第2章 年〜年

三菱電機:ウエスチングハウスとの提携復活と北伊丹の半導体工場

1951年〜商号の存続を条件としたウエスチングハウスとの再提携

社名を守って技術の入口を確保する

戦時中の断絶で、重電の技術差は誰の目にも明らかなほど開いていた。欧米が14万5000キロワット級のタービンを実用化していたのに対し、1952年に完成した築上発電所向けの国産設備は3万5000キロワットにとどまった。差を埋める手として三菱電機が選んだのは、戦前の提携相手からの技術導入である。ところがウエスチングハウス社は、三菱電機が分割され三菱の商号を失えば技術契約は結べないと通告した。高杉晋一社長は1950年4月、三井・住友の代表とともに吉田茂首相へ商号商標使用禁止令の撤回を陳情し、禁止令は延期を重ねた末に1952年4月28日の講和条約発効で消滅した。技術提携が復活したのは、その前年の1951年4月である。

  • 日本産業史 第2巻 機械・輸送機(日本経済新聞社、1994年)「産業機械-『傾斜生産』で再起」
    • [1]戦時中の停滞で欧米は14万5000キロワット級タービンを実用化、1952年完成の築上発電所向け国産設備は3万5000キロワットにとどまった
  • 私の履歴書 経済人8「高杉晋一」(日本経済新聞社, 1980年)
    • [2]ウエスチングハウス社は三菱電機が分割され三菱の商号を失えば技術契約は結べないと通告した
    • [3]1950年4月 三井・住友の代表とともに吉田茂首相へ商号商標使用禁止令の撤回を陳情
    • [4]禁止令は5月末に一年延期、再延期を経て1952年4月28日の講和条約発効で消滅
  • 日本経済新聞「私の履歴書」進藤貞和(1986年7月)
    • [5]1951年4月 米ウエスチングハウス社との技術提携を復活
技術料と株式の両方で系列へ戻る

ロイヤリティは1年目25万ドル、2年目30万ドル、3年目40万ドルで、4年目以降は売上高の3%と、提携の条件は軽いものではなかった。会社は、ウエスチングハウス社が数年がかりで積み上げた技術を取り込めば、品質やコストで得る利点がはるかに上回る『数年にわたるWH社の技術の蓄積を導入することによつて、品質やコストの面に受けるプラスの方がはるかに大きい』とした。資本の面でも同社は筆頭株主に戻り、1955年9月の時点で発行済4800万株のうち200万株を保有していた。長崎製作所の今北孝次試験課長が水素冷却発電機の開発のため同社へ送られ、これが同製作所員として戦後初めての海外出張であった。同じころ東芝はゼネラル・エレクトリック、富士電機はジーメンスと関係を復活させ、戦後重電の技術系列がこの時期に固まった。

  • 野田経済 1951年5月号(野田経済研究所 編)
    • [6]ロイヤリティは1年目25万ドル、2年目30万ドル、3年目40万ドル、4年目以降は売上の3%
  • 株式会社年鑑 1956年版「三菱電機」
    • [7]1955年9月時点でウエスチングハウスが発行済4800万株のうち200万株を保有し筆頭株主
  • 日本経済新聞「私の履歴書」進藤貞和(1986年7月)
    • [8]水素冷却発電機の開発のため長崎製作所の今北孝次試験課長をウエスチングハウス社へ派遣、同製作所員の海外出張は戦後初
  • 日本産業史 第2巻 機械・輸送機(日本経済新聞社、1994年)「産業機械-『傾斜生産』で再起」
    • [9]三菱電機=ウエスチングハウス、富士電機=ジーメンス、東芝=GEが外資法制定を機に関係を復活、日立は1953年にGEから火力プラント技術を導入
電源開発の需要に合わせて製作所を割り出す

1950年に始まった朝鮮動乱と、政府の重要政策として取り上げられた電源開発計画が、戦後の整理を終えた会社に需要をもたらした。電気機械の生産額は1950年の238億円から1951年の533億円へ急増している。海外各社との技術提携を復活・新設させながら、1953年10月には無線機製造部門を伊丹製作所から分離独立させて無線機製作所とし、1954年4月には名古屋の冷蔵庫・冷凍機部門を移して静岡工場を、1956年には名古屋製作所の家庭電器部門を独立させて家庭電器工場を設けた。1955年3月期の単体売上高は241億円、従業員は1万7630人である。ただし朝鮮動乱の終結後はデフレ政策で利益が漸減し、同期の利益は4億4000万円、配当は1割8分へ減った。

  • 経済春秋社編『企業の歴史 : 明治百年』「三菱電機」(経済春秋社, 1968年)
    • [10]朝鮮動乱の勃発と政府の重要政策となった電源開発計画を契機に飛躍的な発展期を迎えた
    • [12]1953年10月 無線機製造部門を伊丹製作所から分離独立させ無線機製作所とする
    • [13]1954年4月 名古屋の冷蔵庫・冷凍機部門を移管して静岡工場を創設
    • [14]1956年 名古屋製作所の家庭電器部門が独立し家庭電器工場となる
  • 日本産業史 第2巻 機械・輸送機(日本経済新聞社、1994年)「産業機械-『傾斜生産』で再起」
    • [11]1951年以降本格化した電源開発で電気機械の生産額は1950年238億円から1951年533億円へ急増
  • 三菱電機 上場会社総覧(昭和31年版・単体、半期合算)
    • [15]1955年3月期の単体売上高241億3900万円
  • 株式会社年鑑 1955年版「三菱電機」
    • [16]1954年9月末時点の従業員1万7630人
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955年)「三菱電機」の項
    • [17]1955年3月期は利益4億4000万円・1割8分へ減配。朝鮮動乱終結後のデフレ政策で利益は漸減した
参考文献[1]-[17]
    • [1]戦時中の停滞で欧米は14万5000キロワット級タービンを実用化、1952年完成の築上発電所向け国産設備は3万5000キロワットにとどまった
    • [9]三菱電機=ウエスチングハウス、富士電機=ジーメンス、東芝=GEが外資法制定を機に関係を復活、日立は1953年にGEから火力プラント技術を導入
    • [11]1951年以降本格化した電源開発で電気機械の生産額は1950年238億円から1951年533億円へ急増
    • [2]ウエスチングハウス社は三菱電機が分割され三菱の商号を失えば技術契約は結べないと通告した
    • [3]1950年4月 三井・住友の代表とともに吉田茂首相へ商号商標使用禁止令の撤回を陳情
    • [4]禁止令は5月末に一年延期、再延期を経て1952年4月28日の講和条約発効で消滅
  • 日本経済新聞「私の履歴書」進藤貞和(1986年7月)
    • [5]1951年4月 米ウエスチングハウス社との技術提携を復活
    • [8]水素冷却発電機の開発のため長崎製作所の今北孝次試験課長をウエスチングハウス社へ派遣、同製作所員の海外出張は戦後初
    • [6]ロイヤリティは1年目25万ドル、2年目30万ドル、3年目40万ドル、4年目以降は売上の3%
  • 株式会社年鑑 1956年版「三菱電機」
    • [7]1955年9月時点でウエスチングハウスが発行済4800万株のうち200万株を保有し筆頭株主
    • [10]朝鮮動乱の勃発と政府の重要政策となった電源開発計画を契機に飛躍的な発展期を迎えた
    • [12]1953年10月 無線機製造部門を伊丹製作所から分離独立させ無線機製作所とする
    • [13]1954年4月 名古屋の冷蔵庫・冷凍機部門を移管して静岡工場を創設
    • [14]1956年 名古屋製作所の家庭電器部門が独立し家庭電器工場となる
  • 三菱電機 上場会社総覧(昭和31年版・単体、半期合算)
    • [15]1955年3月期の単体売上高241億3900万円
    • [16]1954年9月末時点の従業員1万7630人
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955年)「三菱電機」の項
    • [17]1955年3月期は利益4億4000万円・1割8分へ減配。朝鮮動乱終結後のデフレ政策で利益は漸減した

1958年〜事業部制の導入と、北伊丹に設置した半導体の量産専門工場

事業部を独立した会社のように動かす

単体の売上高は1958年3月期の497億円から、1961年3月期に1011億円、1963年3月期に1511億円へ膨らんだ。電源開発、設備投資、家庭電化という三つのブームが同時に来たうえ、三菱グループからの受注も多く、1945年から1955年にかけて配当は3割を保った。この間に形を整えていったのが1958年導入の事業部制で、4事業部で出発し、市場と技術の変化に応じて何度か改められて1972年末には10事業部となり、生産から販売、損益までを通して任せ、社内資本金制度も設けて事業部を一つの会社として自主運営させる仕組みである。『売る苦労を知らなかった』と後年評される時期であった。

  • 三菱電機 上場会社総覧(昭和34年版)・会社年鑑(1963年版・1967年版)単体・半期合算
    • [18]単体売上高は1958年3月期497億円、1961年3月期1010億円、1963年3月期1510億円
  • 産業と経済 1967年10月号
    • [19]戦後の電源開発・設備投資・家庭電化のブームに乗り、1945〜1955年は3割配当。三菱グループからの受注も多かった
  • 証券アナリストジャーナル 1973年 第11巻第2号(進藤貞和・三菱電機社長)
    • [20]1958年から事業部制を導入し、市場・技術の変化に対応して手直しを重ねた結果、1972年末には10事業部になっていた
    • [21]生産・販売・損益を一貫して担当する事業部に社内資本金制度を実施し、事業部を一つの会社と考えて自主的に運営させた
商品より先に量産の設備を建てる

1959年8月、会社は半導体の量産専門工場として北伊丹工場を新設した。国産第一号の集積回路が中央研究所から商品として出るのは、2年後の1961年である。用途も需要もまだ定まらない部品に対して、商品より先に量産の設備を用意したことになる。この年の業績は売上16%増・利益35%増で創業以来の最高記録を更新し、証券市場は同社を成長株と呼んだ。背景には1958年度から1963年度にかけての1000万キロワット近い電源開発計画がある。同じ年の12月には家庭電器を専門に研究する商品研究所も設けており、重電で稼いだ資金を、電子部品と家庭電器という二つの先行投資へ同時に振り向けていた。

  • 三菱電機 有価証券報告書 第154期(2025年3月期)【沿革】
    • [22]1959年8月 半導体量産専門工場として北伊丹工場を新設
    • [27]1959年12月 家庭電器を専門に研究する商品研究所を新設
  • 日本経済新聞「私の履歴書」進藤貞和(1986年7月)
    • [23]1961年 中央研究所が国産IC第一号「モレクトロン」を商品化
  • 実業の世界 1959年12月号(三田商業研究会)
    • [24]1959年は売上16%増・利益35%増で創業以来の最高記録
    • [25]証券市場は三菱電機を「成長株」と呼んだ
    • [26]1958〜1963年度に1000万キロワット近い電源開発計画があった
電化ブームの終わりで販売力の差が出る

1963年から1964年を境に、長く続いた電化ブームは終わりを告げた。作れば売れる前提のままだった会社の業績は崩れ、1965年9月期は利益剰余金の取り崩しでかろうじて無配転落を免れている。単体の当期純利益は1965年3月期の40億円から1966年3月期には16億9000万円へ半減した。同じ不況で富士電機と安川電機は無配に落ち、明電舎は住友グループへ身売りし、大手3社のあいだにも格差が生じている。1960年の鎌倉、1962年の京都、1964年の稲沢と、この時期も製作所は増え続けていた。作る側の拡張と売る側の力の差が開いたところに不況が来たことが、殿様商法という評価を呼び込んだのだろう。

  • 産業と経済 1967年10月号
    • [28]1963〜1964年を境に電化ブームが終わりを告げた
    • [29]1965年9月期は内部留保の取り崩しで無配転落を回避
    • [31]同不況で富士電機・安川電機は無配、明電舎は住友グループへ身売りし、大手3社にも格差が生じた
  • 三菱電機 会社年鑑(1967年版・単体、半期合算)
    • [30]単体の当期純利益は1965年3月期40億1500万円から1966年3月期16億9400万円へ半減
  • 三菱電機 有価証券報告書 第154期(2025年3月期)【沿革】
    • [32]1960年10月 鎌倉製作所、1962年1月 京都製作所、1964年10月 稲沢製作所を新設
参考文献[18]-[32]
  • 三菱電機 上場会社総覧(昭和34年版)・会社年鑑(1963年版・1967年版)単体・半期合算
    • [18]単体売上高は1958年3月期497億円、1961年3月期1010億円、1963年3月期1510億円
    • [19]戦後の電源開発・設備投資・家庭電化のブームに乗り、1945〜1955年は3割配当。三菱グループからの受注も多かった
    • [28]1963〜1964年を境に電化ブームが終わりを告げた
    • [29]1965年9月期は内部留保の取り崩しで無配転落を回避
    • [31]同不況で富士電機・安川電機は無配、明電舎は住友グループへ身売りし、大手3社にも格差が生じた
    • [20]1958年から事業部制を導入し、市場・技術の変化に対応して手直しを重ねた結果、1972年末には10事業部になっていた
    • [21]生産・販売・損益を一貫して担当する事業部に社内資本金制度を実施し、事業部を一つの会社と考えて自主的に運営させた
  • 三菱電機 有価証券報告書 第154期(2025年3月期)【沿革】
    • [22]1959年8月 半導体量産専門工場として北伊丹工場を新設
    • [27]1959年12月 家庭電器を専門に研究する商品研究所を新設
    • [32]1960年10月 鎌倉製作所、1962年1月 京都製作所、1964年10月 稲沢製作所を新設
  • 日本経済新聞「私の履歴書」進藤貞和(1986年7月)
    • [23]1961年 中央研究所が国産IC第一号「モレクトロン」を商品化
    • [24]1959年は売上16%増・利益35%増で創業以来の最高記録
    • [25]証券市場は三菱電機を「成長株」と呼んだ
    • [26]1958〜1963年度に1000万キロワット近い電源開発計画があった
  • 三菱電機 会社年鑑(1967年版・単体、半期合算)
    • [30]単体の当期純利益は1965年3月期40億1500万円から1966年3月期16億9400万円へ半減

1968年〜量から質への転換と、業績を戻した二つの全社作戦

為替差損を機に全社を総点検する

1971年9月期には5億3700万円の為替差損が出て、売上高は2026億円と前期より3%伸びたものの、税引後利益は6%減の31億4000万円、配当は2分下げて1割となった。1970年に社長となった進藤貞和氏が基本方針としていたのは、量から質への転換、つまり弾力的な経営体質と資金を効率よく使う企業体質を築くことで、その方針が問われたのは就任の翌年だった。会社はこれを受けて、人や物、金といったあらゆる資源の使い方を社内で総点検する全社運動に着手した。名前の101作戦は、会計年度で101期にあたる1973年9月期までに業績を立て直すという期限をそのまま運動名にしたものである。

  • 証券アナリストジャーナル 1973年 第11巻第2号(進藤貞和・三菱電機社長)
    • [33]1971年9月期は売上高2026億円・前期比3%増ながら為替差損5億3700万円で税引後利益31億4000万円・6%減益、2分減配して1割配当
    • [34]進藤貞和社長は就任以来、量から質への転換、弾力性のある経営体質・資金効率のよい企業体質づくりを基本方針とした
    • [35]人・物・金などあらゆるものの使い方について社中の総点検を行う全社運動「101作戦」を開始した
    • [36]101作戦は会計年度の101期にあたる1973年9月期までに業績の回復を果たそうという運動
計画と資金で事業部を締める

1969年度に総合年度計画が、1970年度に資金管理制度が動き出した。会社はこの両制度を車の両輪と位置づけ、点検を途切れさせない仕掛けとした。総合年度計画では、受注・生産在庫・売上・利益・人員・設備投資・投融資・開発の計画を事業部単位で作らせた。それを常務会で検討し、四半期ごとに実績を追った。資金管理制度のほうは、事業部ごとに社内資本金を置き、資金繰りまで各事業部の裁量に委ねる仕組みである。設備投資額は1970年度が240億円、1971年度が190億円だった。赤穂では超大型変圧機を専門に造る工場が1972年6月に動き出し、その建設には約2年と100億円がかかった。1971年度の売上高は4154億円に達し、米国を除く世界の製造企業では64位に位置した。

  • 証券アナリストジャーナル 1973年 第11巻第2号(進藤貞和・三菱電機社長)
    • [37]総合年度計画は1969年度から、資金管理制度は1970年度から実施
    • [38]総合年度計画と資金管理制度を車の両輪として経営した
    • [39]総合年度計画は事業部単位に受注・生産在庫・売上・利益・人員・設備投資・投融資・開発の諸計画を立てさせ常務会で検討し四半期ごとに追跡、資金管理制度は社内資本金を設けて各事業部を独立会社のように扱った
    • [40]設備投資は1970年度240億円、1971年度190億円
    • [41]赤穂市の臨海地区に約2年と100億円を投じた超大型変圧機専門の赤穂工場が1972年6月に稼働
    • [42]1971年度の売上高4154億円、フォーチュン誌調査で米国を除く世界製造企業の第64位
攻めと守りの二つの作戦で操業度を戻す

操業度が基準の76%まで低下した1975年度上期は、石油危機後の後退の深さを示し、一時帰休は28万人日に上った。会社は攻めと守りの二つの作戦で対策を講じ、売上と利益を同時に得ることを掲げたSP76作戦で営業力を強め、VA350作戦では全社の総原価を350億円切り詰めようとした。後者の原価低減は410億円に達し、目標を17%上回った。操業度は1976年度上期に95%へ戻り、同年度の売上高は6950億円、受注高は7600億円、うち輸出受注が1700億円に達した。人員は1976年度中に2500人減って平均5万4300人である。数字を戻したのは新しい製品ではなく、受注と原価を同時に締める運動であった。

  • 証券アナリストジャーナル 1977年 第15巻第5号(八塚茂治・三菱電機副社長)
    • [43]1975年度上期は操業度が基準の76%まで低下し、28万人日の一時帰休を出した
    • [44]攻めのSP76作戦は売上と利益の同時必達を期した営業力強化の一大キャンペーン
    • [45]守りのVA350作戦は1976年度中に全社の総原価を350億円低減する運動
    • [46]VA350作戦は目標の350億円を17%上回る410億円の原価低減となる見込み
    • [47]操業度は1975年度上期76%から1976年度上期95%へ回復
    • [48]1976年度の売上高6950億円、受注高7600億円、うち輸出受注1700億円
    • [49]人員は1976年度中に2500人減少し、1976年度の平均人員は5万4300人
参考文献[33]-[49]
    • [33]1971年9月期は売上高2026億円・前期比3%増ながら為替差損5億3700万円で税引後利益31億4000万円・6%減益、2分減配して1割配当
    • [34]進藤貞和社長は就任以来、量から質への転換、弾力性のある経営体質・資金効率のよい企業体質づくりを基本方針とした
    • [35]人・物・金などあらゆるものの使い方について社中の総点検を行う全社運動「101作戦」を開始した
    • [36]101作戦は会計年度の101期にあたる1973年9月期までに業績の回復を果たそうという運動
    • [37]総合年度計画は1969年度から、資金管理制度は1970年度から実施
    • [38]総合年度計画と資金管理制度を車の両輪として経営した
    • [39]総合年度計画は事業部単位に受注・生産在庫・売上・利益・人員・設備投資・投融資・開発の諸計画を立てさせ常務会で検討し四半期ごとに追跡、資金管理制度は社内資本金を設けて各事業部を独立会社のように扱った
    • [40]設備投資は1970年度240億円、1971年度190億円
    • [41]赤穂市の臨海地区に約2年と100億円を投じた超大型変圧機専門の赤穂工場が1972年6月に稼働
    • [42]1971年度の売上高4154億円、フォーチュン誌調査で米国を除く世界製造企業の第64位
    • [43]1975年度上期は操業度が基準の76%まで低下し、28万人日の一時帰休を出した
    • [44]攻めのSP76作戦は売上と利益の同時必達を期した営業力強化の一大キャンペーン
    • [45]守りのVA350作戦は1976年度中に全社の総原価を350億円低減する運動
    • [46]VA350作戦は目標の350億円を17%上回る410億円の原価低減となる見込み
    • [47]操業度は1975年度上期76%から1976年度上期95%へ回復
    • [48]1976年度の売上高6950億円、受注高7600億円、うち輸出受注1700億円
    • [49]人員は1976年度中に2500人減少し、1976年度の平均人員は5万4300人

筆者考察

1951年から1976年までの三菱電機は、需要が向こうから来る時期と、需要を取りに行かねばならない時期の両方を経験した。電源開発と設備投資と家庭電化が重なった十数年、三菱グループからの受注も厚く、単体の売上高は1955年3月期の241億円から1963年3月期の1510億円へ6倍になっている。ところが1963年に電化ブームが終わると、1965年9月期は利益剰余金を取り崩して無配転落をかろうじて免れる水準まで悪化した。作る力は伸びていたのに、売る相手を自分で探す力が育っていない。殿様商法という業界誌の言葉は、重電で得た地位の裏側を指していた。

この四半世紀に打った手のうち、後々まで効いたのは組織と設備の二つである。1958年の事業部制と社内資本金は、事業部を独立した会社のように扱って損益の責任を分け、1969年度の総合年度計画と1970年度の資金管理制度がその締め方を決めた。1959年の北伊丹工場は、国産集積回路の第一号が世に出る2年前に、量産の設備だけを先に建てている。前者は操業度が76%まで低下した1975年度上期に、SP76とVA350の二つの作戦を全社へ通す土台になり、後者は四半世紀後の半導体事業の帰趨を決めた。組織は早く効き、設備は遅れて効いた。

1951年〜1976年の業績

決算期 区分 売上高 営業利益経常利益純利益 主な投資
億円 YoY 億円 億円 億円 利益率
1951年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1952年03月期 単体 125 n/a 18 n/a n/a n/a n/a
1953年03月期 単体 185 +47.2% 40 n/a n/a n/a n/a
1954年03月期 単体 227 +23.1% 39 n/a n/a n/a n/a
1955年03月期 単体 241 +5.9% 25 n/a n/a n/a n/a
1956年03月期 単体 250 +3.8% 17 n/a n/a n/a n/a
1957年03月期 単体 333 +33.0% 34 n/a n/a n/a n/a
1958年03月期 単体 497 +49.2% 69 n/a n/a n/a n/a
1959年03月期 単体 582 +17.2% n/a n/a 23 4.1% n/a
1960年03月期 単体 778 +33.6% n/a n/a 29 3.8% n/a
1961年03月期 単体 1,010 +29.8% n/a n/a 39 3.9% n/a
1962年03月期 単体 1,258 +24.6% n/a n/a 57 4.6% n/a
1963年03月期 単体 1,510 +20.0% n/a n/a 64 4.3% n/a
1964年03月期 単体 1,588 +5.2% n/a n/a 62 4.0% n/a
1965年03月期 単体 1,794 +12.9% n/a n/a 40 2.2% n/a
1966年03月期 単体 1,701 ▲5.2% 118 27 16 1.0% n/a
1967年03月期 単体 1,892 +11.2% n/a n/a 32 1.7% n/a
1968年03月期 単体 2,486 +31.4% n/a n/a 65 2.6% n/a
1969年03月期 単体 3,003 +20.8% n/a n/a 96 3.2% n/a
1970年03月期 単体 3,761 +25.2% 346 191 106 2.8% n/a
1971年03月期 単体 3,832 +1.9% n/a 118 83 2.2% n/a
1972年03月期 単体 4,153 +8.4% n/a 105 64 1.5% n/a
1973年03月期 単体 4,575 +10.2% n/a 154 91 2.0% n/a
1974年03月期 単体 5,730 +25.2% n/a 202 118 2.1% n/a
1975年03月期 単体 6,209 +8.4% n/a 105 75 1.2% n/a
1976年03月期 単体 5,917 ▲4.7% n/a 61 40 0.7% n/a

出所:上場会社総覧(昭和31年版)半期合算、上場会社総覧(昭和31年版、昭和34年版)半期合算、上場会社総覧(昭和34年版)半期合算、会社年鑑(1963年版)半期合算、会社年鑑(1967年版)半期合算、会社年鑑(1971年版)半期合算、会社年鑑

出典・参考

16件
出典・参考
  • 三菱電機 有価証券報告書 第154期(2025年3月期)【沿革】
  • 株式会社年鑑 1955年版「三菱電機」
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955年)「三菱電機」の項
  • 株式会社年鑑 1956年版「三菱電機」
  • 三菱電機 上場会社総覧(昭和34年版)・会社年鑑(1963年版・1967年版)単体・半期合算
  • 三菱電機 会社年鑑(1967年版・単体、半期合算)
  • 経済春秋社編『企業の歴史 : 明治百年』「三菱電機」(経済春秋社, 1968年)
  • 日本産業史 第2巻 機械・輸送機(日本経済新聞社、1994年)「産業機械-『傾斜生産』で再起」
  • 三菱電機 上場会社総覧(昭和31年版・単体、半期合算)
  • 野田経済 1951年5月号(野田経済研究所 編)
  • 実業の世界 1959年12月号(三田商業研究会)
  • 産業と経済 1967年10月号
  • 証券アナリストジャーナル 1973年 第11巻第2号(進藤貞和・三菱電機社長)
  • 証券アナリストジャーナル 1977年 第15巻第5号(八塚茂治・三菱電機副社長)
  • 私の履歴書 経済人8「高杉晋一」(日本経済新聞社, 1980年)
  • 日本経済新聞「私の履歴書」進藤貞和(1986年7月)

免責事項およびポリシー