日産自動車:オースチン提携とブルーバードの輸出
1945年〜日産重工業から戻した社名と、ドッジラインの人員整理
敗戦で軍需が止まったあと、日産重工業はトラックの生産再開で工場を動かし続けた。GHQは1945年9月25日、資材割当の枠内でトラックの製造を許可したが、乗用車の生産は資材と燃料の不足を理由に認めなかった。主力の横浜工場は米第8軍に接収され、第2敷地では土地の72%、建物の84%を明け渡した。機械設備を各工場へ分けて移したため、流れ作業による量産の体制は組めなかった。11月15日に在庫の資材で戦時型ニッサントラックの第1号車を完成させたが、生産は11月が50台、12月が150台にとどまった。乗用車は1947年6月にGHQが国内全体で年産300台の枠を設け、あふれた需要は輸入車が埋めた。
- 日産自動車『日産自動車三十年史 昭和8-昭和38年』(1965年)「第1節 自動車の生産再開」
- [1]1945年9月25日のトラック製造許可で、自動車メーカーとして企業を復興する方向が定まった
- [2]総司令部は1945年9月25日の覚書で資材割当の枠内でトラック製造を許可、乗用車は資材・燃料の関係で不許可
- [3]横浜地区の工場は米第8軍の命令で接収、第2敷地の接収比率は土地72%・建物84%
- [4]接収で機械設備を各工場へ分散したため、能率的な生産方式による量産化を再開できなかった
- [5]1945年11月15日に戦時型ニッサントラック第1号車完成、生産は11月50台・12月150台
- 日本経済新聞社『日本産業史 第2巻』(1994年)「自動車-乗用車に乗り出す」
- [6]1947年6月にGHQが乗用車に年産300台の枠を設け、国内需要をみたせず輸入車でまかなった
1947年5月31日、日産重工業は取締役労務部長から常務に上がっていた箕浦多一氏を社長に選んだ。山本惣治社長と専務2名、常務1名が公職追放の該当者と決まり、そろって辞任したためである。同じ株主総会で、日本興業銀行から移った川又克二氏が取締役に選ばれ、7月に常務へ就任した。当時の会社は従業員8,000人を抱え、年間3,000万円の赤字を借入れでつないでいたと、川又克二氏は振り返った。1948年2月には過度経済力集中排除法の指定を受けたが、1949年1月に取り消された。社名は財閥色を消すため従業員から新名を募ったが、信用とのれんを失う損失を重く見て、1949年8月1日に日産自動車へ戻した。
- 日産自動車『日産自動車三十年史 昭和8-昭和38年』(1965年)「第2節 企業再建上の制約」
- [7]1947年5月31日の定時株主総会で箕浦多一が取締役社長に選任(1944年取締役労務部長、1946年常務)
- [8]公職追放の資格審査で専務大竹正太郎・川端良次郎、常務前田勇、社長山本惣治が該当とされ1947年5月に辞任
- [9]日本興業銀行から転出した川又克二を同総会で取締役に選任、7月3日に常務取締役就任
- [11]1948年2月8日に過度経済力集中排除法の指定企業者、1949年1月21日に指定取消
- ダイヤモンド社『歴史をつくる人々』「夢は国際企業へ(日産自動車 川又克二)」(1966年)
- [10]川又克二の回想で、入社当時は8,000人の社員を抱え年間3,000万円の赤字、借入れの繰り返しでしのいでいた
- 日産自動車『日産自動車三十年史 昭和8-昭和38年』(1965年)「第2節 ドッジラインと企業の合理化」
- [12]1948年3月に新社名を従業員から募集したが、信用・のれんの消滅と費用を考え、1949年8月1日に日産自動車株式会社へ復帰
ドッジラインの不況のなか、日産重工業は1949年10月5日に約2,000名の人員整理案を組合へ示した。在庫と支払いの滞った手形が約3カ月分の生産に積み上がり、7月からは生産奨励金の支払いが遅れていた。整理に要る約8,000万円は日本興業銀行と市中銀行2行の協調融資で調達し、倒れた箕浦多一社長に代わって川又克二専務が指揮を執った。組合は整理案の撤回を求めて抵抗したが、解雇者は最終的に1,826名となった。1950年8月12日には米第8軍からトラック2,915台を受注し、特需の受注額は347,406万円に達した。業績の回復を受け、1951年1月4日に東京証券取引所で株式の上場が始まった。
- 日産自動車『日産自動車三十年史 昭和8-昭和38年』(1965年)「第2節 ドッジラインと企業の合理化」
- [13]1949年10月5日の経営協議会で整理予定人員約2,000名の人員整理案を組合に提示
- [14]手持台数と手形入金の延滞台数が約3カ月分の生産に相当、1949年7月9日支払いのプレミアムから遅配
- [16]1949年の人員整理の被解雇者は1,826名(50日のストは歴史をつくる人々の川又回想)
- ダイヤモンド社『歴史をつくる人々』「夢は国際企業へ(日産自動車 川又克二)」(1966年)
- [15]1949年の整理資金約8,000万円は興銀と市中2行の協調融資、発表3日目に箕浦社長が倒れ川又が総指揮
- 日産自動車『日産自動車三十年史 昭和8-昭和38年』(1965年)「第1節 朝鮮動乱による好況」
- [17]最初の特需受注は1950年8月12日の米第8軍発注2,915台、特需の総額347,406万円・予備隊向け約76,000万円
- 日産自動車『日産自動車三十年史 昭和8-昭和38年』(1965年)「第2節 経営体制の漸進」
- [18]東京証券取引所に新株式200万株の上場登録を申請し、1951年1月4日から上場
参考文献[1]-[18]
- 日産自動車『日産自動車三十年史 昭和8-昭和38年』(1965年)「第1節 自動車の生産再開」
- [1]1945年9月25日のトラック製造許可で、自動車メーカーとして企業を復興する方向が定まった
- [2]総司令部は1945年9月25日の覚書で資材割当の枠内でトラック製造を許可、乗用車は資材・燃料の関係で不許可
- [3]横浜地区の工場は米第8軍の命令で接収、第2敷地の接収比率は土地72%・建物84%
- [4]接収で機械設備を各工場へ分散したため、能率的な生産方式による量産化を再開できなかった
- [5]1945年11月15日に戦時型ニッサントラック第1号車完成、生産は11月50台・12月150台
- 日本経済新聞社『日本産業史 第2巻』(1994年)「自動車-乗用車に乗り出す」
- [6]1947年6月にGHQが乗用車に年産300台の枠を設け、国内需要をみたせず輸入車でまかなった
- 日産自動車『日産自動車三十年史 昭和8-昭和38年』(1965年)「第2節 企業再建上の制約」
- [7]1947年5月31日の定時株主総会で箕浦多一が取締役社長に選任(1944年取締役労務部長、1946年常務)
- [8]公職追放の資格審査で専務大竹正太郎・川端良次郎、常務前田勇、社長山本惣治が該当とされ1947年5月に辞任
- [9]日本興業銀行から転出した川又克二を同総会で取締役に選任、7月3日に常務取締役就任
- [11]1948年2月8日に過度経済力集中排除法の指定企業者、1949年1月21日に指定取消
- ダイヤモンド社『歴史をつくる人々』「夢は国際企業へ(日産自動車 川又克二)」(1966年)
- [10]川又克二の回想で、入社当時は8,000人の社員を抱え年間3,000万円の赤字、借入れの繰り返しでしのいでいた
- [15]1949年の整理資金約8,000万円は興銀と市中2行の協調融資、発表3日目に箕浦社長が倒れ川又が総指揮
- 日産自動車『日産自動車三十年史 昭和8-昭和38年』(1965年)「第2節 ドッジラインと企業の合理化」
- [12]1948年3月に新社名を従業員から募集したが、信用・のれんの消滅と費用を考え、1949年8月1日に日産自動車株式会社へ復帰
- [13]1949年10月5日の経営協議会で整理予定人員約2,000名の人員整理案を組合に提示
- [14]手持台数と手形入金の延滞台数が約3カ月分の生産に相当、1949年7月9日支払いのプレミアムから遅配
- [16]1949年の人員整理の被解雇者は1,826名(50日のストは歴史をつくる人々の川又回想)
- 日産自動車『日産自動車三十年史 昭和8-昭和38年』(1965年)「第1節 朝鮮動乱による好況」
- [17]最初の特需受注は1950年8月12日の米第8軍発注2,915台、特需の総額347,406万円・予備隊向け約76,000万円
- 日産自動車『日産自動車三十年史 昭和8-昭和38年』(1965年)「第2節 経営体制の漸進」
- [18]東京証券取引所に新株式200万株の上場登録を申請し、1951年1月4日から上場
1952年〜オースチンの技術を導入したA40の国産化と、100日争議から生まれた第二組合
1952年12月4日、浅原源七社長は英オースチン社とA40の組立てと国産化の技術提携に調印した。戦時中の資材停止と、1949年10月まで続いた乗用車の製造制限で、先進国との技術差が開いていた。契約はA40を年間2,000台ノックダウンで輸入して組み立て、3年で部品の国産化を終える内容で、期間は7カ年とした。1953年12月にCKDでの組立てを始め、英本国のモデルチェンジに合わせて1954年12月からA50へ切り替えた。1956年には調印から3年9カ月で完全国産化を果たした。製造権を取得する契約ではなかったため、満了までに自社の乗用車を造れる力を備える必要があったと、川又克二氏は振り返った。
- 日産自動車『日産自動車三十年史 昭和8-昭和38年』(1965年)「第2節 近代的技術の採用と生産の増加」
- [19]1952年12月4日、ロングブリッジのオースチン本社で浅原源七社長らが技術提携に調印
- [20]戦時中の資材割当停止と戦後の乗用車製造制限(1949年10月解除)で先進国より技術的に遅れていた
- [21]A40を年間2,000台ノックダウン輸入し組立、部品は3年後の国産化完成が目標、契約期間7カ年
- [22]1953年12月20日からCKD組立、1954年9月の英本国モデルチェンジに伴い同年12月からA50組立へ
- [23]1956年8月下旬のトランスファーマシン据付けで国産化完了、調印から3年9カ月で完全国産化
- 日本経済新聞社『私の履歴書 経済人7』(1980年)「川又克二」
- [24]製造権を買い取る契約ではなく、契約完了までに自らの乗用車を造れるよう準備する必要があった
1953年の賃金争議で、日産自動車は工場閉鎖に踏み切り、新たに生まれた組合と労使関係を組み直した。全自動車日産分会の要求は、1人平均の税込み給与を29,775円から約53,000円へ上げる内容で、会社は6月4日に拒否した。職場大会とストで生産が止まると、会社は8月5日に横浜・鶴見地区と吉原の工場を閉鎖し、益田哲夫組合長ら6名を懲戒解雇した。閉鎖を決めた川又克二専務は、経営陣の総退陣を覚悟した判断だったと語った。日経連は取引銀行に資金面の便宜を働きかけ、会社を支えた。8月30日に有志506名が日産自動車労働組合を結成し、会社は翌31日に団体交渉の相手として認めた。
- 日産自動車『日産自動車三十年史 昭和8-昭和38年』(1965年)「第2節 昭和28年の紛争と新組合の結成」
- [25]1953年の紛争で工場閉鎖を断行し、日産自動車労働組合の結成後に同組合と協定・経営協議会を結んだ
- [26]5月25日の賃上げ要求で1人平均税込み給与29,775円が約53,000円に、会社は6月4日に拒否回答
- [27]8月5日に横浜・鶴見地区と吉原工場を閉鎖、8月21日に組合長益田哲夫(OCRは「盆田」)以下6名を8月20日付で懲戒解雇と通告
- [30]8月30日に横浜地区の有志506名が日産自動車労働組合を結成、8月31日に会社が団体交渉権をもつ組合と認めた
- ダイヤモンド社『歴史をつくる人々』「夢は国際企業へ(日産自動車 川又克二)」(1966年)
- [28]川又はロックアウトを経営者の最後の切札とし、敗れれば経営者総退陣と覚悟したと回想
- 日本経済新報 1953年
- [29]日経連が日産争議で日産の取引銀行に資金上の便宜を斡旋、益田委員長ら幹部6名の解雇問題は後日の団交へ
1957年11月、浅原源七社長は争議の収拾を指揮した川又克二専務に後を託し、川又克二氏が社長に就任した。1953年の争議の損害は帳簿上だけで4億円を超え、会社は職場規律の確立から再出発した。1954年の不況では各工場が歩留まりと経費を見直し、事務用消耗品は10%削減の目標に対して30%を削減した。日産労組は1957年8月の総会で、復興闘争から安定闘争へ切り換えると宣言した。川又克二専務は1953年末、役員会に諮る前にダットサン1000の生産準備を命じ、オースチンと並ぶ自社の小型車の開発を続けさせた。社長就任後の1960年、日産自動車は品質管理でデミング賞実施賞を受けた。
- 日本経済新聞社『私の履歴書 経済人7』(1980年)「川又克二」
- [31]1957年11月、浅原社長より後事を託されて社長に就任(1949〜1953年は専務として労働問題に当たった)
- [35]1953年末、年末最終の役員会で必ず通すとしてダットサン1000の生産準備開始を命じた
- 日産自動車『日産自動車三十年史 昭和8-昭和38年』(1965年)「第1節 経営体質の近代化」
- [32]1953年の長期紛争の損害は帳簿上だけで4億円以上、再出発にあたり職場規律の確立を方針とした
- [33]1954年の不況対策で製品原価引下げ、事務用消耗品は4月から10%節減目標に対し10月に30%減
- 日産自動車『日産自動車三十年史 昭和8-昭和38年』(1965年)「第2節 近代的技術の採用と生産の増加」
- [34]日産労組は1957年8月30日の創立第4周年記念総会で復興闘争から安定闘争への切り換えを宣言
- 日産自動車『日産自動車三十年史 昭和8-昭和38年』(1965年)「第3節 国際商品の開発」
- [36]川又社長が昭和35年度デミング賞実施賞を授与された
参考文献[19]-[36]
- 日産自動車『日産自動車三十年史 昭和8-昭和38年』(1965年)「第2節 近代的技術の採用と生産の増加」
- [19]1952年12月4日、ロングブリッジのオースチン本社で浅原源七社長らが技術提携に調印
- [20]戦時中の資材割当停止と戦後の乗用車製造制限(1949年10月解除)で先進国より技術的に遅れていた
- [21]A40を年間2,000台ノックダウン輸入し組立、部品は3年後の国産化完成が目標、契約期間7カ年
- [22]1953年12月20日からCKD組立、1954年9月の英本国モデルチェンジに伴い同年12月からA50組立へ
- [23]1956年8月下旬のトランスファーマシン据付けで国産化完了、調印から3年9カ月で完全国産化
- [34]日産労組は1957年8月30日の創立第4周年記念総会で復興闘争から安定闘争への切り換えを宣言
- 日本経済新聞社『私の履歴書 経済人7』(1980年)「川又克二」
- [24]製造権を買い取る契約ではなく、契約完了までに自らの乗用車を造れるよう準備する必要があった
- [31]1957年11月、浅原社長より後事を託されて社長に就任(1949〜1953年は専務として労働問題に当たった)
- [35]1953年末、年末最終の役員会で必ず通すとしてダットサン1000の生産準備開始を命じた
- 日産自動車『日産自動車三十年史 昭和8-昭和38年』(1965年)「第2節 昭和28年の紛争と新組合の結成」
- [25]1953年の紛争で工場閉鎖を断行し、日産自動車労働組合の結成後に同組合と協定・経営協議会を結んだ
- [26]5月25日の賃上げ要求で1人平均税込み給与29,775円が約53,000円に、会社は6月4日に拒否回答
- [27]8月5日に横浜・鶴見地区と吉原工場を閉鎖、8月21日に組合長益田哲夫(OCRは「盆田」)以下6名を8月20日付で懲戒解雇と通告
- [30]8月30日に横浜地区の有志506名が日産自動車労働組合を結成、8月31日に会社が団体交渉権をもつ組合と認めた
- ダイヤモンド社『歴史をつくる人々』「夢は国際企業へ(日産自動車 川又克二)」(1966年)
- [28]川又はロックアウトを経営者の最後の切札とし、敗れれば経営者総退陣と覚悟したと回想
- 日本経済新報 1953年
- [29]日経連が日産争議で日産の取引銀行に資金上の便宜を斡旋、益田委員長ら幹部6名の解雇問題は後日の団交へ
- 日産自動車『日産自動車三十年史 昭和8-昭和38年』(1965年)「第1節 経営体質の近代化」
- [32]1953年の長期紛争の損害は帳簿上だけで4億円以上、再出発にあたり職場規律の確立を方針とした
- [33]1954年の不況対策で製品原価引下げ、事務用消耗品は4月から10%節減目標に対し10月に30%減
- 日産自動車『日産自動車三十年史 昭和8-昭和38年』(1965年)「第3節 国際商品の開発」
- [36]川又社長が昭和35年度デミング賞実施賞を授与された
1958年〜ブルーバードと米国日産で拡大した輸出と、乗用車専門の追浜工場
1959年8月1日、日産自動車はダットサンブルーバードの1000と1200を全国で一斉に発売した。国産化したオースチンA50は6人乗りにした室内が狭く、販売はダットサンを下回った。ダットサン110型は1955年の発売以来、営業車として地盤を築き、1958年から米国へも輸出されていた。後継車の設計方針は1955年秋に定まり、小型タクシーの枠である長さ4m・幅1.5m以内で、海外の時速100kmに耐える安定性を求めた。1958年の米国での試験を受けて1,200ccエンジンを新たに設計し、輸出を前提とした車に仕上げた。発売した年の11月には乗用車の生産が3,038台となり、初めて月産3,000台を超えた。
- 日産自動車『日産自動車三十年史 昭和8-昭和38年』(1965年)「第3節 国際商品の開発」
- [37]1959年7月29日に発表会、8月1日に全国一斉にブルーバード1000と1200を発売
- [39]1955年初頭発表の110型は営業車として強力な地盤を確保し、1958年から米国へも本格輸出
- [40]1955年秋の新型車設計方針に、外国の100km/h走行に耐える高速安定性と小型タクシー枠(長さ4m・幅1.5m)内を含む
- [41]1958年に米国でダットサン1000を試験した結果、1,200ccエンジンを設計し輸出向けの性格が明確に
- [42]1959年11月に乗用車3,038台を生産し、はじめて月産3,000台を突破
- 日本経済新聞社『私の履歴書 経済人7』(1980年)「川又克二」
- [38]英国で4人定員のA50を営業用に6人乗りとしたため室内が狭く、売れ行きはダットサンがはるかに上回った
1960年9月28日、日産自動車は全額出資の米国日産自動車をロサンゼルスに設立した。同じ年に米国の大手がコンパクトカーを発売し、欧州車が値引きで対抗したため、代理店頼みの対米輸出は行き詰まるおそれがあった。資本金は100万ドルで、社長に輸出担当の石原俊取締役が就任し、片山豊氏も取締役に加わった。設立を機に対米輸出の目標を月150〜200台から月400台へ引き上げた。川又克二社長は、貿易自由化を迎えて守りに回らず輸出を広げるべきだと説き、1962年の輸出は26,600台となった。輸出の総数は1958年の3,232台から1963年の44,907台へ拡大し、業界の49%を占めた。
- 日産自動車『日産自動車三十年史 昭和8-昭和38年』(1965年)「第2節 輸出の伸長」
- [43]1960年9月28日、全額出資の販売会社米国日産自動車をロスアンゼルスに設立
- [44]1960年に米国各社がコンパクトカーを発売し欧州車が値引き競争、従来の輸出体制では対米輸出が挫折する可能性と判断
- [45]資本金100万ドル、取締役社長に石原俊(輸出担当取締役)、取締役に川添惣一と片山豊
- [46]米国日産設立を転機に対米輸出ベースを月150〜200台から月400台ペースへ引き上げ
- [48]輸出台数は1958年3,232台(業界の31.4%)から1963年44,907台(業界の49%)へ
- 証券アナリストジャーナル 1963年(川又克二)
- [47]川又克二は自由化を迎えて欧米車に守勢一方であってはならず輸出も盛んにすべきとし、日産の前年輸出は26,600台(半数はトラック)
日産自動車は貿易自由化に備え、横須賀市追浜に乗用車専門の工場を建てて量産の規模を積み増した。それまでブルーバードは吉原工場、セドリックは鶴見工場で分けて生産しており、1カ所で大量に造る工場が要った。ワシントン輸出入銀行から計1,400万ドルの借款を得て最新の機械を入れ、1961年11月7日に組立第1号車を送り出した。1964年4月にはブルーバードを10,413台生産し、単一車種で月産1万台に達した。1965年3月期には生産能力が限界に近づき、トラック専門の座間工場の本格稼働を待つ状態だった。資本自由化で外国資本に対抗するには1社の規模では足りないとみて、川又克二社長は業界再編を唱えた。
- 経済時代 1961年10月号
- [49]1961年10月時点、自由化に備え追浜に月産1万台能力の乗用車専門工場を翌春完成予定で建設中
- 証券アナリストジャーナル 1965年
- [50]追浜稼働前はブルーバードを吉原、セドリックを鶴見で分散生産、自由化に備え集中生産の工場が必要になった
- [52]1964年4月にブルーバードを10,413台生産し、単一車種月産1万台の体制を確立
- [53]1965年3月期は生産能力が限界にきて増産は小幅、下期に座間工場の本格稼働で能力が増大する見通し(座間はトラック専門工場として計画:三十年史 第1節 量産体制の確立)
- 日産自動車『日産自動車三十年史 昭和8-昭和38年』(1965年)「第1節 量産体制の確立」
- [51]ワシントン輸出入銀行から1959年300万ドル・1961年1,100万ドルの借款で最新鋭機械を購入、1961年11月7日にブルーバードとセドリックの組立第1号車
- ダイヤモンド社『歴史をつくる人々』「夢は国際企業へ(日産自動車 川又克二)」(1966年)
- [54]川又克二は資本自由化に対処するには自動車会社の基盤強化しかなく、かねて業界再編成の必要を唱えていた
参考文献[37]-[54]
- 日産自動車『日産自動車三十年史 昭和8-昭和38年』(1965年)「第3節 国際商品の開発」
- [37]1959年7月29日に発表会、8月1日に全国一斉にブルーバード1000と1200を発売
- [39]1955年初頭発表の110型は営業車として強力な地盤を確保し、1958年から米国へも本格輸出
- [40]1955年秋の新型車設計方針に、外国の100km/h走行に耐える高速安定性と小型タクシー枠(長さ4m・幅1.5m)内を含む
- [41]1958年に米国でダットサン1000を試験した結果、1,200ccエンジンを設計し輸出向けの性格が明確に
- [42]1959年11月に乗用車3,038台を生産し、はじめて月産3,000台を突破
- 日本経済新聞社『私の履歴書 経済人7』(1980年)「川又克二」
- [38]英国で4人定員のA50を営業用に6人乗りとしたため室内が狭く、売れ行きはダットサンがはるかに上回った
- 日産自動車『日産自動車三十年史 昭和8-昭和38年』(1965年)「第2節 輸出の伸長」
- [43]1960年9月28日、全額出資の販売会社米国日産自動車をロスアンゼルスに設立
- [44]1960年に米国各社がコンパクトカーを発売し欧州車が値引き競争、従来の輸出体制では対米輸出が挫折する可能性と判断
- [45]資本金100万ドル、取締役社長に石原俊(輸出担当取締役)、取締役に川添惣一と片山豊
- [46]米国日産設立を転機に対米輸出ベースを月150〜200台から月400台ペースへ引き上げ
- [48]輸出台数は1958年3,232台(業界の31.4%)から1963年44,907台(業界の49%)へ
- 証券アナリストジャーナル 1963年(川又克二)
- [47]川又克二は自由化を迎えて欧米車に守勢一方であってはならず輸出も盛んにすべきとし、日産の前年輸出は26,600台(半数はトラック)
- 経済時代 1961年10月号
- [49]1961年10月時点、自由化に備え追浜に月産1万台能力の乗用車専門工場を翌春完成予定で建設中
- 証券アナリストジャーナル 1965年
- [50]追浜稼働前はブルーバードを吉原、セドリックを鶴見で分散生産、自由化に備え集中生産の工場が必要になった
- [52]1964年4月にブルーバードを10,413台生産し、単一車種月産1万台の体制を確立
- [53]1965年3月期は生産能力が限界にきて増産は小幅、下期に座間工場の本格稼働で能力が増大する見通し(座間はトラック専門工場として計画:三十年史 第1節 量産体制の確立)
- 日産自動車『日産自動車三十年史 昭和8-昭和38年』(1965年)「第1節 量産体制の確立」
- [51]ワシントン輸出入銀行から1959年300万ドル・1961年1,100万ドルの借款で最新鋭機械を購入、1961年11月7日にブルーバードとセドリックの組立第1号車
- ダイヤモンド社『歴史をつくる人々』「夢は国際企業へ(日産自動車 川又克二)」(1966年)
- [54]川又克二は資本自由化に対処するには自動車会社の基盤強化しかなく、かねて業界再編成の必要を唱えていた
1945年〜1965年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 経常利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 利益率 | |||
| 1949年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1950年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1951年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1952年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1953年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1954年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1955年03月期 | 単体 | 142 | n/a | 9 | 6.3% | n/a |
| 1956年03月期 | 単体 | 173 | +21.8% | 12 | 6.9% | n/a |
| 1957年03月期 | 単体 | 309 | +78.6% | 26 | 8.4% | n/a |
| 1958年03月期 | 単体 | 387 | +25.2% | 26 | 6.7% | n/a |
| 1959年03月期 | 単体 | 400 | +3.4% | 33 | 8.3% | n/a |
| 1960年03月期 | 単体 | 548 | +37.0% | 54 | 9.9% | n/a |
| 1961年03月期 | 単体 | 833 | +52.0% | 81 | 9.7% | n/a |
| 1962年03月期 | 単体 | 1,201 | +44.2% | 118 | 9.8% | 丸紅飯田と合弁でメキシコ日産自動車会社を設立(1961/09)追浜工場が完成(1962/03) |
| 1963年03月期 | 単体 | 1,481 | +23.3% | 143 | 9.7% | n/a |
| 1964年03月期 | 単体 | 1,846 | +24.6% | 87 | 4.7% | n/a |
| 1965年03月期 | 単体 | 2,134 | +15.6% | 104 | 4.9% | n/a |
出所:ダイヤモンド会社産業総覧1964年版、会社年鑑
出典・参考
18件
- 日産自動車『日産自動車三十年史 昭和8-昭和38年』(1965年)「第1節 自動車の生産再開」
- 日産自動車『日産自動車三十年史 昭和8-昭和38年』(1965年)「第2節 企業再建上の制約」
- 日産自動車『日産自動車三十年史 昭和8-昭和38年』(1965年)「第2節 ドッジラインと企業の合理化」
- 日産自動車『日産自動車三十年史 昭和8-昭和38年』(1965年)「第1節 朝鮮動乱による好況」
- 日産自動車『日産自動車三十年史 昭和8-昭和38年』(1965年)「第2節 経営体制の漸進」
- 日産自動車『日産自動車三十年史 昭和8-昭和38年』(1965年)「第2節 近代的技術の採用と生産の増加」
- 日産自動車『日産自動車三十年史 昭和8-昭和38年』(1965年)「第2節 昭和28年の紛争と新組合の結成」
- 日産自動車『日産自動車三十年史 昭和8-昭和38年』(1965年)「第1節 経営体質の近代化」
- 日産自動車『日産自動車三十年史 昭和8-昭和38年』(1965年)「第3節 国際商品の開発」
- 日産自動車『日産自動車三十年史 昭和8-昭和38年』(1965年)「第2節 輸出の伸長」
- 日産自動車『日産自動車三十年史 昭和8-昭和38年』(1965年)「第1節 量産体制の確立」
- ダイヤモンド社『歴史をつくる人々』「夢は国際企業へ(日産自動車 川又克二)」(1966年)
- 日本経済新聞社『日本産業史 第2巻』(1994年)「自動車-乗用車に乗り出す」
- 経済時代 1961年10月号
- 証券アナリストジャーナル 1963年(川又克二)
- 証券アナリストジャーナル 1965年
- 日本経済新聞社『私の履歴書 経済人7』(1980年)「川又克二」
- 日本経済新報 1953年