三菱電機:三菱造船からの独立と戦時の工場網拡張
1921年〜三菱造船からの分系独立と、不況下で3期続いた赤字
三菱電機の源流は1905年、三菱合資会社造船部神戸造船所の構内で舶用・鉱山用を主とした電気機械器具の製造が始まったところにある。重工業化を狙う三菱合資会社は、電機事業を戦略上の重点分野の一つとして重く見ていた。各方面で電力を動力に使う機運が熟していたのに、欧州大戦直後の疲弊で先進工業国からの輸入が難しくなり、電気機械の製造は有望な事業と評価されていた。その素地は同造船所にあり、1908年には国産第一号のタービン発電機を完成させて創業期の電機技術を積んでいた。1921年1月15日、この電気機械部門を引き継ぎ、資本金1500万円で三菱合資会社の9番目の分系会社として三菱電機が発足し、当初の施設は神戸工場だけ、本店は名古屋であった。
- 経済春秋社編『企業の歴史 : 明治百年』「三菱電機」(経済春秋社, 1968年)
- [1]1905年 三菱合資会社造船部神戸造船所構内で舶用・鉱山用の電気機械器具製造を創始
- [4]1908年 神戸造船所で国産第一号のタービン発電機を完成
- 三菱電機社史(創立60周年記念、三菱電機、1982年)第1章「三菱電機の誕生」
- [2]三菱造船の電機製作所を母胎とする三菱合資会社の9番目の分系会社として発足し、重工業化をねらう事業戦略の一翼に電機事業が位置づけられた
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955年)「三菱電機」の項
- [3]設立事情は欧州大戦直後の疲弊による輸入難と電気機械製造事業の有望性
- [5]1921年1月15日 電気機械部門を継承し資本金1500万円で設立
- [6]発足時の施設は神戸工場のみ、本店は名古屋
正式に営業を始めた1921年2月の時点で、神戸工場は敷地7760坪に職員234人・職工1281人の計1515人を抱えていた。ところが一般経済界の不振に製品の不良と工事の延滞が重なり、1921年度上期から3期続けて赤字決算となった。会社は職制の大幅な縮小、休職命令、経費の10%削減を強いられた。武田秀雄会長は従業員に対し、経営の要諦として品質第一主義と科学的経営法の重要さを繰り返し説いている。受注した機械が動かなければ代金は入らず、工事が延びれば工場は遊ぶ。規模ではなく歩留まりが会社の生死を決める段階にあり、品質を経営の要諦に据えた判断は、この3期の赤字の内訳から導かれたものだろう。
- 三菱電機社史(創立60周年記念、三菱電機、1982年)第1章「三菱電機の誕生」
- [7]1921年4月末時点の神戸工場は敷地7760坪、職員234人・職工1281人の計1515人
- [8]経済界の不振に製品の不良と工事の延滞が重なり1921年度上期から3期連続の赤字決算
- [9]職制の大幅縮小・休職命令・経費の10%削減を実施
- [10]武田秀雄会長は経営の要諦として品質第一主義と科学的経営法の重要さを強調した
1921年10月に神戸工場を神戸製作所と改称し、翌1922年1月には本店を東京へ移した。1923年11月には三菱造船長崎造船所の電機工場を1年の委託経営ののちに吸収して長崎製作所とし、タービン発電機や船舶用直流機など大型重電機器を手がけた。1924年9月には名古屋製作所を開設し、汎用誘導電動機などの標準電機品と家庭用電気機器へ製品の幅を広げた。技術の面では1923年11月に米ウエスチングハウス社と技術提携契約を締結し、翌1924年には米ウエスチングハウスエヤーブレーキ社、1925年には米ナショナルニューマチック社とも提携した。これらの契約は戦時中の中絶を除いて戦後まで続き、製品の質を支えた。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955年)「三菱電機」の項
- [11]1921年10月 神戸工場を神戸製作所と改称、1922年1月 本店を東京へ移転
- [12]1923年 長崎造船所電機工場を1年の委託経営後に吸収し長崎製作所とする
- [15]1923年11月 米ウエスチングハウス社と技術提携契約を締結
- [17]両提携は戦時中の中絶期間を除き戦後も継続し製品の質的向上に寄与
- 三菱電機 有価証券報告書 第154期(2025年3月期)【沿革】
- [13]1923年11月 長崎工場でタービン発電機・船舶用直流機等の大型重電機器を手がける
- [14]1924年9月 名古屋製作所を新設し標準電機品・家庭用電気機器を手がける
- 経済春秋社編『企業の歴史 : 明治百年』「三菱電機」(経済春秋社, 1968年)
- [16]1924年に米ウエスチングハウスエヤーブレーキ社、1925年に米ナショナルニューマチック社とも技術提携
参考文献[1]-[17]
- [1]1905年 三菱合資会社造船部神戸造船所構内で舶用・鉱山用の電気機械器具製造を創始
- [4]1908年 神戸造船所で国産第一号のタービン発電機を完成
- [16]1924年に米ウエスチングハウスエヤーブレーキ社、1925年に米ナショナルニューマチック社とも技術提携
- [2]三菱造船の電機製作所を母胎とする三菱合資会社の9番目の分系会社として発足し、重工業化をねらう事業戦略の一翼に電機事業が位置づけられた
- [7]1921年4月末時点の神戸工場は敷地7760坪、職員234人・職工1281人の計1515人
- [8]経済界の不振に製品の不良と工事の延滞が重なり1921年度上期から3期連続の赤字決算
- [9]職制の大幅縮小・休職命令・経費の10%削減を実施
- [10]武田秀雄会長は経営の要諦として品質第一主義と科学的経営法の重要さを強調した
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955年)「三菱電機」の項
- [3]設立事情は欧州大戦直後の疲弊による輸入難と電気機械製造事業の有望性
- [5]1921年1月15日 電気機械部門を継承し資本金1500万円で設立
- [6]発足時の施設は神戸工場のみ、本店は名古屋
- [11]1921年10月 神戸工場を神戸製作所と改称、1922年1月 本店を東京へ移転
- [12]1923年 長崎造船所電機工場を1年の委託経営後に吸収し長崎製作所とする
- [15]1923年11月 米ウエスチングハウス社と技術提携契約を締結
- [17]両提携は戦時中の中絶期間を除き戦後も継続し製品の質的向上に寄与
- 三菱電機 有価証券報告書 第154期(2025年3月期)【沿革】
- [13]1923年11月 長崎工場でタービン発電機・船舶用直流機等の大型重電機器を手がける
- [14]1924年9月 名古屋製作所を新設し標準電機品・家庭用電気機器を手がける
1931年〜満州事変後の設備拡張と、営業を本店へ集約した販売体制
神戸・名古屋・長崎の三製作所が整備拡張の時期に入ったのは、1930年から1931年の不況で苦しんだ経営が、満州事変の勃発を機に好況へ向かってからである。1935年は一期の販売高が1200万円に上り、同じ年に英レイロール社と技術提携を結んで、大正期に米国系3社と交わした契約に欧州の技術を加えた。1940年12月、尼崎で12万坪の土地を取得し、大阪工場を建てるとともに研究所も設けた。のちに伊丹製作所へ名を改めた大阪工場は、神戸・名古屋・長崎の三製作所に並ぶ主力工場となった。資本金は1937年と1940年にそれぞれ倍額増資を行い、1943年8月には1億2000万円となった。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955年)「三菱電機」の項
- [18]昭和5〜6年の不況後、満州事変勃発を機に三製作所の整備拡張期へ
- [19]1935年 一期の販売高1200万円
- [21]1940年12月 尼崎に12万坪を購入し大阪工場を建設、研究所を開設
- [22]大阪工場はのちに伊丹製作所と改称し主力工場の一つとなる
- [23]1937年・1940年の倍額増資を経て1943年8月に資本金1億2000万円
- 経済春秋社編『企業の歴史 : 明治百年』「三菱電機」(経済春秋社, 1968年)
- [20]1935年 英レイロール社と技術提携
本店と各製作所の連携が足りず、方針が食い違い事務も重複して遅れがちだったため、会社はこの時期に販売の体制を組み替え、東京の本店に営業の中枢を集め、職制を設けて本店営業部と各製作所の関係をはっきりさせた。製作損益と営業損益も切り分け、製作・営業の双方が自らの立場で方針を立てられる体制にした。発祥の地が神戸と長崎だったことから営業は関西と九州に偏っていたが、この改革で東日本を含む全国市場に広がる足がかりができた。1934年11月には重電機・昇降機・標準電機品・家庭用電気機器を網羅した最初の製品カタログ「三菱電機総型録」第1版を発行している。共同販売制度のもとで利益が出るようになったのは、売上高が3000万円に達した1938年度下期であった。
- 三菱電機社史(創立60周年記念、三菱電機、1982年)第1章「三菱電機の誕生」
- [24]営業の中枢機能を東京の本店に集中し、三菱電機株式会社職制を制定して本店営業部と各製作所の関係を明確にした
- [25]職制改革で製作損益と営業損益を区分した
- [26]神戸と長崎が発祥の地であるため関西・九州に偏っていた営業活動が、本店集中により東日本を含む全国市場へ広がった
- [27]1934年11月 重電機・昇降機・標準電機品・家庭用電気機器を網羅した最初の製品カタログ「三菱電機総型録第1版」を発行
- [28]共同販売制度のもとで初めて利益が出たのは売上高が3000万円に達した1938年度下期
輸出も同じ時期に始まり、不況のさなかの1931年には中国や香港などへ扇風機・ミシン・電力量計・小形電動機を初輸出している。戦時経済のもとで工場の新設は加速し、1940年12月の大阪工場は神戸製作所から無線機と精機の工場を移して立ち上げ、1942年4月には世田谷工場を設けた。終戦の時点で、同社は4製作所8工場と1研究所を擁し、日立製作所・東京芝浦電気とともに三大メーカーの一つと呼ばれる規模と中身を備えていた。そこに至るまでに、1943年には2月に福山工場と中津川工場、4月に郡山工場、6月に和歌山工場と、半年で4か所が操業を始めている。1944年2月には姫路工場を新設した。翌3月、本店研究部を研究所へ格上げし、拠点を広げるのと並行して社内の開発機能も整えた。
- 三菱電機社史(創立60周年記念、三菱電機、1982年)第1章「三菱電機の誕生」
- [29]1931年 中国・香港その他の地域へ扇風機・ミシン・電力量計・小形電動機を初輸出
- 三菱電機 有価証券報告書 第154期(2025年3月期)【沿革】
- [30]1940年12月 大阪工場を新設し神戸製作所より無線機・精機工場を移転
- [33]1943年2月 福山工場・中津川工場、同年4月 郡山工場、6月 和歌山工場を新設
- [34]1944年2月 姫路工場を新設
- [35]1944年 本店研究部を研究所とする
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955年)「三菱電機」の項
- [31]1942年4月 世田谷工場を開設
- [32]終戦時は4製作所8工場1研究所を擁し日立・東芝と並ぶ三大メーカーの一つ
参考文献[18]-[35]
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955年)「三菱電機」の項
- [18]昭和5〜6年の不況後、満州事変勃発を機に三製作所の整備拡張期へ
- [19]1935年 一期の販売高1200万円
- [21]1940年12月 尼崎に12万坪を購入し大阪工場を建設、研究所を開設
- [22]大阪工場はのちに伊丹製作所と改称し主力工場の一つとなる
- [23]1937年・1940年の倍額増資を経て1943年8月に資本金1億2000万円
- [31]1942年4月 世田谷工場を開設
- [32]終戦時は4製作所8工場1研究所を擁し日立・東芝と並ぶ三大メーカーの一つ
- [20]1935年 英レイロール社と技術提携
- [24]営業の中枢機能を東京の本店に集中し、三菱電機株式会社職制を制定して本店営業部と各製作所の関係を明確にした
- [25]職制改革で製作損益と営業損益を区分した
- [26]神戸と長崎が発祥の地であるため関西・九州に偏っていた営業活動が、本店集中により東日本を含む全国市場へ広がった
- [27]1934年11月 重電機・昇降機・標準電機品・家庭用電気機器を網羅した最初の製品カタログ「三菱電機総型録第1版」を発行
- [28]共同販売制度のもとで初めて利益が出たのは売上高が3000万円に達した1938年度下期
- [29]1931年 中国・香港その他の地域へ扇風機・ミシン・電力量計・小形電動機を初輸出
- 三菱電機 有価証券報告書 第154期(2025年3月期)【沿革】
- [30]1940年12月 大阪工場を新設し神戸製作所より無線機・精機工場を移転
- [33]1943年2月 福山工場・中津川工場、同年4月 郡山工場、6月 和歌山工場を新設
- [34]1944年2月 姫路工場を新設
- [35]1944年 本店研究部を研究所とする
1945年〜財閥解体の法令と、三菱商事の解散で失った販売機関の再建
戦後の法令が次々にかかり、制限会社・賠償指定・特別経理会社・過度経済力集中排除法の指定が、原爆を浴びた長崎製作所を含め空襲で全施設の31%に損害を負った同社の復旧を阻んだ。特別経理会社に指定されたのが1946年8月、集中排除法の指定が外れたのが1949年2月で、同年6月に整備計画の認可を得て新旧勘定を併合し、特別経理会社の指定からも外れた。この間に資本金は1948年11月に5億5000万円、1950年1月に12億円へと積み増され、制限会社の指定も解除された。1950年5月時点の筆頭株主は持株会社整理委員会で59万6800株を持ち、旧財閥の持株は市場へ放出される途中にあった。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955年)「三菱電機」の項
- [36]制限会社指定・賠償指定・特別経理会社・過度経済力集中排除法指定が復旧の制約
- [37]空襲被害は原爆を受けた長崎製作所をはじめ全施設の31%
- 株式会社年鑑 1951年版「三菱電機」
- [38]1946年8月 特別経理会社指定、1949年2月 集排指定解除、同年6月 整備計画認可・新旧勘定併合・特別経理会社解除
- [39]1948年11月 資本金5億5000万円へ増資、1950年1月 資本金12億円へ増資
- [40]1950年1月 制限会社の指定を解除
- [41]1950年5月27日現在の筆頭株主は持株会社整理委員会で59万6800株
なかでも打撃が大きかったのは、三菱商事の解散で従来の販売機関を一挙に失ったことである。戦前の営業活動は三菱商事の広範な海外支店網にも支えられており、輸出の実績はその上に築かれていた。売る場所を自力で作り直すため、1946年から1949年にかけて大阪・名古屋・福岡・札幌・仙台・富山・広島などに営業所を開設し、その下に多数の特約店と販売店を配して全国の販売網を敷き直した。工場のほうは神戸・名古屋・長崎・伊丹・福山・姫路・中津川・和歌山・福岡・大船・世田谷・郡山の12か所が戦後も残っている。商社を失うことは、売り先の名簿と代金回収の仕組みを同時に失うことであり、工場の復旧より売る経路の再建に時間がかかったとみられる。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955年)「三菱電機」の項
- [42]三菱商事の解散で従来の販売機関を一挙に喪失
- [44]1946〜1949年に大阪・名古屋・福岡・札幌・仙台・富山・広島等へ営業所を設置
- 三菱電機社史(創立60周年記念、三菱電機、1982年)第1章「三菱電機の誕生」
- [43]戦前の製品輸出は三菱商事の海外の広範な支店網に支えられ、スリーダイヤモンドの電機製品が各国市場で受け入れられた
- 株式会社年鑑 1951年版「三菱電機」
- [45]1950年時点の工場は神戸・名古屋・長崎・伊丹・福山・姫路・中津川・和歌山・福岡・大船・世田谷・郡山の12か所
東京証券取引所に株式を上場したのは1949年5月で、同じ1949年のドッジラインは日本経済をインフレから安定へ導く一方、需要が足りなくなり、金融も急速に逼迫した。会社は5月の中央経営協議会で人員の1割を整理する案を出し、同じ5月に10%の賃金引き下げも打ち出して、業界における合理化の口火を切った。退職手当を手厚くした希望退職には、見込みを超える2033人が応じた。会社がなお指名による解雇を150人分求めたことで交渉はこじれ、中央労働委員会への斡旋申請を経て、8月に解雇を115人に絞ることで合意に至った。職務を仕事の質で等級に分ける職階制度は1950年1月に定め、配当は1950年3月期に8分の低い率で復活させた。
- 三菱電機 有価証券報告書 第154期(2025年3月期)【沿革】
- [46]1949年5月 東京証券取引所に株式を上場
- 三菱電機社史(創立60周年記念、三菱電機、1982年)第1章「三菱電機の誕生」
- [47]1949年のドッジラインは経済を安定へ導く一方、有効需要の不足と急激な金融逼迫を招いた
- [48]1949年5月 中央経営協議会で1割の人員整理を提案
- [50]希望退職の応募は目標の1割を超える2033人
- [51]150人の指名解雇の主張に組合が抵抗し、中央労働委員会への斡旋申請を経て1949年8月に解雇者115人で合意
- [52]1950年1月 仕事の質によって職務の級を分類する職階制度を制定・実施
- 日本産業史 第2巻 機械・輸送機(日本経済新聞社、1994年)「産業機械-『傾斜生産』で再起」
- [49]1949年5月 10%の人員整理と10%の賃金引き下げを発表し業界合理化の口火
- 野田経済 1951年5月号(野田経済研究所 編)
- [53]1950年3月期 8分の低率で配当を復活
参考文献[36]-[53]
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955年)「三菱電機」の項
- [36]制限会社指定・賠償指定・特別経理会社・過度経済力集中排除法指定が復旧の制約
- [37]空襲被害は原爆を受けた長崎製作所をはじめ全施設の31%
- [42]三菱商事の解散で従来の販売機関を一挙に喪失
- [44]1946〜1949年に大阪・名古屋・福岡・札幌・仙台・富山・広島等へ営業所を設置
- [38]1946年8月 特別経理会社指定、1949年2月 集排指定解除、同年6月 整備計画認可・新旧勘定併合・特別経理会社解除
- [39]1948年11月 資本金5億5000万円へ増資、1950年1月 資本金12億円へ増資
- [40]1950年1月 制限会社の指定を解除
- [41]1950年5月27日現在の筆頭株主は持株会社整理委員会で59万6800株
- [45]1950年時点の工場は神戸・名古屋・長崎・伊丹・福山・姫路・中津川・和歌山・福岡・大船・世田谷・郡山の12か所
- [43]戦前の製品輸出は三菱商事の海外の広範な支店網に支えられ、スリーダイヤモンドの電機製品が各国市場で受け入れられた
- [47]1949年のドッジラインは経済を安定へ導く一方、有効需要の不足と急激な金融逼迫を招いた
- [48]1949年5月 中央経営協議会で1割の人員整理を提案
- [50]希望退職の応募は目標の1割を超える2033人
- [51]150人の指名解雇の主張に組合が抵抗し、中央労働委員会への斡旋申請を経て1949年8月に解雇者115人で合意
- [52]1950年1月 仕事の質によって職務の級を分類する職階制度を制定・実施
- 三菱電機 有価証券報告書 第154期(2025年3月期)【沿革】
- [46]1949年5月 東京証券取引所に株式を上場
- [49]1949年5月 10%の人員整理と10%の賃金引き下げを発表し業界合理化の口火
- [53]1950年3月期 8分の低率で配当を復活
筆者考察
三菱電機の最初の30年で二度失われたのは、工場ではなく売る経路であった。設立の年から3期続けて赤字を出した会社は、営業の中枢を東京の本店へ集め、製作損益と営業損益を分け、共同販売制度を育てて、ようやく1938年度下期に販売でも利益を出せるところまで来た。ところが終戦後、三菱商事の解散でその販売機関は一挙に消える。空襲で焼けた施設は全体の31%だが、売り先の名簿と代金回収の仕組みはすべて失われた。1946年から1949年にかけて大阪・名古屋・福岡・札幌へ営業所を並べ直した4年は、焼けた工場を建て直す作業と同じだけの重みを持っていた。
もう一つ、この30年が残したのは、技術を外から買う会社としての形である。1923年にウエスチングハウス社と結んだ技術提携以来、三菱電機の重電はこの契約とともに品質を上げてきた。だから戦後、社名を失えば契約は結べないと通告されたとき、高杉晋一社長にとって三菱の三文字は、のれんであると同時に技術の入口であった。資本金が1500万円から12億円へ膨らみ、持株会社整理委員会が筆頭株主に座った30年の終わりに、会社の手元に残ったのは工場と技術契約、そしてまだ取り戻していない販売力である。次の四半世紀は、この三つの配分をめぐって進むことになる。
- 1921年1月の設立時1500万円と1943年8月の1億2000万円は会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「三菱電機」の項、1948年11月の5億5000万円と1950年1月の12億円は株式会社年鑑 1951年版の沿革欄による。
- 1948年11月と1950年1月の増資はいずれも戦後インフレ下の再建整備によるもので、1943年までの資本金と購買力は比較できない。
出典・参考
7件
- 三菱電機 有価証券報告書 第154期(2025年3月期)【沿革】
- 三菱電機社史(創立60周年記念、三菱電機、1982年)第1章「三菱電機の誕生」
- 株式会社年鑑 1951年版「三菱電機」
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955年)「三菱電機」の項
- 経済春秋社編『企業の歴史 : 明治百年』「三菱電機」(経済春秋社, 1968年)
- 日本産業史 第2巻 機械・輸送機(日本経済新聞社、1994年)「産業機械-『傾斜生産』で再起」
- 野田経済 1951年5月号(野田経済研究所 編)