第1章 年〜年

中部電力:九分割による中部電力の発足と伊勢湾台風からの復旧

1951年〜7ブロック案への反対と、103万kWの設備で始めた発送配電一貫経営

中部電力は1951年5月、電力再編成令に基づく日本発送電と中部配電の発起設立により、資本金7億5,000万円で発足した。再編成の審議では、1949年5月に集中排除審査委員会が中部と北陸を関西へ併合する7ブロック分割案を非公式に示した。中部配電はこれに対し、県・市・商工会議所・需要家とともに反対運動を展開した。中部配電の副社長で、のちに中部電力の初代社長となる井上五郎氏は、プール計算を廃して各社が責任を負う九分割案を配電会社の立場で主張した。発足後の中部電力は、中部5県の区域内にある日本発送電の発送変電設備を継承し、発電から配電までを一貫して担った。需要の伸びを見込む名古屋圏が、電源開発の責任を自社で負う企業形態を選択した再編成とみられる。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 09_電力「中部電力」
    • [1]1951年5月 電力再編成令に基づき日本発送電と中部配電の発起設立により資本金7億5,000万円で発足
    • [5]中部電力発足時の社長は井上五郎(会長は海東要造)
    • [6]供給区域は愛知・岐阜・長野・静岡・三重の中部5県。区域内の日本発送電の発送変電設備を継承し発送配電の一貫経営を行う私企業として発足
  • 中部電力10年史(中部電力、1961年)総説編 第1章 戦後の電気事業と当社の設立
    • [2]1949年5月 集中排除審査委員会が中部配電・北陸配電の地区を関西地区へ併合する7ブロック分割案を非公式に提示
    • [3]中部配電は県・市・商工会議所・需用家とともに7ブロック分割案への反対運動を展開
  • 私の履歴書 経済人9(日本経済新聞社、1980年)「井上五郎」
    • [4]中部配電副社長の井上五郎は配電会社側の九分割案を推進。プール計算を廃止し各企業が責任体制をとるべきと主張

設立時の発電設備は水力74万kW・火力29万kWの合計103万kWであった。ところが実際の供給力は豊水期で70万kW、渇水期は融通受電を加えても60万kW程度で、1951年7月の需要74万kWを下回った。中部配電の時代は、供給力の80%を日本発送電からの受電に依存していた。設立直後の夏は異常渇水となり、法的な電力制限は1951年9月から翌年3月まで半年余り続いた。一方で販売電力量は1951年度の36億7,000万kWhから1953年度の46億kWhへ25%余り増え、増加は全国の地区で最も著しかった。この需要増に応えるため、発足後の最大の目標は電源開発に置かれた。渇水に弱い水力と受電への依存という二重の制約が、発足直後の経営を制約したと推定される。

  • 中部電力10年史(中部電力、1961年)総説編 第2章 設立後10年間の社業大観
    • [7]設立時の発電設備は水力74万kW・火力29万kW、合計103万kW
    • [8]実際の供給力は豊水期70万kW、渇水期は融通受電を加えても60万kW程度。需用は1951年7月に74万kWに達した
    • [10]1951年夏の異常渇水により法的電力制限が1951年9月から1952年3月まで半年余り継続
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 09_電力「中部電力」
    • [9]中部配電時代は供給力の80%を日本発送電からの受電に依存
    • [11]販売電力量は1951年度36億7,000万kWhから1953年度46億kWhへ25%余り増加。需用増加は全国各地区中最も著しい
    • [12]発足後最大の目標は電源開発

発足時の業務組織は、中部配電と日本発送電東海支店の組織を暫定的に引き継いだものであった。中部電力は1952年3月18日に機構を改め、本店は支店業務を行わず統括業務に限った。同じ改革で、日本発送電から継承した4つの電力事務所を廃止し、その業務を支店へ吸収した。労務では、生活給の色彩が濃い電産型賃金体系を改めるため、電気事業で初めて職階制度を導入した。1952年秋の闘争で統一交渉を求める電産に対し、会社側は個別交渉・個別賃金を主張し、電源スト・停電ストが繰り返された。同年11月の静岡を皮切りに各県で労働組合が生まれ、12月に中部電力労働組合が結成された。発送配電の一貫経営は、組織と賃金の両面で旧来の枠組みを改めることから始まったとみられる。

  • 中部電力40年史(中部電力、1991年)
    • [13]創立当初の業務組織は暫定的に中部配電および日本発送電東海支店の組織を踏襲して発足
    • [15]1952年3月の経営管理組織の改革で、日本発送電から引き継いだ4電力事務所を廃止し業務を支店に吸収
    • [16]生活給的色彩の濃い電産型賃金体系を改め、電気事業で最初に職階制度を導入
    • [17]1952年秋の闘争で会社側は個別交渉・個別賃金を主張し統一交渉を求める電産と対立。電源スト・停電ストが繰り返された
    • [18]1952年11月に中部電力静岡労働組合が結成され、各県の労働組合を結集して同年12月に中部電力労働組合(中電労組)が結成
  • 中部電力10年史(中部電力、1961年)総務編 第1章 経営管理組織の近代化
    • [14]1952年3月18日に機構改革を断行。本店は支店業務を行わず統括業務のみとする
参考文献[1]-[18]
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 09_電力「中部電力」
    • [1]1951年5月 電力再編成令に基づき日本発送電と中部配電の発起設立により資本金7億5,000万円で発足
    • [5]中部電力発足時の社長は井上五郎(会長は海東要造)
    • [6]供給区域は愛知・岐阜・長野・静岡・三重の中部5県。区域内の日本発送電の発送変電設備を継承し発送配電の一貫経営を行う私企業として発足
    • [9]中部配電時代は供給力の80%を日本発送電からの受電に依存
    • [11]販売電力量は1951年度36億7,000万kWhから1953年度46億kWhへ25%余り増加。需用増加は全国各地区中最も著しい
    • [12]発足後最大の目標は電源開発
  • 中部電力10年史(中部電力、1961年)総説編 第1章 戦後の電気事業と当社の設立
    • [2]1949年5月 集中排除審査委員会が中部配電・北陸配電の地区を関西地区へ併合する7ブロック分割案を非公式に提示
    • [3]中部配電は県・市・商工会議所・需用家とともに7ブロック分割案への反対運動を展開
  • 私の履歴書 経済人9(日本経済新聞社、1980年)「井上五郎」
    • [4]中部配電副社長の井上五郎は配電会社側の九分割案を推進。プール計算を廃止し各企業が責任体制をとるべきと主張
  • 中部電力10年史(中部電力、1961年)総説編 第2章 設立後10年間の社業大観
    • [7]設立時の発電設備は水力74万kW・火力29万kW、合計103万kW
    • [8]実際の供給力は豊水期70万kW、渇水期は融通受電を加えても60万kW程度。需用は1951年7月に74万kWに達した
    • [10]1951年夏の異常渇水により法的電力制限が1951年9月から1952年3月まで半年余り継続
  • 中部電力40年史(中部電力、1991年)
    • [13]創立当初の業務組織は暫定的に中部配電および日本発送電東海支店の組織を踏襲して発足
    • [15]1952年3月の経営管理組織の改革で、日本発送電から引き継いだ4電力事務所を廃止し業務を支店に吸収
    • [16]生活給的色彩の濃い電産型賃金体系を改め、電気事業で最初に職階制度を導入
    • [17]1952年秋の闘争で会社側は個別交渉・個別賃金を主張し統一交渉を求める電産と対立。電源スト・停電ストが繰り返された
    • [18]1952年11月に中部電力静岡労働組合が結成され、各県の労働組合を結集して同年12月に中部電力労働組合(中電労組)が結成
  • 中部電力10年史(中部電力、1961年)総務編 第1章 経営管理組織の近代化
    • [14]1952年3月18日に機構改革を断行。本店は支店業務を行わず統括業務のみとする

1954年〜世界銀行借款の三重火力と、2,101億円の工事資金・3度の料金改定

中部電力は1951年10月に電源開発の基本計画を発表し、1954年末までに水力15万5,000kW、火力14万9,000kWを増強した。火力では米国製の大容量・高能率機で発電原価の高騰を抑える方針を採り、1953年10月に世界銀行との借款を成立させた。この借款は電気事業として戦後初の外資導入となり、三重火力の輸入機器の購入に充てられた。1955年12月に運転を始めた三重火力1号機は、6万6,000kWの屋外ユニットとして中央制御室などの新技術を国内へ持ち込んだ。10年間に開発した火力は98万kWと水力の約42万kWの2倍を超え、1960年度以降は火力の設備が水力を上回った。1961年3月末の発電設備は241万kWと設立時の2.4倍になり、需要は10年間で3.2倍に伸びた。

  • 中部電力10年史(中部電力、1961年)総説編 第2章 設立後10年間の社業大観
    • [19]1951年10月 電源開発の基本計画を発表。1954年末までに水力15万5,000kW・火力14万9,000kWを増強
    • [20]大容量・高能率の新鋭機器を米国から輸入し発電原価の高騰抑制をはかる方針。1953年10月 世界銀行との火力借款が成立
    • [21]世界銀行借款は電気事業として戦後はじめての外資導入。三重火力発電所の輸入機器購入に充当
    • [24]1961年3月末の水・火力発電設備241万kW(設立時の2.4倍)。需用は10年間で3.2倍
  • 中部電力30年史(中部電力、1981年)
    • [22]1955年12月に運転を開始した三重火力1号機は世銀借款の1号として米国の新鋭火力技術を導入。6万6,000kWの屋外ユニットとして中央制御室をはじめ種々の新技術をもたらした
  • 中部電力40年史(中部電力、1991年)
    • [23]創立以来10年間に開発した火力の総出力は98万kWで水力の約42万kWの2倍以上。1960年度以降は火力の設備が水力を上回った

電源開発と送電設備の拡充に要した工事資金は、10年間で2,101億円にのぼった。このうち増資と内部留保で賄ったのは744億円と約3分の1にとどまり、残る1,357億円は社債・借入金などの外部資金であった。料金原価に織り込まれた減価償却は定額法の分だけで、10年間の総調達に占める内部留保は平均18%程度であった。1951〜55年度は政府の財政資金から工事資金の30%を超える融資を受け、社債は10年間に109回発行して残高460億円に達した。外資は新名古屋火力や畑薙第一・第二発電所の建設にも広がり、10年間の導入額は170億円となった。国内の資本市場が細いなかで、政策資金と外資が再編直後の電源開発を資金面で支えたとみられる。

  • 中部電力40年史(中部電力、1991年)
    • [25]電源開発と輸送設備の拡充強化に要した工事資金は10年間に2,101億円
    • [26]増資および内部留保で744億円と約1/3を賄い、社債・借入金など外部資金が1,357億円
    • [28]1951〜1955年度の5年間に工事資金の30%を超える財政資金の融資を受けた。社債は10年間で109回発行し残高460億円
    • [29]新名古屋火力の建設でワシントン輸出入銀行等から融資、畑薙第一・第二発電所建設で世界銀行と借款。外資導入は10年間で170億円
  • 中部電力10年史(中部電力、1961年)総説編 第2章 設立後10年間の社業大観
    • [27]減価償却は料金原価中に定額法による分が織り込まれるに過ぎず、10年間の総調達に占める内部留保は平均18%程度

電力原価は、新設備の割高な建設費に伴う減価償却費と支払利息の増加、火力の比重上昇による燃料費の増加で年々高騰した。中部電力は1951年に27.9%、1952年に19.6%、1954年に18.1%と、発足から4年で3度の料金改定を行った。料金は1年間の総括原価を基礎に算定されるため、新設備の増加に伴う原価の高騰を料金収入で回収できない過程が繰り返された。1954年の改定後は新鋭火力の熱効率向上、豊水、燃料単価の値下がりで原価の高騰を吸収し、1959年度上期には配当率を12%から10%へ下げた。一方で1951年度下期から1960年度下期までに、支払利息は13.9倍、減価償却費は約12倍に増えた。料金を据え置く期間が長いほど、資本費の重みが増す構造を抱えたとみられる。

  • 中部電力10年史(中部電力、1961年)総説編 第3章 電気事業における諸問題
    • [30]電力原価は供給力の増強にともなう減価償却費・支払利息などの資本費の増大と火力発電の比重増加による燃料費の増加で高騰する傾向
    • [32]電気料金算定は1年間の総括原価を基礎とするため、新設備の増加にともなう料金原価の高騰を料金収入を通じて回収できず、料金改訂を繰り返してきた
    • [33]新鋭火力の熱効率向上、1959年度上期からの配当率12%から10%への引下げ、豊水、燃料単価の値下りなどで原価高騰を吸収し、1954年度改訂の料金水準のまま経理の安定を保った
  • 中部電力40年史(中部電力、1991年)
    • [31]料金値上げ率は1951年27.9%、1952年19.6%、1954年18.1%
    • [34]1951年度下期から1960年度下期までに支払利息は13.9倍、減価償却費は5億8,000万円から69億5,500万円へ約12倍
参考文献[19]-[34]
  • 中部電力10年史(中部電力、1961年)総説編 第2章 設立後10年間の社業大観
    • [19]1951年10月 電源開発の基本計画を発表。1954年末までに水力15万5,000kW・火力14万9,000kWを増強
    • [20]大容量・高能率の新鋭機器を米国から輸入し発電原価の高騰抑制をはかる方針。1953年10月 世界銀行との火力借款が成立
    • [21]世界銀行借款は電気事業として戦後はじめての外資導入。三重火力発電所の輸入機器購入に充当
    • [24]1961年3月末の水・火力発電設備241万kW(設立時の2.4倍)。需用は10年間で3.2倍
    • [27]減価償却は料金原価中に定額法による分が織り込まれるに過ぎず、10年間の総調達に占める内部留保は平均18%程度
  • 中部電力30年史(中部電力、1981年)
    • [22]1955年12月に運転を開始した三重火力1号機は世銀借款の1号として米国の新鋭火力技術を導入。6万6,000kWの屋外ユニットとして中央制御室をはじめ種々の新技術をもたらした
  • 中部電力40年史(中部電力、1991年)
    • [23]創立以来10年間に開発した火力の総出力は98万kWで水力の約42万kWの2倍以上。1960年度以降は火力の設備が水力を上回った
    • [25]電源開発と輸送設備の拡充強化に要した工事資金は10年間に2,101億円
    • [26]増資および内部留保で744億円と約1/3を賄い、社債・借入金など外部資金が1,357億円
    • [28]1951〜1955年度の5年間に工事資金の30%を超える財政資金の融資を受けた。社債は10年間で109回発行し残高460億円
    • [29]新名古屋火力の建設でワシントン輸出入銀行等から融資、畑薙第一・第二発電所建設で世界銀行と借款。外資導入は10年間で170億円
    • [31]料金値上げ率は1951年27.9%、1952年19.6%、1954年18.1%
    • [34]1951年度下期から1960年度下期までに支払利息は13.9倍、減価償却費は5億8,000万円から69億5,500万円へ約12倍
  • 中部電力10年史(中部電力、1961年)総説編 第3章 電気事業における諸問題
    • [30]電力原価は供給力の増強にともなう減価償却費・支払利息などの資本費の増大と火力発電の比重増加による燃料費の増加で高騰する傾向
    • [32]電気料金算定は1年間の総括原価を基礎とするため、新設備の増加にともなう料金原価の高騰を料金収入を通じて回収できず、料金改訂を繰り返してきた
    • [33]新鋭火力の熱効率向上、1959年度上期からの配当率12%から10%への引下げ、豊水、燃料単価の値下りなどで原価高騰を吸収し、1954年度改訂の料金水準のまま経理の安定を保った

1958年〜広域運営への参加と、伊勢湾台風の24億円の設備被害

1957年10月、自由民主党の基礎産業対策特別委員会は、電力不足と融通の不円滑、料金の高騰と地域差、経理内容の格差を電気事業体制の問題点に挙げた。電力会社間の格差から再編成後の企業体制を問う意見も出るなか、電気事業者は自主的経営責任体制のもとで広域運営を採ることを決めた。1958年4月に広域運営に関する協定が結ばれ、中部電力は中央と中地域の電力協議会の構成員となった。1961年3月末までに中部電力が経済融通した電力量は2億1,300万kWhで、経費節減額は約1億3,000万円となった。1960年から61年にかけては275kVの名古屋外輪線を新設し、関開閉所で関西電力と連系した。九分割の枠を保ったまま、会社間を融通と連系で結ぶ方式を選んだとみられる。

  • 中部電力10年史(中部電力、1961年)総説編 第3章 電気事業における諸問題
    • [35]1957年10月 自由民主党基礎産業対策特別委員会が電気事業体制について、電力不足と融通の不円滑・料金高騰と地域差・経理内容の格差の3点を問題とした
    • [36]電力会社間の企業格差から現行の企業体制に問題があるとの意見もあったが、電気事業者は1958年3月の「電気事業の新基本方策」で自主的経営責任体制のもとに広域運営方式をとることとした
    • [37]1958年4月1日付で「広域運営に関する協定書」を締結。当社は中央ならびに中地域電力協議会の構成員となった
    • [38]1961年3月末まで経済融通による電力量は当社のみで2億1,300万kWh、経済融通による経費節減額は約1億3,000万円
  • 中部電力40年史(中部電力、1991年)
    • [39]1960年から1961年にかけて275kV名古屋外輪線などを新設し、関開閉所において関西電力との連系をはかった

1959年9月26日に紀伊半島へ上陸した伊勢湾台風は、中部電力の供給区域全域に被害をもたらした。名古屋港の潮位は午後9時30分ごろに5.81mに達して伊勢湾の堤防が各所で壊れ、中部電力の設備被害は概算24億円余にのぼった。高潮で火力発電所が全停し、配電線はほぼ全線が損傷して、管内は一時停電に陥った。社長は10月1日に緊急布告を出し、平常時は本店が持つ権限を支店などへ移して復旧を急がせた。従業員2名と家族20名が亡くなり、従業員住居の被害は約7,000戸に及んだ。中部電力は同年12月、中部日本災害対策本部から民間会社として唯一の感謝状を受け、復旧後は災害対策特別研究会の結論をその後の災害対策の基礎とした。

  • 中部電力40年史(中部電力、1991年)
    • [40]1959年9月26日 紀伊半島に上陸した台風15号(伊勢湾台風)は当社の供給区域全域にわたり未曽有の被害をもたらした
    • [42]高潮により火力発電所が全停、暴風雨によって配電線はほとんど全線が損傷し一時は管内が真暗闇となった
    • [45]1959年12月 中部日本災害対策本部から民間会社として唯一感謝状を受けた
    • [46]復旧終了後に「災害対策特別研究会」を設けて施設・動員・組織などを討議し、その結論がその後の災害対策の基礎となった
  • 中部電力10年史(中部電力、1961年)総務編 第8章 関係会社、風水害、刊行物
    • [41]名古屋港の潮位は午後9時30分ごろ最高5.81mに達し伊勢湾海岸線の堤防は各所で破壊。当社は設備に概算24億円余の被害
    • [43]1959年10月1日 社長が緊急布告を発し、平常時に本店がもっていた権限を支店等下部機関に移譲して復旧業務を迅速化
    • [44]死亡従業員2名・家族20名。従業員住居の被害は流失・全壊・半壊・浸水を含め約7,000戸
参考文献[35]-[46]
  • 中部電力10年史(中部電力、1961年)総説編 第3章 電気事業における諸問題
    • [35]1957年10月 自由民主党基礎産業対策特別委員会が電気事業体制について、電力不足と融通の不円滑・料金高騰と地域差・経理内容の格差の3点を問題とした
    • [36]電力会社間の企業格差から現行の企業体制に問題があるとの意見もあったが、電気事業者は1958年3月の「電気事業の新基本方策」で自主的経営責任体制のもとに広域運営方式をとることとした
    • [37]1958年4月1日付で「広域運営に関する協定書」を締結。当社は中央ならびに中地域電力協議会の構成員となった
    • [38]1961年3月末まで経済融通による電力量は当社のみで2億1,300万kWh、経済融通による経費節減額は約1億3,000万円
  • 中部電力40年史(中部電力、1991年)
    • [39]1960年から1961年にかけて275kV名古屋外輪線などを新設し、関開閉所において関西電力との連系をはかった
    • [40]1959年9月26日 紀伊半島に上陸した台風15号(伊勢湾台風)は当社の供給区域全域にわたり未曽有の被害をもたらした
    • [42]高潮により火力発電所が全停、暴風雨によって配電線はほとんど全線が損傷し一時は管内が真暗闇となった
    • [45]1959年12月 中部日本災害対策本部から民間会社として唯一感謝状を受けた
    • [46]復旧終了後に「災害対策特別研究会」を設けて施設・動員・組織などを討議し、その結論がその後の災害対策の基礎となった
  • 中部電力10年史(中部電力、1961年)総務編 第8章 関係会社、風水害、刊行物
    • [41]名古屋港の潮位は午後9時30分ごろ最高5.81mに達し伊勢湾海岸線の堤防は各所で破壊。当社は設備に概算24億円余の被害
    • [43]1959年10月1日 社長が緊急布告を発し、平常時に本店がもっていた権限を支店等下部機関に移譲して復旧業務を迅速化
    • [44]死亡従業員2名・家族20名。従業員住居の被害は流失・全壊・半壊・浸水を含め約7,000戸

筆者考察

中部電力が九分割を主張したのは、地域の企業として自立したかったからではなく、需要の伸びる地域で電源開発の責任を他社との共同計算に委ねたくなかったからである。集中排除審査委員会が1949年に示した7ブロック案は、中部と北陸を関西へ併合するものだった。中部配電の副社長だった井上五郎氏が求めたのは、プール計算をやめ、各社が自分の供給区域に責任を負う形である。ただし責任を引き受けた側には、足りない電気を自分で作る義務が残った。発足時の設備は水力74万kW・火力29万kWの103万kWで、渇水期の供給力は融通受電を加えても60万kW程度、1951年7月の需要74万kWに届かない。設立直後の夏の異常渇水と半年余りの電力制限は、その差が現実に現れたものである。

不足を埋める速さは、資金をどこから引けるかで決まった。10年間の工事資金2,101億円のうち、増資と内部留保で賄えたのは744億円にとどまり、残る1,357億円は社債と借入金である。1953年10月の世界銀行借款は電気事業で戦後初の外資導入となり、三重火力の輸入機器の購入に充てられた。政策資金と外資で設備を先に建てれば、減価償却費と支払利息が発電量より先に立ち上がる。1951年度下期から1960年度下期までに支払利息は13.9倍、減価償却費は約12倍に増えた。発足から4年で27.9%、19.6%、18.1%と3度の値上げが続いたのは、1年間の総括原価を基礎とする料金が、資本費の増加を追いかける形でしか作れなかったためである。

発足から4年で3度の料金改定 平均改定率(%)

27.9 1951 19.6 1952 18.1 1954
  • 1954年の改定後は新鋭火力の熱効率向上と燃料単価の値下がりで原価の高騰を吸収し、次の改定は1965年4月まで行われなかった。
  • 出所は中部電力10年史(中部電力、1961年)。

1951年〜1960年の業績

決算期 区分 売上高 経常利益 主な投資
億円 YoY 億円 利益率
1951年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a
1952年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a
1953年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a
1954年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a
1955年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a
1956年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a
1957年03月期 単体 364 n/a 18 5.0% n/a
1958年03月期 単体 421 +15.5% 22 5.3% n/a
1959年03月期 単体 442 +4.9% 32 7.3% n/a
1960年03月期 単体 523 +18.4% 38 7.3% n/a

出所:ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版

出典・参考

9件
出典・参考
  • 中部電力10年史(中部電力、1961年)総説編 第1章 戦後の電気事業と当社の設立
  • 中部電力10年史(中部電力、1961年)総説編 第2章 設立後10年間の社業大観
  • 中部電力10年史(中部電力、1961年)総務編 第1章 経営管理組織の近代化
  • 中部電力10年史(中部電力、1961年)総説編 第3章 電気事業における諸問題
  • 中部電力10年史(中部電力、1961年)総務編 第8章 関係会社、風水害、刊行物
  • 中部電力30年史(中部電力、1981年)
  • 中部電力40年史(中部電力、1991年)
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 09_電力「中部電力」
  • 私の履歴書 経済人9(日本経済新聞社、1980年)「井上五郎」

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