トヨタ自動車のカローラの量産と対米輸出の自主規制
自力量産による国内首位の確立が招いた、輸出依存の貿易摩擦
- 売上高
- 単体 1965/11期 2,475億円 → 1981/06期 3兆5,064億円 (CAGR +18.5%)
- 転機
- 年 カローラの発売年 対米輸出の自主規制
1965年〜カローラの投入と日野・ダイハツとの提携、豊田英二氏の年産200万台の自力路線
1966年10月、トヨタは1077ccのK型エンジンを積むカローラを発売した。狙ったのは、1500ccの車には手が届かず800ccの車では満足しない買い手の層だった。日産自動車はその半年前の1966年4月に、1000ccのサニーを発売した。トヨタはカローラのためにエンジンの上郷工場と組立の高岡工場を新設した。販売はパブリカ店の系列に受け持たせた。トヨタ自販社長の神谷正太郎氏は発表の席で国内外の月販3万台を目標に掲げたが、当時のトヨタの総生産は月産5万台ほどだった。1967年の総生産台数は83万台を超え、小型車の国内シェアは40.9%で首位に立った。総生産の6割に当たる月販の目標は、乗用車の買い手が家庭へ広がると見込んで置いた数字だったのだろう。
- 『トヨタ自動車30年史』(トヨタ自動車工業, 1967年)
- [1]1500ccでは手が届かず800ccでは満足できない新しい需要層に向けて1100ccのカローラを登場させた。K型エンジンは水冷4気筒・総排気量1077cc
- [2]1500ccでは手が届かず800ccでは満足できない新しい需要層に向けて1100ccのカローラを登場させた。K型エンジンは水冷4気筒・総排気量1077cc
- 私の履歴書 経済人22(日本経済新聞社、1987年)「豊田英二」
- [3]1966年4月に日産自動車が排気量1000ccの「サニー」を売り出した
- [4]カローラのためにエンジン(上郷工場)と組み立て(高岡工場)の二つの工場を建設した
- 私の履歴書 経済人15「神谷正太郎」(日本経済新聞社、1981年)
- [5]パブリカの発売にあわせてパブリカ店(後にカローラ店と改称)を新設した
- [6]トヨタ自販社長の神谷正太郎氏はカローラの記者発表で近い将来国内外で月販3万台に乗せると発表した。当時トヨタの総生産台数は月産5万台程度だった
- 日本企業要覧 1968年版「トヨタ自動車工業」
- [7]昭和42年中の国内シェアは中型車47.9%、小型車・大型乗用車はそれぞれ40.9%でトップ、総生産台数は83万台を超えた
1966年8月に日産自動車がプリンス自動車工業を合併すると、トヨタは2か月後に三井銀行の仲介で日野自動車と業務提携を結んだ。公正取引委員会は、合併後も日産のシェアがトヨタを上回らないことを理由にこの合併を認めた。首位のトヨタは、国内のどの社とも合併できない立場に置かれた。日野社長の松方正信氏は交渉の中で、小型乗用車コンテッサの生産をやめる代わりに見合う仕事を求めた。翌1967年には三和銀行の渡辺忠雄氏がダイハツ工業との提携話を持ち込んだ。同年11月9日、トヨタ自工・自販とダイハツの3社は、経営の自主性を保つ前提で業務提携の覚書を交わした。軽自動車を持たなかったトヨタのグループは、この提携で大型トラックから軽自動車までの全車種をそろえた。
- 私の履歴書 経済人22(日本経済新聞社、1987年)「豊田英二」
- [8]日産がプリンスを合併したのが1966年8月で、その2カ月後にトヨタは三井銀行の仲介で日野自動車と業務提携した
- [10]トップメーカーのトヨタはどことも合併できないことになり、国内の再編では自ら積極的に動かず、資本自由化には自力で対抗することを基本にした
- [11]日野の松方正信社長が交渉の中で、コンテッサはやめるので見合った仕事をくれと提案した
- [12]ダイハツとの提携話は三和銀行の渡辺忠雄氏から持ち込まれた
- 『トヨタ自動車75年史 第2部第1章第2節 モータリゼーションと貿易・資本の自由化』「第3項 資本の自由化と自動車業界再編」(トヨタ自動車, 2012年)
- [9]日産とプリンスの合併の際、公正取引委員会は合併してもシェアがトヨタを追い越さないとして合併を認める方針を示した。日産とプリンスの合併は1966年8月
- 『トヨタ自動車75年史 第2部第1章第2節 モータリゼーションと貿易・資本の自由化』「第5項 ダイハツとの提携」(トヨタ自動車, 2012年)
- [13]1967年11月9日、トヨタ自工・トヨタ自販・ダイハツ工業の3社が、経営の自主性と責任体制を堅持することを前提とした業務提携の覚書を交わした
- [14]提携の結果、トヨタグループは大型トラックから軽自動車に至る全車種をそろえる体制を整えた
1967年10月13日に中川不器男社長が急逝し、同月30日に副社長の豊田英二氏が社長に就任した。トヨタは1968年に月産10万台・年産100万台を達成したが、年産200万台を超える会社はGMとフォードしかなかった。1969年10月、政府は自動車の資本自由化を1971年10月からと閣議決定した。豊田英二氏は、自由化までに年産200万台の体制を確立して民族資本を守ると社内外に表明した。国内の再編には自ら動かず、外資の参入には他社と合併せず自社の力で備えることを経営の基本に据えた。1968年度の設備投資500億円は、全額を自己資金でまかなう計画だった。借入に依存せずに量産の枠を広げられたことが、合併に代わる備えを自社だけで組む条件になったとみられる。
- 私の履歴書 経済人22(日本経済新聞社、1987年)「豊田英二」
- [15]1967年10月13日に中川不器男社長が急逝し、豊田英二氏が10月30日に社長に就任した
- [19]トップメーカーのトヨタはどことも合併できないことになり、国内の再編では自ら積極的に動かず、資本自由化には自力で対抗することを基本にした
- 『トヨタ自動車75年史 第2部第1章第2節 モータリゼーションと貿易・資本の自由化』「第3項 資本の自由化と自動車業界再編」(トヨタ自動車, 2012年)
- [16]トヨタは1968年に月産10万台・年産100万台を達成したばかりで、年産200万台を超えていたのはGMとフォードの2社だけだった
- [17]1969年5月に三菱重工業がクライスラーとの提携を表明して合弁会社設立の準備を始め、同年10月に政府は自動車の資本自由化を1971年10月からとすることを閣議決定した
- [18]豊田英二社長は1971年までに年産200万台体制を確立し、民族資本を守る体制を貫くことを社内外に表明した
- 日本企業要覧 1968年版「トヨタ自動車工業」
- [20]43年度の設備投資は500億円で全額自己資金でまかなう
参考文献[1]-[20]
- 『トヨタ自動車30年史』(トヨタ自動車工業, 1967年)
- [1]1500ccでは手が届かず800ccでは満足できない新しい需要層に向けて1100ccのカローラを登場させた。K型エンジンは水冷4気筒・総排気量1077cc
- [2]1500ccでは手が届かず800ccでは満足できない新しい需要層に向けて1100ccのカローラを登場させた。K型エンジンは水冷4気筒・総排気量1077cc
- 私の履歴書 経済人22(日本経済新聞社、1987年)「豊田英二」
- [3]1966年4月に日産自動車が排気量1000ccの「サニー」を売り出した
- [4]カローラのためにエンジン(上郷工場)と組み立て(高岡工場)の二つの工場を建設した
- [8]日産がプリンスを合併したのが1966年8月で、その2カ月後にトヨタは三井銀行の仲介で日野自動車と業務提携した
- [10]トップメーカーのトヨタはどことも合併できないことになり、国内の再編では自ら積極的に動かず、資本自由化には自力で対抗することを基本にした
- [11]日野の松方正信社長が交渉の中で、コンテッサはやめるので見合った仕事をくれと提案した
- [12]ダイハツとの提携話は三和銀行の渡辺忠雄氏から持ち込まれた
- [15]1967年10月13日に中川不器男社長が急逝し、豊田英二氏が10月30日に社長に就任した
- [19]トップメーカーのトヨタはどことも合併できないことになり、国内の再編では自ら積極的に動かず、資本自由化には自力で対抗することを基本にした
- 私の履歴書 経済人15「神谷正太郎」(日本経済新聞社、1981年)
- [5]パブリカの発売にあわせてパブリカ店(後にカローラ店と改称)を新設した
- [6]トヨタ自販社長の神谷正太郎氏はカローラの記者発表で近い将来国内外で月販3万台に乗せると発表した。当時トヨタの総生産台数は月産5万台程度だった
- 日本企業要覧 1968年版「トヨタ自動車工業」
- [7]昭和42年中の国内シェアは中型車47.9%、小型車・大型乗用車はそれぞれ40.9%でトップ、総生産台数は83万台を超えた
- [20]43年度の設備投資は500億円で全額自己資金でまかなう
- 『トヨタ自動車75年史 第2部第1章第2節 モータリゼーションと貿易・資本の自由化』「第3項 資本の自由化と自動車業界再編」(トヨタ自動車, 2012年)
- [9]日産とプリンスの合併の際、公正取引委員会は合併してもシェアがトヨタを追い越さないとして合併を認める方針を示した。日産とプリンスの合併は1966年8月
- [16]トヨタは1968年に月産10万台・年産100万台を達成したばかりで、年産200万台を超えていたのはGMとフォードの2社だけだった
- [17]1969年5月に三菱重工業がクライスラーとの提携を表明して合弁会社設立の準備を始め、同年10月に政府は自動車の資本自由化を1971年10月からとすることを閣議決定した
- [18]豊田英二社長は1971年までに年産200万台体制を確立し、民族資本を守る体制を貫くことを社内外に表明した
- 『トヨタ自動車75年史 第2部第1章第2節 モータリゼーションと貿易・資本の自由化』「第5項 ダイハツとの提携」(トヨタ自動車, 2012年)
- [13]1967年11月9日、トヨタ自工・トヨタ自販・ダイハツ工業の3社が、経営の自主性と責任体制を堅持することを前提とした業務提携の覚書を交わした
- [14]提携の結果、トヨタグループは大型トラックから軽自動車に至る全車種をそろえる体制を整えた
1970年〜マスキー法と51年度規制の2年延期、石油危機の減産と合理化
1970年12月に米国でマスキー法が成立し、日本でも1972年に1975年度の排出ガス規制が決まった。難題は、窒素酸化物を1km当たり0.25gに抑える1976年度規制だった。トヨタは車種とエンジンの数が多く、1車種で達成しても全車種へ広げるには時間がかかった。1974年9月11日、社長の豊田英二氏は衆議院の特別委員会で0.25gは未達だと説明し、1975年度規制の2年継続を求めた。同年12月、中央公害対策審議会は1976年度規制を1978年度まで延ばす答申を出した。猶予の間の1976年1月、トヨタは希薄燃焼方式のカローラ1600を1976年度規制の適合車として発売した。1977年3月には、1978年度規制に期限の1979年2月までに全車種を対応させる見通しを示した。
- 私の履歴書 経済人22(日本経済新聞社、1987年)「豊田英二」
- [21]米国でマスキー法が成立したのは1970年12月で、日本では半年後の1971年7月に環境庁が設置された
- [22]1972年にまず50年度(1975年度)排出ガス規制が決まった
- [23]NOxを走行1km当たり0.25gに抑える51年度(1976年度)規制は難問だった
- 『トヨタ自動車75年史 第2部第2章第3節 排出ガス規制への対応』「第5項 1975年度規制への対応と1976年度規制の2年延期」(トヨタ自動車, 2012年)
- [24]トヨタは車両とエンジンの数が他社と比べて多く、ある車種で達成しても他の車種に応用できるとは限らず、全車種の対策に時間が必要だった
- [25]1974年9月11日の衆議院公害対策並びに環境保全特別委員会で、豊田英二社長は0.25g/kmを現時点で達成できないと説明し、1976年度規制は1975年度規制のまま2年間継続するよう要望した
- [26]中央公害対策審議会は1974年12月、1976年度規制を1978年度まで延期する答申を出した
- [27]1976年1月、1976年度規制適合車の第1弾として希薄燃焼方式のカローラ1600・スプリンター1600を発売した
- 証券アナリストジャーナル 15巻4号(日本証券アナリスト協会、1977年)小野博康
- [28]53年度排出ガス規制は前年12月に決まり、期限の54年2月までに全車種の対応を完了できるよう最終の詰めを行っていた(1977年3月1日講演)
1973年10月の第1次石油危機の直前まで、トヨタは資材が足りずスペアタイヤを省いた車まで出して増産を続けた。危機の後に売れ行きが止まると、1974年1月から3月まで生産を落として販売店の在庫を減らし、4月には増産へ戻した。合理化で生んだ額は1974年11月期に90億円となり、同期の営業利益89億円を上回った。1976年の生産約250万台は、1973年の230万台と同じ従業員数で、外部の応援も休日出勤もなしにこなした。1976年下期の半期の金融収益は236億円に上り、1977年の中間決算は借入の無い決算として報じられた。豊田英二氏は、1950年の経営危機で銀行の融資を受けられなかった経験が資金を蓄える姿勢につながったとしている。
- 私の履歴書 経済人22(日本経済新聞社、1987年)「豊田英二」
- [29]1973年は夏過ぎに材料が追いつかなくなり一時スペアタイヤなしの車までつくり、石油危機まで大増産を続けた
- 『トヨタ自動車75年史 第2部第2章第4節 石油危機への対応』「第1項 第1次石油危機への対応」(トヨタ自動車, 2012年)
- [30]トヨタは1974年1月から3月にかけて減産に踏み切り、販売店の在庫調整を3月でほぼ終え、4月から増産に入った
- 証券アナリストジャーナル 15巻4号(日本証券アナリスト協会、1977年)小野博康
- [31]49年11月期は営業利益89億円に対し、合理化で稼ぎ出した金額は90億円だった
- [32]48年の生産台数230万台に対し、昨年(1976年)は約250万台を従業員数は48年当時と変わらず、外部からの応援ゼロ、休日出勤なしで生産した
- [34]12月期中間決算(第73期前半期)は新聞で「トヨタ名実ともに借金ゼロ」などと報じられた
- 日経ビジネス 1977年4月25日号
- [33]12月中間決算での半期の金融収益は236億円
- [35]昭和25年に倒産しかけた際にどの銀行も貸してくれなかった経験から、その後の経営者は資金を貯めた
参考文献[21]-[35]
- 私の履歴書 経済人22(日本経済新聞社、1987年)「豊田英二」
- [21]米国でマスキー法が成立したのは1970年12月で、日本では半年後の1971年7月に環境庁が設置された
- [22]1972年にまず50年度(1975年度)排出ガス規制が決まった
- [23]NOxを走行1km当たり0.25gに抑える51年度(1976年度)規制は難問だった
- [29]1973年は夏過ぎに材料が追いつかなくなり一時スペアタイヤなしの車までつくり、石油危機まで大増産を続けた
- 『トヨタ自動車75年史 第2部第2章第3節 排出ガス規制への対応』「第5項 1975年度規制への対応と1976年度規制の2年延期」(トヨタ自動車, 2012年)
- [24]トヨタは車両とエンジンの数が他社と比べて多く、ある車種で達成しても他の車種に応用できるとは限らず、全車種の対策に時間が必要だった
- [25]1974年9月11日の衆議院公害対策並びに環境保全特別委員会で、豊田英二社長は0.25g/kmを現時点で達成できないと説明し、1976年度規制は1975年度規制のまま2年間継続するよう要望した
- [26]中央公害対策審議会は1974年12月、1976年度規制を1978年度まで延期する答申を出した
- [27]1976年1月、1976年度規制適合車の第1弾として希薄燃焼方式のカローラ1600・スプリンター1600を発売した
- 証券アナリストジャーナル 15巻4号(日本証券アナリスト協会、1977年)小野博康
- [28]53年度排出ガス規制は前年12月に決まり、期限の54年2月までに全車種の対応を完了できるよう最終の詰めを行っていた(1977年3月1日講演)
- [31]49年11月期は営業利益89億円に対し、合理化で稼ぎ出した金額は90億円だった
- [32]48年の生産台数230万台に対し、昨年(1976年)は約250万台を従業員数は48年当時と変わらず、外部からの応援ゼロ、休日出勤なしで生産した
- [34]12月期中間決算(第73期前半期)は新聞で「トヨタ名実ともに借金ゼロ」などと報じられた
- 『トヨタ自動車75年史 第2部第2章第4節 石油危機への対応』「第1項 第1次石油危機への対応」(トヨタ自動車, 2012年)
- [30]トヨタは1974年1月から3月にかけて減産に踏み切り、販売店の在庫調整を3月でほぼ終え、4月から増産に入った
- 日経ビジネス 1977年4月25日号
- [33]12月中間決算での半期の金融収益は236億円
- [35]昭和25年に倒産しかけた際にどの銀行も貸してくれなかった経験から、その後の経営者は資金を貯めた
1975年〜カローラ・セリカ・ハイラックスの対米販売と輸出168万台、1981年の自主規制
米国向けの輸出は、1968年4月に投入したカローラが加わり、1968年の9万5,000台から1969年には15万台に増えた。1971年のニクソン・ショック後に円高で値上げを迫られると、米国トヨタは1972年10月から現地の責任者に米国人を登用した。重点車種はカローラ、セリカ、ハイラックスの3つに絞り、米国メーカーの製品が手薄な区分で需要のある車を選んだ。1975年にトヨタは米国で乗用車25万8,000台を売り、フォルクスワーゲンを抜いて輸入車の首位に立った。1976年9月末に取扱いディーラーは1,014店に達し、1977年には乗用車と商用車を合わせて年60万台を売る体制ができた。
- 『トヨタ自動車75年史 第2部第2章第5節 生産体制と販売体制の強化』「第4項 米国における販売体制の拡充」(トヨタ自動車, 2012年)
- [36]1968年4月に米国市場にカローラを導入し、対米輸出は1968年に9万5,000台、1969年に15万台に達した
- [37]1971年8月のニクソン・ショック以後、円切り上げに伴う輸出車の値上げで米国市場は買い手市場に変わり、米国トヨタは1972年10月にライン部門の責任者にアメリカ人を積極的に登用した
- [38]コロナ、ランドクルーザーに替えてカローラ、セリカ、ハイラックスを重点推販車種とし、米国メーカーが供給していないカテゴリーでユーザーが望む車という観点で決めた
- [39]1975年に乗用車25万8,000台を販売し、フォルクスワーゲンに代わって輸入乗用車のトップとなった
- [41]1976年9月末に米国のトヨタ車取扱いディーラーは1,014店に達し、1977年に乗用車47万台強・商用車9万台強を販売して年販60万台の体制を確立した
- 証券アナリストジャーナル 15巻4号(日本証券アナリスト協会、1977年)小野博康
- [40]一昨年(1975年)にトヨタ車が輸入車首位のフォルクスワーゲンを抜いて首位に立った
国内の登録台数は石油危機後の1974年に前年より22.2%減り、その後も伸びは鈍いままだった。1976年にトヨタの国内販売は9.5%減り、軽自動車を除く国内シェアは3年前の約40%から37.6%に下がった。同じ年の輸出船積みは約117万台で、前年より35.6%増えた。1976年6月期の販売は、国内140万1千台余に対して輸出106万1千台余だった。1980年6月期には国内156万8,000台に対し、輸出が168万1,000台に達した。1980年のトヨタ車の輸出比率は過去最高の54%に達した。社長の豊田英二氏は1980年の年頭に生産台数の半分がすでに海外市場に依存していると社内に示した。
- 証券アナリストジャーナル 15巻4号(日本証券アナリスト協会、1977年)小野博康
- [42]オイルショックの影響が大きかった49年の国内登録台数は前年比22.2%減少し、その後3年間の伸びは2.3%にとどまった
- [43]51年のトヨタの国内販売は前年比9.5%減で、軽自動車を除く国内市場シェアは3年前の40%程度から37.6%に落ちた
- [44]昨年(1976年)のトヨタの輸出船積みは約117万台(前年比35.6%増)
- 日本企業要覧 1977年版「トヨタ自動車工業」
- [45]51年6月期の国内販売は140万1千台余、輸出は米国を中心に106万1千台余
- 日本企業要覧 1981年版「トヨタ自動車工業」
- [46]55年6月期の国内販売は156万8,000台、輸出は168万1,000台
- 『トヨタ自動車75年史 第3部第1章第1節 対米乗用車輸出の自主規制』「第1項 輸出自主規制の日米合意」(トヨタ自動車, 2012年)
- [47]1980年、トヨタ車の輸出は初めて乗用車が100万台を超え、商用車を含む輸出比率は54%と過去最高を記録した
- 80年代わが社の戦略(1980年)「トヨタ自動車工業 豊田英二」
- [48]1980年の年頭、豊田英二社長は生産台数の半分は海外市場に依存しているとして、海外に目を向けるよう求めた
米国では輸入車のシェアが20%を超えると規制論が出るとトヨタは見ていたが、1980年に日本車のシェアは21.3%に達した。同年6月に全米自動車労働組合が国際貿易委員会に通商法201条の発動を提訴し、8月にはフォードも続いた。委員会は11月に3対2で日本車を損害の原因と認めなかったが、1981年2月に日本製乗用車の輸入を年160万台に抑える法案が米議会へ出た。1980年にトヨタが提案したフォードとの米国での合弁生産は、交渉がまとまらなかった。1981年4月末、日本政府は米国と対米乗用車輸出の自主規制で合意した。輸出の台数に上限を課されたことで、米国で造って売る現地生産と、自工と自販に分かれた体制の見直しが次の課題になったと推察される。
- 証券アナリストジャーナル 15巻4号(日本証券アナリスト協会、1977年)小野博康
- [49]米国では輸入車のシェアが20%を超えると輸入規制論議が表面化する傾向がある(1977年3月時点)
- 『トヨタ自動車75年史 第3部第1章第1節 対米乗用車輸出の自主規制』「第1項 輸出自主規制の日米合意」(トヨタ自動車, 2012年)
- [50]1980年の米国乗用車需要898万台のうち日本車は191万台で、シェアは21.3%に拡大した
- [51]1980年6月にUAWが米国国際貿易委員会(ITC)に通商法201条の発動を提訴し、8月にフォード社も同じ訴えを起こした
- [52]ITCは1980年11月に3対2の委員投票で日本車へのシロ裁定を下したが、1981年2月に米議会へ日本製乗用車の輸入を年160万台に制限する法案が提出された
- [54]1981年4月末に田中六助通産大臣とブロック通商代表が東京で交渉し、自主規制の合意に達した
- 私の履歴書 経済人22(日本経済新聞社、1987年)「豊田英二」
- [53]昭和55年(1980年)にトヨタが提案してフォードと米国に合弁会社をつくる話が出たが、日の目を見なかった
参考文献[36]-[54]
- 『トヨタ自動車75年史 第2部第2章第5節 生産体制と販売体制の強化』「第4項 米国における販売体制の拡充」(トヨタ自動車, 2012年)
- [36]1968年4月に米国市場にカローラを導入し、対米輸出は1968年に9万5,000台、1969年に15万台に達した
- [37]1971年8月のニクソン・ショック以後、円切り上げに伴う輸出車の値上げで米国市場は買い手市場に変わり、米国トヨタは1972年10月にライン部門の責任者にアメリカ人を積極的に登用した
- [38]コロナ、ランドクルーザーに替えてカローラ、セリカ、ハイラックスを重点推販車種とし、米国メーカーが供給していないカテゴリーでユーザーが望む車という観点で決めた
- [39]1975年に乗用車25万8,000台を販売し、フォルクスワーゲンに代わって輸入乗用車のトップとなった
- [41]1976年9月末に米国のトヨタ車取扱いディーラーは1,014店に達し、1977年に乗用車47万台強・商用車9万台強を販売して年販60万台の体制を確立した
- 証券アナリストジャーナル 15巻4号(日本証券アナリスト協会、1977年)小野博康
- [40]一昨年(1975年)にトヨタ車が輸入車首位のフォルクスワーゲンを抜いて首位に立った
- [42]オイルショックの影響が大きかった49年の国内登録台数は前年比22.2%減少し、その後3年間の伸びは2.3%にとどまった
- [43]51年のトヨタの国内販売は前年比9.5%減で、軽自動車を除く国内市場シェアは3年前の40%程度から37.6%に落ちた
- [44]昨年(1976年)のトヨタの輸出船積みは約117万台(前年比35.6%増)
- [49]米国では輸入車のシェアが20%を超えると輸入規制論議が表面化する傾向がある(1977年3月時点)
- 日本企業要覧 1977年版「トヨタ自動車工業」
- [45]51年6月期の国内販売は140万1千台余、輸出は米国を中心に106万1千台余
- 日本企業要覧 1981年版「トヨタ自動車工業」
- [46]55年6月期の国内販売は156万8,000台、輸出は168万1,000台
- 『トヨタ自動車75年史 第3部第1章第1節 対米乗用車輸出の自主規制』「第1項 輸出自主規制の日米合意」(トヨタ自動車, 2012年)
- [47]1980年、トヨタ車の輸出は初めて乗用車が100万台を超え、商用車を含む輸出比率は54%と過去最高を記録した
- [50]1980年の米国乗用車需要898万台のうち日本車は191万台で、シェアは21.3%に拡大した
- [51]1980年6月にUAWが米国国際貿易委員会(ITC)に通商法201条の発動を提訴し、8月にフォード社も同じ訴えを起こした
- [52]ITCは1980年11月に3対2の委員投票で日本車へのシロ裁定を下したが、1981年2月に米議会へ日本製乗用車の輸入を年160万台に制限する法案が提出された
- [54]1981年4月末に田中六助通産大臣とブロック通商代表が東京で交渉し、自主規制の合意に達した
- 80年代わが社の戦略(1980年)「トヨタ自動車工業 豊田英二」
- [48]1980年の年頭、豊田英二社長は生産台数の半分は海外市場に依存しているとして、海外に目を向けるよう求めた
- 私の履歴書 経済人22(日本経済新聞社、1987年)「豊田英二」
- [53]昭和55年(1980年)にトヨタが提案してフォードと米国に合弁会社をつくる話が出たが、日の目を見なかった
筆者考察
1965年からの17年間、トヨタは乗用車の需要が家庭へ広がる局面を、カローラと自社の量産で取り込んだ。1966年10月のカローラは、1500ccには手が届かず800ccでは満足しない層に向けた車で、専用のエンジン工場と組立工場を新設して送り出された。日産自動車とプリンス自動車工業の合併が認められたことで、首位のトヨタは合併という選択肢を失い、豊田英二氏は資本自由化に年産200万台の量産で備えた。日野自動車・ダイハツ工業との提携は経営の自主性を保つ業務提携にとどめ、設備投資は自己資金でまかなった。排出ガス規制と石油危機にも、トヨタは量を減らさず、原価を削減して応じている。
量を守った代償は、その量の行き先が国外へ移ったことにある。国内の登録台数の伸びが鈍った1970年代後半、トヨタの販売の伸びはほぼ輸出によるものだった。1980年6月期には、輸出168万1,000台が国内156万8,000台を上回っている。米国ではカローラ、セリカ、ハイラックスに車種を絞ってフォルクスワーゲンを抜き、日本車のシェアは規制論の目安とされた20%を超えた。国内の再編にも外資にも依存しなかったトヨタは、1981年の自主規制で初めて、売れる台数を相手国との交渉で決められる立場になった。量で外圧に備えてきた会社が、量そのものを外圧の対象にされたのである。
- 各期(前年7月〜6月)の輸出販売台数。1976年6月期は国内140万1千台余に対し輸出106万1千台余、1980年6月期は国内156万8,000台に対し輸出168万1,000台で、輸出が国内を上回った。
- 出所は日本企業要覧 1977年版・1978年版・1979年版・1980年版・1981年版「トヨタ自動車工業」。1976年6月期は「106万1千台余」、1977年6月期は「1,291千台余」の表記を千台で示した。
1965年〜1981年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 経常利益 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 億円 | 利益率 | |||
| 1965年11月期 | 単体 | 2,475 | n/a | 122 | n/a | n/a | 上郷工場の建設に着手1周約4kmのテストコースの建設に着工上郷工場の第1期工事が完成(月産能力3,000台) |
| 1966年11月期 | 単体 | 2,938 | +18.7% | 146 | n/a | n/a | 高岡工場の建設に着手東富士工場の自動車性能試験場が完成 |
| 1967年11月期 | 単体 | 4,013 | +36.6% | 201 | n/a | n/a | トヨタデルペルーの組立工場が完成三好工場の建設に着手(用地約333万m2) |
| 1968年11月期 | 単体 | 5,297 | +32.0% | 271 | n/a | n/a | 三好工場が操業開始 |
| 1969年11月期 | 単体 | 7,283 | +37.5% | 358 | n/a | n/a | 堤工場の建設に着手 |
| 1970年11月期 | 単体 | 8,376 | +15.0% | 776 | 388 | 4.6% | n/a |
| 1971年11月期 | 単体 | 10,261 | +22.5% | 845 | 379 | 3.7% | 堤工場が操業開始明知工場の建設に着手TABC, Inc.が生産を開始 |
| 1972年11月期 | 単体 | 11,261 | +9.7% | 991 | 570 | 5.1% | n/a |
| 1973年11月期 | 単体 | 13,259 | +17.7% | 1,024 | 658 | 5.0% | 下山工場の建設に着手明知工場が操業開始 |
| 1974年11月期 | 単体 | 14,739 | +11.2% | 355 | 219 | 1.5% | n/a |
| 1975年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | 下山工場が操業開始 |
| 1976年06月期 | 単体 | 19,957 | n/a | 1,842 | 995 | 5.0% | n/a |
| 1977年06月期 | 単体 | 22,880 | +14.6% | 2,101 | 1,167 | 5.1% | 衣浦工場の建設に着手トヨタテクニカルセンターUSAを設立 |
| 1978年06月期 | 単体 | 26,174 | +14.4% | 1,988 | 1,162 | 4.4% | n/a |
| 1979年06月期 | 単体 | 28,024 | +7.1% | 1,983 | 1,020 | 3.6% | 衣浦工場が操業開始田原工場が操業開始 |
| 1980年06月期 | 単体 | 33,101 | +18.1% | 2,915 | 1,435 | 4.3% | n/a |
| 1981年06月期 | 単体 | 35,064 | +5.9% | 2,275 | 1,327 | 3.8% | n/a |
出所:会社年鑑
出典・参考
15件
- 『トヨタ自動車30年史』(トヨタ自動車工業, 1967年)
- 『トヨタ自動車75年史 第2部第2章第3節 排出ガス規制への対応』「第5項 1975年度規制への対応と1976年度規制の2年延期」(トヨタ自動車, 2012年)
- 『トヨタ自動車75年史 第2部第1章第2節 モータリゼーションと貿易・資本の自由化』「第3項 資本の自由化と自動車業界再編」(トヨタ自動車, 2012年)
- 『トヨタ自動車75年史 第2部第1章第2節 モータリゼーションと貿易・資本の自由化』「第5項 ダイハツとの提携」(トヨタ自動車, 2012年)
- 『トヨタ自動車75年史 第2部第2章第4節 石油危機への対応』「第1項 第1次石油危機への対応」(トヨタ自動車, 2012年)
- 『トヨタ自動車75年史 第2部第2章第5節 生産体制と販売体制の強化』「第4項 米国における販売体制の拡充」(トヨタ自動車, 2012年)
- 『トヨタ自動車75年史 第3部第1章第1節 対米乗用車輸出の自主規制』「第1項 輸出自主規制の日米合意」(トヨタ自動車, 2012年)
- 証券アナリストジャーナル 15巻4号(日本証券アナリスト協会、1977年)小野博康
- 日経ビジネス 1977年4月25日号
- 私の履歴書 経済人15「神谷正太郎」(日本経済新聞社、1981年)
- 私の履歴書 経済人22(日本経済新聞社、1987年)「豊田英二」
- 日本企業要覧 1968年版「トヨタ自動車工業」
- 日本企業要覧 1977年版「トヨタ自動車工業」
- 80年代わが社の戦略(1980年)「トヨタ自動車工業 豊田英二」
- 日本企業要覧 1981年版「トヨタ自動車工業」