浅原源七

日産自動車・元取締役社長(復帰)

Asahara Genshichi(敬称略)

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社長就任 1951年
生年月日 —
学歴 東京帝国大学理学部化学科
出自 —
社長就任までの出自
出自

1931年、日産の前身である戸畑鋳物へ入社した。1942年に取締役社長へ就任し、1944年に退いている。1951年の就任はこの会社で二度目の社長職だった。戦前の創業期から戦時の軍需転換、敗戦後の接収までを社内で通して見てきた生え抜きの技術者であり、日産は外から人を入れずに戦後の再建を委ねた。

社長に選ばれた経緯
抜擢

1951年、箕浦多一氏の後任として社長に就任した。会社は同年1月に東京証券取引所へ上場したばかりで、工場の米軍接収はなお続き、生産も資材と食糧の極端な不足から伸びていなかった。1947年8月に戦後はじめてのダットサンが吉原工場でラインを離れて以来、量産の回復が課題として残っていた。技術者を社長へ戻したのは、生産そのものを立て直す役を社内から探した結果だったとみられる。

在任中の主な施策
施策

1952年12月、英オースチン社と技術提携を締結した。部品の組立から国産化へ進む方式で、ここで蓄えた技術がのちの自社開発を支えた。翌1953年には賃上げ要求に端を発する労働争議が起こり、会社は工場管理や生産性向上、合理化にまで及ぶ権限を組合へ与えた。この譲歩を境に、労使は「なれあい」と評されるほど協調的な関係へ変わる。1955年に接収工場の大部分が解除され、売上高は1955年3月期の142億円から1957年3月期の309億円へ伸びた。

在任の評価
評価

執筆予定

経歴 1931〜1957年
在任中の業績
就任前-
退任時-
変化-
就任前-
退任時-
変化-

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