社が「MDLinx」を軸に会員を積み上げ、2008年6月に米国版「MR君」の本サービスを始めたが、規模に達するまで年数を要した。2010年11月には英国の市場調査会社 EMS Research を子会社化する一方、ドイツからは撤退しており、自前展開と買収の両方を試していた。
内容
買収先は1998年設立でオックスフォードシャー州に本社を置き、従業員77人(2011年9月)。英国医師24万5千人のうち18万人以上が登録する英国最大の医師向けポータルで、会員へ Doctors.net.uk ドメインの電子メールアドレスを提供していた。2010年1〜12月の売上高は8.7百万ポンド(約11億円)であった。
含意
現地で完成した医師ネットワークを買い、その上に製薬会社向けマーケティング支援を載せるという順序が、以後の海外展開の型となった。中国Kingyee(2013年)、仏Vidal Group(2016年)、米Wake Research(2018年)、印DailyRounds(2019年)へ同じ手順が反復された。
筆者の見解

名簿を買うということ

この判断の核心は、金額の大きさではなく、何を買ったかにあったとみることができる。取得原価18億円のうち、受け入れた資産は2億円あまりで、残りはすべてのれんであった。会計上の資産としてほとんど何も引き継がない買い物を、エムスリーは英国で最初の海外ポータル買収として実行している。買ったのは医師の名簿と、彼らが毎日そこへ戻ってくる理由——自社ドメインのメールアドレスや、病院のネットワーク制限のなかで唯一開くサイトという位置——であった。米国で8年かけて自前で作った基盤を、英国では13年分まとめて引き受けた計算になる。

もっとも、名簿の価値は買った時点で確定するものではない。医師がその場所に集まり続けるかどうかは、買収後の運営に左右され、のれんの償却は20年にわたって毎期の利益を削る。実際に、コロナ禍の反動を経た2024年3月期以降には海外の減損が繰り返し表に出た。現地で完成したプラットフォームを取り込んで束ねるという型は、国境を越えて会員基盤を作る現実的な方法であると同時に、束ねた先の一つひとつが単独で稼げるかを問い返される仕組みでもある。エムスリーが2011年に選んだのは、その両方を引き受ける道であったとみられる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

米国で8年かけて学んだこと

エムスリーの海外展開は、2003年10月に米国ニュージャージー州へ設立した100%子会社から始まった。同社は医療従事者向けウェブサイト「MDLinx」を運営し、2008年6月に「MR君」の米国版にあたる「M3 Messages」の本サービスを始めている。2009年3月には経営資源の集中と効率化を目的に MDLinx, Inc. を吸収合併し、商号を M3 USA Corporation へ改めた。有報は「MR君」について、海外にも類似のものは見当たらず、医薬品の処方に関して日本と同様の制度を持つ国と市場に対して展開を進めていると述べている[1][2]

会員は増えていたが、時間はかかった。2011年10月の会社説明資料によれば、米国子会社の会員は医療従事者46.9万人、うち米国医師は17.7万人であり、新しい販促手法によって直近9か月で7万人以上が加わったものの、今後の増加ペースはいったん落ち着く見込みとされていた。米国事業の売上は2011年度上期累計で10.3億円、前年同期比61%増である。設立から8年をかけてこの水準であり、同じやり方を国ごとに繰り返せば、欧州で同等の基盤を作るまでにさらに年数を要する計算になる[3][4]

欧州で試した二つの道

欧州には、買収による足がかりが先に置かれていた。2010年11月、エムスリーはヨーロッパの医師パネルを保有する英国の市場調査会社 EMS Research Limited を子会社とし、グローバルな調査体制を整えている。調査は「m3.com」で確立した「リサーチ君」の延長にあたる事業で、医師パネルという資産がそのまま商品になる。この買収は、欧州で自前の会員サイトを立ち上げるより先に、既にある名簿を取得する方法が有効だと確かめる機会にもなった[5][6]

一方で、自前で広げる道は縮小に向かった。2011年度第2四半期のヨーロッパ事業には、英国の買収に伴うデューデリジェンス費用67百万円とドイツ撤退費用13百万円が計上されている。進出済みの市場から退く費用と、別の市場を買うための調査費が、同じ四半期に並んで計上された。米国事業が増益となる一方、ヨーロッパ事業は構造改革費用の発生により赤字であった。欧州でどの方法をとるかという問いに、会社は買う側で答えを出そうとしていた[7][8]

決断

英国一番手のポータルを丸ごと買う

2011年8月23日、エムスリーは100%子会社の M3 USA Corporation を通じ、Doctors.net.uk Ltd. の株式を現金対価で100%取得した。取得原価は18億3,140万円で、全額が株式取得費用である。企業結合日の受入資産は2億1,105万円、引受負債は8億5,838万円で、差額の大半がのれんとして残った。のれんの金額は24億7,873万円にのぼり、今後の事業展開によって期待される将来の収益力に関連して発生したものとして、20年間の均等償却が定められている。買ったものは設備でも技術でもなく、医師の名簿と、そこに集まる習慣であった[9][10]

買収先は1998年に設立され、オックスフォードシャー州に本社を置く従業員77人(2011年9月時点)の会社であった。2010年1月から12月までの売上高は8.7百万ポンド、日本円でおよそ11億円である。英国の医師24万5千人のうち18万人以上が登録し、英国で首位の医師向けポータルを運営していた。会員には Doctors.net.uk ドメインの電子メールアドレスを提供しており、日常の業務にも使われていたほか、病院外のサイトのうち Doctors.net.uk だけをアクセス可能とする病院も多く存在した。会社説明資料は同社を、英国における製薬会社向けeマーケティングのリーダーと記している[11][12]

会員基盤を先に取り、商品をあとから載せる

買収の狙いは、英国での製薬会社向けマーケティング支援を始めることにあった。有報は、18万人以上の医師会員を擁するウェブサイトを運営する会社を子会社とし、英国での製薬会社向けマーケティング支援サービスの展開を開始したと記す。順序としては、まず医師が集まる場を押さえ、そのうえで日本の「MR君」で確立した商品を載せる形になる。国内で2003年に「m3.com」へ会員を一本化してから商品を積み増した手順を、国境を越えて繰り返した構成にあたる[13][14]

医師の会員基盤は、国ごとの免許制度と結びついた資産であり、外から入った事業者が短期間で組み直すことは難しい。Doctors.net.uk が会員へ自社ドメインのメールアドレスを配り、病院のネットワーク制限のなかでも到達できる位置を確保していたのは、13年かけて築いた構造であった。エムスリーはこれを2億円弱の純資産に対して18億円で買い、差額のほぼ全額をのれんとして20年で償却する道を選んでいる。会員基盤の価値をどう見積もるかが、この買収の実質的な論点であった[15][16]

結果

海外が独立した柱になるまで

買収を織り込んだ2012年3月期の連結業績は、売上高190億4,081万円、営業利益76億4,848万円、経常利益76億9,589万円、当期純利益44億9,294万円であった。海外セグメントの売上高は、米国での製薬会社向けマーケティング支援の拡大と Doctors.net.uk の新規連結により、為替変動の影響を吸収して前期比88.2%増の29億8,300万円となった。買収がなければ生じなかった上乗せ分として、有報は期首に完了したと仮定した場合の影響額を売上高6億824万円と算定している[17][18]

同じ型はその後も繰り返された。2013年11月に中国の Kingyee Co., Limited、2016年11月にフランス・ドイツ・スペインを中心に医薬品情報データベース事業を営む Vidal Group の持株会社、2018年2月に米国で治験支援を行う Wake Research Holdings、2019年3月にインドで医学教育事業を営む DailyRounds を、いずれも連結子会社としている。海外セグメントの売上高は2010年度の15億円から2015年度138億円、2017年度224億円、2023年度698億円へ伸びた。2011年の英国買収は、その最初の1件にあたる[19][20]

束ねた先で問われたもの

買い集めたネットワークは、規模としては早い段階で形になった。2012年3月期の有報は、日本、米国、欧州、中国および韓国にまたがる100万人を超える医師パネルを構築したと記している。2015年3月の週刊東洋経済も、同社が海外へ現地の大手医師向けサイトとの提携や買収を通じて進出し、米国・英国・韓国では医師の8割を会員に抱え、世界の医師会員が250万人を超えたと伝えた。自前で集めない方法は、少なくとも会員数という指標では短期間に成果を示した[21][22]

一方で、買い集めた資産の評価は後年に揺れた。2024年3月期の決算発表資料は、北米の治験事業で新型コロナ関連売上が剥落したことを受けて減損損失を計上し、海外を中心に目標未達となったと説明している。2025年3月期も海外での減損損失計上の影響で利益が計画に届かなかった。のれんとして計上した将来の収益力は、買収時の見積もりどおりには実現しない場合がある。束ねる方法そのものは維持されたまま、束ねた資産をどう評価し直すかという作業が、10年以上たって表に出た[23][24]

出典・参考

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