三菱電機:4事業本部制の導入とコンピュータ・半導体の事業再編
1977年〜重電・電子・機器・商品の4事業本部と、台湾三菱電機の設立
数字を戻した会社は、1977年6月に売り方の単位を市場に合わせて組織を組み替えた。製販一体の事業部を販売部門と製作所に分け、販売部門を顧客別・販路別の18の販売事業部に改めた。販売事業部と製作所は、重電・電子・機器・商品の4事業本部に統合された。社長の進藤貞和氏は、冷熱の担当とウインドクーラーの担当が別の事業部に割れる旧体制を生産志向型と説明した。新体制では、電力会社に対して電力の担当者が汎用モーターや変圧器、電力量計まで売る方式に改めた。販売事業部には利益責任を持たせ、製作所と並ぶ損益管理単位とした。SP76作戦で外へ向けた営業の力を、組織の単位として固定したとみられる。
- 三菱電機社史 創立60周年(1982年)6章「新しい出発」
- [1]1977年6月 事業体制を市場志向・販売志向に改める組織改正を実施(1958年の事業部制導入以来19年ぶり)
- [2]製販一体の事業部を販売部門と製作所に分離し、販売部門を顧客・市場別、販売ルート別などに再編して18の販売事業部を発足
- [3]販売事業部と製作所を統合し、重電・電子・機器・商品の4事業本部を設置
- [6]販売事業部に販売の責任と権限・利益責任を持たせ、販売部門と製作所がともに損益管理単位となった
- 日経ビジネス 1977年12月5日号
- [4]進藤貞和社長の説明では、冷熱関係の部門とウインドクーラーの商品事業部が分かれるなど従来は生産志向型だった
- [5]新体制では電力会社向けに電力担当が汎用モーター・汎用変圧器・電力量計も売る方式にした
4事業本部の下で、家電は1977年発売のふとん乾燥機を皮切りに、オーブンレンジや1978年の石油ガス化ファンヒーターと新商品を重ねた。家電部門の売上高は1977年度に重電部門と並び、1980年度に3200億円を超えた。進藤貞和氏は、群馬製作所の幹部が全国の系列販売店を回って製品を説明した点を売れた要因の一つに挙げた。ヒット商品の条件について進藤貞和氏は、実行を命じる人の有無を重く見て『やはり人次第』と語った。販売網では1977年4月に販売会社経営改善計画を策定し、1978年10月から系列ストア2000店の増設を目標に掲げた。系列ストアの数で業界に劣位に置かれていたことが、増設を急いだ理由であった。
- 三菱電機社史 創立60周年(1982年)6章「新しい出発」
- [7]1977年発売のふとん乾燥機が家電部門急伸の発端となり、オーブンレンジ、1978年の石油ガス化ファンヒーターなどが続いた
- [8]家電部門の売上高は1977年度に重電部門に匹敵し、1980年度に3200億円を超えた
- [11]1977年4月に販売会社経営改善計画を策定し、1978年10月に系列ストア2000店増設を目標とする第一次ストア増設キャンペーンを開始
- [12]当時の三菱電機は系列ストア数で業界において劣勢だった
- 日経ビジネス 1977年12月5日号
- [9]進藤貞和社長は、群馬製作所の所長・副所長が全国の三菱系列販売店を回って説明したことを売れた要因の一つに挙げた
- [10]進藤貞和社長は、ヒット商品には誰にやらせるか、やれと言える人がいるかが重要で、人次第だと語った
国内で立て直した事業は輸出へ広がり、輸出受注高は1975年度の1000億円から1980年度に2550億円へ増えた。家電を中心とする量産品の輸出売上は、1977年度の420億円から1980年度に930億円となった。1978年6月には台湾三菱電機股份有限公司を設立した。1979年にはメキシコの重電機工場と英国のカラーテレビ工場が完成した。1980年3月期の売上高は1兆754億円に達し、進藤貞和氏は1980年の年頭に回復の基調を重電輸出と家電に置いた。国内の設備投資が伸び悩むなかで、輸出が操業度を支える構造になったのだろう。
- 三菱電機社史 創立60周年(1982年)6章「新しい出発」
- [13]輸出受注高は1975年度の1000億円から1980年度に2550億円
- [14]家電を中心とする量産品輸出の売上げは1977年度の420億円から1980年度に930億円
- [16]1979年にメキシコのメルコデメヒコの重電機工場と英国三菱エレクトリック(UK)のカラーテレビ工場が完成
- [17]1979年度(1980年3月期)の売上高は1兆754億円で、1兆円企業となった
- 三菱電機 有価証券報告書「沿革」
- [15]1978年6月 台湾に台湾三菱電機股份有限公司を設立
- 80年代わが社の戦略(1980年)「三菱電機」進藤貞和
- [18]進藤貞和社長は1980年の年頭、重電輸出と家電の活躍を基調に業績を回復したと述べた
参考文献[1]-[18]
- 三菱電機社史 創立60周年(1982年)6章「新しい出発」
- [1]1977年6月 事業体制を市場志向・販売志向に改める組織改正を実施(1958年の事業部制導入以来19年ぶり)
- [2]製販一体の事業部を販売部門と製作所に分離し、販売部門を顧客・市場別、販売ルート別などに再編して18の販売事業部を発足
- [3]販売事業部と製作所を統合し、重電・電子・機器・商品の4事業本部を設置
- [6]販売事業部に販売の責任と権限・利益責任を持たせ、販売部門と製作所がともに損益管理単位となった
- [7]1977年発売のふとん乾燥機が家電部門急伸の発端となり、オーブンレンジ、1978年の石油ガス化ファンヒーターなどが続いた
- [8]家電部門の売上高は1977年度に重電部門に匹敵し、1980年度に3200億円を超えた
- [11]1977年4月に販売会社経営改善計画を策定し、1978年10月に系列ストア2000店増設を目標とする第一次ストア増設キャンペーンを開始
- [12]当時の三菱電機は系列ストア数で業界において劣勢だった
- [13]輸出受注高は1975年度の1000億円から1980年度に2550億円
- [14]家電を中心とする量産品輸出の売上げは1977年度の420億円から1980年度に930億円
- [16]1979年にメキシコのメルコデメヒコの重電機工場と英国三菱エレクトリック(UK)のカラーテレビ工場が完成
- [17]1979年度(1980年3月期)の売上高は1兆754億円で、1兆円企業となった
- 日経ビジネス 1977年12月5日号
- [4]進藤貞和社長の説明では、冷熱関係の部門とウインドクーラーの商品事業部が分かれるなど従来は生産志向型だった
- [5]新体制では電力会社向けに電力担当が汎用モーター・汎用変圧器・電力量計も売る方式にした
- [9]進藤貞和社長は、群馬製作所の所長・副所長が全国の三菱系列販売店を回って説明したことを売れた要因の一つに挙げた
- [10]進藤貞和社長は、ヒット商品には誰にやらせるか、やれと言える人がいるかが重要で、人次第だと語った
- 三菱電機 有価証券報告書「沿革」
- [15]1978年6月 台湾に台湾三菱電機股份有限公司を設立
- 80年代わが社の戦略(1980年)「三菱電機」進藤貞和
- [18]進藤貞和社長は1980年の年頭、重電輸出と家電の活躍を基調に業績を回復したと述べた
1980年〜片山仁八郎社長の家庭の情報化と、福岡に新設した半導体工場
1980年6月、進藤貞和氏は会長に退き、副社長の片山仁八郎氏が社長に就任した。進藤貞和氏は、社長定年を70歳とする内規に達したことと、1兆円企業入りを果たしたことを交代の理由に挙げた。進藤貞和氏は前年の交代も考えたが、片山仁八郎氏が常務だったため、副社長として社内の仕事を経験させた。片山仁八郎氏は1940年に九州帝国大学を卒業して入社し、長崎製作所と神戸製作所の所長を務めた技術者であった。片山仁八郎氏は社員に『組織のカベを突き破れ』と求めた。当時の電子部門は、日本電気や富士通に差をつけられていると評されていた。重電育ちの社長が二代続き、電子の遅れを埋める課題が新体制に残ったと推察される。
- 日本経済新聞「私の履歴書」進藤貞和(1986年7月)
- [19]1980年6月 進藤貞和氏が社長を片山仁八郎氏に譲り会長に就任
- [20]進藤貞和氏は社長定年70歳の内規に達したことと、1980年3月期に1兆円企業入りしたことを交代の理由とした
- エネルギーフォーラム 1980年「クローズアップ--三菱電機新社長 片山仁八郎」
- [21]進藤貞和氏は前年の役員交替時に譲りたかったが、片山仁八郎氏が常務だったため副社長として社内の仕事を経験させた
- [24]1980年当時、三菱電機の電子部門は日本電気や富士通といった通信機メーカーに差をつけられていると評された
- 日経ビジネス 1981年2月23日号
- [22]片山仁八郎氏は1940年3月に九州帝国大学工学部を卒業して入社し、1969年に長崎製作所長、1972年に神戸製作所長
- [23]片山仁八郎社長は組織の壁を突き破り、組織にとらわれずに考えるよう社員に求めた
片山仁八郎氏の体制は、1981年初めの新長期経営計画で電子部門の売上構成比を20%強から50%程度へ上げる目標を置いた。同計画の1985年度売上高目標は2兆1000億円で、日立製作所と東京芝浦電気が売上倍増の計画を出すと、上方修正の作業に入った。半導体の売上高は1980年度に600億円を超え、5年間で約3倍になっていた。1981年9月には北伊丹製作所福岡半導体工場を新設した。1983年には米国に半導体工場を設立し、1984年に愛媛県の西条工場を一部完成させ、1985年に高知工場の建設に着手した。1984年の日本のIC生産額は、2兆円に達する公算が大きいと報じられた。計画の目標を追って、半導体の設備を毎年積み増したのだと読める。
- 日経ビジネス 1981年12月14日号
- [25]1981年初めに決めた新長期経営計画は、半導体・コンピューター・テレビ・VTRなど電子部門の売上高構成比を20%強から50%程度に引き上げる計画
- [26]新長期経営計画の1985年度売上高目標は2兆1000億円。日立製作所・東京芝浦電気の売上倍増計画に刺激され、目標の上方修正作業に着手
- 三菱電機社史 創立60周年(1982年)6章「新しい出発」
- [27]半導体の売上高は1980年度に600億円を超え、5年間で約3倍に増加
- 三菱電機 有価証券報告書「沿革」
- [28]1981年9月 北伊丹製作所福岡半導体工場(現パワーデバイス製作所)を新設
- 日本経済新聞「私の履歴書」進藤貞和(1986年7月)
- [29]1983年に米国に半導体工場を設立し、1984年に西条工場(愛媛県)を一部完成、1985年に高知工場の建設に着手
- 日本経済新聞(1984年7月31日)
- [30]1984年のIC生産額は2兆円に達する公算が出てきた
1983年10月、事業本部は機電・商品・電子システム・電子計算機・電子デバイス・海外の6本部に再編された。電子デバイス本部は、重電部門の低迷を受けて電子部品の外販を広げる役割を担った。家電では1984年、片山仁八郎氏がホームオートメーションの体系をMELONの名で打ち出した。片山仁八郎氏は、家庭の自動化は工場や事務所の省力化と異なり、安らぎやゆとりを目的とすべきだと説いた。そのうえで新しい時代の中核技術を通信に置き、家庭の情報化の始まりと位置づけた。第1弾は防犯・火災・ガスのセンサーと電気錠を備える住宅向けシステムで、1984年春の発売が予定された。家電の販売網と電子の技術を、通信でつなぐ構想であったといえる。
- 三菱電機 有価証券報告書「沿革」
- [31]1983年10月 事業本部を機電・商品・電子システム・電子計算機・電子デバイス・海外の6事業本部に再編
- 日経ビジネス 1987年1月19日号
- [32]重電部門の低迷を背景に1983年10月に電子デバイス本部を設置し、電子部品の外販を進めた
- 安全と管理 1984年1月号「四つの「ふれあい」で家庭の情報化システム築く――三菱電機株式会社社長 片山仁八郎氏」
- [33]三菱電機は1984年、MELONの名でホームオートメーション市場への参入を発表
- [34]片山仁八郎社長は、HAはFA・OAと異なり、家庭のやすらぎ・ゆとり・いきがいを求めるべきだとした
- [35]片山仁八郎社長は新しい時代の中核技術を通信とし、家庭の情報化時代の幕あけと位置づけた
- [36]第1弾のハウスキーピングシステムAは防犯・火災・ガスセンサー、ガス遮断器、電気錠などを備え、1984年春に発売予定
参考文献[19]-[36]
- 日本経済新聞「私の履歴書」進藤貞和(1986年7月)
- [19]1980年6月 進藤貞和氏が社長を片山仁八郎氏に譲り会長に就任
- [20]進藤貞和氏は社長定年70歳の内規に達したことと、1980年3月期に1兆円企業入りしたことを交代の理由とした
- [29]1983年に米国に半導体工場を設立し、1984年に西条工場(愛媛県)を一部完成、1985年に高知工場の建設に着手
- エネルギーフォーラム 1980年「クローズアップ--三菱電機新社長 片山仁八郎」
- [21]進藤貞和氏は前年の役員交替時に譲りたかったが、片山仁八郎氏が常務だったため副社長として社内の仕事を経験させた
- [24]1980年当時、三菱電機の電子部門は日本電気や富士通といった通信機メーカーに差をつけられていると評された
- 日経ビジネス 1981年2月23日号
- [22]片山仁八郎氏は1940年3月に九州帝国大学工学部を卒業して入社し、1969年に長崎製作所長、1972年に神戸製作所長
- [23]片山仁八郎社長は組織の壁を突き破り、組織にとらわれずに考えるよう社員に求めた
- 日経ビジネス 1981年12月14日号
- [25]1981年初めに決めた新長期経営計画は、半導体・コンピューター・テレビ・VTRなど電子部門の売上高構成比を20%強から50%程度に引き上げる計画
- [26]新長期経営計画の1985年度売上高目標は2兆1000億円。日立製作所・東京芝浦電気の売上倍増計画に刺激され、目標の上方修正作業に着手
- 三菱電機社史 創立60周年(1982年)6章「新しい出発」
- [27]半導体の売上高は1980年度に600億円を超え、5年間で約3倍に増加
- 三菱電機 有価証券報告書「沿革」
- [28]1981年9月 北伊丹製作所福岡半導体工場(現パワーデバイス製作所)を新設
- [31]1983年10月 事業本部を機電・商品・電子システム・電子計算機・電子デバイス・海外の6事業本部に再編
- 日本経済新聞(1984年7月31日)
- [30]1984年のIC生産額は2兆円に達する公算が出てきた
- 日経ビジネス 1987年1月19日号
- [32]重電部門の低迷を背景に1983年10月に電子デバイス本部を設置し、電子部品の外販を進めた
- 安全と管理 1984年1月号「四つの「ふれあい」で家庭の情報化システム築く――三菱電機株式会社社長 片山仁八郎氏」
- [33]三菱電機は1984年、MELONの名でホームオートメーション市場への参入を発表
- [34]片山仁八郎社長は、HAはFA・OAと異なり、家庭のやすらぎ・ゆとり・いきがいを求めるべきだとした
- [35]片山仁八郎社長は新しい時代の中核技術を通信とし、家庭の情報化時代の幕あけと位置づけた
- [36]第1弾のハウスキーピングシステムAは防犯・火災・ガスセンサー、ガス遮断器、電気錠などを備え、1984年春に発売予定
1985年〜志岐守哉社長のSE体制強化と、自動車機器事業本部の新設
1985年6月、社長は片山仁八郎氏から志岐守哉氏に代わり、進藤貞和氏は新設の名誉会長に就任した。志岐守哉氏の体制では情報通信事業が課題で、売上高は1984年度から3年間、2690億円、2700億円、2800億円にとどまった。汎用機では沖電気工業と共同開発したIBM非互換機が伸びず、1982年6月のIBMスパイ事件で互換路線も断念していた。1987年6月末の組織改革は3800人の異動を伴い、SEを提案担当の2つのセンターと開発担当のコンピュータ製作所に分けた。副社長の遠藤裕男氏は、『コンピューターの営業力とはSEの質の高さと人数そのものなのだ』と総括した。1988年7月にはSEの中途採用を始め、2000人弱の体制を2〜3年後に5000人へ増やす計画を立てた。当時、富士通と日立製作所のSEは1万人を下らなかった。
- 日本経済新聞「私の履歴書」進藤貞和(1986年7月)
- [37]1985年6月 社長が片山仁八郎氏から志岐守哉氏に代わり、進藤貞和氏は名誉会長の役職を新たに設けて就任
- 日経ビジネス 1988年9月12日号
- [38]情報通信事業の売上高は1984年度2690億円、1985年度2700億円、1986年度2800億円
- [39]沖電気工業と共同開発したIBM非互換のCOSMOシリーズは受け入れられず、IBM互換機も1982年6月のIBMスパイ事件で断念
- [40]1987年6月末に3800人の異動を伴う組織改革を行い、SEを上工程の2つのシステムエンジニアリングセンターと下工程のコンピュータ製作所に分けた
- [41]遠藤裕男副社長は、コンピューターの営業力はSEの質と人数そのものであり、SEを普通の技術者と同じに扱ってきたと振り返った
- [42]1988年7月からSEの中途採用を開始し、2000人弱のSEを2〜3年後に5000人体制とする計画
- [43]1988年当時、富士通や日立製作所のユーザー支援SEは1万人を下らなかった
1985年秋、三菱電機は37型カラーテレビを他社より先に発売し、翌年5月に京都製作所で37インチブラウン管の工場を稼働させた。工場の年間生産能力は10万本、建物と設備の投資額は70億円であった。37型テレビを売る8社はすべて三菱電機製のブラウン管を使い、外販比率は5割近くに達した。半導体では1986年7月に日米半導体協定が合意され、日本メーカーは米政府の算定した公正市場価格を下回る対米輸出ができなくなった。価格の下落は鈍り、1メガビットDRAMは1987年から1989年にかけて約2000円で推移した。1988年度の単体経常利益は931億円と前年度から122.7%増え、会社は1985年から1986年の円高の打撃を克服したと説明した。大型ブラウン管の外販と協定下の半導体価格が、円高の後の利益を支えたと考えられる。
- 日経ビジネス 1987年1月19日号
- [44]1985年秋に37インチテレビを発売し、1986年5月から京都製作所の37インチ大型ブラウン管工場が稼働
- [45]37インチブラウン管工場の生産能力は年間10万本、新工場の投資額(建物・機械設備)は70億円
- [46]37インチテレビを発売する8社のブラウン管はすべて三菱電機製で、外販比率は5割近く
- 日本産業史 第4巻「半導体-日米半導体協定の衝撃」
- [47]1986年7月に日米半導体協定に合意し、日本メーカーは米政府算定の公正市場価格(FMV)以下では対米輸出できなくなった
- [48]FMV導入で価格下落が鈍化し、1メガビットDRAMの価格は1987年から1989年にかけて約2000円で推移
- 証券アナリストジャーナル 1989年27巻7号 天野順介(1989年6月6日講演要旨)
- [49]1988年度の単独決算は売上高2兆2301億円、経常利益931億円(前年度比122.7%増)で過去最高。1985〜1986年の円高の打撃を克服したと説明
1989年6月、会社は自動車機器事業本部を新設した。天野順介常務は同月の説明で、事業を4つの分野に整理した。重電機器、自動車・産業メカトロニクス、情報通信・電子デバイス、家庭電器である。このうち重電機器は売上に占める比率が30%前後から25%前後へ落ち、自動車・産業機器は自動車需要と設備投資の拡大に支えられて伸びていた。力点は情報通信・電子デバイスに置かれ、その比率を早期に50%近い水準まで引き上げることが目標とされた。重電の工場を半導体の生産に切り替えた事例も、天野順介氏の説明に含まれていた。ウェハの段階から一貫して生産する米国ノースカロライナ州の半導体工場は、1990年1月に完成する予定だった。不況下でも研究開発費は削れないというのが、1989年11月の片山仁八郎会長の発言である。半導体と情報通信への投資を景気に左右されない前提に置いたまま、会社は1990年代に入ったと推測される。
- 三菱電機 有価証券報告書「沿革」
- [50]1989年6月 自動車機器事業本部を新設
- 証券アナリストジャーナル 1989年27巻7号 天野順介(1989年6月6日講演要旨)
- [51]天野順介常務は1989年6月6日、事業を重電機器、自動車・産業メカトロニクス、情報通信・電子デバイス、家庭電器の4分野と説明
- [52]重電機器の売上高構成比はかつての30%程度から25%程度に低下。自動車・産業機器は設備投資や自動車の伸びで好調
- [53]情報通信・電子デバイス部門の構成比をできるだけ早く50%近くにする考えで、重電の工場を半導体工場へ転換させたりしている
- [54]米国ノースカロライナ州の半導体工場をウェハからの一貫生産工場とする計画で、1990年1月の完成を目指し増強中
- 近代中小企業 1989年11月号 片山仁八郎(三菱電機会長)
- [55]片山仁八郎会長は1989年11月、研究開発費は不況だからといって減らすわけにはいかないと語った
参考文献[37]-[55]
- 日本経済新聞「私の履歴書」進藤貞和(1986年7月)
- [37]1985年6月 社長が片山仁八郎氏から志岐守哉氏に代わり、進藤貞和氏は名誉会長の役職を新たに設けて就任
- 日経ビジネス 1988年9月12日号
- [38]情報通信事業の売上高は1984年度2690億円、1985年度2700億円、1986年度2800億円
- [39]沖電気工業と共同開発したIBM非互換のCOSMOシリーズは受け入れられず、IBM互換機も1982年6月のIBMスパイ事件で断念
- [40]1987年6月末に3800人の異動を伴う組織改革を行い、SEを上工程の2つのシステムエンジニアリングセンターと下工程のコンピュータ製作所に分けた
- [41]遠藤裕男副社長は、コンピューターの営業力はSEの質と人数そのものであり、SEを普通の技術者と同じに扱ってきたと振り返った
- [42]1988年7月からSEの中途採用を開始し、2000人弱のSEを2〜3年後に5000人体制とする計画
- [43]1988年当時、富士通や日立製作所のユーザー支援SEは1万人を下らなかった
- 日経ビジネス 1987年1月19日号
- [44]1985年秋に37インチテレビを発売し、1986年5月から京都製作所の37インチ大型ブラウン管工場が稼働
- [45]37インチブラウン管工場の生産能力は年間10万本、新工場の投資額(建物・機械設備)は70億円
- [46]37インチテレビを発売する8社のブラウン管はすべて三菱電機製で、外販比率は5割近く
- 日本産業史 第4巻「半導体-日米半導体協定の衝撃」
- [47]1986年7月に日米半導体協定に合意し、日本メーカーは米政府算定の公正市場価格(FMV)以下では対米輸出できなくなった
- [48]FMV導入で価格下落が鈍化し、1メガビットDRAMの価格は1987年から1989年にかけて約2000円で推移
- 証券アナリストジャーナル 1989年27巻7号 天野順介(1989年6月6日講演要旨)
- [49]1988年度の単独決算は売上高2兆2301億円、経常利益931億円(前年度比122.7%増)で過去最高。1985〜1986年の円高の打撃を克服したと説明
- [51]天野順介常務は1989年6月6日、事業を重電機器、自動車・産業メカトロニクス、情報通信・電子デバイス、家庭電器の4分野と説明
- [52]重電機器の売上高構成比はかつての30%程度から25%程度に低下。自動車・産業機器は設備投資や自動車の伸びで好調
- [53]情報通信・電子デバイス部門の構成比をできるだけ早く50%近くにする考えで、重電の工場を半導体工場へ転換させたりしている
- [54]米国ノースカロライナ州の半導体工場をウェハからの一貫生産工場とする計画で、1990年1月の完成を目指し増強中
- 三菱電機 有価証券報告書「沿革」
- [50]1989年6月 自動車機器事業本部を新設
- 近代中小企業 1989年11月号 片山仁八郎(三菱電機会長)
- [55]片山仁八郎会長は1989年11月、研究開発費は不況だからといって減らすわけにはいかないと語った
1977年〜1991年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 経常利益 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 億円 | 利益率 | |||
| 1977年03月期 | 単体 | 6,962 | n/a | 145 | 85 | 1.2% | n/a |
| 1978年03月期 | 単体 | 7,921 | +13.8% | 175 | 97 | 1.2% | n/a |
| 1979年03月期 | 単体 | 9,347 | +18.0% | 334 | 145 | 1.6% | n/a |
| 1980年03月期 | 単体 | 10,754 | +15.1% | 487 | 251 | 2.3% | n/a |
| 1981年03月期 | 単体 | 12,213 | +13.6% | 470 | 231 | 1.9% | n/a |
| 1982年03月期 | 単体 | 13,155 | +7.7% | 477 | 221 | 1.7% | n/a |
| 1983年03月期 | 単体 | 13,922 | +5.8% | 503 | 250 | 1.8% | n/a |
| 1984年03月期 | 単体 | 15,876 | +14.0% | 555 | 283 | 1.8% | n/a |
| 1985年03月期 | 単体 | 18,582 | +17.0% | 850 | 345 | 1.9% | n/a |
| 1986年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1987年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1988年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1989年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1990年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1991年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
出所:会社年鑑
出典・参考
15件
- 三菱電機 有価証券報告書「沿革」
- 三菱電機社史 創立60周年(1982年)6章「新しい出発」
- 日本産業史 第4巻「半導体-日米半導体協定の衝撃」
- 日経ビジネス 1977年12月5日号
- 日経ビジネス 1981年2月23日号
- 日経ビジネス 1981年12月14日号
- 安全と管理 1984年1月号「四つの「ふれあい」で家庭の情報化システム築く――三菱電機株式会社社長 片山仁八郎氏」
- 日経ビジネス 1987年1月19日号
- 日経ビジネス 1988年9月12日号
- 証券アナリストジャーナル 1989年27巻7号 天野順介(1989年6月6日講演要旨)
- 近代中小企業 1989年11月号 片山仁八郎(三菱電機会長)
- 日本経済新聞(1984年7月31日)
- 日本経済新聞「私の履歴書」進藤貞和(1986年7月)
- 80年代わが社の戦略(1980年)「三菱電機」進藤貞和
- エネルギーフォーラム 1980年「クローズアップ--三菱電機新社長 片山仁八郎」