中部電力:水力から石油火力への転換と四日市公害判決
1961年〜火力比率73%への転換と、販売電力量3.4倍・設備投資5,939億円
1960年代の中部電力は、電源開発の主体を水力から火力へ移した。創立からの10年で水力の良好地点の開発をほぼ終え、技術革新で火力の経済性が大きく上がっていた。1961年からの10年間に開発した火力は413万5,200kWで、水力の開発量の約5倍に相当した。電源構成は1961年3月末の水力47対火力53から、1971年3月末の27対73へ移った。渥美を除く火力の用地は、埋立権者が漁業補償まで一括して解決した臨海部の造成地を取得していた。1968年3月には、超臨界圧で一軸式として世界最大の知多火力3号機が運転を始めた。1970年時点では国内第3位の電力会社として、1970年度に新規200万kWを着工する1,270億円の投資を計画した。
- 中部電力20年史(中部電力、1971年)
- [1]1960年代は火力主体の電源開発を推進
- [2]創立からの10年間に水力の良好地点をほとんど開発しつくし、技術革新によって火力の経済性が大幅に向上
- [3]1961〜1971年の10年間に開発した火力は413万5,200kW、水力の開発量の約5倍
- [4]電源構成比率は1961年3月末の水力47対火力53から1971年3月末に27対73
- [5]火力発電所用地は渥美火力を除き臨海部の埋立造成地で、埋立権者から漁業補償問題も一括解決した土地を譲り受けた
- 企業の歴史 明治百年(経済春秋社、1968年)「中部電力」
- [6]1968年3月 超臨界圧で出力50万kW、一軸式では世界最大の知多火力3号機が運転を開始
- 日本企業要覧 1970年版(東洋経済新報社)「中部電力」
- [7]わが国第3位の電力会社。1970年度は新規に200万kWを着工、前年比65%増の1,270億円の大型投資を計画
1970年度の販売電力量は393億8,000万kWhで、10年前の1960年度の3.4倍に増えた。全国9社の総需要に占める中部電力の割合は、1960年度の13.4%から1970年度には15.2%へ上がった。臨海部の石油化学コンビナートと鉄鋼、内陸部の工作機械・輸送用機械が伸び、電力の需要は10年間で3.3倍になった。冷房機器の普及で1968年度に初めて夏季に年間のピークが生じ、1970年度以降はピークが夏季へ移った。昼夜の需要の格差を縮めるため、1964年11月から深夜電力を使う小型電気温水器の販売を始めた。需要の急増と夏への偏りが、大容量の火力を急いで積み増す条件を作ったとみられる。
- 中部電力20年史(中部電力、1971年)
- [8]1970年度の総販売電力量は393億8,000万kWh、10年前の1960年度にくらべ3.4倍(年平均増加率13.0%)
- 中部電力40年史(中部電力、1991年)
- [9]全国9社の総需要に占める当社の割合は1960年度の13.4%から1970年度には15.2%に増大
- [10]臨海部の石油化学コンビナート・鉄鋼、内陸部の工作機械・輸送用機械が発展し、電力需要は10年間に3.3倍
- [11]1968年度に初めて夏季に年間ピークが発生し、1970年度以降は夏季に移行
- [12]深夜負荷の造成をはかるため1964年11月から小型電気温水器の販売を開始
1961〜70年度の設備投資は総額5,939億円にのぼり、前の10年間の約3倍に達した。社債の残高は1960年度末の459億5,200万円から、1970年度末には約4.2倍の1,928億300万円に増えた。大規模な電源開発で資本費が膨らみ、1963・64年度には大幅な実質赤字が生じて、経理は数期にわたり低空飛行を続けた。中部電力は1964年10月に平均9.71%の値上げを申請し、1965年4月から10年ぶりとなる平均7.89%の料金改定を実施した。1965年5月にまとめた長期総合経営計画は、深夜負荷の造成、大容量電源の拡充、公害対策、先行用地の手配などを提言した。石油が豊富で低廉だったことに合理化が加わり、1965年の改定の料金水準は1974年まで維持された。
- 中部電力20年史(中部電力、1971年)
- [13]この10年間の設備投資は総額5,939億円にのぼり、前半10年間の約3倍
- [14]1960年度末に459億5,200万円であった社債残高は1970年度末には約4.2倍の1,928億300万円
- [15]大規模な電源開発により資本費が増大し、1963・1964年度には大幅な実質赤字が発生、経理状況は数期にわたって「低空飛行」状態
- [17]1965年5月にとりまとめた長期総合経営計画は深夜負荷造成・大容量電源の拡充・公害対策・先行用地手配などを提言
- 中部電力40年史(中部電力、1991年)
- [16]1964年10月に平均9.71%の電気料金値上げを申請し、翌年3月に平均7.89%の認可を受け4月から実施。1954年以来10年ぶりの改定
- 中部電力30年史(中部電力、1981年)
- [18]1965年4月に平均7.89%の料金改定を実施して以来1974年まで料金水準を維持。石油エネルギーが豊富で低廉であったことに合理化が加わった
参考文献[1]-[18]
- 中部電力20年史(中部電力、1971年)
- [1]1960年代は火力主体の電源開発を推進
- [2]創立からの10年間に水力の良好地点をほとんど開発しつくし、技術革新によって火力の経済性が大幅に向上
- [3]1961〜1971年の10年間に開発した火力は413万5,200kW、水力の開発量の約5倍
- [4]電源構成比率は1961年3月末の水力47対火力53から1971年3月末に27対73
- [5]火力発電所用地は渥美火力を除き臨海部の埋立造成地で、埋立権者から漁業補償問題も一括解決した土地を譲り受けた
- [8]1970年度の総販売電力量は393億8,000万kWh、10年前の1960年度にくらべ3.4倍(年平均増加率13.0%)
- [13]この10年間の設備投資は総額5,939億円にのぼり、前半10年間の約3倍
- [14]1960年度末に459億5,200万円であった社債残高は1970年度末には約4.2倍の1,928億300万円
- [15]大規模な電源開発により資本費が増大し、1963・1964年度には大幅な実質赤字が発生、経理状況は数期にわたって「低空飛行」状態
- [17]1965年5月にとりまとめた長期総合経営計画は深夜負荷造成・大容量電源の拡充・公害対策・先行用地手配などを提言
- 企業の歴史 明治百年(経済春秋社、1968年)「中部電力」
- [6]1968年3月 超臨界圧で出力50万kW、一軸式では世界最大の知多火力3号機が運転を開始
- 日本企業要覧 1970年版(東洋経済新報社)「中部電力」
- [7]わが国第3位の電力会社。1970年度は新規に200万kWを着工、前年比65%増の1,270億円の大型投資を計画
- 中部電力40年史(中部電力、1991年)
- [9]全国9社の総需要に占める当社の割合は1960年度の13.4%から1970年度には15.2%に増大
- [10]臨海部の石油化学コンビナート・鉄鋼、内陸部の工作機械・輸送用機械が発展し、電力需要は10年間に3.3倍
- [11]1968年度に初めて夏季に年間ピークが発生し、1970年度以降は夏季に移行
- [12]深夜負荷の造成をはかるため1964年11月から小型電気温水器の販売を開始
- [16]1964年10月に平均9.71%の電気料金値上げを申請し、翌年3月に平均7.89%の認可を受け4月から実施。1954年以来10年ぶりの改定
- 中部電力30年史(中部電力、1981年)
- [18]1965年4月に平均7.89%の料金改定を実施して以来1974年まで料金水準を維持。石油エネルギーが豊富で低廉であったことに合理化が加わった
1963年〜四日市の公害と、尾鷲三田・渥美の増設を止めた地元の反対
四日市火力では1963年に粉じんの降下が、1964年と1966年には温排水による海苔の被害が問題となった。1963年には四日市火力で初めて120mの高煙突を採用し、その後は既設の発電所でも高煙突への建て替えを進めた。1967年に公害対策基本法、1968年に大気汚染防止法が施行され、尾鷲三田火力の増設は公害問題を発端に着手できなくなった。1970年度には休止中の名港火力を復活させても予備力をほぼ確保できず、火力1台の事故で緊急融通か需要抑制を迫られる需給状態となった。1972年7月の四日市公害訴訟判決は、中部電力を含むコンビナート立地企業6社の共同不法行為を認定した。環境対策の水準が、火力立地の同意を得る条件そのものになったとみられる。
- 中部電力20年史(中部電力、1971年)
- [19]四日市火力で1963年に磯津地区への粉じん降下、1964・1966年に温排水による海苔被害が問題化
- [21]1967年8月公害対策基本法・1968年12月大気汚染防止法が施行。尾鷲三田火力の増設は公害問題に端を発して着手できない事態
- [22]1970年度は名港火力1〜3号機を復活しても予備力をほとんど保有できず、火力1台の事故で緊急融通受電または需要抑制を考慮する危局
- 中部電力30年史(中部電力、1981年)
- [20]新設発電所の公害防除対策として1963年にはじめて四日市火力で120mの高煙突を採用し、その後順次既設分も高煙突の建て替えを行った
- 日本産業史 第3巻 エネルギー・資源(日本経済新聞社、1994年)「原発時代の幕開けと脱石油への模索」
- [23]1972年7月の四日市公害訴訟判決で中部電力を含む四日市コンビナートの立地企業6社の共同不法行為が認定
尾鷲三田火力3・4号機の増設は、1969年12月に電源開発調整審議会で国の電源開発基本計画への組み入れが決まった。しかし既設の公害問題が障害となり、1970年3月に地元で増設反対連合会が発足した。市長のリコール運動と激しい反対運動を受けて、市長は1971年3月の市議会で増設問題の延期を表明した。工業地帯から離れた渥美と尾鷲の両地点には、電力の必要性は認めるが地元への立地には反対するという風潮が広く存在した。1970年5月の電源開発調整審議会も、渥美火力3・4号機の増設のうち3号機だけを承認した。臨海工業地帯の外へ出た火力の増設は、既設の環境実績を問われて計画年次を大きく後退させたとみられる。
- 中部電力40年史(中部電力、1991年)
- [24]尾鷲三田火力3・4号機(50万kW・2基)は1969年12月に電源開発調整審議会で国の電源開発基本計画への組み入れが決定
- [26]市長のリコール運動や激しい増設反対運動が展開され、市長は1971年3月の市議会において増設問題の延期を表明
- 中部電力30年史(中部電力、1981年)
- [25]尾鷲三田火力3・4号機の増設は当時から既設の公害問題があい路となって、1970年3月に地元に増設反対連合会が発足
- [27]第1次産業中心の経済基盤をもち工業地帯からの遠隔立地である渥美・尾鷲両地点の増設には、電力の必要性は認めるが地元での立地には反対するといった総論賛成・各論反対の風潮が広く存在
- [28]1970年5月 電源開発調整審議会で渥美火力の増設は3号機のみが承認
渥美火力の用地は、1965年に地元の積極的な協力を得て約108万m²を買収した。渥美は三河湾国定公園に位置し、発電所の周辺は松林の保安林に囲まれていたため、建設では環境保全に特に留意した。1・2号機は同容量の知多火力3号機の経験を基に電子計算機によるユニット起動制御を採り入れ、大容量機ながら3名の運転員で運転できる設計とした。立地の難航を受けて、中部電力は1969年6月に開発調整部を設け、地元の動向の把握と折衝、公害に関する社内の取りまとめを担わせた。同年9月には加藤乙三郎社長が、部署を問わず全従業員が誠意をつくして地域の理解を得るよう示達した。発電所の立地は、技術部門だけでなく全社で地域の理解を得る仕事になったとみられる。
- 中部電力20年史(中部電力、1971年)
- [29]渥美火力については地元の積極的協力を得て1965年に約108万m²の用地買収を行った
- 中部電力30年史(中部電力、1981年)
- [30]渥美火力は三河湾国定公園に位置し、発電所周辺は松林の保安林に囲まれた環境のよい所であるため、環境保全について特に留意して建設
- [31]渥美1・2号機は同容量・同型式の知多火力3号機の経験を基に電子計算機によるユニット起動制御などの自動化を行い、大容量機でありながら3名の運転員で運転可能
- 中部電力40年史(中部電力、1991年)
- [32]1969年6月「開発調整部」を設置し、地元動向の把握・折衝業務および公害に関する社内取りまとめを担当
- [33]1969年9月 加藤社長が「一人ひとりが電源開発の先兵たれ」を発表し、全従業員に部署のいかんを問わず誠意をつくして地域の理解を得るよう示達
参考文献[19]-[33]
- 中部電力20年史(中部電力、1971年)
- [19]四日市火力で1963年に磯津地区への粉じん降下、1964・1966年に温排水による海苔被害が問題化
- [21]1967年8月公害対策基本法・1968年12月大気汚染防止法が施行。尾鷲三田火力の増設は公害問題に端を発して着手できない事態
- [22]1970年度は名港火力1〜3号機を復活しても予備力をほとんど保有できず、火力1台の事故で緊急融通受電または需要抑制を考慮する危局
- [29]渥美火力については地元の積極的協力を得て1965年に約108万m²の用地買収を行った
- 中部電力30年史(中部電力、1981年)
- [20]新設発電所の公害防除対策として1963年にはじめて四日市火力で120mの高煙突を採用し、その後順次既設分も高煙突の建て替えを行った
- [25]尾鷲三田火力3・4号機の増設は当時から既設の公害問題があい路となって、1970年3月に地元に増設反対連合会が発足
- [27]第1次産業中心の経済基盤をもち工業地帯からの遠隔立地である渥美・尾鷲両地点の増設には、電力の必要性は認めるが地元での立地には反対するといった総論賛成・各論反対の風潮が広く存在
- [28]1970年5月 電源開発調整審議会で渥美火力の増設は3号機のみが承認
- [30]渥美火力は三河湾国定公園に位置し、発電所周辺は松林の保安林に囲まれた環境のよい所であるため、環境保全について特に留意して建設
- [31]渥美1・2号機は同容量・同型式の知多火力3号機の経験を基に電子計算機によるユニット起動制御などの自動化を行い、大容量機でありながら3名の運転員で運転可能
- 日本産業史 第3巻 エネルギー・資源(日本経済新聞社、1994年)「原発時代の幕開けと脱石油への模索」
- [23]1972年7月の四日市公害訴訟判決で中部電力を含む四日市コンビナートの立地企業6社の共同不法行為が認定
- 中部電力40年史(中部電力、1991年)
- [24]尾鷲三田火力3・4号機(50万kW・2基)は1969年12月に電源開発調整審議会で国の電源開発基本計画への組み入れが決定
- [26]市長のリコール運動や激しい増設反対運動が展開され、市長は1971年3月の市議会において増設問題の延期を表明
- [32]1969年6月「開発調整部」を設置し、地元動向の把握・折衝業務および公害に関する社内取りまとめを担当
- [33]1969年9月 加藤社長が「一人ひとりが電源開発の先兵たれ」を発表し、全従業員に部署のいかんを問わず誠意をつくして地域の理解を得るよう示達
1966年〜芦浜の漁業者の反対から、浜岡の用地156万m²と漁業補償による1号機着工まで
中部電力は1962年度の電力長期計画で原子力1号機25万kWを初めて組み入れ、1966年6月には原子力推進部を設けた。ところが1964年7月に内定を発表した三重県の芦浜では、南島町の漁業者が温排水による真珠養殖への被害を理由に反対を続けた。南島町の激しい反対運動のなかで1966年9月にいわゆる長島事件が起き、三重県知事は翌1967年9月に声明を出したが、その後も芦浜の情勢に進展はみられなかった。1971年10月には第3の候補地点として熊野市に立地調査を申し入れたが、市議会は1972年3月に原子力反対を決議した。原子力の立地は、地元の合意を得られた静岡県の浜岡の1地点へ絞られていったとみられる。
- 中部電力20年史(中部電力、1971年)
- [34]1962年度電力長期計画で原子力1号機25万kWをはじめて組み入れ
- [35]原子力発電の計画が具体的になり1966年6月に「原子力推進部」を設け組織体制を強化
- [36]1964年7月 芦浜内定を発表。南島町の漁業者は温排水が真珠養殖に被害を及ぼすとして反対を継続
- 中部電力40年史(中部電力、1991年)
- [37]南島町では激しい反対運動が続き1966年9月にいわゆる「長島事件」が発生。三重県知事は1967年9月に声明を発表し、以降も情勢の進展はみられなかった
- [38]1971年10月 浜岡・芦浜に次ぐ3番目の立地候補地点として熊野市に立地調査を申し入れ。1972年3月に市議会が原子力反対決議
浜岡地点は1967年に決まり、1号機の着工までに4年余りにわたる地元との話し合いが続いた。用地の取得は地元の浜岡町の協力で比較的順調に進み、1968年に全用地156万4,000m²を取得した。1970年4月には炉形を沸騰水型、主契約者を東芝に決め、5月に原子炉設置許可を申請した。漁業補償は1971年3月に榛南5組合と6億1,100万円で協定を結び、浜岡の前面海域約2.5km²の漁業権を消滅させた。遠州2組合とも同年4月に2億7,000万円で補償協定を結んだ。54万kWの1号機は1971年3月に着工し、5月に起工式を行った。
- 中部電力40年史(中部電力、1991年)
- [39]浜岡1号機は1967年の地点決定以来4年余にわたる話し合いを通じて合意が得られ着工に至った
- [45]浜岡原子力発電所起工式(1971年5月)
- 中部電力20年史(中部電力、1971年)
- [40]浜岡地点の用地取得は地元浜岡町の協力を得て比較的順調にすすみ、1968年に全用地156万4,000m²を取得
- [41]1970年4月 炉形を沸とう水形(BWR)に、主契約者を東芝に決定。5月に原子炉設置許可を申請
- [42]1971年3月 榛南5組合と、浜岡前面海域約2.5km²の漁業権を消滅させ漁業補償額6億1,100万円とする協定を締結
- [43]遠州2組合とも1971年4月に漁業補償額2億7,000万円で補償協定を締結
- [44]浜岡では4年間にわたる地元との話合いの結果立地が認められ、54万kWの1号機を1971年3月に着工
浜岡町では、関係町の代表者と漁業者からなる対策審議会が発足し、漁業への影響を漁業者みずからの手で調査した。審議会は原子力発電の安全性と環境問題を自主的に研究したうえで、発電所の受け入れを結論とした。中部電力はこれと並行して、1969年のはじめから1年以上、浜岡の敷地内で気象と地質、地震の観測を続けた。政府の原子炉安全専門審査会第64部会は、6か月の審査と現地視察を経て、1970年12月に浜岡原子力発電所の安全を認めた。1971年3月には静岡県と浜岡町・御前崎町・相良町との間で、原子力発電所の安全確認等に関する協定を結んだ。中部電力は1956年3月に火力部へ原子力課を置き、海外の原子力機関や日本原子力研究所への派遣で技術者を養成した。関係する技術者は1971年には150人を超えた。
- 中部電力30年史(中部電力、1981年)
- [46]関係町の代表者と漁業者からなる「対策審議会」を発足させ、漁業者みずからの手で漁業への影響調査を実施
- [47]対策審議会は原子力発電の安全性や環境問題を自主的に研究し、その結論として浜岡への原子力発電所の設置を受け入れた。地元のこうした方針は電源立地における地域社会関係の新しい形として注目された
- [50]1971年3月、関係漁業協同組合との補償解決とともに静岡県・浜岡町・御前崎町・相良町との間で「原子力発電所の安全確認等に関する協定」に調印
- 中部電力20年史(中部電力、1971年)
- [48]1969年のはじめから1年以上にわたり浜岡地点の敷地内で気象、地質調査、地震観測などを行い、原子炉設置許可申請の基礎資料とした
- [49]原子炉安全専門審査会第64部会で6カ月にわたる慎重な審査と現地視察を行い、1970年12月に浜岡原子力発電所が安全であることを認めた
- [51]1956年3月に火力部へ原子力課を設置し、技術者を海外原子力機関や日本原子力研究所、日本原子力発電会社などへ計画的に派遣して原子力発電所の建設・運転を経験させた
- [52]原子力の関係技術者は1971年時点で150人を超えた
参考文献[34]-[52]
- 中部電力20年史(中部電力、1971年)
- [34]1962年度電力長期計画で原子力1号機25万kWをはじめて組み入れ
- [35]原子力発電の計画が具体的になり1966年6月に「原子力推進部」を設け組織体制を強化
- [36]1964年7月 芦浜内定を発表。南島町の漁業者は温排水が真珠養殖に被害を及ぼすとして反対を継続
- [40]浜岡地点の用地取得は地元浜岡町の協力を得て比較的順調にすすみ、1968年に全用地156万4,000m²を取得
- [41]1970年4月 炉形を沸とう水形(BWR)に、主契約者を東芝に決定。5月に原子炉設置許可を申請
- [42]1971年3月 榛南5組合と、浜岡前面海域約2.5km²の漁業権を消滅させ漁業補償額6億1,100万円とする協定を締結
- [43]遠州2組合とも1971年4月に漁業補償額2億7,000万円で補償協定を締結
- [44]浜岡では4年間にわたる地元との話合いの結果立地が認められ、54万kWの1号機を1971年3月に着工
- [48]1969年のはじめから1年以上にわたり浜岡地点の敷地内で気象、地質調査、地震観測などを行い、原子炉設置許可申請の基礎資料とした
- [49]原子炉安全専門審査会第64部会で6カ月にわたる慎重な審査と現地視察を行い、1970年12月に浜岡原子力発電所が安全であることを認めた
- [51]1956年3月に火力部へ原子力課を設置し、技術者を海外原子力機関や日本原子力研究所、日本原子力発電会社などへ計画的に派遣して原子力発電所の建設・運転を経験させた
- [52]原子力の関係技術者は1971年時点で150人を超えた
- 中部電力40年史(中部電力、1991年)
- [37]南島町では激しい反対運動が続き1966年9月にいわゆる「長島事件」が発生。三重県知事は1967年9月に声明を発表し、以降も情勢の進展はみられなかった
- [38]1971年10月 浜岡・芦浜に次ぐ3番目の立地候補地点として熊野市に立地調査を申し入れ。1972年3月に市議会が原子力反対決議
- [39]浜岡1号機は1967年の地点決定以来4年余にわたる話し合いを通じて合意が得られ着工に至った
- [45]浜岡原子力発電所起工式(1971年5月)
- 中部電力30年史(中部電力、1981年)
- [46]関係町の代表者と漁業者からなる「対策審議会」を発足させ、漁業者みずからの手で漁業への影響調査を実施
- [47]対策審議会は原子力発電の安全性や環境問題を自主的に研究し、その結論として浜岡への原子力発電所の設置を受け入れた。地元のこうした方針は電源立地における地域社会関係の新しい形として注目された
- [50]1971年3月、関係漁業協同組合との補償解決とともに静岡県・浜岡町・御前崎町・相良町との間で「原子力発電所の安全確認等に関する協定」に調印
筆者考察
1960年代の中部電力にとって、電源の選択は技術の問題から立地の同意の問題へ移った。創立からの10年で水力の良好地点をほぼ開発し終え、火力の経済性が上がっていたから、1961年からの10年間に開発した火力413万5,200kWは水力の約5倍に達した。電源構成は1961年3月末の水力47対火力53から、1971年3月末の27対73へ振れた。この転換が計画どおりに進んだのは、渥美を除く火力の用地が、埋立権者の側で漁業補償まで解決済みの臨海造成地だったからである。同意の手続きを他人が先に済ませた土地の上でだけ、大容量の火力は工程を守れた。知多火力3号機が1968年3月に世界最大の一軸式として運転を始めたのも、その条件の内側の出来事である。
条件が外れた地点では、計画は年単位で止まった。四日市の粉じんと温排水、1972年7月の公害訴訟判決が示したのは、既設の環境実績が次の立地の可否を決めるということである。尾鷲三田3・4号機は国の電源開発基本計画へ組み入れられながら、増設反対連合会の結成と市長のリコール運動を経て延期され、渥美の増設も3号機だけが承認された。1969年6月の開発調整部の設置と、加藤乙三郎社長が全従業員へ出した示達は、立地を技術部門の担当から全社の仕事へ移すものだった。芦浜が長島事件の後も動かず、熊野市議会が1972年3月に反対を決議した結果、原子力は用地156万4,000m²と漁業補償の整った浜岡の1地点だけに残った。
- 1961年3月末の水力47対火力53が、1971年3月末には27対73へ逆転した。
- 出所は中部電力20年史(中部電力、1971年)。
1961年〜1972年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 営業利益 | 経常利益 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 億円 | 利益率 | 億円 | |||
| 1961年03月期 | 単体 | 642 | n/a | n/a | 51 | 8.0% | n/a | n/a |
| 1962年03月期 | 単体 | 763 | +18.9% | 153 | 68 | 9.0% | 43 | n/a |
| 1963年03月期 | 単体 | 857 | +12.2% | 170 | 88 | 10.3% | 55 | n/a |
| 1964年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1965年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1966年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1967年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1968年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1969年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1970年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1971年03月期 | 単体 | 2,525 | n/a | n/a | 264 | 10.5% | 153 | n/a |
| 1972年03月期 | 単体 | 2,734 | +8.3% | n/a | 256 | 9.4% | 161 | n/a |
出所:ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版、会社年鑑
出典・参考
6件
- 中部電力20年史(中部電力、1971年)
- 中部電力30年史(中部電力、1981年)
- 中部電力40年史(中部電力、1991年)
- 企業の歴史 明治百年(経済春秋社、1968年)「中部電力」
- 日本産業史 第3巻 エネルギー・資源(日本経済新聞社、1994年)「原発時代の幕開けと脱石油への模索」
- 日本企業要覧 1970年版(東洋経済新報社)「中部電力」