第3章 年〜年

日産自動車:プリンス自動車工業の合併と英米での現地生産

1966年〜石橋正二郎から引き継いだプリンス自動車と、カローラに挑んだサニー

日産自動車は1966年8月1日、プリンス自動車工業を吸収合併した。川又克二社長は、資本の自由化に備えて国内メーカーの再編成が要るとし、業界で最初に合併を決めたと記した。プリンスの経営を握るブリヂストンの石橋正二郎氏は、先にトヨタの石田退三氏へ話を持ち込んで断られており、通産省も間に入った。国内営業を担当していた石原俊氏は、合併の利点を販売網に見ていた。プリンスは車種を持つ販売店を全国に抱えており、日産は車種を加えるだけで売り場を増やせた。合併後の日産は資本金398億円、従業員3万1629人、工場数9、生産能力月産5万台以上となり、規模で国内最大の自動車会社になった。

  • ダイヤモンド社『歴史をつくる人々』「夢は国際企業へ(日産自動車 川又克二)」(1966年)
    • [1]1966年8月1日、プリンス自動車工業を吸収合併
    • [2]川又克二社長は資本自由化への対処として業界再編成が必要とし、日産・プリンスが業界の先頭を切って再編成に踏み切ったと記す
    • [6]合併後は資本金398億円・従業員3万1629人・工場数9・生産能力月産5万台以上で日本最大の規模
  • Decide 1992年
    • [3]石橋正二郎氏(元ブリヂストン会長)は先にトヨタの石田退三氏に話を持ち込み断られ、川又克二氏へ。その間に通産省が入った
    • [4]石原俊氏は1965年から国内営業担当。合併の利点は販売店・セールスマンの数を一気に増やすことだったと述懐
    • [5]プリンスは車種を持った販売店を全国に持ち、日産は車種を追加すればよかった

日産自動車は1966年4月、1000ccの大衆車サニーを発売した。石原俊氏は後年、トヨタに差を広げられる危機感から、新たにサニー系列の販売店を作って小型車のシェア拡大を図ったと語った。狙った買い手は年収60万〜80万円の層で、スタンダード車の価格を41万円とし、年収の1.5〜2倍に収めた。車名の公募には850万通が集まり、販売は2カ月で当初の予想を上回って秋には計画を倍増した。1971年時点で日産はサニー系・チェリー系を含む5つの販売チャンネルを持ち、トヨタもカローラ系を含む4チャンネルを構えた。専務の石原俊氏は、チャンネルごとに新型車を出し続ける開発力の差が企業間の格差を広げると見ていた。

  • ダイヤモンド社『歴史をつくる人々』「夢は国際企業へ(日産自動車 川又克二)」(1966年)
    • [7]大衆車サニーは1966年4月発売(1000ccクラス)
    • [9]サニーの狙う需要層は年収60万〜80万円(価格の1.5〜2倍)、スタンダード41万円
    • [10]車名公募に850万通。売上は当初予想を2カ月で上回り、秋には計画を倍増
  • Decide 1992年
    • [8]どこかと合併しなければトヨタに引き離されるという危機感があり、新たにサニー系列を作って小型車のシェアを伸ばそうとした(石原俊氏)
  • 証券アナリストジャーナル 1971年11月号(石原俊専務の講演)
    • [11]1971年時点で日産は日産系・モーター系・プリンス系・サニー系(1966年)・チェリー系(1970年)の5チャンネル、トヨタはカローラ系を含む4チャンネル
    • [12]多チャンネルで次々に新型を出す開発力の差が企業格差に結び付くと石原俊専務が講演

日産自動車は1971年3月、栃木工場を本格稼働させた。1970年時点で、日産の設備能力はトヨタに1年半ほど遅れていると言われていた。トヨタが1970年末に月産20万台体制に入る見込みだったのに対し、日産の計画は1971年3月末に月産16万台だった。1971年3月期の販売台数は73万6417台で、輸出は26万6000台と37%増えた。ただ栃木工場の償却負担が重く、同期は9.1%の増収に対して増益は1.6%にとどまった。1971年4〜8月の販売台数は日産38万7000台、トヨタ48万2000台で、首位との差は残った。利益率を削っても先に能力を積まなければ、トヨタとの台数差は縮まらないと見た投資とみられる。

  • 日本企業要覧 1971年版「日産自動車」
    • [13]栃木新工場は1971年3月から本格稼動
    • [16]1971年3月期の自動車販売台数73万6417台、輸出26万6000台で37%増
    • [17]1971年3月期は9.1%増収・1.6%増益。利益の伸びが小さかったのは栃木新工場の償却負担
  • 週刊東洋経済 1970年5月2日号
    • [14]日産は設備能力の面でトヨタに1年半ほど遅れているとよく言われる(1970年)
    • [15]トヨタは堤工場(月産3万台)の完成で年末ごろ月産20万台制、日産は栃木工場(月産1万台)と座間工場増強で1971年3月末に月産16万台体制の計画
  • 証券アナリストジャーナル 1971年11月号(石原俊専務の講演)
    • [18]1971年4〜8月の販売台数は日産38万7000台、トヨタ48万2000台
参考文献[1]-[18]
  • ダイヤモンド社『歴史をつくる人々』「夢は国際企業へ(日産自動車 川又克二)」(1966年)
    • [1]1966年8月1日、プリンス自動車工業を吸収合併
    • [2]川又克二社長は資本自由化への対処として業界再編成が必要とし、日産・プリンスが業界の先頭を切って再編成に踏み切ったと記す
    • [6]合併後は資本金398億円・従業員3万1629人・工場数9・生産能力月産5万台以上で日本最大の規模
    • [7]大衆車サニーは1966年4月発売(1000ccクラス)
    • [9]サニーの狙う需要層は年収60万〜80万円(価格の1.5〜2倍)、スタンダード41万円
    • [10]車名公募に850万通。売上は当初予想を2カ月で上回り、秋には計画を倍増
  • Decide 1992年
    • [3]石橋正二郎氏(元ブリヂストン会長)は先にトヨタの石田退三氏に話を持ち込み断られ、川又克二氏へ。その間に通産省が入った
    • [4]石原俊氏は1965年から国内営業担当。合併の利点は販売店・セールスマンの数を一気に増やすことだったと述懐
    • [5]プリンスは車種を持った販売店を全国に持ち、日産は車種を追加すればよかった
    • [8]どこかと合併しなければトヨタに引き離されるという危機感があり、新たにサニー系列を作って小型車のシェアを伸ばそうとした(石原俊氏)
  • 証券アナリストジャーナル 1971年11月号(石原俊専務の講演)
    • [11]1971年時点で日産は日産系・モーター系・プリンス系・サニー系(1966年)・チェリー系(1970年)の5チャンネル、トヨタはカローラ系を含む4チャンネル
    • [12]多チャンネルで次々に新型を出す開発力の差が企業格差に結び付くと石原俊専務が講演
    • [18]1971年4〜8月の販売台数は日産38万7000台、トヨタ48万2000台
  • 日本企業要覧 1971年版「日産自動車」
    • [13]栃木新工場は1971年3月から本格稼動
    • [16]1971年3月期の自動車販売台数73万6417台、輸出26万6000台で37%増
    • [17]1971年3月期は9.1%増収・1.6%増益。利益の伸びが小さかったのは栃木新工場の償却負担
  • 週刊東洋経済 1970年5月2日号
    • [14]日産は設備能力の面でトヨタに1年半ほど遅れているとよく言われる(1970年)
    • [15]トヨタは堤工場(月産3万台)の完成で年末ごろ月産20万台制、日産は栃木工場(月産1万台)と座間工場増強で1971年3月末に月産16万台体制の計画

1973年〜石油危機後の窮余の増産と、打倒トヨタを掲げた石原俊社長

川又克二氏は1973年11月に会長となり、副社長の岩越忠恕氏が社長に就任した。直後の石油危機で需要が急減し、川又会長は1974年3月、同年度の国内販売が前年度の7〜8割に減ると見通した。日産の1974年3月期は生産97万3000台に対して販売89万1000台で、期末の総在庫は22万6000台に達した。続く9月期は月産19万台の設備を平均14万台で動かし、営業利益は35億円強と1965年不況時の水準を下回った。1974年の国内シェアはトヨタ40.3%に対して日産30.2%で、差は前年より開いた。岩越社長のもとで日産は1975年3月期の生産計画を95万台から100万台へ引き上げ、シェア37.5%を掲げた。レイオフを避けて部品会社の仕事量を保ち、1台あたりの原価を下げるには増産しかないという判断だった。

  • 日本企業要覧 1975年版「日産自動車」
    • [19]川又克二氏は1973年11月取締役会長、岩越忠恕氏は1973年11月取締役社長
  • 日経ビジネス 1974年3月4日号
    • [20]川又克二会長(1974年3月)は石油危機後に需要が急減し、1974年度の国内販売は1973年度の7〜8割に落ちると予想
  • 日経ビジネス 1975年3月31日号
    • [21]1974年3月期は生産97万3000台・販売89万1000台で、期末総在庫22万6000台
    • [22]1974年9月期は月産能力19万台の設備を平均14万台に落とし、営業利益35億円強で昭和40年不況時の水準を下回る
    • [23]1974年の販売シェアはトヨタ40.3%(前年39.2%)、日産30.2%(同32.2%)
    • [24]1975年3月期の生産計画を期初95万台から100万台へ拡大修正し、37.5%のシェアを目標に掲げた
    • [25]レイオフによる人件費削減はとらず、部品メーカーの仕事量を保証し1台当たりコストを引き下げるため増産するしかないという判断

メキシコ日産は1966年5月にクエルナバカで工場を開設し、同年7月25日に第1号車を送り出した。現地生産に移った直接の理由は、メキシコ政府が60%国産化の大統領令を施行したことだった。メキシコ日産は1972年に国産化率72%まで上げたが、2度の円切り上げで日本製部品の原価が膨らみ、比率は下がった。豪州日産は1966年に完成車輸入と現地組立ての2本立てに移り、1972年末に国産化率を85%へ上げる計画を政府に出した。豪州政府は1974年11月に輸入関税を上げ、1975年2月から輸入割当制で輸入車のシェアを20%以下に抑えた。川又克二会長は1974年、発展途上国が完成車より資本や技術の輸出を求め、完成車の輸出は難しくなると見ていた。1977年時点で、メキシコ日産と豪州日産の社長には日産本社の取締役が就いていた。

  • 日経ビジネス 1973年10月15日号
    • [26]メキシコ日産の工場は1966年5月開設、同年7月25日に第1号車がラインオフ
    • [27]メキシコでの現地生産に踏み切った直接の理由はメキシコ政府の60%国産化の大統領令の施行
    • [28]メキシコ日産の国産化率は1972年に72%。2回の円切り上げで算式の分母が膨らみ国産化率が低下
  • 日経ビジネス 1975年7月7日号
    • [29]豪州日産は1966年にCBUとCKDの2本立てでアセンブラーとなり、1972年末に国産化率85%の国産化計画を政府に提出
    • [30]豪州政府は1974年11月に輸入関税を引き上げ、1975年2月から輸入割当制で輸入車シェアを20%以下に抑えた
  • 日経ビジネス 1974年3月4日号
    • [31]川又克二会長は、発展途上国は製品輸出より資本・技術の輸出を求める傾向にあり、完成車輸出は逆に難しくなると述べた(1974年)
  • 日本企業要覧 1977年版「日産自動車」
    • [32]1977年6月時点で取締役原禎一氏がメキシコ日産自動車会社社長、取締役財津正彦氏が豪州日産自動車会社社長(1966年から)

石原俊氏は1977年6月に社長に就任し、トヨタを当面の目標に掲げた。1978年3月期の日産は、大衆車の需要不振で国内販売が3万9158台減の107万5206台となり、輸出は130万8416台に増えた。石原社長は、製造と販売を分けて販売の人材を育てたトヨタに販売力で後れたと分析した。そのうえで、利益を出すには条文や組織にこだわれないとし、官僚的になった社内に何でも言える空気を求めた。製造原価の75%を占める購入部品については、部品会社112社の宝会を通じて系列の体質強化を進めていた。1976年度からの3年間で生産性を上げ、1979年までに1人あたり生産性でトヨタ自工を上回る「54P計画」も立てていた。1975年度の総資本経常利益率は日産グループ5.8%、トヨタグループ8.1%で、系列の収益力の差は残った。

  • 日経ビジネス 1978年1月30日号
    • [33]石原俊氏は1977年6月社長就任。目標はトヨタ打倒かとの問いに、端的に言えばそうなると答えた
    • [35]トヨタの強さは製造と販売を分離し販売会社で販売の人材を育てた点にあり、日産は一歩後れをとったと石原社長
    • [36]儲けるためには条文や組織にこだわっておれず、官僚的になった社内に「なんでも言え」と呼びかけた
  • 日本企業要覧 1978年版「日産自動車」
    • [34]1978年3月期は大衆車需要不振で国内販売が前年比3万9158台減の107万5206台、輸出は18万3888台増の130万8416台
  • 日経ビジネス 1977年1月3日号
    • [37]製造原価のうち75%が外部からの購入部品代。宝会メンバー112社を通じ系列企業の体質強化に乗り出した
    • [38]54P計画:1976年度から3年間で生産性を上げ、1979年までに1人当たり生産性でトヨタ自工を追い越す
    • [39]1975年度の使用総資本経常利益率は日産グループ(主要7社)5.8%、トヨタグループ(同9社)8.1%
参考文献[19]-[39]
  • 日本企業要覧 1975年版「日産自動車」
    • [19]川又克二氏は1973年11月取締役会長、岩越忠恕氏は1973年11月取締役社長
  • 日経ビジネス 1974年3月4日号
    • [20]川又克二会長(1974年3月)は石油危機後に需要が急減し、1974年度の国内販売は1973年度の7〜8割に落ちると予想
    • [31]川又克二会長は、発展途上国は製品輸出より資本・技術の輸出を求める傾向にあり、完成車輸出は逆に難しくなると述べた(1974年)
  • 日経ビジネス 1975年3月31日号
    • [21]1974年3月期は生産97万3000台・販売89万1000台で、期末総在庫22万6000台
    • [22]1974年9月期は月産能力19万台の設備を平均14万台に落とし、営業利益35億円強で昭和40年不況時の水準を下回る
    • [23]1974年の販売シェアはトヨタ40.3%(前年39.2%)、日産30.2%(同32.2%)
    • [24]1975年3月期の生産計画を期初95万台から100万台へ拡大修正し、37.5%のシェアを目標に掲げた
    • [25]レイオフによる人件費削減はとらず、部品メーカーの仕事量を保証し1台当たりコストを引き下げるため増産するしかないという判断
  • 日経ビジネス 1973年10月15日号
    • [26]メキシコ日産の工場は1966年5月開設、同年7月25日に第1号車がラインオフ
    • [27]メキシコでの現地生産に踏み切った直接の理由はメキシコ政府の60%国産化の大統領令の施行
    • [28]メキシコ日産の国産化率は1972年に72%。2回の円切り上げで算式の分母が膨らみ国産化率が低下
  • 日経ビジネス 1975年7月7日号
    • [29]豪州日産は1966年にCBUとCKDの2本立てでアセンブラーとなり、1972年末に国産化率85%の国産化計画を政府に提出
    • [30]豪州政府は1974年11月に輸入関税を引き上げ、1975年2月から輸入割当制で輸入車シェアを20%以下に抑えた
  • 日本企業要覧 1977年版「日産自動車」
    • [32]1977年6月時点で取締役原禎一氏がメキシコ日産自動車会社社長、取締役財津正彦氏が豪州日産自動車会社社長(1966年から)
  • 日経ビジネス 1978年1月30日号
    • [33]石原俊氏は1977年6月社長就任。目標はトヨタ打倒かとの問いに、端的に言えばそうなると答えた
    • [35]トヨタの強さは製造と販売を分離し販売会社で販売の人材を育てた点にあり、日産は一歩後れをとったと石原社長
    • [36]儲けるためには条文や組織にこだわっておれず、官僚的になった社内に「なんでも言え」と呼びかけた
  • 日本企業要覧 1978年版「日産自動車」
    • [34]1978年3月期は大衆車需要不振で国内販売が前年比3万9158台減の107万5206台、輸出は18万3888台増の130万8416台
  • 日経ビジネス 1977年1月3日号
    • [37]製造原価のうち75%が外部からの購入部品代。宝会メンバー112社を通じ系列企業の体質強化に乗り出した
    • [38]54P計画:1976年度から3年間で生産性を上げ、1979年までに1人当たり生産性でトヨタ自工を追い越す
    • [39]1975年度の使用総資本経常利益率は日産グループ(主要7社)5.8%、トヨタグループ(同9社)8.1%

1980年〜テネシー州スマーナの小型トラック工場と、塩路一郎の労連と争った英国進出

日産自動車は米国テネシー州スマーナに工場を設け、1983年6月にダットサントラックの生産を始めた。石原俊社長は1980年初め、国内シェアが前年比で微減したなか、対米進出の決断をその年の課題としていた。石原氏は後に、社長就任時にはすでに国内市場が飽和状態にあったと振り返った。米国の現地法人には、フォード副社長を退いたM・T・ラニオン氏を1980年に迎えて経営を委ねた。ラニオン氏は石原氏と、米国で最も品質の高い車を作り、5年以内に黒字化する目標を定めた。工場は1985年に乗用車セントラ(日本名サニー)の生産を加え、年産24万台の能力を持った。対米輸出の自主規制が続くかぎり、米国での販売台数は現地の生産能力に左右されると見た判断と思われる。

  • Decide 1986年11月号
    • [40]スマーナ工場は1983年6月からダットサントラックの生産を開始
    • [43]M・T・ラニオン氏は元フォード副社長で、1980年にNMMCの最高経営責任者に就任
    • [44]設立時に石原俊氏と米国で最も品質の高い車を作り、5年以内に黒字化する目標を話し合った
    • [45]1985年から乗用車セントラ(サニー)の生産を追加。年産24万台の能力
  • ダイヤモンド社『80年代わが社の戦略』「日産自動車」(1980年)
    • [41]1979年は国内シェアが前年比微減。巻き返しと対米進出の決断が1980年最大の課題
  • Decide 1985年11月号
    • [42]石原俊氏は、社長就任時にすでに国内マーケットが飽和状態にあるとわかっていたと述べた

日産自動車は1984年4月、英国サンダーランドへの進出を決めて英国日産自動車製造を設立した。石原俊社長は、世界市場で10%のシェアを得るには英国での工場進出が欠かせないと判断した。完成車輸出の規制が世界に広がるなか、欧州でのシェアを高める拠点として英国を選んだ。1981年1月の初計画は年産20万台、投資約1000億円だった。1984年2月の計画は、投資約200億円・年産2万4000台の組立てから始める段階方式に縮んだ。これに対し、塩路一郎氏が率いる日産の労組は英国進出は適当でないと主張し、川又克二会長も同調した。社内を二分した対立で計画は遅れ、生産開始は1986年7月となった。石原社長は1984年末、社長在任8年間のエネルギーの7〜8割を正常な労使関係づくりに費やしたと語った。

  • Decide 1990年
    • [46]サンダーランドへの進出を決め英国日産自動車製造を設立したのは1984年4月
    • [47]石原俊社長(当時)は世界で10%のシェアを確保する「グローバル10」のため英国への工場進出が不可欠と決断
    • [51]塩路一郎氏率いる日産労組は英国への工場進出は適当ではないと主張し、川又克二会長(当時)も荷担
    • [52]対立で英国進出は遅れに遅れ、生産開始は1986年7月
  • 日経ビジネス 1984年10月29日号
    • [48]完成車輸出の規制が世界に張りめぐらされつつあり現地生産以外に道はなく、欧州1000万台市場でのシェアを高めるため英国を選んだ
    • [49]初計画(1981年1月30日発表)は年間20万台・投資約1000億円、現行計画(1984年2月1日発表)は第1段階がKD生産で年間2万4000台・投資約200億円、第2段階は1987年までに判断
    • [50]初計画(1981年1月30日発表)は年間20万台・投資約1000億円、現行計画(1984年2月1日発表)は第1段階がKD生産で年間2万4000台・投資約200億円、第2段階は1987年までに判断
  • Decide 1985年11月号
    • [53]石原俊氏は1984年末、社長在任中の8年間はエネルギーの7〜8割を正常な労使関係を築くことに費やしたと述べた

石原俊社長は1985年6月末に会長へ退任し、技術・生産畑を歩んだ久米豊氏が社長に就任した。石原会長は後継の条件に信頼を挙げ、主力車のモデルチェンジを2回見届けられる年齢も考えたと説明した。久米社長は就任後の記者会見で、自らの体制を『トヨタ追撃内閣です』と位置づけた。新体制の役割は、海外戦略を重んじた石原体制の後を受け、国内販売を立て直すことに置かれた。この間、日産の単体経常利益は1980年3月期の1830億円から1984年3月期の1209億円に減った。日経ビジネスは1987年、日産の後退の原因を国内販売のシェア低下、急ぎすぎた海外戦略、商品開発力の低下、労使対立の絡み合いに求めた。

  • Decide 1985年11月号
    • [54]1985年6月末の株主総会後の取締役会で久米豊氏が社長、石原俊氏が会長。久米氏は技術・生産畑一筋
    • [55]後継選びの最大の要件は信頼。主力車種のモデルチェンジを最低2回見るには8〜10年要るため年齢も考慮
  • Decide 1985年9月号
    • [56]久米豊新社長は社長就任後の記者会見で「トヨタ追撃内閣です」と断言
    • [57]海外戦略に重きを置いた石原政権の後を受けた久米体制の役割は国内販売の強化充実
  • 会社年鑑「日産自動車」1980年3月期・1984年3月期 単体決算
    • [58]単体経常利益は1980年3月期1830億円、1984年3月期1209億円
  • 日経ビジネス 1987年4月27日号
    • [59]日産凋落の原因は国内販売のシェア低下、拙速すぎた海外戦略、商品開発力のレベルダウン、労使対立が複雑に絡んだこと
参考文献[40]-[59]
  • Decide 1986年11月号
    • [40]スマーナ工場は1983年6月からダットサントラックの生産を開始
    • [43]M・T・ラニオン氏は元フォード副社長で、1980年にNMMCの最高経営責任者に就任
    • [44]設立時に石原俊氏と米国で最も品質の高い車を作り、5年以内に黒字化する目標を話し合った
    • [45]1985年から乗用車セントラ(サニー)の生産を追加。年産24万台の能力
  • ダイヤモンド社『80年代わが社の戦略』「日産自動車」(1980年)
    • [41]1979年は国内シェアが前年比微減。巻き返しと対米進出の決断が1980年最大の課題
  • Decide 1985年11月号
    • [42]石原俊氏は、社長就任時にすでに国内マーケットが飽和状態にあるとわかっていたと述べた
    • [53]石原俊氏は1984年末、社長在任中の8年間はエネルギーの7〜8割を正常な労使関係を築くことに費やしたと述べた
    • [54]1985年6月末の株主総会後の取締役会で久米豊氏が社長、石原俊氏が会長。久米氏は技術・生産畑一筋
    • [55]後継選びの最大の要件は信頼。主力車種のモデルチェンジを最低2回見るには8〜10年要るため年齢も考慮
  • Decide 1990年
    • [46]サンダーランドへの進出を決め英国日産自動車製造を設立したのは1984年4月
    • [47]石原俊社長(当時)は世界で10%のシェアを確保する「グローバル10」のため英国への工場進出が不可欠と決断
    • [51]塩路一郎氏率いる日産労組は英国への工場進出は適当ではないと主張し、川又克二会長(当時)も荷担
    • [52]対立で英国進出は遅れに遅れ、生産開始は1986年7月
  • 日経ビジネス 1984年10月29日号
    • [48]完成車輸出の規制が世界に張りめぐらされつつあり現地生産以外に道はなく、欧州1000万台市場でのシェアを高めるため英国を選んだ
    • [49]初計画(1981年1月30日発表)は年間20万台・投資約1000億円、現行計画(1984年2月1日発表)は第1段階がKD生産で年間2万4000台・投資約200億円、第2段階は1987年までに判断
    • [50]初計画(1981年1月30日発表)は年間20万台・投資約1000億円、現行計画(1984年2月1日発表)は第1段階がKD生産で年間2万4000台・投資約200億円、第2段階は1987年までに判断
  • Decide 1985年9月号
    • [56]久米豊新社長は社長就任後の記者会見で「トヨタ追撃内閣です」と断言
    • [57]海外戦略に重きを置いた石原政権の後を受けた久米体制の役割は国内販売の強化充実
  • 会社年鑑「日産自動車」1980年3月期・1984年3月期 単体決算
    • [58]単体経常利益は1980年3月期1830億円、1984年3月期1209億円
  • 日経ビジネス 1987年4月27日号
    • [59]日産凋落の原因は国内販売のシェア低下、拙速すぎた海外戦略、商品開発力のレベルダウン、労使対立が複雑に絡んだこと

1966年〜1985年の業績

決算期 区分 売上高 経常利益純利益 主な投資
億円 YoY 億円 利益率 億円
1966年03月期 単体 2,149 n/a 107 5.0% n/a n/a
1967年03月期 単体 3,023 +40.7% 146 4.8% n/a メキシコ日産の工場で第1号車がラインオフ(1966/05)
1968年03月期 単体 4,214 +39.4% 195 4.6% n/a 本牧埠頭(輸出専用基地)が完成(1967/07)
1969年03月期 単体 5,561 +32.0% 215 3.9% n/a n/a
1970年03月期 単体 6,691 +20.3% 248 3.7% n/a n/a
1971年03月期 単体 7,993 +19.5% 581 7.3% 285 栃木工場が本格稼働(1971/03)
1972年03月期 単体 9,818 +22.8% 704 7.2% 337 n/a
1973年03月期 単体 11,764 +19.8% 854 7.3% 480 n/a
1974年03月期 単体 12,708 +8.0% 633 5.0% 414 相模原部品センターが完成(1973/10)
1975年03月期 単体 14,296 +12.5% 289 2.0% 188 n/a
1976年03月期 単体 17,702 +23.8% 1,011 5.7% 522 n/a
1977年03月期 単体 20,246 +14.4% 1,518 7.5% 853 n/a
1978年03月期 単体 22,464 +11.0% 1,384 6.2% 807 n/a
1979年03月期 単体 23,067 +2.7% 1,201 5.2% 655 n/a
1980年03月期 単体 27,389 +18.7% 1,830 6.7% 875 n/a
1981年03月期 単体 30,162 +10.1% 1,661 5.5% 859 米国日産自動車製造会社を設立(1980/07)
1982年03月期 単体 31,987 +6.1% 1,786 5.6% 861 テクニカルセンターが完成(1981/11)
1983年03月期 単体 31,877 ▲0.3% 1,543 4.8% 955 メキシコ日産、アグアスカリエンテス工場が完成(1982/11)
1984年03月期 単体 34,601 +8.5% 1,209 3.5% 705 スマーナ工場でダットサントラックの生産を開始(1983/06)英国日産自動車製造会社を設立(1984/02)
1985年03月期 単体 36,181 +4.6% 1,482 4.1% 743 追浜専用埠頭が完成(1984/11)

出所:会社年鑑

出典・参考

22件
出典・参考
  • ダイヤモンド社『歴史をつくる人々』「夢は国際企業へ(日産自動車 川又克二)」(1966年)
  • 会社年鑑「日産自動車」1980年3月期・1984年3月期 単体決算
  • 週刊東洋経済 1970年5月2日号
  • 証券アナリストジャーナル 1971年11月号(石原俊専務の講演)
  • 日経ビジネス 1973年10月15日号
  • 日経ビジネス 1974年3月4日号
  • 日経ビジネス 1975年3月31日号
  • 日経ビジネス 1975年7月7日号
  • 日経ビジネス 1977年1月3日号
  • 日経ビジネス 1978年1月30日号
  • ダイヤモンド社『80年代わが社の戦略』「日産自動車」(1980年)
  • 日経ビジネス 1984年10月29日号
  • Decide 1985年11月号
  • Decide 1985年9月号
  • Decide 1986年11月号
  • 日経ビジネス 1987年4月27日号
  • 日本企業要覧 1971年版「日産自動車」
  • 日本企業要覧 1975年版「日産自動車」
  • 日本企業要覧 1977年版「日産自動車」
  • 日本企業要覧 1978年版「日産自動車」
  • Decide 1990年
  • Decide 1992年

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