箕浦多一

日産自動車・元社名を日産自動車へ復帰

Minoura Taichi(敬称略)

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社長就任 1947年
生年月日 —
学歴 —
出自 —
社長就任までの出自
出自

日産の生え抜きで、社長に就任する直前は取締役総務部長だった。社名がまだ日産重工業だった1947年に取締役社長へ就任している。会社は1944年9月に空襲を避けて本社を横浜市から東京日本橋へ移し、社名も日産重工業へ改めたばかりで、工場は敗戦後も米軍の接収下にあった。技術でも販売でもなく総務畑の役員が戦後最初の社長になったのは、生産の再開よりも組織と資産の整理が先に立っていたためとみられる。

社長に選ばれた経緯
抜擢

1947年、日産重工業の取締役社長に就任した。前年の1946年1月に本社事務所を横浜市神奈川区宝町へ戻したものの、工場の米軍接収は長く続き、空襲の被害が軽く接収も免れたトヨタとは明暗が分かれていた。1945年9月の総司令部覚書で乗用車の製造禁止は緩和されていたが、生産を再開できる状態ではなかった。総務部長からの登用は、占領下の交渉と社内の調整を担える人物を求めた人事だったとみられる。

在任中の主な施策
施策

この代が手がけたのは、生産を増やすことより、社名と資本の枠組みを戦後の姿に整えることだった。1947年、就任したその年の8月に、吉原工場から戦後最初のダットサンが出た。しかし資材も食糧もひどく足りず、その後の生産は思いどおりに進まなかったうえ、工場の接収も続いていた。社名は1949年8月に日産重工業から日産自動車へ戻り、1951年1月には東京証券取引所に上場した。量産の立て直しは後任の浅原源七氏へ渡る。

在任の評価
評価

執筆予定

経歴 1947〜1951年
在任中の業績
就任前-
退任時-
変化-
就任前-
退任時-
変化-
箕浦多一の経歴

箕浦多一の経歴社長就任に至るキャリア。就任年は有価証券報告書などの開示情報に基づく

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