第3章 年〜年

中部電力:石油危機の料金改定とLNG・石炭・原子力による電源ベストミックス

1973年〜発電の8割を石油に頼った燃料危機と、71.79%から49.07%までの3度の料金改定

1973年秋の石油危機は、総発電電力量の約8割を石油火力に依存する中部電力の経営を大きく圧迫した。1973年11月に燃料緊急打ち合わせ会を設けて行政や石油業界に供給削減の縮小を働きかけたが、1974年3月末の貯油量は石油消費量の10日分以下に低下した。電灯電力需要の年平均伸び率は、1971〜73年度の9.5%から1974〜80年度には3.2%へ下がった。1974年1月の経営計画大綱はエネルギー節約時代への対応を掲げ、営業方針を需要の開拓から省エネルギーの推進へ転換した。1980年度末の発電設備は1,826万kWと1970年度末の2.2倍になったが、同年度の発受電電力量の52%はなお石油が占めた。高度成長期に積み上げた石油火力が、そのまま燃料調達の弱点に転じたとみられる。

  • 中部電力30年史(中部電力、1981年)
    • [1]1973年秋の石油危機は総発電電力量の約8割を石油火力に依存する当社にとって深刻な打撃
    • [2]1973年11月に「燃料緊急打ち合わせ会」を設置。行政当局や石油業界へ供給カット幅を小さくする働きかけを実施
    • [3]1974年3月末の貯油量は52万2,000klとなり、当社石油消費量の10日分以下という低い水準
  • 中部電力40年史(中部電力、1991年)
    • [4]1971〜1973年度の平均伸び率は電力量9.5%、1974〜1980年度は3.2%
    • [5]1974年1月の経営計画大綱は「エネルギー節約時代への対応」と題し、需要開拓から省エネルギー推進への転換をはかった
    • [6]1980年度末の発電設備は1,826万kWで1970年度末の2.2倍。1980年度の発受電電力量の構成は石油52%

中部電力は1974年6月に平均71.79%の料金改定を実施し、家庭用に3段階料金制、産業用に特別料金制を導入した。建設費の上昇と環境保全投資の増加で設備関連費が膨らみ、1976年8月31日からも平均22.47%の改定を行った。その後の円高で燃料費に差益が生じ、1978年10月から翌年3月まで総額457億円の料金割引を実施した。第2次石油危機では1980年1月に平均64.81%の改定を申請したが、4月からの実施は平均49.07%に圧縮され、産業用に季節別料金制を導入した。1971〜80年度の工事資金は2兆3,115億円と前の10年の約4倍に達し、社債は10年間で約1兆円を発行した。燃料費の変動を料金へ転嫁するたびに査定で圧縮され、外部資金への依存が深まったとみられる。

  • 中部電力40年史(中部電力、1991年)
    • [7]1974年6月から平均71.79%の料金改定を実施。家庭用には3段階料金制、産業用には特別料金制を導入
    • [10]1980年1月に平均64.81%の電気料金改定を申請したが厳しい査定を受け、4月から平均49.07%の改定を実施。産業用に季節別料金制を導入
    • [11]1971〜1980年度の工事資金は総額2兆3,115億円で前10年間の約4倍。社債は10年間で約1兆円を発行
  • 中部電力30年史(中部電力、1981年)
    • [8]1976年8月20日認可、8月31日から電灯20.71%・電力23.08%、平均22.47%の料金改定を実施
    • [9]円高差益の還元として1978年10月から1979年3月まで総額457億円、標準1世帯当たり月額284円の割引を実施

1972年6月の組織改定で、本店は全社的な総括に専念し、支店へ大幅に権限を委譲した。1973年3月には環境立地推進本部を設け、脱石油化を目指した電源開発に全社で取り組んだ。1977年6月に社長に就任した田中精一氏は、入社当時の個人商店のような電力会社を振り返り、『そういう時代がまたやってきましたね。今の電力会社もお願いする時代ですから』と語った。1979年は創立以来初めて新規電源の運転開始がない年となり、田中精一社長は1980年を80年代の供給力となる新規電源に着手する土壇場の年と位置づけた。1980年3月には効率経営推進本部のもとに長期経営戦略部会を置き、電源多様化の基本戦略を抜本的に見直した。

  • 中部電力40年史(中部電力、1991年)
    • [12]1972年6月に大幅な組織改定を行い、本店は全社的総括に専念し支店(社)に大幅な権限の委譲を行った
  • 中部電力30年史(中部電力、1981年)
    • [13]1973年3月「環境立地推進本部」を設置し、脱石油化を目指した電源開発に全社一丸となって努力
    • [16]1980年3月の料金改定認可と同時に効率経営推進本部のもとに「長期経営戦略部会」を設置し、電源多様化の基本戦略を抜本的に見直した
  • 日経ビジネス 1977年10月10日号
    • [14]田中精一は1977年6月に社長就任。入社当時は電灯や扇風機を一軒一軒売って歩いたと回想
  • 80年代わが社の戦略(1980年)「中部電力 田中精一」
    • [15]1979年は創立以来初めて新規電源の運転開始がない年。1980年は原子力をはじめ80年代の供給力となる新規電源地点に着手する土壇場の年
参考文献[1]-[16]
  • 中部電力30年史(中部電力、1981年)
    • [1]1973年秋の石油危機は総発電電力量の約8割を石油火力に依存する当社にとって深刻な打撃
    • [2]1973年11月に「燃料緊急打ち合わせ会」を設置。行政当局や石油業界へ供給カット幅を小さくする働きかけを実施
    • [3]1974年3月末の貯油量は52万2,000klとなり、当社石油消費量の10日分以下という低い水準
    • [8]1976年8月20日認可、8月31日から電灯20.71%・電力23.08%、平均22.47%の料金改定を実施
    • [9]円高差益の還元として1978年10月から1979年3月まで総額457億円、標準1世帯当たり月額284円の割引を実施
    • [13]1973年3月「環境立地推進本部」を設置し、脱石油化を目指した電源開発に全社一丸となって努力
    • [16]1980年3月の料金改定認可と同時に効率経営推進本部のもとに「長期経営戦略部会」を設置し、電源多様化の基本戦略を抜本的に見直した
  • 中部電力40年史(中部電力、1991年)
    • [4]1971〜1973年度の平均伸び率は電力量9.5%、1974〜1980年度は3.2%
    • [5]1974年1月の経営計画大綱は「エネルギー節約時代への対応」と題し、需要開拓から省エネルギー推進への転換をはかった
    • [6]1980年度末の発電設備は1,826万kWで1970年度末の2.2倍。1980年度の発受電電力量の構成は石油52%
    • [7]1974年6月から平均71.79%の料金改定を実施。家庭用には3段階料金制、産業用には特別料金制を導入
    • [10]1980年1月に平均64.81%の電気料金改定を申請したが厳しい査定を受け、4月から平均49.07%の改定を実施。産業用に季節別料金制を導入
    • [11]1971〜1980年度の工事資金は総額2兆3,115億円で前10年間の約4倍。社債は10年間で約1兆円を発行
    • [12]1972年6月に大幅な組織改定を行い、本店は全社的総括に専念し支店(社)に大幅な権限の委譲を行った
  • 日経ビジネス 1977年10月10日号
    • [14]田中精一は1977年6月に社長就任。入社当時は電灯や扇風機を一軒一軒売って歩いたと回想
  • 80年代わが社の戦略(1980年)「中部電力 田中精一」
    • [15]1979年は創立以来初めて新規電源の運転開始がない年。1980年は原子力をはじめ80年代の供給力となる新規電源地点に着手する土壇場の年

1977年〜知多のLNG専焼火力から、四日市のコンバインドサイクルと石炭火力による脱石油

中部電力は原子力を脱石油の中核と位置づける一方、計画から運転開始まで長い期間を要する原子力へのつなぎにLNG火力を充てた。1973年12月にはインドネシアのプルタミナと関西電力、大阪ガスなど5社で年間750万tのLNG購入を契約し、中部電力の引取量は170万tとした。LNG基地には、知多火力の約3km南で東邦瓦斯がガス製造工場用地として取得する予定の埋立地を共同で使った。1977年9月にインドネシアから第1船が到着し、1978年に知多火力5・6号機が中部電力初のLNG専焼火力として運転を始めた。1980年度末の設備構成は石油火力52%、LNG火力12%、原子力8%となった。

  • 中部電力40年史(中部電力、1991年)
    • [17]原子力開発は脱石油の中核と位置付けたが、計画から運転開始までの期間が長いためLNG火力をそのつなぎとして位置付けた
    • [18]1973年12月 インドネシア国営石油ガス会社プルタミナとの間に関西電力・大阪ガスなど5社で年間750万t(うち当社170万t)を契約
    • [20]1977年9月にインドネシアから第1船が知多LNG共同基地に到着。知多火力5・6号機は当社初のLNG専焼火力として1978年運転開始
    • [21]1980年度末の発電設備の構成比率は石油火力52%、LNG火力12%、原子力8%
  • 中部電力30年史(中部電力、1981年)
    • [19]知多火力の約3km南に東邦瓦斯がガス製造工場用地として取得予定の名古屋港管理組合の埋立地がLNG基地の立地条件に適合し、共同利用を折衝

1981年4月、中部電力は原子力など脱石油電源の開発を積極的に進める経営基本方針を明らかにした。1981年度の施設計画は、原子力開発の推進、石炭火力開発の早期具体化、当面の脱石油対策としてのLNG火力の開発を基本方針に掲げた。1984年には電源多様化の基本方針のもと、ベース需要に原子力と石炭、ミドル需要にLNG、ピーク需要に石油火力と揚水を充てる構成を目指した。1985年7月の長期展望は、2000年を目標に各電源を最適に組み合わせる電源ベストミックスを掲げた。同年6月に社長に就任した松永亀三郎氏は、『公益事業だからといって甘えてはいけない。ライバルのエネルギーに勝つためには、いつもお客のニーズを的確につかんでいかなければならない』と説いた。燃料の安定性と経済性を電源ごとの役割に割り付ける設計へ移ったとみられる。

  • 中部電力40年史(中部電力、1991年)
    • [22]1981年4月 原子力など脱石油電源の開発を積極的に進める経営基本方針を明らかにした
    • [23]1981年度の施設計画は「脱石油化と省エネルギー推進」を基本方針とし、原子力開発の推進・石炭火力開発の早期具体化・当面の脱石油対策としてのLNG火力開発の推進などを掲げた
    • [24]1984年に「セキュリティーとコストのバランスを目指した電源多様化」を基本方針とし、ベース需要に原子力・石炭火力、ミドル需要にLNG、ピーク需要に石油火力・揚水を充てることとした
    • [25]1985年7月策定の「21世紀に向けての長期展望」で2000年を目標に最適電源構成(電源ベストミックス)を追求
  • 日経ビジネス 1985年10月7日秋季増刊号
    • [26]松永亀三郎は1985年6月に社長就任。公益事業でも競合エネルギーに対し顧客のニーズを的確につかむ必要があるとの持論

1981年8月に三重県と四日市市へ建設を申し入れた四日市火力4号系列は、中部電力で初めてコンバインドサイクルを採用し、1988年7月に営業運転を始めた。熱効率は在来型を大きく上回る42.5%で、年間約5万tの燃料節約が見込まれた。燃料基地の四日市LNG基地には5年余りと905億円を投じ、四日市火力と川越火力へガスを送った。1981〜90年度の開発量654万kWのうち火力が527万kWを占め、既設のLNG転換を含むLNG火力は400万kWに達した。電源構成は1981年度末から1990年度末に、石油火力が65%から39%へ下がり、LNG火力が8%から34%へ上がった。1991年時点で、清水の石炭火力の建設計画は進んでいなかった。脱石油の実質は、原子力よりもLNG火力が担ったとみられる。

  • 中部電力40年史(中部電力、1991年)
    • [27]1981年8月に三重県および四日市市に四日市火力4号系列建設を申し入れ。当社として初めてコンバインドサイクル・プラントを採用し1988年7月に営業運転を開始
    • [28]四日市火力4号系列の熱効率は在来型に比べて42.5%と大幅に向上し、年間約5万tの燃料節約が期待できる
    • [29]5年余の歳月と905億円を投じて四日市LNG基地が完成。気化したガスは四日市火力および川越火力に送られる
    • [30]1981〜1990年度の開発量は合計654万kW、うち火力527万kW。LNG火力は既設四日市1〜3号機のLNG転換を含め400万kW
    • [31]電源構成は石油火力が1981年度末65%から1990年度末39%、LNG火力が8%から34%
  • 日経ビジネス 1991年7月15日号
    • [32]清水石炭火力発電所・芦浜原子力発電所など電源開発の建設計画は遅々として進んでいない(1991年7月時点)
参考文献[17]-[32]
  • 中部電力40年史(中部電力、1991年)
    • [17]原子力開発は脱石油の中核と位置付けたが、計画から運転開始までの期間が長いためLNG火力をそのつなぎとして位置付けた
    • [18]1973年12月 インドネシア国営石油ガス会社プルタミナとの間に関西電力・大阪ガスなど5社で年間750万t(うち当社170万t)を契約
    • [20]1977年9月にインドネシアから第1船が知多LNG共同基地に到着。知多火力5・6号機は当社初のLNG専焼火力として1978年運転開始
    • [21]1980年度末の発電設備の構成比率は石油火力52%、LNG火力12%、原子力8%
    • [22]1981年4月 原子力など脱石油電源の開発を積極的に進める経営基本方針を明らかにした
    • [23]1981年度の施設計画は「脱石油化と省エネルギー推進」を基本方針とし、原子力開発の推進・石炭火力開発の早期具体化・当面の脱石油対策としてのLNG火力開発の推進などを掲げた
    • [24]1984年に「セキュリティーとコストのバランスを目指した電源多様化」を基本方針とし、ベース需要に原子力・石炭火力、ミドル需要にLNG、ピーク需要に石油火力・揚水を充てることとした
    • [25]1985年7月策定の「21世紀に向けての長期展望」で2000年を目標に最適電源構成(電源ベストミックス)を追求
    • [27]1981年8月に三重県および四日市市に四日市火力4号系列建設を申し入れ。当社として初めてコンバインドサイクル・プラントを採用し1988年7月に営業運転を開始
    • [28]四日市火力4号系列の熱効率は在来型に比べて42.5%と大幅に向上し、年間約5万tの燃料節約が期待できる
    • [29]5年余の歳月と905億円を投じて四日市LNG基地が完成。気化したガスは四日市火力および川越火力に送られる
    • [30]1981〜1990年度の開発量は合計654万kW、うち火力527万kW。LNG火力は既設四日市1〜3号機のLNG転換を含め400万kW
    • [31]電源構成は石油火力が1981年度末65%から1990年度末39%、LNG火力が8%から34%
  • 中部電力30年史(中部電力、1981年)
    • [19]知多火力の約3km南に東邦瓦斯がガス製造工場用地として取得予定の名古屋港管理組合の埋立地がLNG基地の立地条件に適合し、共同利用を折衝
  • 日経ビジネス 1985年10月7日秋季増刊号
    • [26]松永亀三郎は1985年6月に社長就任。公益事業でも競合エネルギーに対し顧客のニーズを的確につかむ必要があるとの持論
  • 日経ビジネス 1991年7月15日号
    • [32]清水石炭火力発電所・芦浜原子力発電所など電源開発の建設計画は遅々として進んでいない(1991年7月時点)

1978年〜浜岡3号機の許可を遅らせた事故と東海地震問題、芦浜・熊野の停滞

浜岡1号機は1976年3月に営業運転を開始し、84万kWの2号機も1978年11月に運転を始めた。1977年6月には110万kWの3号機の増設を、静岡県・浜岡町と関係7漁協へ申し入れた。1979年3月のスリーマイル島の事故は、浜岡3号機をはじめ全国の原子力立地の推進が遅れる要因となった。1981年3月の第2次公開ヒアリングでは約5,000名の反対派がデモを行い、敦賀発電所の廃液漏洩問題や東海地震問題も重なって、許可は同年11月までずれ込んだ。3号機は1987年8月に運転を開始し、原子力の設備構成比は12%と2桁に乗った。浜岡1地点に増設を重ねるほど、1件の審査の遅れが原子力全体の計画を遅らせる構造になったとみられる。

  • 日本企業要覧 1976年版(東洋経済新報社)「中部電力」
    • [33]1976年3月 浜岡原子力発電所1号機が営業運転を開始
  • 中部電力40年史(中部電力、1991年)
    • [34]浜岡2号機(84万kW)は1978年11月に運転を開始
    • [37]1981年3月の第2次公開ヒアリングでは約5,000名の反対派がデモ。スリーマイル島事故・敦賀発電所の廃液漏洩問題・東海地震問題の影響で厳しい安全審査が行われ、1981年11月に許可
    • [38]浜岡3号機は1987年8月に営業運転を開始し、原子力発電設備容量は248万kW、設備構成比は12%と2桁に乗った
  • 中部電力30年史(中部電力、1981年)
    • [35]1977年6月に3号機(出力110万kW)増設を静岡県・浜岡町および関係7漁業協同組合へ申し入れ
    • [36]1979年3月のスリーマイル島の原子力発電所事故が浜岡3号機をはじめとして全国の原子力立地推進が遅延する要因となった

芦浜では1985年4月に施設計画で地点名を公表し、同年6月に三重県議会が原子力発電所立地調査推進を決議した。しかし南島町では反対決議の再確認や反対組織の結成が相次ぎ、20年前の激しい反対運動が再燃した。1986年4月のチェルノブイリ事故の後、熊野市長は同年11月に原子力発電所を誘致しない方針を明確にした。1989年7月の参議院選挙では反原発を掲げる政党が乱立し、芦浜地点の南島町と紀勢町で高い得票率を示した。1991年時点で、芦浜原子力発電所の建設計画は進んでいなかった。原子力による脱石油と電源多様化の推進は、1991年時点で中部電力の最大の経営課題とされた。

  • 中部電力40年史(中部電力、1991年)
    • [39]1985年4月に施設計画で芦浜地点を実名化し、同年6月に三重県議会が原子力発電所立地調査推進に関する決議
    • [40]南島町では原発反対決議の再確認、反対組織の結成など20年前の激しい反対運動が再燃
    • [41]1986年4月のチェルノブイリ原子力発電所の事故の後、同年11月に8選を果たした熊野市長は原子力発電所誘致の考えはないとして拒否の方針を明確にした
    • [42]1989年7月の参議院選挙比例代表区で反原発ミニ政党が乱立し、芦浜地点の南島町・紀勢町などで高い得票率を示した
    • [44]原子力発電による脱石油・電源多様化の推進は当社最大の経営課題
  • 日経ビジネス 1991年7月15日号
    • [43]清水石炭火力発電所・芦浜原子力発電所など電源開発の建設計画は遅々として進んでいない(1991年7月時点)

1987年度以降は内需主導の景気回復で、中部電力の発受電電力量は毎年4.8〜7.6%伸びた。1990年夏の最大電力は2,205万kWを記録し、他社からの融通を受けても供給予備率は2.3%にとどまった。1991年時点で、2000年以降の電源はほとんど確定しておらず、新規地点の開発が緊急の課題とされた。1991年6月に社長に就任した安部浩平氏は、7月の組織改革で電源別の渉外担当を地域別の担当へ改めた。浜岡では4号機を1989年2月に着工し、5号機の建設では国内の原子力で初めて高効率タービンを採用する予定とした。電源立地の制約は、技術や資金よりも地元の合意形成に移ったとみられる。

  • 中部電力40年史(中部電力、1991年)
    • [45]発受電電力量は前年対比で1987年度7.6%、1988年度4.8%、1989年度5.9%、1990年度6.6%の伸び
    • [46]1990年夏季の最大電力は2,205万kWを記録し、供給予備率は他社融通を受けてもなお2.3%
    • [47]2000年以降の電源についてはほとんど確定しておらず、新規地点の開発は緊急課題(1991年時点)
    • [49]浜岡原子力発電所4号機は1989年2月に建設着工
  • 日経ビジネス 1991年7月15日号
    • [48]1991年6月 安部浩平が社長就任。7月1日の組織改革で電源別担当渉外を地域別担当に変更
  • 中部電力 経営計画「平成13年度 経営の目指すもの」(2001年)
    • [50]建設中の浜岡原子力発電所5号機に国内原子力プラントでは初めてとなる高効率タービンを採用する予定
参考文献[33]-[50]
  • 日本企業要覧 1976年版(東洋経済新報社)「中部電力」
    • [33]1976年3月 浜岡原子力発電所1号機が営業運転を開始
  • 中部電力40年史(中部電力、1991年)
    • [34]浜岡2号機(84万kW)は1978年11月に運転を開始
    • [37]1981年3月の第2次公開ヒアリングでは約5,000名の反対派がデモ。スリーマイル島事故・敦賀発電所の廃液漏洩問題・東海地震問題の影響で厳しい安全審査が行われ、1981年11月に許可
    • [38]浜岡3号機は1987年8月に営業運転を開始し、原子力発電設備容量は248万kW、設備構成比は12%と2桁に乗った
    • [39]1985年4月に施設計画で芦浜地点を実名化し、同年6月に三重県議会が原子力発電所立地調査推進に関する決議
    • [40]南島町では原発反対決議の再確認、反対組織の結成など20年前の激しい反対運動が再燃
    • [41]1986年4月のチェルノブイリ原子力発電所の事故の後、同年11月に8選を果たした熊野市長は原子力発電所誘致の考えはないとして拒否の方針を明確にした
    • [42]1989年7月の参議院選挙比例代表区で反原発ミニ政党が乱立し、芦浜地点の南島町・紀勢町などで高い得票率を示した
    • [44]原子力発電による脱石油・電源多様化の推進は当社最大の経営課題
    • [45]発受電電力量は前年対比で1987年度7.6%、1988年度4.8%、1989年度5.9%、1990年度6.6%の伸び
    • [46]1990年夏季の最大電力は2,205万kWを記録し、供給予備率は他社融通を受けてもなお2.3%
    • [47]2000年以降の電源についてはほとんど確定しておらず、新規地点の開発は緊急課題(1991年時点)
    • [49]浜岡原子力発電所4号機は1989年2月に建設着工
  • 中部電力30年史(中部電力、1981年)
    • [35]1977年6月に3号機(出力110万kW)増設を静岡県・浜岡町および関係7漁業協同組合へ申し入れ
    • [36]1979年3月のスリーマイル島の原子力発電所事故が浜岡3号機をはじめとして全国の原子力立地推進が遅延する要因となった
  • 日経ビジネス 1991年7月15日号
    • [43]清水石炭火力発電所・芦浜原子力発電所など電源開発の建設計画は遅々として進んでいない(1991年7月時点)
    • [48]1991年6月 安部浩平が社長就任。7月1日の組織改革で電源別担当渉外を地域別担当に変更
  • 中部電力 経営計画「平成13年度 経営の目指すもの」(2001年)
    • [50]建設中の浜岡原子力発電所5号機に国内原子力プラントでは初めてとなる高効率タービンを採用する予定

筆者考察

1973年の石油危機が中部電力を直撃したのは、備えを怠ったからではなく、1960年代に選んだ大容量の石油火力が燃料調達の一点へ集まっていたからである。総発電電力量の約8割を石油火力が占め、1974年3月末の貯油量は消費量の10日分を割り込んだ。1974年6月の平均71.79%、1976年8月の22.47%、1980年4月の49.07%という改定は、燃料費の変動をそのつど料金へ移す作業だった。しかも第2次石油危機の申請は平均64.81%が49.07%へ圧縮されており、転嫁は査定で削られる。1971〜80年度の工事資金2兆3,115億円と約1兆円の社債発行は、削られた分を外部資金で埋めた結果である。

脱石油の中核に据えたのは原子力だったが、実際に石油を置き換えたのはLNGである。1973年12月のプルタミナとの契約で年間170万tを引き取り、知多火力5・6号機が1978年に運転を始め、1988年の四日市火力4号系列は熱効率42.5%のコンバインドサイクルとなった。1981年度末から1990年度末に、石油火力は65%から39%へ下がり、LNG火力は8%から34%へ上がっている。原子力が伸びなかったのは技術ではなく手続きの問題で、浜岡3号機はスリーマイル島の事故と東海地震問題を経て許可が1981年11月までずれ込んだ。芦浜も熊野も住民の反対で止まり、増設できる地点が浜岡しかない以上、1件の審査の遅れがそのまま原子力全体の遅れになった。

電源構成 1981年度末と1990年度末(%)

65191981年度末 393411161990年度末 石油火力 LNG火力 原子力 水力
  • 1990年度末は水力16%・石油火力39%・LNG火力34%・原子力11%。1981年度末は石油火力65%・LNG火力8%・原子力8%で、水力19%は100%からの残余。
  • 石炭火力は1974年の武豊1号機を最後に設備が無くなった。
  • 出所は中部電力40年史(中部電力、1991年)。

1973年〜1999年の業績

決算期 区分 売上高 経常利益純利益 主な投資
億円 YoY 億円 利益率 億円
1973年03月期 単体 3,075 n/a 236 7.7% 151 n/a
1974年03月期 単体 3,399 +10.5% 5 0.1% 77 n/a
1975年03月期 単体 5,514 +62.2% 192 3.5% 141 n/a
1976年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1977年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1978年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1979年03月期 単体 8,864 n/a 620 7.0% 428 n/a
1980年03月期 単体 9,965 +12.4% ▲263 ▲2.6% ▲240 n/a
1981年03月期 単体 14,950 +50.0% 1,684 11.3% 899 n/a
1982年03月期 単体 15,596 +4.3% 1,142 7.3% 498 n/a
1983年03月期 単体 15,820 +1.4% 950 6.0% 520 n/a
1984年03月期 単体 16,955 +7.2% 1,612 9.5% 730 n/a
1985年03月期 単体 17,805 +5.0% 1,387 7.8% 694 n/a
1986年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1987年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1988年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1989年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1990年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1991年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1992年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1993年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1994年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1995年03月期 連結 20,675 n/a 1,022 4.9% 456 n/a
1996年03月期 連結 21,089 +2.0% 976 4.6% 477 n/a
1997年03月期 連結 21,708 +2.9% 810 3.7% 384 n/a
1998年03月期 連結 22,477 +3.5% 1,000 4.4% 402 n/a
1999年03月期 連結 21,749 ▲3.2% 934 4.3% 411 n/a

出所:会社年鑑

出典・参考

8件
出典・参考
  • 中部電力30年史(中部電力、1981年)
  • 中部電力40年史(中部電力、1991年)
  • 日本企業要覧 1976年版(東洋経済新報社)「中部電力」
  • 日経ビジネス 1977年10月10日号
  • 日経ビジネス 1985年10月7日秋季増刊号
  • 日経ビジネス 1991年7月15日号
  • 80年代わが社の戦略(1980年)「中部電力 田中精一」
  • 中部電力 経営計画「平成13年度 経営の目指すもの」(2001年)

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